情報誌「月刊ナースデータ」掲載(平成9年11月号〜平成10年2月号)
第1回:1万人に一人の難病 どうして....(ユーゴン誕生から一回目の入院まで)
第2回: 手術!!どうしていいかわからない!(平成7年9月〜平成8年)
| 前書き インターネットホームページで「難病とたたかうユーゴンのホームページ」をみようみまねで作ったのは、昨年5月の事でした。 ホームページを作る作業や運営する行為そのものが、自分を客観的に見る事になり、少しでも自分自身の心のよりどころとして日常生活の悩みから開放されるならいい、うまくいって、だれかがメールの一つでもくれればいい、そう思ってのホームページ作成でした。 結果は大きく裏切られました。登録した一週間後に初めての励ましのメールが届いたと思ったら次から次へと、健康なひとや自分自身が難病の人、交通事故にあって入院を経験した人などからメールを頂きました。「苦しいのは自分たちだけではない、もっともっと苦しい人がいる。 そして、今年(平成9年)の5月、この月刊ナースデータより一通のメールが届いたのです。ホームページの内容をもとに原稿を書いてくださいとの内容でした。 もとはといえば、自分自身のために作ったホームページです。このホームページがこんなに大きな広がりを見せ、お世話になった看護婦さんの情報誌に載る事になろうとは夢にも思いませんでした。 しかし、看護婦さんのお役に立てるならと、意気込んでペンをとったものの今まで人様に見せる文章など書いたことのない私です。 |
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第1回:1万人に一人の難病 どうして....(ユーゴン誕生から一回目の入院まで)
1.プロローグ ワイパーをフル回転しても前が見えないくらいの大雨の中を私と、妻、そして生後2ヶ月のユーゴンは、、無言で車を飛ばしていました。目的地は京都大学病院です。本格的にキャンプへ行くつもりで3ヶ月前に買ったスバルレガシイの広い後部スペースにキャンプ用具ではなく、入院用品をいっぱい積んで....。 2.誕生 ユーゴンは、私たち夫婦の二男として、平成7年7月9日に生まれました。お兄ちゃんは、すでに4才で、もっと早く二人目がほしかった私たちには待ちに待ったユーゴンの誕生でした。誕生の直前まで妻の体調が思わしくなく、ひどいつわりで入院をしたぐらい生まれる前から存在をアピールしたやんちゃ坊主です。体重 3290g身長48Cm。とっても元気よく泣き、「お兄ちゃんよりも元気な泣き声やな」と二人で笑いました。 3.ユーゴンが家にやってきた 生後もいくつかの心配ごとはあったもののほぼ順調に過ごし退院、妻の実家にかえり、私の家にユーゴンがやってくるまでのことはあまりトラブルもなく、よく覚えていません。ただお兄ちゃんが、家族みんなが可愛がるのを少し嫉妬して「ユーゴンなんて、死んでしまえ−」といったので、怒ったのを覚えています。 ここで私たち家族の紹介をさせてください。 おおばあちゃんは92才です。近所では最年長です。両親を子どもの頃に亡くした昔からの苦労人で、いつも「もったいないもったいない」が口癖です。おばちゃんは67才、ずっと体が不自由で身体障害者です。耳も悪くうまく体が動きません。おじいちゃんは64才です。2年ほど前に心筋梗塞で入院しその後も通院を続けています。おばあちゃんは58才。そして私34才、妻32才、お兄ちゃん4才、ユーゴンが生まれて4世代8人の大家族です。こんな、たくさんの家族に囲まれてユーゴンの生活が始まりました。 4.暑い夏 当時私たち夫婦は、近くのアパートで暮らしていました。実家から車で5分程度の近い距離でしたので常に行き来しており、ユーゴン誕生前後はほとんど実家で暮らしていました。そのアパートで、やっと親子4人の生活が始まったのは8月半ばをすぎたころでした。平成7年はとても暑い夏でした。とにかく寝られないのでエアコンをフル稼動して寝ていたら体調が悪くなり、その上ユーゴンも泣いてばかりで、睡眠不足が1週間程度続きました。へとへとに疲れた私たちが続いて見たものは、ユーゴンの大きく腫れた「いんのう」でした。 誰かに聞いた、「いんのう水腫」だと思い、そのまま放置すれば治ってしまうという事で特に心配はしませんでした。しかし、おじいちゃんに翌日話したところ、すぐに病院で診てもらえとのご意見。それならせっかく心配してくれているのだからと、T病院へいくことにしました。 T病院では、いんのう水腫の診察はすぐ終わったのですが、少し前から気になっていたユーゴンの黄疸について担当のA先生に聞くことにしました。A先生はすぐに、白目が黄色い事や、便の色が白くないかなどを聞かれ、念のために血液検査をすることになりました。この血液検査が、長い長い試練の幕開けになるとは夢にも思いませんでした。 帰りの車中では、特に心配する事もなく、1ヶ月検診の時の心雑音と同じように、またどうせ「大丈夫でしたよ。安心してください」と先生は言うんだろうなと、生意気に知ったかぶりをしながら、話していました。
