第二章 最古の遺物を求めて

第1節 但馬最古の遺物を求めて

【最古ということ】
 考古学の世界だけのことではけっしてないのだが、「最古」「最大」「最新」など「最」がつくものを求めている学問ではないか、そんな錯覚さえ覚えるほどマスコミの紙面や画面を賑わしているのがこうした言葉だ。考古学の世界では、とりわけその傾向が強く、例のデータ改ざんのような「事件」が起きる可能性やある種の必然性の存在は否定しきれない。こうした言葉は、それほど魅力や魔力のあるものなのだろう。

【石ヤリを求めて】
 ところで、ひと昔前は但馬には本格的な旧石器時代の遺物はないと考えられていた。旧石器時代、すなわち土器製作を未だ知らない一万数千年以上も前のことを本格的に調査・研究しようとする人は但馬にはほとんどいなかった。
 そんな実態を、たとえば一九七四年に刊行された『兵庫県史』本編のなかに探ってみよう。その一巻によると、県下の遺跡分布図に三八箇所に点が落とされているなかで、わずかに二点が記されていたのみである。それも、もっとも新しい時期の「尖頭器」出土地として、但東と養父の二町の遺跡が紹介されているだけである。二点とも偶然の発見にかかるもので、かならずしも所属時期がはっきりしているというわけではない。但東町の例は太田川のなかから、養父町の場合は桑畑で作業中に見つかっている。後者については、若干の記録があるので出土のようすを書いておこう。一九五五年ころに、森在住の田村茂氏によって発見・採集されたもので、出土地は森字五右衛門林、遺跡名を石ヶ堂遺跡という。桑畑で作業中に地下約六〇センチ付近から出たという。そして高松龍暉氏の説明によると、現在でもその深さには包含層が認められるという。
 この尖頭器が出たころ、石ヶ堂洞穴が付近にあったところから洞穴内が調査されたことがある。一九六五年のこと、但馬ではずいぶん早い発掘調査だ。もちろん、尖頭器のころの人たちの生活痕を探すのが第一の目的であった。きっちりした目的意識のもと、養父町ではかなり早い時期からこうした考古学的な調査がなされており、そうした先輩行政マンのすぐれた実践や歴史があったからこそ、この町ではのちにも大薮古墳群の保護と活用などにみるように、精力的な文化財保護行政が進められてきたのであろう。特筆すべき町だ。
 いずれにせよ、三〇年近くも以前の知識では「この二例がいずれも尖頭器であることは、無土器時代終末期になって、はじめて但馬に人間が住みついた」(『兵庫県史』第一巻)と理解されてもけっして無理なことではなかった。

【関宮町内で】
 関宮町の高松さんに再度ご登場願おう。氏は三〇年以上にもわたり、町内の各所から石器などの遺物を採集してきた。後にもふれるが、別宮家野遺跡では最古式の縄文遺跡を調査している。そんな彼が、自らが採集したり調査してきた石器を若手の石器研究者たちといっしょに見直し、そのなかに旧石器が含まれていることを明らかにしている。
 高松さんたちの努力で、但馬にも旧石器時代の人々が住みつき、そして石器を残していることは分かってきている。つぎは、より古い時期の遺物を求めていくこととなる。
さらに古い遺物が  温泉町は、泉源のあるあたりでさえかなりの高地だが、そこからさらに高い一〇〇〇メートル付近に畑ヶ平遺跡はある。ここで、高原野菜のための農地の整備が計画され、高松さんは頼まれて事前の分布調査を繰り返し試みた。それは、石器が採集されても、土器が出ない、そんな重要な事実がその背後にあったからだ。研究仲間で、若手の石器研究者である山口卓也さんは、一群の石器を見て台形様石器・ナイフ形石器が含まれている事実に着目。ふたりはこうした認識と推定から、この遺跡が土器を伴わない文字どおり旧石器時代の遺跡であると確信したのである。一九八九年のことであった。

