豊岡市日高町川岸遺跡の人形


古代の遺跡

29.袴狭遺跡群
30.三宅廃寺と瓦窯跡
31.但馬国分寺跡・但馬国府跡
32.法興寺跡
33.井土廃寺
34.殿岡廃寺
35.立脇廃寺・釣坂遺跡

【29.袴狭遺跡群】

所在地 出石郡出石町袴狭

時 代 弥生(後期)奈良(後葉)

調査年 1976ほか

主要文献 小寺誠『袴狭遺跡内田地区発掘調査概報』1995,県教委「砂入遺跡」・「袴狭遺跡」『県文化財調査報告書』 各161,197 各1997,2000

遺物の所在 出石町教育委員会・県埋文事務所

遺跡の概要

 円山川は、但馬の中央部を日本海に向かって北流する。遺跡は、その支流出石川の支流である袴狭川流域一帯に展開する遺跡の総称。

 袴狭遺跡が立地する谷部は、豊岡盆地の東南部に開ける比較的大きな谷で、西側以外の三方を、標高150m級の山によって囲まれている。本遺跡北側にある砂入遺跡とともに、奈良平安時代を中心とする時期の人形・馬形などの木製祭祀具が多数出土する特殊な遺跡である。

 出土した木製品約13000点のうち、4割以上が木製祭祀具であった。これらの遺物をはじめ、墨書土器・木簡等の遺物や遺構の検討から、袴狭遺跡は第1次但馬国衙や出石郡衙との関連が取りざたされる遺跡である。

 袴狭遺跡は、このように広義な遺跡群とも言うべき内容をもつもので、中心は荒木地区や内田地区と呼ぶ建物遺構を擁する部分と考える。荒木地区は、遺跡群では古相の8世紀前半に中心をおく遺跡である。また内田地区からは、まとまった建築遺構が検出されており、さらに優秀な遺物も出ており、出石郡衙本体か、附属の施設が建っていただろうことはほぼ間違いあるまい。こちらは、9世紀前半を中心とする時期である。

 遺物の主要なものは、多数の木簡・石帯・唐製銅鏡・銅製容器・銅印・銭貨などとともに、緑釉や灰釉の陶器類など、一般の集落遺跡のものとは考えにくい優秀な遺物が目につく。墨書土器や木簡などに、「秦」という氏族名を記したものが多数見つかっており、渡来系氏族のひとつ秦氏関連の人々が在住していたことが確認された。

 歴史時代の遺物や遺構とは別に、前代の弥生時代から古墳時代ころのものとして、水田とそれに伴う井堰、溝などが確認されており、若干の土器と「線刻画木製品」、田下駄や容器、部材、木製穂摘具、椅子などの木製品が出土している。さらに、ある種の琴板と推定される魚等を描いた「箱形木製品」や、「帯を組み合わせたような模様のある板」など注目される木製品が多数見つかっている。

 最近になってその存在が明らかになった船団を描いたと思われる線刻画木製品は、平成元年の確認調査の際に、多くの板材などとともに出土したもの。その後の発掘調査により、水田に伴う溝からの出土であることが判明している。

(瀬戸谷 晧)

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【30.三宅廃寺と瓦窯跡】

所在地 豊岡市三宅字塔屋敷・家ノ上ほか

時 代 奈良時代(前期)

調査年 1975・91・94・9801

主要文献 瀬戸谷晧・潮崎誠「薬琳寺遺跡」『豊岡市史資料編下巻』1993

遺物の所在 豊岡市出土文化財管理センター・慈等寺・中嶋神社

遺跡の概要

 はやくから瓦類が出土し、「薬琳寺廃寺」の所在が推定されていた。蓮華文帯や拒鵲穿孔をもつ鴟尾片や単弁9葉の軒丸瓦などが研究者に注目されていたものの、確実な遺構は数回の試掘を経ても未確認であった。98年、市道下から瓦積基壇の一部が検出され、付近に転落していた3個の礎石も確認できたことで寺院跡の確証が得られ、以後は三宅廃寺と称している。立地は、穴見川右岸の東向き山裾にあたり、標高1416mをはかる。

瓦積基壇は、主要伽藍のうちではほぼ北端に配置された建物の、東辺の一部である。その後の周辺の調査知見では、南北に主要伽藍が配されたらしいこと、東正面の可能性も考慮すべきこと、相輪部材の九輪(覆輪)や伏鉢の一部とみられる銅製品の出土から、塔の存在が確実視できることなどが判明してきた。また、銅製品の鋳造関連土壙が検出され、溶解炉の炉壁片などが出土している。鴟尾片も、従前と同様の部位であるが増加し、金堂や講堂あるいは中門などに上げられていたものであろう。

