田んぼのあぜ道を、薄汚れた小さな鞠がてんてんと転がっていく。それを十歳ほどの少女が追いかけていく。
 色の白い目の大きな可愛らしい少女が着ているのは、きちんと洗濯をされ清潔ではあるがお世辞にも綺麗とは言えないつぎはぎだらけの着物だった。加えてその着物から伸びている手も足も驚くほどに細かった。白河藩の藩士だった父がまだ存命の頃はそれなりに食べるには苦労していなかったのだが、父が亡くなり子供が女だけだったため跡取りがおらず、なんとかお家取り潰しだけは免れたものの沖田家はこうして田舎に引っ込むことになったのだ。母も二人の姉も義兄も一生懸命に働いてはいるものの、泥沼のような貧しさからは抜け出せなかった。それは少女も十分に理解していたから、わがままも言わずに耐えていた。
その母達の様子が最近おかしい。

「お宗、お宗こっちへいらっしゃい」

 宗が転がっていく鞠に追いつき拾い上げたとき、あぜ道の先の小さなボロ屋から宗の姉のミツが宗を呼んだ。
 それを聞いて宗は鞠を拾い上げると、嬉しそうな顔をしてミツに駆け寄った。大人だけで大事な話があるからと、一人のけ者にされて退屈だったのだ。
 だが、駆け寄った先のミツの顔が曇っていることに気がついて、宗は不安になった。

「ミツ姉さま?どうしたの?」
「宗。あなたに大事な話があるの」

 ミツは淡々とそう言うと、宗を家の中に入れた。
 いつもと違うミツの様子に宗はなんだか怖くなった。ずっと最近考えていたことがある。沖田家は首も回らぬほどの借金を抱えている。その上母が病になり高価な薬代もかかるようになった。今はまだ宗が子供だからなんとかなっているが、これから先大きくなれば家計にかかる負担も大きくなる。だから、宗はいつか自分はこの家から追い出されるのではないかと恐れていた。
 土間を上がってすぐの部屋に母とミツの夫で宗の義兄の林太郎が暗い顔をして待っていた。大人三人の視線をじっと受け、宗は居心地が悪くなり、ミツを見上げた。

「宗。あなたは明日から、江戸に行くことになりました」

 ミツは先ほどと同じように淡々と言った。
 なんとなく予感はしていた。それでも実際にそう言われて、宗は頭の中が真っ白になった。

「ミツ姉さま……?」

 宗が問いかけてもミツは口を引き結んだまま何も言わなかった。

「すまない、宗」

 代わりに林太郎が宗に言った。

「わかっているだろうが、もう私たちではお前に十分に食べさせてやることができない……。私の叔父が江戸の天然理心流道場の師範と知り合いで、ちょうど人手が欲しいと言っているそうなんだ。そこでお前を行かせてはどうかとなったんだ」

 ミツとは反対に、林太郎は辛そうに顔をゆがめながら言った。
 その表情から、林太郎が苦渋の決断をしたことは宗にもよく分かった。だが、頭で理解できても心がついていかなかった。

「宗は、この家を追い出されるのですか?宗は、邪魔なのですか?」
「違う。本当はお前を手元に置いておきたい。それでも、今はこうするしかないんだ。……わかってくれ」

 布団に横たわったまま、母が泣いている。気がつけばミツも泣いていた。先ほどまでのミツの無表情は悲しさを隠すものだったのだ。
 宗は聡い子供だった。ここまでは母達を苦しませてその上嫌だと言うことはできなかった。宗は小さくうなづいた。それを見て、林太郎は安心したような申し訳なさそうななんとも言えない顔をした。

「人手が欲しいとは、お手伝いとしてですよね」
「いや、それがその……」

 宗の問いに林太郎は言いにくそうに口をつぐんだ。

「内弟子をかねた下働きだ」

 林太郎の言葉に宗は驚いた。

「でも義兄さま、私は女です!道場の内弟子なんて……」
「すまない。向こうには、お前は男だということで話をしてある……」
「そんな、そんな無茶です!ばれるに決まってます」

 混乱のあまり林太郎につかみかかろうとした宗を、ミツが抱きとめた。

「ごめんなさい、宗。こんな小さなあなたにこんなことを言うなんて。でも、これしかないの。武士の子であるあなたをただの下働きに出すのは亡くなった父上に申し訳ない。だから……」

 その先は嗚咽にかき消された。抱きしめられている宗には、ミツが今どんな顔をしているのかわからない。
 ミツの首元から顔を出すと、林太郎も泣いているのが見えた。血の繋がった母とミツ以上に、林太郎は血の繋がっていない宗を可愛がってくれた。まだ十にもなっていない宗にこのような仕打ちをするのが耐えられないのだろう。