5.病気?! いくつかの用事を済ませて、帰ったのは4時半頃だったと思います。留守番電話がはいっていました。病院からです。「すぐに明日きてください。血液検査の結果お話したい事があります。」とのこと。少しづつ不安になってきたものの、どうせ大丈夫に決まっているとタカをくくっていました。 次の日、病院に向かう車中での会話。(注:関西弁が入るので( )内を参照) 妻「もし、ユーゴンが入院したらどうしよう」 私「入院するような病気とちがうよ。こんなに元気なのに」 妻「でももし入院したら?」 ユーゴン「ばぶばぶ」 私「まあその時はしゃあないな(仕方ないな)」 妻「ユーゴンくん、死んだりせんやろな(しないでしょうね)」 私「あほちゃうか!死ぬような病気になるわけないやん」 ユーゴン「ばび!!」 妻「そうやな。わたし心配になってきたらとんでもない事考えてしまうから...あほやなーほんまに。あっはっはっは(笑い)」 ユーゴン「ばっぶー」 6.胆道閉鎖症! 数時間後、病院でその「とんでもないこと」を聞かされました。 「胆道閉鎖症」。 まだ確定ではないものの、きわめてその確立が高いということです。 一万人にひとりの難病で、このまま放置すれば確実に死んでしまうこと。すぐに手術が必要な事。先生が話されるのを、まるで夢をみているような気持ちで聞いていました。 誕生から現在までのユーゴンの様子が次から次へと頭に映し出されます。 白い便。黄色い体。少しぐったりする事。泣き声が最近小さくなった事。お乳の飲みかたに勢いがない事。 頭をガーンと殴られた感じでした。どうして今まで気付かなかったのか? あんなにたくさんの目が毎日毎日ユーゴンをみていたのに。 白い便が出ていたのも知っていたのに、きっと白いお乳を飲んでるからだろう、そのうち黄色くなると思い込んでた。 暑い夜、泣いてばかりいたのもきっと体がしんどかったせいなのに、ぜんぜんわからなかった。 ごめんなさい、ユーゴン。ずっと苦しかったんだろうね。 ユーゴンを守ってあげられるのは自分たち親だけだと自信たっぷりに思ってきたのに、その自信が音を立てて崩れていくのがわかりました。 緊急入院したその日から、長い入院生活が始まりました。平成7年8月30日のことでした。
7.最悪の一日 すべての状況が最悪となり、昨日までの平和な生活から一挙に奈落の底に落とされたようで、すっかり落ち込んでしまった妻は、説明する先生の前で泣いてしまったようです。しかし、「お母さんがしっかりしなくてはどうするの!」とカツを入れられたそうです。こんな状況ではその時々に接する人々の何気ない言葉が大きな意味を持ちます。 エコーの検査のときは、実際に映し出されるユーゴンの肝臓や胆道を、担当の先生は親切に教えてくださいました。私たちの不安を少しでも解消できるようにと、一生懸命にお話ししてくださいました。 RIの検査では、大きな機械にユーゴンの小さな体が押しつぶされてしまうのではないかと真剣に心配していたら、担当の先生は笑顔で、励ましてくださいました。 先生方の暖かい気持ちが伝わってきて、つらい中にも一筋の光が差し込んだような瞬間です。 結局、全ての検査結果は90%クロ。最終的な判断は京都大学病院で行なうことになり、担当のY先生の紹介状をもって翌朝に車でいくことになりました。 しかし検査、検査で、わけがわからず泣くユーゴンをどうする事も出来ません。手術したらもうユーゴンを抱く事もできないのではと不安になってきます。気分は最悪でした。夕方、双方のおじいちゃんおばあちゃんがお見舞いにきてくれました。みんな、とてもつらく暗い顔をしています。ユーゴンの顔をみていると泣けてきます。たくさんの大人が涙を流しているのを初めて見たような気がします。 難病の子供/関連の本8.看護婦さんありがとう そんな気分を吹き飛ばしてくれた看護婦さんがいました。いつもにぎやかなT子さんです。病室に入ってくるなり、おじいちゃんの耳が大きいのを見ると、「この耳は福耳やから、きっとみんな金持ちになる」とか「出世する」とか、唐突な話ばかりするんです。 みんな笑い顔をみせました。楽しい事を言おうとしても話題がないのでついつい、暗い気持ちになるのをどうする事も出来なかったのに、耳の話題だけでこんなに楽しくさせられるなんて...。看護婦さんの役目ってこんなことにもあるんだと感心してしまいました。病院で日常的に遭遇する暗い家族の雰囲気を和らげる術を知っている、すばらしいベテラン看護婦さんです。
翌朝は私たちの心の中と同じく大雨でした。平成8年8月31日暑かった夏の終わり、スバルレガシイは京大病院にむけて、走り出しました。 (次号へ続く)
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第2回:手術!!どうしていいかわからない!(平成7年9月〜平成8年)