【火山灰で時期の決定が】
 畑ヶ平遺跡の重要性は、こうした南但馬高原の旧石器時代の遺跡で本格的に試掘調査が実施され、しかも火山灰の分析を利用した石器の時期決定が試みられた点である。詳しくは承知していないが、温泉町教育委員会が行った調査では、姶良火山灰層の下から石器が出土しており、この遺跡の石器の時期に科学的根拠をもった一点が与えられることになった。
 姶良火山灰、一般には聞き慣れない言葉だが、古い時期の研究を志す人たちにはたいへん有効な時期決定の素材なのだ。なぜかというと、大規模な火山ではその噴火によって大量の灰が付近に降下したり、時には信じられないほど遠くまで運ばれ、各地の地層にその痕跡を残している。この畑ヶ平遺跡でも新しい順にアカホヤ(九州鬼界島 六三〇〇年以前)・大山ホーキ(鳥取大山 二〇〇〇〇年前)・姶良(鹿児島 二一〇〇〇〜二二〇〇〇年前)の火山灰降下が確認されており、少なくともこの遺跡の石器の一群が姶良火山灰より下層で見つかったという事実は、ずいぶん重要な意味をもつのである。
豊岡でも旧石器発見  とはいえ、こうした古い石器はなかなか良い状態で見つかることは少ないのが常。まして、豊岡盆地のような低湿地で旧石器を探すとなるとほとんど不可能に近い。いわば偶然の機会を待つしかないのである。古墳の調査中に偶然、それも作業員さんの直感が生んだ「大発見」を紹介しておきたい。
 一九九一年の師走。豊岡市森尾で横穴式石室の裏側の土を取り除いていた西村鶴之助さんは細長い石片を見つけた。古墳とは直接関係のない遺物だということはすぐに分かった。この仕事について五年の西村さんは、「何か」を直感、この遺物をすぐに市教委の宮村良雄主任に手渡した。のちの専門家の鑑定で、古墳時代を大きくさかのぼる約二万年前、後期旧石器時代の石ヤリと判明、「市内最古の遺物」であることが分かる。
 長さ六・三センチ、最大幅二センチ、厚い部分で九ミリのこの石器は、実際には木の柄などに着けて投げヤリとして使われたようだ。もっとも考古学の分類ではナイフ形石器と呼ばれている。材質は、奈良の二上山一帯で産出するサヌカイトに間違いない。材質と製作技法によって近畿西部・瀬戸内地方の特徴的な「瀬戸内技法」で作られたもの。
 「瀬戸内技法」によって製作されたナイフ形石器を「国府型」ナイフというが、大内谷の例はその典型例。県下でも同じようなものは少なく、但馬の旧石器の優品のひとつだ。北陸から山陰にかけての地域では初の確認で、空白を埋めた重要な資料とされている。この関係を図に示してみよう。
 この石器、瀬戸内から石ヤリを携えた狩人たちが、ナウマンゾウやオオツノジカを追って、大内谷のあたりまでやってきたとの想像が膨らんでくる。もちろん今の地形とはぜんぜん異なり、付近一帯は荒涼とした風景が展開していたのだろう。運悪く獲物を外した石ヤリか、はたまた不用の品だったのか。それにしても旧石器時代の人たちは貴重な落とし物を豊岡でしてくれたものだ。こうした遺物が単独で見つかる理由も、案外そんなところにあるのかも知れない。
自然環境の復元  気の遠くなるような過去、確実に人々が生きた証を物に残している一万数千年前、そして二万年以上も前の時代、いったいどのような自然環境を復元できるのであろうか。ナウマンゾウやオオツノジカが生息していたころ、大陸と地続きの列島がそこにはあったとされている。当然、今より寒冷の厳しい自然環境が復元されている。学者のなかには、当時の海水面は今より三〇メートルほど下にあった、とする人がいるくらいだ。
 畑ヶ平遺跡同様の遺跡立地を示す関宮町の杉ヶ沢遺跡では、当時の森林相の検討がなされている。これは、土壌に含まれる植物化石の分析から導かれる結果だ。先にふれたが、姶良火山灰の堆積から二万年以上も前の土層が判明しており、そのなかの花粉化石を抽出し、そこから得られた結論は、だいたい次のようなものだった。
 より下層から検出されているのはツガ属・モミ属・トウヒ属が主要な森林構成樹種で、ほかにスギ属・コウヤマキ属・マツ属が少しあった。結論的には、当時の森林相は、「冷温帯広葉樹林から亜寒帯針葉樹林に移る移行林的な森林が考えられる。」とされている。やや専門的な内容だが参考までに記しておく。

『但馬の古代1』トップへ