「必ず、必ず迎えに行くからそれまで我慢をして」

 ミツの言葉に正直なんて勝手な話なのだろうと思った。
 だが、自分の知らないところで話はもう進んでいるらしかった。むしろ自分がいない方が食い扶持が減っていいのかもしれない。母にももっといい薬を買えるかもしれない。
 宗は自分に言い聞かせて、こみあげてくる何かを耐えた。





 田舎とは違い活気のある街中にその道場はあった。林太郎の叔父に手を引かれた宗は、はじめてみる人の多さや街並みに目を奪われた。父が亡くなるまでは宗も街中に住んでいたのだが、その頃のことは幼すぎて覚えていない。
 天然理心流の剣術道場、試衛館は宗が思っていたよりもずっと大きく立派だった。
 地響きかと思うような声と音。怒号や奇声が飛び交うそこは、まわりの世界とは違うように思えた。びっくりして思わずはねた宗の手を、叔父は優しく握り返した。

「宗、大丈夫か?」

 声も出ない宗は、やっとの思いで頷いた。そんな宗の手をもう一度握り返した叔父は、こっちだよ、と言って道場の裏手に回った。

「おーい。周斎先生はいないか!」
「おう、ちょいと待ってくれ!」

 勝手口から叔父が声を張り上げると、返事が返ってきた。
 続いて庭に面した部屋の障子ががらりと開かれ、男が顔を出した。

「おぅ、来たか」

 日に焼けてごつごつした強面だったが、目じりだけは下がってそれが男の雰囲気を柔らかいものにしていた。それを見て宗は少し息をついた。道場の師範だというからもっと怖そうな男だと思っていたのだ。

「宗次郎、挨拶は」

 宗はここでは宗次郎と名乗ることになっていた。

「……沖田宗次郎です」
「俺は近藤周斎だ。よろしくな」

 周斎はそう言うと、宗の頭をぽんぽんとたたいた。

「おや、その子が宗次郎かい?」

 部屋の中から女が顔を出した。周斎とは逆に目じりのつりあがった厳格そうな顔をしている。宗は思わずびくりとしたが緊張とは裏腹ににこりと笑いかけられて安心した。
 だが、次の言葉で思わず叫びそうになった。

「可愛いねえ。色も白いし、まるで女の子みたいじゃないか」

 今回の仕掛け人でもある叔父は苦笑いしたが内心焦りでいっぱいだったのだろう。

「それじゃぁ周斎先生、おかみさんあとはよろしくお願いします。宗。元気でな。また様子を見に来るから」

 そう言うとさっさと帰ってしまった。

「宗次郎、いつまでもそこに立ってねえであがりな」

 叔父の逃げ足の速さに思わずあっけにとられた宗に、周斎が声をかけた。宗はあわてて草鞋を脱いだ。

「宗次郎、あんたの部屋はこっちだよ」

 少しばかりの着替えを包んだ風呂敷を抱えて、宗はおかみさんのあとをついていった。
 連れてこられたのは、かび臭い小さな部屋だった。元は物置だったのだろうか。かろうじて畳みはひかれているが、慌てて掃除をした感がぬぐえない。

「悪いねぇ、急な話だったから部屋をあけられなくてね。しばらくの間はここで我慢しておくれ」

 本当に申し訳なさそうに言うおかみさんに、小さな声で宗は言った。

「いえ、ありがとうございます」

 おかみさんは宗と目を合わせながら言った。

「そんなに緊張しなくてもいいんだよ。今日からここがあんたの家なんだからね」

 言葉遣いも顔も全然似ていないが、宗は母親を思い出した。





 夢を見た。とても、あたたかい夢だった。
 今よりも若い母に二人の姉。そして、母の腕に抱かれている赤ん坊。母の隣にいる男は父であろうか。その顔はぼやけてよく見えない。小さいときに死んだ父の顔を宗は覚えていない。
(……父様?)
 みんな、笑っている。
 母の顔にも姉の顔にも、今のような苦労の影はない。
(父様さえ生きていれば……)





 気がつくと、宗は泣いていた。目じりから流れ落ちた涙が頬を伝って布団をぬらす。宗は起き上がると寝巻きの袖で涙を拭いた。

「母様?姉さま?」

 見慣れぬ部屋に不安になって母とミツを呼んだが、返事はない。宗は自分は昨日試衛館にやってきたことを思い出した。
 その前の晩は久しぶりに四人で川の字になって眠った。手を伸ばせば届いたぬくもりが、今はない。
 急に心細くなり、また涙が頬を流れた。
 遠くで時を告げる太鼓が鳴っている。
 宗は布団を畳んで着替えると部屋を出た。これから朝餉までに庭を掃いてしまわないといけない。内弟子とは言え入門料を払えない宗は、下働きもする約束なのだ。
 涙のあとが残る頬をもう一度拭くと、宗は庭に下りた。
 宗にとっては大きい箒で庭に落ちている木の葉を集める。おかみさんがもう起きているのだろう。家の中からは物音がしている。それとは別に音がするのに宗は気づいた。