京大病院へ 滋賀県から京都にぬける道の一つに、「途中越え」というルートがあります。琵琶湖大橋から、三千院で有名な京都大原に抜ける道で、かなりアップダウンがあり曲がりくねった道です。いつもはレジャー目的で走る事がほとんどですが、今日はユーゴンの胆道閉鎖症の最終検査のために、京大病院に向かっています。 京都市内も大雨でした。地図をたよりに、京大病院についたものの、二人とも、こんなに大きな病院は初めてで、どうしていいのかわかりません。 とにかく雨を避けながら玄関に車を横づけして、ユーゴンと荷物を病院の中に入れようということにし、車を停めたものの、風雨はいやおうなく私たちに吹き付けます。ただでさえ心配なユーゴンに無情にも雨が殴りかかってきます。天をうらみました、。 「なんで、こんな大事な時にこんなひどい日になるんや」 どうにか、ユーゴンと妻、荷物を玄関にいれ、私は駐車場へ。ところがなかなか駐車場が空きません。順番待ちです。イライラがつのります。 「なんで、こんな時に順番まちなんや!!」 文句をいうより、情けなくなってきました。1分が1時間のように長く感じられます。なんとか駐車し、玄関にきた時には傘をさしていたにもかかわらず、私はずぶ濡れでした。 受付けをして、指示された小児科病棟へ向かいました。ところが、当時、京大病院は改築工事の為、玄関から新病棟へいくのに長い長い廊下をあるかなければなりません。 重い荷物を両手いっぱいぶら下げて、ズブぬれのまま歩くにはあまりに長い距離でした。 ただでさえ、ユーゴンの病気により、ストレスの固まりになっていた私たちには、なにもかもが、私たちの邪魔をしているような気持ちでした。ただ無言で、ひたすら、歩きつづけました。情けなくて、涙がでそうでした。
別世界 小児科病棟に到着 やっと、着いた小児科での受付けで、紹介状をわたしました。ほっとした思いで、周囲を見渡すと、別の世界へきたような感覚をおぼえました。おかあさんや子供たちがたくさんいました。かわいい絵や、文字が並んだ張り紙が見えました。受付けの方の笑顔が素敵でした。いままでのことが、ここに来るための苦労だったのかと思えてきました。早速、病室へ案内されました。京大病院ではじめての看護婦さんです。笑顔がとてもかわいい方でした。またまた、希望が湧いてきました。 滋賀県の田舎から長い道程をやってきた事をいうと、この病院には九州や北海道からも泊り込みで来られているとの事。今まで、自分たちが世界中で一番不幸みたいに思ってきたのに、もっと大変な人がいる事を知らされ、なにか拍子抜けしたような気持ちになりました。 京大で検査はじまる 早速、担当の先生がこられました。いきなり、ユーゴンのウンチを、顔がつくほど食い入るように見られたのには驚きました。検査をしなければ、結局のところわからないとの事で、エコー検査につづいて、管を胆管近くまでいれ、胆汁を実際に吸い上げる検査を行ないました。祈るような気持ちで待っていましたが、結果はやはり、”黒”でした。翌日緊急手術を行なう事を聞いている間は頭がクラクラしました。 しかし、その間小児科の先生がずっと私たちに付き添ってくださり、病気のことや今後の事を、丁寧におしえてくださったことは今になっても、ほんとうにありがたく思います。あの広い廊下で私たち夫婦だけでユーゴンの泣く声をただ聞きながら待つのはとても耐えられなかったと思います。 緊急手術 それでも、やはり手術が決まると、つらくてしかたありません。手術をしたらそのまま死んでしまうのではないか、もう二度と暖かいユーゴンを抱く事はないのではないかと、悪い方ばかりに考えてしまいます。 京大病院は、小さな子どもには付き添いが一人認められます。しかし、最終の検査や、入院準備で遅くなってしまい、不安がる妻を一人にする事が出来ず、その夜は私も一緒にいました。これが最後のユーゴンとの夜になるのではと不安ばかりで、結局、朝までほとんど寝られませんでした。 翌日、田舎から両方の祖父祖母、妻の姉がかけつけてくれました。だれもが祈るような気持ちでむかえた、手術の日です。 大きなベッドの中央にぽつんと寝転がったちいさなユーゴンは、泣く事もなく小さな目で、きょとんと私達をみつめています。私と妻だけが、手術室の前まで着いていきました。午前9時、ユーゴンは、大きなドアの手術室に吸い込まれていきました。たくさんのお医者さんと一緒に、小さなユーゴンはもっと小さく、小さくみえました。私たち親がどうする事もできない遠いところへ旅立っていったような気がしました。 ゆっくりと時間が過ぎてゆきます。こんなに不思議な時間を過ごしたのは初めてです。時計ばかりみていますが、早く時間がたってほしいとも思いません。手術の結果を聞くのが恐いのです。しかし、もっと速く時計の針が回ってほしいとも思います。この沈黙のつらい状態から、抜け出たいのです。 たくさんの身内にかこまれているのがせめてもの救いでした。 結局6時間後の、午後3時、手術室から先生方の笑顔と共にユーゴンはでてきました。 「うまくいきましたから安心してください....」 でも鼻や口、お腹からチューブが何本も出ているのを見たら、一気にこみあげてくるものを押さえることができません。 「痛かったか。」「苦しいか。」「頑張れ。」「もう大丈夫」やっとの思いで、口から出た言葉です。 そのまま、病室にはいりましたが、ユーゴンの体は手術前とは違い自由に動かす事が出来ません。脇腹からはドレンがでています。口には酸素吸入マスクがつけられています。鼻からもチューブがつながっています。小さなユーゴンが、透明なヘビのお化けに巻き付かれたようです。 この時になると、なぜか冷静にユーゴンの状態を観察できるようになっていました。 後から入室した、おじいちゃんおばあちゃんがユーゴンを見ると涙してしまいます。「泣かないで。手術は成功したのだから、とりあえず命の危険はないのだから...」今度は逆に、なだめる側になってしまいました。 先生から、図示を交えた手術の結果を聞き、とりあえずは、予定通りの手術が出来た事に一安心。 