今日も道場からは威勢のいい声が響いている。
 宗はいつものように廊下の雑巾がけをしていた。固く絞った雑巾を持つ手は真っ赤になっている。
 季節は秋から冬に変わろうとしていた。
 試衛館に来てからもう二ヶ月が経とうとしていた。内弟子として入門したはずの宗だが、まだ稽古はつけてもらえなかった。
 勝太はもう稽古をさせてもいいのではないかと言ったそうだが、周斎がまだ早すぎるとそれを止めたらしい。
 正直宗は少しほっとした。
 ここに来てはじめて勝太と歳三の試合を見たとき、二人に羨望の眼差しを向けたが、それからほかの者たちの稽古も見て、自分には到底無理だと思ったのだ。あんな荒っぽいことはできないし、それにもしかしたら稽古をしているうちに女だとばれてしまうかもしれない。

「おい、宗次郎」

 呼び止められた宗は振り返った。庭に歳三が立っていた。歳三はよく家業の薬売りの途中で試衛館に立ち寄ることがあった。
 宗ははっきり言って歳三のことがあまり好きではない。初対面の印象が悪かったし、そのあとも何かと宗に対して冷たいところがある。
 だからこうして呼び止められても嫌な顔をかくそうとはしなかったし、自分から話しかけることもあまりなかった。
 だが、いつものように大きな薬箱と石田散薬と書かれたのぼりを持っている歳三の頬に、大きな傷を見て思わず声をあげた。

「どうしたんですか?それ」

 なめらかな白い頬が大きく腫れ上がっている。歳三は眉間に皺をよせ、顔をしかめた。

「なんでもねぇよ。それより勝っちゃんいるか」
「勝太さんなら道場にいます」

 宗が言うと、歳三は返事もせずに道場へ向かった。
 けがの理由が知りたかったけれど、どうせ聞いても答えてくれないと思いなおし、宗は掃除を再開した。





 結局歳三はそのまま試衛館に泊まることになった。
 大人たちが酒を飲む頃には宗はもう部屋に戻っていたが、中々寝付けなかった。そうこうしている内に母屋の方は静かになった。ここまで眠れないのも最近では珍しい。試衛館に来たばかりの頃は寂しくて寝付けないことも多かったのだが、もう慣れて以前と同じように眠れる。
 布団の中でごろごろしながら、宗は眠気が来るのを待った。
 そうして、戸の開く音で目が覚めた。
 ちょうど寝付こうかというときだったのだろう。妙な倦怠感がある。だが先ほどの音が気になって、宗は頭を起こした。
 耳を澄ませても音はしない。
 気のせいだったのかと思い、もう一度寝ようと体を横にすると、今度ははっきりと誰かが庭を歩く音がした。
 普通こんな時間に起きている人間はいない。
 泥棒かと思いさけぼうとしたが、もしかしたら誰かが涼みに出たのかもしれないと思い、やめた。かわりに布団から抜け出すと、障子を薄く開いた。月明かりに薄っすらと浮かぶ庭を、見慣れた後ろ姿が横切っていく。

(歳三さん……?)

 昼間と同じ黒い単を着ているが、今はその上に紺の袴をはき、木刀を腰に差していた。
 歳三は草鞋をはいた足音をできるだけ立てないように、裏門から外に出て行った。

(どこに行くんだろう……)

 歳三のただならぬ雰囲気が気になって、宗は部屋を抜け出すと気づかれぬように歳三のあとをつけはじめた。





 歳三は迷うことなく歩いていく。いつもなら人で賑わっている町も、今はひっそりとしずまりかえっている。
 いつの間にか歳三は建物が密集した地区を抜けて、川のそばまで来ていた。そしてそのまま土手をおりていく。土手には宗の背丈ほどの草が生い茂っていて、隠れるのには都合がよかったが、動くとどうしても音を立ててしまう。
 どうしようかまよっていると、歳三はもういなくなっていた。

「あ、いない……」
「何が、いない、だ」

 宗は思わず悲鳴をあげそうになったが、歳三が自分の後ろに立っていることに気づいた。

「てめぇ、こんなところで何してやがる」

 いつもなら遠慮なくどなると同時に拳骨が降ってくるのに、静かに歳三は言った。それが逆に怖い。

「え、あ、その…………」

 歳三も宗が何をしているかは見当がついているだろう。だがそれを自分の口から改めて言うのは気まずかったし怖かった。
 何も言わずに黙ってしまった宗に、歳三は舌打ちをして言った。

