東京Days

 2001年4月から2007年1月までは、平井史の中では「失われた6年」と呼ばれている東京生活時代。とても1部上場企業に勤務しているとは思えない、独創的な生活スタイルだった。社内では有数の変な奴と思われていたに違いない。

 ※ このページは書きかけです。


■住まい

 新宿区にこんなボロ家があるのかという木造2階建てアパートの一室。最寄駅は、大久保駅まで徒歩10分、東中野駅まで徒歩7分という好立地。大久保駅とは新宿駅の隣の駅で、電車に乗れば2分で到着という交通至便の立地である。新宿駅から家までも徒歩30分で帰れるというタクシー要らずな生活をしていた。

 都心にありながら破格の家賃設定で、家賃が27,000円、共益費が3,000円(後に4,000円に値上げ)である。アパートの隣に建っている大家の爺さんの家に、毎月、手渡しで支払うというレトロなシステムが採られていた。

 アパート名は警大荘。大家の爺さん(推定70歳?)が、その昔、警官だったため、このネーミングになったと聞かされたことがある。部屋番号は「2-ぬ」。「2」とは2階の意味。「ぬ」とはい・ろ・は・に・ほ・へ・と・ち・り・ぬの「ぬ」で、2階に10部屋あるうちの一番端っこの部屋。すでにこの時点で、どういう生活を送っていたか、だいたい想像も難しくない

 4畳半の1間で、入り口のところに流しがちょこっと付いている。当然、トイレ共同で、風呂はなし。銭湯通いの毎日を送っていた。イメージとしては、売れない若手芸人がバイしながら生活しているような、そんな感じ。当時、銭金(銭形金太郎)という深夜番組で、今日の貧乏さんを紹介していたが、その貧乏さんの家よりも我が家の方が大抵グレードが低かった

■銭湯

 引っ越した初日にしたことは、ジョギングついでに走っての銭湯探し。家の近くには、柏湯しかないのだけれど、走り出して数分後に最短距離で行き着くというラッキーを見せた。

 毎日、この銭湯に通っており、回数券を使って1回380円と、結構なお値段。家から徒歩5分と近く便利であった。広いお風呂に入れるという点では健康によく、トレーニングで日常的に走っている身にはありがたかった。

 柏湯は夜12時までしか営業していなかったので、残業で遅くなってもこの時間には帰れるように心がけていて、忙しいときには一旦帰って銭湯に行って、未明の3時に歩いて出勤することもあった。会社まで歩いて30分くらいで行けるのでここでもタクシー要らずだった。

 柏湯は水曜が定休日だったので、ちょっと遠めの天神湯に遠征。15分くらい歩くので、冬は湯冷めとの戦いであった。天神湯は湯船も狭く、熱々の温度設定だったので、全然好きにはなれなかった。

 ある期間に、柏湯では水虫が流行っており、足ふきマットを媒介して、利用者に蔓延していた。もちろん、僕にも感染しており、一時期、水虫薬が愛用品になっていた。柏湯の常連さんには、わけのわからんボロボロのお爺も多く、こいつらの誰かが持ち込んで放置しているのかと思うと、怒りが高まる一件であった

■冷暖房

 アパートには当然のことのようにエアコンはなく、夏は灼熱、冬は厳寒の毎日を送っていた。真夏にジョギングをした後は、汗が全然引かずに、ボタボタと滴り落ちていたことが印象的

 1年目には、熱帯夜の対策として、昼間の間に洗面器いっぱいの水を冷凍庫で凍らせておいて、夜に部屋の端っこに置いておく方法を取っていた。動物園の動物にプレゼントされる氷柱をヒントにして考え出した方法である。朝になると、氷が全て溶けて水になっており、いったいどれだけ暑いんだと驚いていた。氷柱効果はあまり実感はできず、いかほどの効果があったのかは未だに疑問である。