悪夢のような夜 しかし、本当の苦しみはこれからでした。まだ2ヶ月のユーゴンは幼すぎます。母乳の吸いかたを覚えたところなのです。酸素マスクでは吸えません。母親の抱っこが大好きです。抱っこしないと寝る事が出来ません。しかし、お腹の傷は大きく、動かす事はできません。 悲しそうに泣くユーゴンをどうする事も出来ないもどかしさが、今までの不安以上にストレスになってきます。次から次へと襲ってくる試練をどう乗り切ればよいのでしょうか? その夜からは悪夢のような夜でした。お腹が痛いのにユーゴンが泣きます。じっとしていた方が痛くないのに泣きます。蚊のなくような小さな声です。抱く事も出来ず、ただユーゴンの小さな手を握る事しか出来ません。やっと寝付いたかと思うと、しゃっくりがでて、起きてしまいます。こっちも連日ほとんど寝ていないので、ふらふらです。できたら眠りたいのですが、寝られません。 世界中にこんなに大変な事を体験している人がいるだろうかとか、こんなに不幸な人がいるだろうかと、おおまじめにそんなことばかり考えてしまいました。もっともっと大変な苦労をされている方々を知った今になっては、、なんとも恥ずかしい気がしますが、私たちには想像を超えた試練でした。 祈りの数珠 この頃、私たち夫婦のうでには、小さな数珠が巻かれていました。おじいちゃんが、ユーゴンの助かるのを祈って京都のお寺で授かった数珠を渡してくれたのです。うちの家は、田舎で、おおばあちゃんが、信仰深く毎日かかさず仏壇のまえで、お経をあげるのが当たり前なっています。 私自身も、小さい頃からその環境にいたため、信仰にかんしては縁遠い方ではないのですが、さすがに数珠を腕に巻いて生活する事は考えた事がありませんでした。 しかし、この時は、本当に素直な気持ちで、腕につけたのです。わらをもつかむ思いでした。 数珠をつけた腕がユーゴンの世話をする度に、皆の思いがユーゴンに伝わるような気がしました。 この小さな数珠が少しでも私たちを助けてくれるなら、今後一生つけていてもいいなと思いました。つらいときには、この数珠の重みを腕に感じていれば、安心できました。おじいちゃんにもらった、かけがえのない大きなプレゼントでした。 ミルクパニック 数日たつと、必要に迫られそれなりに病院の生活になじんできます。わたしがいうのも変ですが、妻は、さすがに母親です。ユーゴンの身の回りの世話もしっかり出来るようになりました。めそめそばかりしていられません。 わたしも、何日かぶりに仕事にでることができました。そして、母親との交代もすることになりました。病院でのがむしゃらな日常がはじまりました。 ユーゴンは母乳が飲めません。アイソカルという、ミルクを飲まなくてはなりません。電磁レンジで暖めるのですが、勝手が違う病院の中でそういった事をするのは、男にとって、非常に苦手な事なのです。なぜかあわてて失敗するんです。たいてい(5回に3回)は、こぼしてしまいます。決まった時間にユーゴンに与えるのですが、薬を一緒に用意するのと、冷蔵庫のうえの狭いスペースのため、静かにしょうと思えば思うほどなぜか手があたったり、すべったりして、「ガチャン」とやってしまいます。また、電子レンジでミルクを温めると、時間をちゃんと計っているのに、ミルクが噴火、爆発しています。 寝ているユーゴンが「えーん」と起きてしまいます。あとは、ミルクがほしくて泣き続けるユーゴンの声にさらにパニックになって、慌てふためくのが常でした。 ユーゴン「おとーちゃん、おなかすいたよー はやく ミルク ミルク!びえーん!」(注:実際はユーゴンはまだ話せません) 父「泣くでない ユーゴンよ。おとーちゃんがんばるから すこしまて!」 ユーゴン「はらへったー びえーん びえーん!」 父「わはは もすこし もすこし.... 慎重に 慎重に...」 哺乳瓶「ガチャン じょぼじょぼ....」 ユーゴン「........」 父「...........」 ユーゴン「どびゃー!どびゃー! おとーちゃん へたくそ−!!どびゃー!」 父「...... とほほ .....」 次号に続く... |
| 第3回:早く元気になーれ!! やさしい人たちとのふれあい。入院生活−退院(平成9年10月〜11月)
病院での日常生活 胆道閉鎖症の場合、ビリルビンの値の変動が回復の目安です。順調に数値が下がってくれば良いのですが、急に上昇したときには、まるで、出来かけのジグソーパズルをひっくり返してしまったような気分になります。検査の度に一喜一憂しながら、それでも一つ一つ回復のステップをあがって行きます。 ドレンがとれたとき、お腹の包帯が簡単になったとき、点滴がとれたとき、お風呂に入れるようになったとき、....ステップの一つ一つが記念日のようでした。 しかし安心しているといろいろと問題が起こってきます。MRSA(院内感染)もありました。ただでさえ、心配なユーゴンの体を襲うMRSAに、言いようのない怒りを覚えました。 不眠不休を続けていた、妻がころんで頭を打って治療をしたときにはどうなるかと思いました。 風邪を引いてダウンした妻を、親戚に送り届けそのまま、病院にとんぼ返りしたり......。とにかく、想像を超えたようなことが日常的に起こりました。入院生活がこんなに大変だとは思いませんでした。 