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  top          デフレインフレの一般理論
 
 
      第2章・所得曲線のシフト

   

○所得曲線のシフト(図103参照)
 産業革命以前の社会が、生産した物がすべて消費され、貯蓄が形成されない経済状態だったと
仮定する。それゆえそれまでの所得曲線は、軍隊や、役人、封建的貴族、王侯鰹属などの大きな
負担によって可処分所得が45度線より下に移動したものであったろう。どちらかと言えばデフレ
に近いものであったろうと思われる。それは強制的な支配者側から強いられた労働により均衡を
保っていたのである。しかし十八世紀の産業革命は、生産革命であり、生産効率がそれまでと異
なり、非常に高くなった。その結果生産高が飛躍的に高まり、それに応じて所得が増え、市場に
出回る資金が増え、消費が増えるにしたがい、所得曲線は、角度をどんどん上方に移動させてい
き、45度の所得曲線をも上回って、供給量が増えていったと考えられる。これと同時に出回る貨


幣の量も増えていった。
 その結果、生産に従事せず消費だけをする王侯貴族、軍隊などの支配者層の国費の負担を税金
として支払っても、民間がなおかつ貯蓄もできるようになったのである。
 このように貯蓄の範囲内で資金の量が上下する場合において、比較的穏やかな均衡状態が保た
れるのである。
 そして理想の所得曲線である45度線とその上方にある角度の所得曲線との差がインフレギャッ
プ(マネープラスギャップ)資金過剰分である。ある所得曲線で生じる貯蓄額を上回る資金量が
資金過剰分と言えるであろう。産業革命以後多くの工業国家で、このような45度線以上の角度の
所得曲線をもつのが普通になった。
 その生産力を基礎にして、多くの政策が実施され、さらに大きな公的負担を課すことができる
ようになった。年金制度、累進課税制度、公務員制度なども45度線より上の所得曲線を前提とし
たものである。国民皆兵の軍隊の増大なども、この生産力の増大のおかげであった。しかも公的
負担をある程度課すことによって経済の過熱を抑える役目も持っていたのである。それゆえ今ま
での経済を扱う学問も、この45度線より上の供給力を持つ所得曲線を前提としたものが大半であ
り、多くの景気対策も所得曲線が45度以上に達していることを前提になされていたのである。遂
に言うと45度線より下の需給曲線が支配する経済では、そのようなものが成り立たないというこ
とを知らないのである。
○日本の特殊事情
 しかしながら現在の日本でこの前提が崩れる事態が起こったのである。
 それは、一九八〇年代後半の集中豪雨的輸出といわれた、空前の輸出力が国内に大量の資金の
過剰をもたらし、国内の需要をはるかに上回る供給体制ができあがり、人手不足倒産がうわさと
なって流れるほどであった。その資金が、ハートランドの生産物を潤す量以上に出回り、貯蓄か
ら投資として流れる資金が、貯蓄以上に増えてしまい、歯止めがなくなってしまった。そしてそ
れ以後急速に、資金が株式や土地に流れ、資産価格が急上昇していった。政府は、税制度の金縛
りで税率を十分に上げることができず、結局地価の値上がりを十分に制限することができなかっ
た。その価格の値上がりは、普通の需要供給の循環によってできあがる価格をはるかに上回って
いた。
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21
   ヘ