「早く帰れ」
「え?歳三さんは」
「俺は……」

 言いかけた歳三が急に黙った。そして後ろを振り向く。

「よぉ、こんなところにいたのか。逃げたのかと思ったぜ」

 歳三と草の陰になって見えなかったが、五人の男たちが道を塞ぐように立っていた。皆いかつい顔をして、手には歳三と同じように木刀を持っている。

「あの……?」
「だから早く帰れっつったんだ」

 困惑しながら歳三を見上げた宗に、不機嫌さを隠さずに歳三はそう言った。そしてさりげなく宗を後ろにかばいながら、男たちに体を向けた。

「宗次郎、逃げろ」

 ぼそりと男たちに聞こえないように、歳三は宗に言った。
 普段の歳三ならこんなことを言わずに宗のことを放っておくだろう。動揺した宗はどうしたらいいのかわからなかったが、このままでは歳三に勝ち目がないことに気づいた。五人に一人では分が悪すぎる。

「勝太さんたちを……」

 宗が言い切る前に、歳三がそれを遮った。

「やめろ。勝っちゃんには関係ねぇことだ」

 歳三は腰に差していた木刀を抜くと、構えずにそのまま右手で無造作に持った。剣の先が相手を向かずに地面を向いている。一見無防備に見えるが実は隙がない。天然理心流とは違う、歳三の我流の構えだ。無茶苦茶に見えるが、歳三はとても強い。宗も十分承知しているが、それでも多勢に無勢だ。

「おい、あのガキはどうするんだ」

 男の一人が言った。宗は肩をびくりと揺らした。

「一緒にやっちまってもかまわねぇだろ」

 首領格の一番強そうな男がにやにやしながら言った。

「おい宗次郎、早く行け!」

 歳三がそう言い切る前に、男たちが一斉に向かってきた。
 恐怖で動けない宗に、歳三はもう一度舌打ちをした。そして、宗を左手に抱えると土手を駆け下り、川沿いに走り出した。

「逃げるぞ!!」

 後ろで男たちが叫んでいる。

「ちょ、歳三さん!!一体何をしたんですか!?」

 宗は叫びながら歳三に尋ねた。

「あ!?昼間喧嘩してぶっ倒したやつらだよ!二人じゃかなわねえからって、大人数で来やがった!!」

 歳三は怒鳴るようにしてそう答えた。

「歳三さん、下ろしてください!自分で走れます!」

 後ろから男たちが迫ってくるのを感じて、宗は言った。このままでは確実に追いつかれる。しかし、歳三一人なら逃げ切れるかもしれない。
 だが、歳三はいつものように怒鳴り返した。

「ふざけんな!ここでてめぇを放り出して何かあったら、勝っちゃんに合わせる顔がねぇ!!」

 そう言った歳三の体がいきなり揺れた。いきなり後頭部に激痛を感じ、歳三は思わず膝をついた。その勢いで、宗は地面に投げ出された。

「歳三さん!?」
「なんだよ、ちくしょう」

 悪態をつきながら、歳三は頭に手をやった。手のひらに生温い液体がべったりとついた。すぐ側に、拳ほどの大きさの石が落ちている。間を置かずに次の石が飛んでくる。宗と歳三は慌てて身を屈めた。
 その隙に追いついた男たちが、宗と歳三を取り囲むように立ち並んだ。

「どこに行くってんだよ」

 歳三を見下ろしながら、男の一人が言った。

「ちっ」

 木刀を杖代わりに、歳三はよろりと起き上がった。頭から流れる血が着物の衿を汚す。

「おい、今度こそ逃げろよ」

 歳三は宗に呟くように言うと、木刀を右手に持ち直し今度は自分から男たちに向かっていった。
 いきなり攻撃をしてくるとは思っていなかったのだろう。歳三の正面にいた男が胴をくらって昏倒した。続いて歳三は木刀の柄に左手を添えると、そのまま右隣にいた男の脇を下から一薙ぎした。
 あっという間に仲間を二人倒された男たちは呆然としたものの、復讐心がでてきたのか、叫び声をあげて歳三に向かっていった。
 いくら強くてもまわりから一斉に木刀で袋叩きにされたら適わない。

「歳三さん!!」

 宗は逃げろと言われたのにもかかわらず、歳三に駆け寄ろうとした。

「うるせえ、ガキが!!」

 だが駆け寄る前に、男の一人に腹を思い切り蹴られた。鋭い衝撃が走ったかと思うと、体が宙に浮くのを感じた。そして、そのまま地面に頭から突っ込んだ。

「宗次郎!!」

 歳三が叫ぶのが聞こえた。だが、ずきずきとする腹の痛みで起き上がることができない。
 歳三がもう一度宗の名前を呼ぶのが聞こえたが、こみあげてくる嘔吐感を耐えるのに必死で、声を出すことができなかった。
 ぼんやりと空を見上げると、草のすきまから綺麗な月が見えた。
 目の前がかすんで、手にも足にも力が入らない。男たちが歳三を殴る音と、気分の悪くなる笑い声が聞こえてくる。
 このまま気を失ったふりをしていれば、宗は助かるだろう。だが、歳三はどうなるのだろう。