それでも、看護と、おむつ交換と、おしっこ記入と自分の食事と薬とミルク.....と同じようなパターンを繰り返しながら、病院での日常が着実に過ぎていきます。 Nちゃんとおかあさん Nちゃんは、ユーゴンが入院した?日後にやってきました。ユーゴンが平成7年7月9日生まれで、Nちゃんは平成7年7月7日です。ラッキーセブンが三つも並んだ男の子です。 同じ胆道閉鎖症の疑いで入院されてきたのですが、まずお母さんの明るさにびっくり。私たちが暗い顔で来たのとは大違いです。とにかく入院準備はてきぱきとして、病気の事で悩んでいる様子が微塵も感じられないのです。 この日から、急に病院生活が明るくなりました。 Nちゃんは、翌日すぐ手術し、ユーゴンと同じようにあちこちパイプにつながれて帰ってきました。さすがにこの日ばかりは明るいお母さんも心配しておられましたが、私たちほどではなかったようです。その強さにあらためて、敬服。 とても、心強い友達ができたのです。 病気のこと、日常生活の事、いろんな事を話しました。入院中の一日はゆっくり過ぎていきます。たっぷりの時間で、たくさんの話をして、妻にとっては随分心の支えに、なったようです。
移植をしたお父さん 入院した当初、何もわからない私たちに、いろいろと病気の事をおしえてくれた人がいました。和歌山からきたKさんです。子どもはすでに生体肝移植直前で、ドナーであるお父さんも休職して、近くの旅館に泊り込んでいました。すでに、胆道閉鎖症のあらゆる段階を経験しておられるので、何事にも動じず、「わたしたちは、こうする」というはっきりした意志が感じられました。いろんな話をしました。そして、移植の前日お互いに励まし合いました。 「がんばってください。きっと成功しますから」 「良くなったら一緒に遊びに行きましょう」 手術の当日。さすがにこの日は、ゆっくりと話せなかったのですが、数日後、お父さんが点滴を押しながら廊下を歩いていたのでびっくり。こんなに早く歩いて大丈夫?ときくと。自分は健康体なので、回復を早めるために歩いた方がよいとのこと。とても痛そうで、小さな声で、とぼとぼと歩いて....しかし前をしっかり見つめて、子どもに会いに行くお父さんの後ろ姿をみていたら、涙が出そうになりました。「がんばれーお父さん!」 生体肝移植など、私たちには全く未知の世界であり、考えても見なかったことです。しかし、いずれ私たちにも避けては通れない道である事をはっきり認識し、またそれが途方もなく恐ろしいものでなく、現実である事をこの時に教えてもらいました。いろんな意味で、甘えから抜け出せた瞬間だったような気がします。 お兄ちゃんがんばったね 病気とたたかうユーゴン以上に頑張っていたのは、お兄ちゃんだったかもしれません。まだ4才、お母さんから離れられない年令です。 毎日の食事はおばあちゃん、遊び相手はおじいちゃん、保育園の送り迎えも、全ておじいちゃんにまかせました。夜ぐらいは私が一緒にいてやりたかったのですが仕事が忙しくなかなか早く帰れません。休日も病院にいくことがほとんどで遊んでやる事が出来ずに、親としては本当に心苦しい限りでした。しかし、特に、駄々をこねて困らす事もなく、いつもひとりで一心に遊んでいてくれました。弟が病気だという事は、理解できていたようです。また、おじいちゃんになついていたのも幸いしました。 一度、おじいちゃんと一緒に、京大病院にきれくれたときのことです。病棟内には健康な子どもが立ち入る事が出来ませんので、御弁当を持って、母親と一緒に病院のすぐ近くを流れる鴨川のほとりで遊ぶことになりました。ユーゴンは私が看る事になりました。 とても楽しい時間を過ごしたようです。保育園のことや家の事をいっぱい話して、 秋晴れの空の下を思いっきりかけっこをしたそうです。 にぎやかな笑い声と共に病院に帰ってきた時、私も一緒に時間を共有したように楽しく、うれしくなりました。 しかし、楽しい時間はすぐに終わってしまいます。帰り際、「ぼく大丈夫だから」といって、元気に手を振っておじいちゃんと帰っていきました。でも、それが我慢して無理に元気に振る舞っているように思い余計に苦しくなってしまいました。まだ4才です。さみしかったら、帰りたくないと駄々をこねても仕方がないのに.....。出来る事なら一緒に帰って、日常生活に戻りたい。ことのほか妻にこの思いが強かったのです。 2ヶ月の入院生活のうち一度も、家に帰れなかった母親をずっとまっていてくれたお兄ちゃんは、本当に大きくたくましくなった気がします。 がんばれー若い先生 若い先生が、実習で、よくユーゴンの診察に来てくださいました。いつも元気で、笑顔の絶やさない先生ばかりでした。妻もジョークをいえるぐらいに、親しくなり、ベテランの先生とはまた違った安心感もあったようです。特に小児科の病棟は、雰囲気が他とは違い先生方も楽しみにして来られているようでした。 ユーゴンの場合は、注射が大変だったようです。わずか2ヶ月の赤ちゃんの腕は小さく、随分苦労されていたようです。ユーゴンも、随分泣きましたが、先生も額に汗をしながら一生懸命だったようです。ユーゴンの泣き声を聞くのがつらく出来る限り、早く終わらせてほしいのですが、なかなかうまくいかずイライラするときもありました。 でも、回数を重ねるたびに上手になられていくのを見ると、ユーゴンがこの先生のお役にたって、いずれ多くの患者さんが救われるのかと思うと、少しうれしい気もします。