(なんだろう……)

 庭を掃き終え箒を片付けると、宗は音のする方に向かった。
 腹のそこに響くような声に何かを強くたたきつける音。昨日ここに来たときに聞いた音だと気づいた。

(誰か道場で稽古をしているのかな)

 子供ながらの好奇心がむくむくと起き上がり、宗は恐る恐るながら道場に近づいた。
 少し開いていた扉の隙間から中を覗く。すっぱい汗のにおいと熱気がこもった中からは竹刀と竹刀がぶつかる音が響いている。
 二人の男が防具をつけて稽古をしていた。

「うわぁ……」

 剣術の稽古を見るのはこれがはじめてだったが、目を奪われた。
 足を踏み込むたびに揺れる袴の裾。目も止まらぬ速さでぶつかり合う竹刀。男の一人がつけている面の赤い面紐がまるで蝶のようにひらりひらりと揺れる。
 きりりとした緊張感の漂うその二人から宗は目を離せなくなった。ただ単純に格好いいと思った。そして、自分もやってみたいと思った。
 赤い面紐の男が気合声と共に相手の面に向かって竹刀を振り下ろした。相手はそれを品で受けると流してすりあげた。赤い面紐の男に隙ができる。相手はそのまま胴を打った。紅い面紐の男は打たれた勢いでその場に倒れこんだ。相手は構えをとかないまま言った。

「俺の勝ちだな、歳」
「あー、また負けちまった」
「これで俺の何勝だったかな」
「いちいちそんなの覚えてるかよ、ちくしょう」

 さっきまでの緊張した空気はどこかに吹き飛んでしまい、男達は防具を外しながら和やかに談笑を始めた。

「どうだ、歳。いい加減うちの門下に入る気はないか」
「俺は我流でいいさ」

 そう言いながら面を外した赤い面紐の男と目が合った。

「なんだ?お前」

 その言葉で宗が覗いていたのに気づいたもう一人の男が扉に向かってきた。半開きだった戸ががらりと開かれる。
 日に焼けて全体的にごつごつした感じのその男は心なしか周斎に似ている。だが上から見下ろしてくるぎょろりとした目に、宗は覗いていたことを怒られると思って怖くなった。
 男が手を上げた。

(ぶたれる……!)

 そう思って宗は反射的に目を閉じた。
 だが、男の手は昨日周斎がやったのと同じように、宗の頭を優しくぽんぽんとたたいた。

「お前が宗次郎か?」

 屈んで宗と同じくらいまで目線を下げたその男に、宗は目を丸くした。
 宗に笑いかける男の目はとても優しい。

「勝っちゃん、そのガキ知ってるのか?」
「あぁ。昨日からうちで預かってる内弟子だ」
「このガキが内弟子だぁ?女みてぇじゃねえか」

 赤い面紐の男はそう言った。役者のように整った顔をしていて、にこやかに笑っていればいいものを、不機嫌そうに眉間によせられた皺がその顔を台無しにしている。

「私は男です!そういうあなただって女の人みたいな顔をしてるじゃないですか!!」

 女みたいだと言われて焦った宗は、思わずそう言い返した。もし自分が女だとばれれば母や叔父に迷惑がかかるし、善意で自分を引き取ってくれた周斎たちにも申し訳がない。

「んだとこのガキ!!」
「そう怒るなよ、歳。元気があっていいじゃないか」

 ますます険悪な顔になった赤い面紐の男をなだめると、男は宗に向き直った。

「俺はここの養子の勝太だ。よろしくな」
「沖田宗次郎です。よろしくお願いします」

 宗の頭を勝太はもう一度撫でた。

「ちゃんと挨拶ができるなんて、えらいな」
「けっ」

 何が気に入らないのか、勝太の言葉に歳と呼ばれた男は背を向けた。

「おい、歳。どうしたんだ?」
「帰る。これから仕事だ」

 そのまま振り向かずに男は去っていった。

「悪いな、根はいいやつなんだ」
「……誰ですか?あの人」
「土方歳三といって、俺の友人だ。口は悪いがいいやつだ」

 勝太はそう言ったが、宗にはとてもそう思えなかった。




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