軒丸瓦は確実には2種類で、周縁が一段さがる単弁9葉のものと、高い周縁に方形・縦線・珠文を配した単弁6葉のものである。前者は鴟尾の特徴とともに讃岐地方からの系譜が指摘されている。後者は、北白川廃寺系列の最終的な様相を示す。軒平瓦も初めて出土し、顎部を付した端面に三重の重弧文を施す。

 瓦や鴟尾の従来からの年代観によれば、三宅廃寺は7世紀後半の建立である。廃絶時期は不詳だが、瓦当の種類も少なく、時期の下る新しいタイプの瓦は供給されていない。格子系の叩きをもつ平瓦と行基タイプの丸瓦が主体で、比率の少ない縄目叩きの平瓦と玉縁の丸瓦は、補修用のセットとみることができる。

 三宅瓦窯は廃寺跡のすぐ背後の斜面に位置し、急傾斜工事に先立って99年に発見・調査された。焚口付近と天井部の多くを失うが、煙出部まで良好に残る地下式の有段構造で、瓦専用の焼成窯である。水平残存長は6.1m、復元斜長8.7m、最大焼成室幅1.5m。床傾斜角は39°ときわめて急で、11段の整然とした地山加工の階段が設けられている。瓦当は出土しなかったが、平瓦や丸瓦の特徴からみても、直下の三宅廃寺の専属瓦窯であることは確実である。窯跡は保存処理を経て、2000年夏から露出展示している。

(潮崎 誠)

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【31.但馬国分寺跡・但馬国府跡】

所在地 城崎郡日高町祢布ほか

時 代 奈良(後)・平安

調査年 1973ほか多数

主要文献 谷本進「第一期と第二期の但馬国府改修」『歴史と神戸』第192集 1995

遺物の所在 日高町教育委員会

遺跡の概要

問題の所在

 石田松蔵氏は「日本後紀」延暦23年(804)の条に「遷但馬国治於気多郡高田郷」とあることから、それ以前の国府を第一次国府、それ以後を第二次国府と提唱した。これを考古学的に解釈して、出石町袴狭地区から日高町祢布地区に移転したとする説がだされている。この「但馬国治移転問題」は、但馬古代史の謎のひとつとして多くの研究者が追求してきた課題である。以下、関係するいくつかの遺跡につき、調査成果をもとにこの問題を考えてみたい。

但馬国分寺

 但馬国分寺は、昭和48年から9回以上の発掘調査が日高町教育委員会によって行われた。昭和52年に調査したSD01溝出土木簡には、天平神護3年(766)、景雲2年(768)の年号が発見された。平成元年には一辺が1.72mの大型の井戸が出土し、そのヒノキの年輪年代測定によって763年10月から翌年4月までに伐採した原木によるものであることが判明した。このため但馬国分寺はもともと現在地に建てられたものであり、移転は考えにくい。

但馬国府

 日高町深田遺跡では「大同五年 官稲」「造寺米残 弘仁二年」と書いた題籤が発見されており、また付近の川岸遺跡では国司クラスの人物の顔を写実的に写した人形が発掘されて有名である。

 さらに平成5年には祢布ケ森遺跡で、2間×9間以上ある大形の東西建物が発見され、延暦23年以降の第二期国衙関連建物とほぼ断定された。こうした考古学的な調査成果によって、この時期の但馬国庁は祢布ケ森遺跡の北側から国分寺西南部付近に立地することが確定したこととなる。第二期国庁の本格的な発掘調査が待望されている。

 国府には国衙(政庁・曹司・館・正倉)のほかに、国分寺・国分尼寺、官営工房や軍団施設など多くの関連施設が作られる。但馬の場合、第一期国衙と第二期国衙の間で政庁が移転したのは、考古学的調査の成果や「日本後紀」の記述によってほぼ確実だ。しかしそれは国衙関連施設全体の移転を示すのではなく、一貫して日高町役場周辺に国府機能が存在したと解釈できるのではなかろうか。

(谷本 進)

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【32.法興寺跡】

所在地 朝来郡和田山町法興寺字堂ノ前ほか

時 代 奈良前期

調査年 1996

主要文献 田畑基「法興寺跡」『和田山町文化財調査報告書』第8集 1998

遺物の所在 和田山町教育委員会(朝来郡広域)

遺跡の概要

 法輿寺跡は、和田山町の旧枚田地区内にある法興寺集落に位置する。円山川の右岸、円山川と与布土川の合流点から南東方向に約900mの地点に存在する。この、法興寺跡周辺の遺跡については、現状では明確にされていないが、地元の人の話によれば、経塚・古墳などが存在したり、かつて存在していた。