でも、ユーゴンは単に痛かっただけでしょうね。 胆道閉鎖症の本偉大な看護婦さん この京大病院にきてから、看護婦さんの偉大さに感激する日が続きました。 どうしても暗い気持ちになる病院での生活を明るくしてくれたのは、やはり看護婦さんでした。元気な声にいっぱいのジョーク。部屋に入ってくるとパッと明るくなります。 ユーゴンも、看護婦さんが大好きで、いつも待っていたようです。 看護婦さんがしている、赤い聴診器をユーゴンがとても気に入った様子でした。 そして、ポケットにつけているアンパンマンの人形やステッカー。 こういったさりげない物に看護婦さんの心遣いが見えます。 ユーゴンに対しても、病気をとりたててかばうことなく、ごく自然な対応をしてくださいまいした。普通の赤ちゃんと同じように、怒ったり、注意したり、またあやしたりがとても自然で、それが私たちにはとてもうれしかったのです。 また、手術後、私たちには、どのようにしてユーゴンの体に触ったらよいのかわらからないときも、看護婦さんの対応を見て勉強しました。 「ああここまでやっても大丈夫なんだ。おなかが割れないんだ」と大まじめにそう思いました。 ジョークをとばす明るい看護婦さん、笑顔のかわいい看護婦さん、自然な日常生活の中にある看護婦さん、昼夜を問わず、身体という非常にデリケートな対象を扱う厳しいプロの看護婦さん、女性としてのやさしさを持つ看護婦さん、いろんな一面を看護婦さんは持っています。これだけ、バラエティに富んだ能力を要求される職業は他にないのではないでしょうか。この入院生活から、一家そろって看護婦さんのファンになりました。(注:ナースデータだからといって、お世辞ではありません。本当にそうなんです!) 母子像 移植後、経過が悪く遠くへ行ってしまった子もいました。栄養状態がわるく、手足も細く、皮膚の色も褐色でした。それでも、自分の未来をしっかり見つめているような黒目がちの輝く目が印象的な子でした。 ついこの前までお母さんに抱っこされて廊下を歩いていたのに....。胸が締め付けられる思いでした。 そのお母さんは、自分の子どもの状態が悪いにもかかわらず、後から来た人たちの相談相手として常に明るく振る舞っていました。そんな強いお母さんでしたから、子どもが逝ってしまった翌日も涙を見せることなく帰る準備をしていました。でも、その日はどうしても強がりにしか見えず、いつも親しかったお母さんが「今日ぐらい涙を見せてよいのよ」と肩をやさしくたたいた時、こらえていたものが一気に吹き出し、泣き崩れてしまいました。それを見ていた妻も一緒に泣いてしまったそうです。 子どもの寿命を早く知ってしまう不幸に長い間おかれていたお母さんには「覚悟」というものが充分出来ていたとは思いますが、それでも現実に子どもが逝ってしまった後のむなしさとはどのようなものでしょう。後に残った服やおもちゃやはいやおうなく子どものことを思い出させます。想像を絶する、残酷な現実です。 お母さんが子ども抱っこしている、この「母子像」はいまでも私の目に焼き付いています。人間の命のはかなさと、尊さ、それを暖かく包み込む人の愛、運命に流される人間という弱い存在。ユーゴンの病気を通して私の人生観が変わってきた原点のような気がします。 退院だ! 入院生活の経過とともに、ユーゴンのからだも徐々に体力を取り戻し、幸いにも回復の方向へ向かっています。しかし、根治手術ではない今回の手術に、治癒という退院はありません。一旦、普通の生活にもどって、次に悪くなるまで家族と暮らせる。そんな、「退院」です。 それでも、待ち遠しい日です。いつかいつかと祈っていますが、なかなかビリルビンの値が下がりません。尚ちゃんは、順調に経過し、結局ユーゴンより先に退院しました。 しかしついにユーゴンにも念願の日がやってきました。 10月29日。退院しました。
ユーゴンの命を助けてくれた先生ありがとう 励まして、笑わせてくれた看護婦さんありがとう 洗濯機の100円玉をかしてくれた隣の部屋の奥さんありがとう 手作り弁当を差し入れてくれた親戚のみなさんありがとう 遠くまお見舞いにできてくれた友達ありがとう 廊下ですれちがうとニコッと笑ってくれた事務員さんありがとう 会社で子どもの様子を気遣ってくれたみんなありがとう お兄ちゃんを保育園に送り迎えしてくれたおじいちゃんおばあちゃんありがとう
2ヶ月に及んだ入院生活で、いろんな「ありがとう」をユーゴンくんが経験させてくれました。たくさんのやさしい人とのふれあいをユーゴンくんが経験させてくれました。 明日から、待ちにまった家族との日常生活がはじまります。 次号へつづく... |
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第4回:ユーゴンと みんなと 大切な日々 家族との生活 現在まで(平成7年12月〜平成9年7月) 大きな手術を乗り越えて帰ってきたユーゴンは、家族皆に温かく迎えられました。家族8人の感心は全てユーゴンに注がれ、いちやく我が家の王子様です。最初のうちは、抱っこのしかたや、ミルクの飲ませかた等がわからずてんやわんやの状態です。