 ふと見ると、手を伸ばせば届くところに木刀が転がっていた。宗はそれを掴もうと、懸命に手を伸ばした。その途端、腹に一層強い痛みを感じてうめき声をあげた。それでも必死にはうようにして体を動かした。
 木刀に右の指先が触れた。そのまま柄を握るとひんやりとかたい感触がした。
 木刀を掴んだまま、膝を突いて体を起こした。あまりの痛さにそのまま咳き込んだ。木刀を杖のようにして体を支える。
 大人が使うそれは、宗の背と同じくらいの長さがある。勝太や周斎がやっているように木刀を構えようとしたが、重くて持ち上げることもできない。
 宗は思わず泣きそうになった。
 けれど、今自分だけ逃げるわけにもいかない。
 宗は、生まれてはじめて誰かを守りたいと思った。
 宗は両手で木刀を握ると、構えもせずに歳三を取り囲んでいる男たちのうち、宗に背を向けている一人に体当たりをした。

「うぉっ!?」

 男は叫び声をあげながら地面に倒れこんだ。

「何しやがる、このガキ!!」

 だが、すぐに起き上がると怒声をあげながら宗の頭に木刀を振り下ろそうとした。
 無我夢中で宗はそれを避けた。勢いがつきすぎた男は、そのまま前につんのめる。何が何やらわからないまま、宗は男の胴を木刀で思い切り殴った。

「宗次郎……」

 歳三は呆気にとられていたが、気を取り直して、自分と同じように呆けていた男の一人に掴みかかり反撃した。

「あっ、てめっ」

 最後の一人になった男が慌てて木刀を振り上げたときには、歳三の拳が顔面を襲っていた。何も言わずに倒れた男を気にもかけず、歳三は宗に話しかけた。

「何で逃げなかったんだ」

 歳三は口元についた血を手の甲でぬぐいながら、木刀を握ったまま立ち尽くしている宗を睨んだ。
 歳三の言葉で、宗はようやく我に返った。手が痺れてきた。ついさっき男を倒したときには忘れていた重みが、思い出したように手にかかった。耐え切れなくなって、宗は木刀を地面に落とした。

「ぁ…………」

 口を開いたが、喉がからからになって声が出ない。
 宗の様子がおかしいことに気づいた歳三は、宗の頭を撫でるようにぽんとたたくと言った。

「いい。帰るぞ」





「歳。お前、いい加減にした方がいいんじゃないのか」

 歳三の手当てをしながら、勝太は諭すように言った。歳三はふてくされた顔をしているが、それでも勝太の言うことはちゃんと聞いている。

「喧嘩は買うもんだろ」
「お前なぁ……」

 勝太は諦めたように溜息をついた。一つ年下のこの幼馴染は昔から喧嘩っ早く、勝太はいつも心配していた。

「……宗次郎はどうしてる」

 一応心配なのか、歳三は、不本意ながら喧嘩に巻き込んでしまった試衛館の新しい門弟のことを聞いた。

「大丈夫だ。もう寝た」

 勝太の言葉に、歳三はそうかと呟いた。
 二人揃って傷だらけで帰ってきたとき、勝太は本当に驚いた。宗は擦り傷と腹の打撲だけですんだが、歳三は頭を切った上に全身を木刀で殴られていた。骨が折れていなかったのが奇跡だ。

「なあ、勝っちゃん」

 急に真剣になった歳三の声に、勝太は手当てをする手を止めた。

「宗次郎にはまだ稽古をつけてねえんだよな?」
「あぁ。道場にも入らせていない」

 まだ小さいからな、と勝太は付け足した。
 歳三は、あのときのことを思い出した。自分と同じ丈の木刀を振りかざす宗。あの剣さばきは竹刀を握ったこともない子供のものとは思えなかった。

「勝っちゃん。宗次郎には稽古をつけねぇほうがいいかもしれねぇ」
「どうしてだ?」

 自分の言葉に特に驚いた様子も見せない勝太に、歳三は戸惑った。見返しても、勝太は歳三の言葉を待つだけだった。
 時々勝太の見せる、この何でも見透かしたような目が、歳三は少し苦手だった。