 法興寺跡は、少なくとも飛鳥・白鳳時代と平安時代の2時期の遺横面が存在することが判明した。

 7世紀の遺構・遺物が完全にパッキングされたような状況を呈しており、平安時代遺構面、あるいはその直上層に含まれる遺物については、基本的に7世紀代の遺物の混在はないものと考えている。以前から地元で採集されている瓦を観察すると、平瓦については、すべて縄目叩きを有し、また丸瓦片も含めて今回の発掘調査で出土した平安時代の遺構に伴う瓦の胎土と酷似している。このことから、以前から採集されていた瓦片はすべて平安時代(おおむね10世紀以降)の所産と推定される。

 また逆に、今回発掘調査で検出された7世紀代の遺物に類似するものが、以前からまったく採集されていない状況を考えると、法輿寺跡の創建年代に近い遺構については、あまり破壊を受けずに遺存している可能性が高い。

 7世紀代の遺構については、今回の発掘調査の原因となった個人住宅建設という事業の性格上、面的に遺構を確認するということができなかったが、法輿寺跡の創建年代を堆定する上で貴重な資料が提供された。

 1トレンチの溝状遺構内から出土した軒丸瓦は、八菓素弁蓮華文軒丸瓦という形式、蓮弁の先端に珠文が表現されていることと、蓮弁に鎬をもっていることなどから、古新羅系の特徴を有するものと考えられる。また、同一遺構内から出土した平行叩き痕を有する平瓦については、一般的には飛鳥時代の所産とされるものとされている。

 1トレンチの溝状遺構SD1から出土した土器群は、先の瓦と比較すると若干年代に差があると思われる。しかし、今回出土した瓦の諸特徴から少なくとも7世紀中頃までには引き上げることも可能であり、法輿寺跡の創建年代を検討する上で良好な資料が得られたと考える。

(田畑 基)

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【33.井土廃寺】

所在地  美方郡温泉町井土字福岡

時 代 奈良時代

調査年 1995

主要文献 温泉町教育委員会『温泉町史』第1巻 1983、同『温泉町の埋蔵文化財』1990、同「遺跡の損壊状況報告書」1995

遺物の所在 温泉町教育委員会

遺跡の概要

 遺跡は、現国道9号線が温泉町出合でそのまま北に向かうことなく、南西方向に大きくその路線を変更する地点近くに位置している。1995年に付近の田地の区画整理に伴い、地形に変更を加えられる事態が生じ、簡単な立会調査が実施された。その結果、おおむね以下のような事実が明らかになってきた。

 井土廃寺は井土集落の中央北よりにあたり、岸田川左岸の標高50m余りの場所に位置する。遺跡は東西130m、南北110mの東西に長い台地に立地し、標高にそって水田や畑として利用され、トウノマチ(塔の田)と呼ばれる畑と水田の境には舎利孔ををもつ塔心礎と想定される礎石が所在する。

 遺跡の立地は、全体的に見ると西側から東側へ標高に沿って階段状に水田が開墾されており、奈良時代の寺院跡としての伽羅配置はわからないが、この周辺には古代に郡衙や駅家が設置されたと考えられており、井土廃寺にも郡寺的な性格があると思われる。

 塔心礎の中央穴は水平に立ち上がり、直径30.6 p、深さ23.8 pであった。礎石据えつけのための堀方はよくわからないが石材から約20 p離れて色が少し変化している。土層などを表面観察した結果では、石材が移動した痕跡はなく現位置を保つと思われる。また四天柱の抜き取り穴と思われるピット状のプランを遺構として確認している。

 このピット状遺構をもとに柱間を200 pと仮定し、南北方向の柱穴を復元、想定したみたが、適切な建物の位置関係は把握できなかった。

 遺物はトレンチ内より瓦5点、須恵器片3点、塔心礎に近い地区から焼成不良の瓦片4点と、石鏃1点、工事区域の東地区より、須恵器の破片3点が出土している。

 遺跡が立地する井土近くには、現在も地名が残る湯がある。湯は、奈良時代に属する但馬国分寺出土木簡にも「温泉郷」(ゆのさと)としてその名を残しており、前述したように駅家があった可能性がきわめて高い。ただし、その駅名は面治(めじ)である。

(田中 弘樹)