そんな家族の心配をよそに、ユーゴンは元気よく笑いみんなの心配を吹き飛ばすかのようでした。特にお兄ちゃんはうれしくて仕方がないようで、小さな腕でユーゴンを斜めに抱っこして、「ゴロン」と落としたり、お腹を触ったりと思わず「やめて!」と叫びたくなるような行動ばかりして皆からいつも監視されていました。 先生からは普通の赤ちゃんと同じように接して大丈夫ですと言われていたのですが、やはり心配です。びくびくしながらの、生活がはじまりました。 帰ってきて間もない、11月23日ユーゴンは熱を出しました。熱を出すという事は、胆管炎の疑いがあり、これにより、流れ出ている胆汁がとまり、せっかくつないだ胆道が再閉塞してしまうことになります。また、同じ手術をするか、移植をするかの道を歩む事になります。これからは、いかに「熱」を出さないかが、最大の感心事になるのです。 軽い胆管炎でしたので、最初お世話になったT病院に入院する事になりました。顔なじみの看護婦さんも、ユーゴンのことをちゃんと覚えていてくださり、とても心強く思いました。しかし、せっかく京大病院から退院した直後です。わかってはいるものの、またか...という思いでとてもつらく暗い気持ちになってしまいます。今度は、病院も近くなので、会社が終わったら、毎日顔を見に行きました。 入院すると、点滴がつながれ、自由に動く事が困難になります。抱っこが大好きな時期ですので、お母さんに立って抱っこして欲しいのですが、この点滴のチューブが短いためうまく出来ません。できたとしても、あちこち動き回る事が出来ないので、欲求不満になって、ビービーなく日が続きました。 病状としては目に見えるような悪化はないのですが、ビリルビン値が上昇してしまい、いっこうに下がらないので、結局あれよあれよという間に1ヶ月経過してしまいました。 その間、私の初めての海外出張がありました。以前から、機会があれば一度行ってみたいと思っていましたがこういう状況では、全く乗り気がしません。何度か、断ろうとしましたが、3日程度の短い出張なので、断る理由も見つからず、結局行くはめになってしまいました。なれない海外での仕事で、あっというまに時間も経ちましたが、ホテルの部屋に戻った時の、あの孤独感はなんとも妙なものです。 病院のベッドにユーゴンと、妻がちょこんと座っている姿が頭に浮かび、心配でたまらなくなります。電話をしたら、すぐにでも話せるのですが、やはり、遠く離れた距離がそういう気分にさせるのでしょうか。一日目の夜から早く帰りたくて、仕事どころではありません。 なんとか、無事仕事を終えて、日本に帰ったその日は、まっすぐに病院に寄りました。駅から病室まで一気に駆け足できたため、ハアハア息を切らしている私に、看護婦さんからもらった赤いクリスマスの三角帽子をかぶったユーゴンが笑顔で迎えてくれました。 どうにか、クリスマスイブには、退院でき家族でクリスマスケーキを食べる事が出来ました。サンタさんがくれた最高のクリスマスプレゼントになりました。
やれやれと安心したのもつかの間、また2月に入院しました。結局この原稿を書いている平成9年11月までに、合計8回の入退院を繰り返しました。その度に、入院の準備もてきぱきと出来るようになり、妻は自称「入院のプロ」と、ふざける余裕すら出来てきました。幸い、先生の適切な処置により、大きく悪化することなく、どの入院も長くて2週間程度のもので済んでいます。しかし、今年の春より徐々に上がりかけた、ビリルビン値は下がる事なく、常に3から4台をキープするようになってしまいました。目には見えませんが、確実にユーゴンの肝臓がむしばまれていくのを思うと日常の生活の中で、ふと急にやりきれない気分になります。 何とかしなければならないのに、どうしようもないもどかしさと、不安と、自分自身が今どうあるべきかを考えると、いても立ってもいられないのです。「来年の今ごろは、ユーゴンはどうしているのだろうか」とか、ユーゴンとの些細なふれあいのこの瞬間が、かけがえのないものであることを考えています。そして、いつのまにかボーとして、ユーゴンをぼんやりみている自分にハッと気付く事がよくありました。 気持ちに変化 人生観(大袈裟かな?)が変わってきたのはこの頃からだとおもいます。人生の価値について、誰もがいろいろと考えていると思います。お金であったり、自分自身の趣味のことであったり、仕事であったり、様々です。でもこのころの私たちには、ユーゴンが元気でいてくれ、家族4人が食事を共にすること、一緒にお風呂に入れる事、枕を並べて寝られることが、唯一の幸せだと感じる事ができました。誰にともなく、「今日も一日ありがとうございました」と、感謝したくなります。それは、京大病院に入院中から毎朝の日課になっていた、家の前にあるお地蔵さん参りの影響かもしれません。 毎日何かの不満を感じながら、それを誰かのせいにしたり、くよくよして落ち込んだり。そういったいままで当たり前に思ってきた、日常の感情が確実に変化してきたのです。 もちろん、そうはいっても、急に聖人になったわけでもなく、今でも、夫婦喧嘩もしますし、物欲も、不満もいっぱいあります。でも、最終的に全てのことが「ユーゴン」に、集約されてしまうのです。「ユーゴン」の前には、こういったことがほんの些細なことなのです。最近それが素直に認められるようになり、妻とも、照れることなくごく普通にそういう話ができるようになったのです。 