「あいつに刀を持たせたら……、たとえそれが竹刀だったとしても、あいつはいつか戻れねぇところまで行っちまうかもしれねぇ」

 自分でもどう言ったらいいのかわからなかったが、歳三はできるだけ思ったままを口にした。勝太は何も言わなかったが、歳三が言いたいことは何となくだがわかった。
 宗にちゃんとした稽古をつけさせれば、いつかは一流の剣客になるだろう。きっと、勝太や歳三よりも強くなるはずだ。だが、それだけでは終わらない。
 歳三は宗が剣をふるうのを見て思った。

「あいつはいつか、人を殺しちまう」
「俺は、そうは思わない」

 静かに勝太はそう言った。

「俺は宗次郎が剣を持ったところを見たことがないから、はっきりしたことは言えない。だがそれならなお更、自分を止める術を教えてやらなければならない」

 淡々と力強く勝太は言った。歳三にも勝太の言うことはわかる。

「そうだとしても、今はやっぱり早すぎる」

 歳三自身、剣を習い始めたのは十三を過ぎてからだった。

「そのあたりは父さんにまかせるさ」

 歳三の腕にさらしを巻きながら、勝太は言った。





「あれ、歳三さん?」

 朝宗が起きると、歳三は薬箱を背負い試衛館から出て行こうとしているところだった。

「もう帰るんですか?まだ早いのに」
「……あぁ」

 ふいと宗から視線を外すと、歳三は草鞋の紐を結び終えた。

「あの、怪我は大丈夫ですか?」
「……あぁ」

 会話が続かない。元々、そんなに話をしたこともないのだ。
 どうしようかと宗が思ったとき、歳三から話しかけてきた。

「お前は大丈夫なのかよ」
「え?あ、はい」

 歳三から心配されるとは思っていなかった宗はびっくりした。

「そうか。なら、いい」

 歳三はそう言うと、驚いている宗を残したまま裏口から出て行った。





 宗は、昨日のことをよく覚えていなかった。無我夢中だったからだろうか。だが、木刀を握った感覚だけは覚えている。
 いつものように庭を掃き、廊下を拭き終えたときだった。

「宗次郎、ちょっと来い」

 勝太が母屋の方から宗を呼んだ。なぜか嬉しそうな顔をしている。勝太はそのまま宗を周斎の部屋に連れて行った。
 行くと、周斎も楽しそうな顔をしている。

「お前、昨日歳三の喧嘩に巻き込まれたんだってな」
「はい……」
「喧嘩の相手を倒したんだってな」

 てっきり宗は怒られると思ったのに、周斎はにやにやしている。

「そこでだ。明日からお前に稽古をつけることにした」

 驚く宗に、勝太が笑いながら言った。

「昨日のことを話したら、早いうちに稽古をつけさせたほうがいいかもしれないということになったんだ。まだ十にもなっていない宗次郎には、少し早いかもしれないけどな」
「……はい」
「どうしたんだ?」

 不安げに俯いた宗に、勝太は優しく問いかけた。

「……怖いです」
「何がだ?」

 宗は小さな拳をぎゅっと握り締めた。

「剣を握るのが、怖いです。ほかの人たちの稽古を見てて、自分は絶対こんなことはできないって思ってました。でも、歳三さんがやられてるのを見て、夢中で木刀を拾って。あんなに簡単に倒せるなんて思ってませんでした。殴られるのも怖いけれど、人を殴るのも怖いです」

 周斎は思案気に顔をしかめた。勝太は優しく宗の頭に手を置いた。

「それがわかっているなら、宗次郎は大丈夫だ。剣客は強ければいいってものじゃない。自分の力量を理解して、その上で使いどころと相手を見極めて剣を振るわなければいけない。……わかるか?」
「……はい」
「剣の稽古は、宗次郎を強くするためだけのものじゃない。お前に力の抑え方と、剣を振るう上で大切なことを教えるためのものなんだ。これも、わかるか?」
「……はい」
「じゃあ、明日からの稽古がんばれるか?」

 宗は勝太を見上げた。勝太もじっと宗の目を見つめ返した。勝太のまっすぐな目を見ていると、さっきまで感じていた不安がなくなっていくような気がした。

「はい!」

 周斎と勝太は嬉しそうにうなづいた。

「おぅ。それじゃあ明日から、掃除がすんだら道場に来い。まぁ、防具を揃えるまでに時間がかかるから、しばらくは素振り程度だがな」

 周斎はそう言うと、稽古に戻っていった。残された勝太は、宗の頭を優しく撫でた




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