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【34.殿岡廃寺】

所在地 美方郡村岡町高井字殿岡

時 代 奈良前期

調査年 なし

主要文献 兵庫県教育委員会「山陰道」『歴史の道調査報告書』第3集 1993年

遺物の所在 村岡町教育委員会

遺跡の概要

 村岡町福岡から寺河内にかけての湯舟川の上流域は、古代の七美郡の政治的中心地として栄えた。6世紀後半のある時期には大型円墳の長者ヶ平1号墳が、7世紀第2四半期には、金銅製大刀2本・金銅製杏葉を出土した文堂古墳が作られた。さらに、続く第3四半期には但馬を代表する一辺25mの大型方墳である長者ヶ平2号墳が作られている。

 8世紀前半には、付近に殿岡廃寺が作られる。殿岡廃寺は法面から瓦が多量採集されているだけで、伽藍配置などは不明である。しかしながら単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土し、周縁には三重の圏線を作り、その上に3個1対の珠文を八組配置する。また重弧文軒平瓦も出土し、飛鳥の山田寺式の瓦であることが注目される。

 七美郡で現在知られる唯一の瓦の出土地で、周辺に瓦窯も存在したと考えられる。但馬でも最大の豪雪地帯にも、古代に瓦建築が作られていた。

 市原の対岸には墨書土器や円面硯を出土した豊田遺跡があり、福岡の西北に広がる前田遺跡では墨書土器が出土し、「豊」の文字が3点で確認されている。遺構は不明であるが、官衙的遺跡の通有な遺物が濃密に出土する事実に驚かされる。

 こうした遺物の出土遺跡はそれぞれ、地方寺院(郡寺)・郡衙・駅家の候補地である。湯舟川にそっては山陰道が通っており、福岡地区は山崎駅の比定地であり、具体的には前田遺跡が比定される。

 但馬国府へのルートは、村岡町輝山から金山峠をこえて日高町神鍋から国府に至る郡衙連絡道が想定されている。そう考えると、山陰道からの分岐点に豊田遺跡が立地することになる。終末期古墳を作った首長がそのまま郡司になり、山田寺系の寺院を建立したものと理解できる状況である。

(谷本 進)

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35.立脇廃寺・釣坂遺跡

所在地 朝来郡朝来町立脇地内

時 代 奈良(7世紀末〜8世紀初頭)

調査年 1985・1999

主要文献 なし  

遺物の所在 朝来町教育委員会(朝来郡広域行政事務組合)

遺跡の概要

 朝来町立脇地区一帯は以前から歴史時代の遺物が採集されており、歴史時代の遺跡の存在が暗示される場所であった。立脇廃寺跡は大通院裏庭に残されている塔心礎や付近一帯から採集される古代の布目瓦から、古代寺院の存在が推定されていた。

 一方釣坂遺跡については、昭和60年度に立脇地内釣坂地区において圃場整備事業に伴う遺跡確認調査を実施した結果、8世紀から9世紀を中心とする祭祀遺跡が存在することが判ってきた。さらに平成9年及び11年には釣坂地内で宅地造成事業が計画され、それに伴って発掘調査をする機会に恵まれた。

 これらの遺跡群は、円山川上流域の左岸に位置する段丘状地形および山麓台地上に立地する。

 釣坂遺跡の中で、谷部は松越地区、谷入口の山麓台地部は福本地区と呼称し区分している。松越地区では建物跡や旧河道が検出され、旧河道の埋土中より多量の木器や土器が出土している。土器は多量の墨書土器を含み、木器は木簡のほか人形・斎串・馬形などの祭祀具が見られる。墨書土器の中には『郷長』などの文字も見ることができ、釣坂遺跡及びその周辺の遺跡の性格を判断する上で重要な遺物である。

 平成11年度に実施した福本地区においては、土坑が3基と河道跡が検出された。河道跡と土坑の一つは弥生時代中期前半の遺物を含んでおり、当町における弥生遺跡の確実な例として確認された。他の土坑2基については、7世紀末から8世紀初頭の瓦や土器を含むものである。

 特に、土坑(SK05)については一辺約2m程度の方形土坑で、下部一面に瓦を敷き、その上に黄白色の粘土を敷いていた。性格については今ひとつ明確ではないが、おそらく瓦を製作する粘土を貯めておく施設ではなかったかと推定している。下部の瓦敷きの中から、ほぼ完形の軒丸瓦が出土した。軒丸瓦は子葉を持つ単弁八葉蓮華文で、周縁には珠文とポジティブな長方形文が交互に配されるものである。こういった文様の特徴から、山田寺式の系譜を引く瓦であることがわかった。また、南に隣接する立脇廃寺跡推定地から出土した軒丸瓦破片と同じものである。

 こうした一連の釣坂遺跡の調査により、立脇廃寺との密接な関係が明らかとなった。この粘土溜り遺構の隣には工房跡と思われる遺構も存在する。未だ発見には至らないが、瓦窯の存在も考えられる。

(田畑 基)

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