 数年後のある夜、あまりに寝付けず、未明にアパートを飛び出し、24時間営業の新宿のドンキホーテに駆け込んで、扇風機を衝動買い。そのまま抱えて帰宅し、文明の力をゲットした。 暑い空気をただかき回しているだけという側面もあったが、一歩前進した。部屋には風が通らないので、あまりに熱せられた空気を入れ替えるために、窓から外に向かって扇風機の強にして、空気の排出を試みたこともあった。

 冬の主な暖房設備は布団だった。 パソコンに向かっているときも、上にはコートを着て、足には布団を掛けるという生活だった。日曜に、寒すぎて動き出す元気が沸かず、銭湯が開く午後3時まで待って、まず銭湯に入って体を温めてから、その日の活動を開始することもあった。動き出したときには既に夕方である。

 暖房についても、ドンキホーテで文明の力をゲットした。もう東京の冬を4・5回かは越えた頃、ガスヒーターを購入した。部屋の電気は、コンセントが1箇所、全部で10アンペアまでという制限で、暖房はあきらめていたのだが、ガスの口は余分にあり、これを上手く活用して、我が家でも冬に凍えないですむようになった。

■洗濯

 アパートの1階に共同の洗濯機が設置されており、1回100円だった。住民の多さの割りに1台しかないので、使いたいときに使えず、また音の問題から、利用時間は夜10時までというルールだったので、どんどん洗濯物が溜まっていく始末だった。洗濯し終わっているのに、衣類を取り出さず放置する奴がたまにおり、その時が特に怒りが高まる瞬間であった

 そうはいっても明日の着るYシャツがないとかでは困るので、緊急の場合は銭湯に設置されているコインランドリーを利用していた。柏湯にも天神湯にもあり、1回150円であった。洗濯籠を抱えて神田川近くの銭湯にいくという、まさに昭和の時代のような生活である

 アパートの洗濯機の電源のコンセントが抜けており、入れた100円が無効になるという泣き寝入りも何回か経験し、お金を入れる前にはちゃんとチェックする習慣がついていた。ある時は、洗剤も入れた後に故障していることが判明し、泣く泣く洗剤まみれのまま、洗濯籠に戻し、水曜だったため、遠くの天神湯まで持っていくという苦行を味わったこともある。

■電話

 東京に行った当初、ケイタイを持っていた。ということで、家に固定電話を引くのもムダやなと思い、引いていなかった。そのため、ネット環境がなく、我が家のパソコンはネット接続できない、スタンドアローンとなっていた。

 ネットなしでは、何の情報も入ってこず、当時していたオリエンテーリングの日程もわからないままなので、休日のお決まりの過ごし方として、マンガ喫茶にいってネットを使うという週1ネット生活を送っていた。

 数年後、あまりに不便ということで、固定電話の回線を格安で購入し、ネット生活を確保した。その代償としてケイタイを解約したので、その後はケイタイ難民として、ケイタイには縛られない生活を送っていた。おかげで草野球の緊急の中止の連絡が僕だけで伝わらず、1時間掛けて横浜の現地まで行って、中止を知るという悲劇もちょくちょく起こった。

 東京生活の晩年期には、ケイタイも再ゲットして、ネットもケイタイも使えるという文明人生活を満喫していた。行きつけだったマンガ喫茶にも最後はほとんど行かなくなってしまい、それはそれで、大切な居場所を失った気がして寂しい気もした

■自転車

 東京時代には自転車を持っていなかった。アパートに置く場所がなく、持てないという理由からであった。当然、車も持っていなかった。基本的に、当然のこととして徒歩で生活していた

 配達証明で届いた郵便を、不在で郵便局まで取りにいかないといけないことが何度かあった。最寄の郵便局ではなく、ちょっと遠めのしかも普段の生活圏からは外れている郵便局に行かねばならず、片道30分掛けて取りにいくという辛さも味わった

 コンビニ、スーパー、銭湯がまあまあ近くになり、駅も近かったため、自転車に頼らない生活が成り立っていたんだと思う。


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