二|


 そこであわてた政府は、突然資金の供給を絶つ政策を取り、土地や株式のバブルを崩壊させた22
のであった。しかしこの拙速なやり方は、政府や企業、個人に莫大な借金を背負わすことになっ
たのである。(図104参照)
 東京の土地価格の上昇から始まった大量の資金は、入道雲のように空高く舞い上がり、銀行の
土地や株式に対する飽くなき資金の供給により、入道雲を豊雲のように全国に広げさせ、資金の
雨を全国に降らせたのであった。それにより全国の土地資産もどんどん値上がりした。しかし政
府が一気にこの資金を絶つ政策に出たため、下からの資金は止まり、上がらなくなり、その結果
上に上がった恐ろしい資金量の入道雲は、あっけなく崩壊し借金となって地に降り注いだのであ
った。
 この積乱雲の崩壊は、日本に莫大な借金をもたらし、通常の需給の循環で返すことが不可能な
不良債権となった。それは日本に未曾有の資金量の減少をもたらし、日本の金貯蓄量を上回る借
金となり、日本をj・45度線より下の需給曲線が支配する経済状態に陥れたのであった。
 日本は供給手段が最高のレベルにあった状態で、デフレに突入したのである。45度線と、この
45度線以下の角度の所得曲線の差が資金の不足量であり、マネーマイナスギャップすなわちデフ
レギャップである。言い換えると貯蓄がなくなる所得曲線より下の所得曲線との差が資金不足量
である。ケインズのデフレ、インフレギャップは需給ギャップを指し、物の価値と貨幣価値が一
致している場合を指している。
 しかし現在我々が呼ぶインフレギャップ、デフレギャップは、お金の過不足のことを指し、物
の価値と貨幣価値が違っている場合のことを言っている。もっと詳しく言うと、資金量とハート
ランド(国内の産業基盤)が産出する国内総生産との差のことであり、資金量の多い場合がイン
フレギャップであり、少ない場合がデフレギャップである。
 この資金量の大幅な減少は、消費をどんどん手控えさせ、消費に応じて供給量はどんどん少な
くなっていった。
 供給量の減少は所得の減少を意味し、借金の増加と所得の減少が、45度線より上の経済状態か
ら45度線より下の角度の所得曲線に下降し、貯蓄をなくさせ、需要と供給曲線を一致せしめるに
至った。しかしなおも続く資金の減少が消費を減少せしめ、ついに需要と供給の循環から供給過
剰が発生する本格的なデフレに突入し、今まで借金のなかった企業も赤字になっていった。
 所得曲線が下方にシフトして行くさまは、常に資金の減少が先行し、それによる消費の減退が23



生産高を限定したのである。『デフレという現象は、資金が継続的に減少し、消費が鈍る中で、
販売競争が激化し、企業が十分に付加価値を付けられない状況をいう。』企業は売上を仲ばすた
めに価格を低下させ、販売量を増やすことによって売上を確保しようとする。
 しかしどの企業も同じことをするため、予想以上の売れ残りが生じ、売上が減少することにな
る。その分を売るためにさらに価格を下げることになる。日本の企業はよいものをより安く、よ
り多く売る薄利多売方式を得意とし、その方式をデフレにおいても選択したのであった。その結
果、より付加価値の付いたものを同じ価格かより低い価格で販売し、より多くの売れ残りを生じ
させたのであった。薄利多売は、デフレでは薄利でも少ししか売れない結果をもたらし、資本を
急速に減らすことになる。
 借金の増大は、資金を減らし、需要を減らし、供給が減ることによって、さらに所得減をもた
らし再び消費を減らす悪循環になっていった。消費額が下がるにつれて45度線は下方にシフトし
たのである。
O明治維新からの日本以下の所得曲線
日本は江戸時代のデフレ強制労働の時代から、明治期の産業革命の余波を受け生産力を大幅に増
強していった。しかしながら(ここから第二次世界戦までは私見であり詳しく調べたわけではな
いが)日本は、明治以降発展途上国として輸出中心の政策を行いもっぱら国内の資金は外需に頼
っていた。また欧米のような植民地を持だなかったので、余裕ある資金が国内に蓄積されること
もなかった。
 そのうえ欧米列強の軍事圧力によって富国強兵策を取らざるをえず、国民の負担は、国の経済
規模に比べて大きかったと思われる。それゆえ内需を、十分に振興することができなかったので
はないか。
 さらに日清戦争、日露戦争による戦費を費やし、加えて韓国併合によりさらなる出費を重ねて
いった。明治から第二次世界戦まで日本の経済状況は、常に45度線より下回っていた可能性があ
る。しかも輸出中心の経済は、国内に資金がうまく還流せず、貧富の差をもたらし、民需が効率
よく発揮されなかったきらいがある。日本も一時期内需の振興を図る必要があったのである。
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第二次大戦後、富国強兵は役を終え、政府は資金をもっぱら国内に投資し、農地改革などによ25

る民需の効率化などが功を奏し、さらに戦争で疲弊した民間の癒しに力を注いだ結果、内需が活
発になり非常に大きな経済に成長していったのであった。この時、軍備の負担が軽かったことを
忘れてはならないだろう。それが一九九〇年頃に頂点に達し、過熱による経済崩壊へと進んでい
ったのである。有史以来日本は、仁徳天皇の御代以外、賢明なデフレ解消策を取ったことがない。
いずれも税金を多く取り、質素倹約を旨とし、さらなる働きをもって克服しようとするばかりで
あった。それは民間をただ酷使するのみであり、さらなるデフレに陥いらせるだけなのである。