おめでとう1才だよ ユーゴンの1才の誕生日は、特別な感慨がありました。正直にいえば「よく1才まで生きてこられたな...」です。 胆道閉鎖症とわかった時は、もうこの子はすぐに死んでしまうのだと思い、何度も眠れぬ夜を過ごした事がすでに過去の思い出になろうとしているのです。ユーゴン誕生から、激動の日々の連続でした。1年間の感覚が今までの人生とはまったく違います。短いようで長いようでとても不思議な一年間でした。 この日は、双方のおじいちゃんおばあちゃんも参加して誕生会を催しました。妻が久しぶりに腕をふるったケーキも登場し、すばらしい誕生会になりました。お兄ちゃんの真似をしてケーキのローソクを一生懸命に吹き消そうとするユーゴンの姿にはっきりと力強いものを感じ、今後のユーゴンの「成長」というものに初めて楽しみを覚えた日でした。 ユーゴンとはじめてのお出かけ ユーゴンの、遊び場所は、家の中がほとんどです。元気なのですが、どうしても発熱が気になり、外に連れ出せません。下手に風邪を引かせるとまた入院が待っているからです。 ユーゴンにとっての初めてのお出かけは1才3ヶ月にしてはじめてかないました。平成8年10月、敦賀市運動公園です。家から40分程度の近くですが、ユーゴンにとって待ちに待った日帰り旅行です。 すばらしい秋晴れの下、緑の芝生の上で思いっきり遊んでいるユーゴンをビデオにたくさん撮りました。今まで、ユーゴンは病院のベッドの上や家の中だけでしか見たことがありません。ビデオのファインダーの中で自由奔放に飛び回るユーゴンはまるで水を得た魚のようです。たくさんの子供たちや、大人が外で遊んでいる姿が珍しかったのでしょう。いままでの遊べなかった空白を取り戻すかのように、見るもの全てに興味を示し、ちょこちょこと拙い足取りで歩き回りました。 お兄ちゃんも大喜びで、ユーゴンの病気のためにどこへも連れていってもらえなかった不満を一気に解消出来たようでした。ユーゴンと一緒になって駆け回り、ユーゴンが転ぶと「だいじょうぶ?」と言って駆け寄る。そんなお兄ちゃんとしての一面も垣間見え、また自分の遊び相手としてのユーゴンがいる事を実感した一日だと思います。悲しみや失望を経て迎えられたこの日は我が家のかけがえのない思い出の1ページになりました。
ユーゴンとみんなと大切な日々 この連載も、今回で終わりです。素人が初めて書いた連載をここまで読んでいただき本当にありがとうございました。冒頭にも書いたように、もっとつらい経験をされている方はたくさんおられます。そういう人に対して私たちのような者がこんな機会を与えていただき、申し訳ないような気持ちも持っております。しかし、少しでも、難病の患者を持つ家族の生活の一端がわかっていただけたら幸いです。 この原稿を書いている今、ユーゴンは2才5ヶ月になります。京大入院当時の、ひ弱なユーゴンはもはやなく、丸々とした、元気なわんぱく小僧です。脾臓が腫れて、お腹がポコンとでっぱっている以外は、普通の子どもと変わりません。病気のため、甘やかせすぎたのか、少々わがままでその上泣き虫で心配しています。それでも、最近はウルトラマン役のお兄ちゃんに、怪獣ユウゴンは果敢に挑んで、たおされても泣きながらまた戦っています。頼もしい限りです。 来年小学1年生になるお兄ちゃんも、ユーゴンのことをとても大事にしてくれ、ユーゴンを守るのは自分だと思っています。大きくなったら、お医者さんになるとも言っています。おそらく、何度もユーゴンの入院を目の当たりに経験したからでしょう。 私は、来るべき生体肝移植にむけて、体調を整えておいます。脂肪肝なので、適度な運動と、食事療法、それとアルコールは一切控える事にしています。移植の手術に対する恐怖感はありません。 先日、2ヶ月後に移植手術をするお父さんと話す機会がありました。冷静に、その時のために何かと準備していることや、病院での先生方とのコミュニケーションについて、話を伺いました。そう遠くない将来、自分にも関わる事なので、人の話を聞くのは安心感につながります。 そこで思うことは、やはり私たちにとって大切なのは、病院とどのようにしてつきあっていくかという事です。患者にとって、医療とはわからない事ばかりです。お互いが情報のキャッチボールをしながら、安心し納得した上で、ひとつひとつステップをあがっていきたいと思います。 特にお世話になるのが、最も接する機会の多い看護婦さんだと思います。幸い、私たちは今まですばらしい看護婦さんに出会う事ができ、どれほど救われたかわかりません。本当にありがたい事です。 また、先日、臓器移植法が施行されました。これからは病院の対応も今まで以上にシビアになってくるのでしょう。同時に、看護婦さんに要求されることも、もっと高度になるかもしれません。でも、基本は明るく楽しい看護婦さんです。どうか、これからもユーゴンと私たちをよろしくお願いします。 私たちも、ユーゴンやみんなとの大切な日々を肩の力を抜きながら、楽しく過ごしていこうと思っています。この先、大変な試練が待ちうけていると思いますが、もう悲しんだりしません。なぜなら、苦しいのは私たちだけではないし、この世界にも心やさしい人たちがたくさんいる事を知ったからです。そして、それは、いつのまにかユーゴンが私たちに与えてくれた希望なのです。 終 平成9年11月 |