酒の杯を置いた。
さすが京の美酒だ。澄んだ味わいは、喉越しも涼やかだった。
だが、今夜は全く酔えない。
いつも酔客を厭う土方だったが、今夜はいっそ酔ってしまいたかった。
「……」
視線を、部屋の中に流した。
先程まで、総司がそこにいたのだ。この世の誰よりも愛しい若者が。
だが、総司が楽しげに話していたのは、娘の話だった。それも、最近、総司と恋仲だと噂されている小町娘だ。
堪らず、娶るつもりかと訊ねた土方に、頬を染めた総司の顔が思い出された。
はにかむように微笑んでいたその愛らしい顔。
小町娘などより、余程綺麗だった。
幼い頃から、大事に大切に、ずっと見つめてきたのだ。守ってきたのだ。
狂おしいほど愛しい総司。
優しい兄代りを演じながら、総司への激しい想いを胸に滾らせていた。
いっそ奪い去り、男の力でねじ伏せてしまいたい程、愛していたのだ。
なのに、おまえは妻を娶るというのか。
他の者を選ぶのか。
理不尽な怒りだとわかっていながら、どうにも己の感情を抑えきれなかった。
総司が部屋を辞してからも、しばらくの間、仕事に手がつかなかった。結局、酒に手をのばしてみたのだが、それでも酔えない。
「……」
いつまでも公の副長室にいる訳にもいかず、土方は立ち上がった。自室へ戻り、眠ろうと思ったのだ。
だが、その足が向ったのは、自室ではなかった。
無意識のうちに、総司の部屋へ辿りついてしまったのだ。
総司はもうとっくの昔に眠っているらしく、部屋は静まりかえっていた。明かりも落とされている。
土方は障子に手をかけると、静かに開いた。その目に、褥に横たわる総司が映る。
後ろ手に閉め、部屋を横切った。音をたてぬよう気をつけ、跪く。
見下ろすと、総司はぐっすり眠っているようだった。昔から、総司の眠りは子どものように深い。
それは、京に上ってからも変わっていなかった。
「……」
土方は目を細めた。たまらぬほどの愛しさが込みあげた。
それと同時に、狂おしい独占欲と執着も。
これは、俺のものだと思った。
俺のものであるはずなのに、どうして、奪いとられるのか。
それぐらいなら、いっそ───
(殺してしまおうか)
ゆっくりと手をのばした。鼓動が早くなり、頭の奥が熱くなる。
本気で殺そうと思った。手に入らないのなら、いっそ殺めてしまった方がいい。
そうだ。
俺のものにならぬなら……。
「……っ」
唇を噛んだ。
あどけない寝顔に、激しい衝動が突き上げる。
「……総司」
低い声で、囁いた。
愛しい、殺してしまいたいほど愛しい存在。
こんなにも愛しているのに、どうして、おまえは俺のものにならないのか。
土方は目を伏せ、その指さきで白い頬にふれた。なめらかな頬。それが心地よくて愛しくて、思わずそっと撫でた。
微かなぬくもりと、柔らかな感触。
生きている証。
「──」
固く瞼を閉ざした。
殺せるはずがないのだ。奪われても、失っても。
どんな事があっても、総司を殺すことなど出来るはずがなかった。それぐらいなら、己を殺めた方がましだった。
(総司……愛してる)
土方は身をかがめ、総司の唇に、そっと口づけた。
唇を重ねるだけの口づけ。
だが、それは彼にとって、誓いの口づけだった。
これからも、ずっといつまでも。
総司を愛しつづけると、そう胸に誓うための───
土方は何度か啄むような口づけをあたえてから、もう一度だけ総司の頬を撫でた。そして、ゆっくりと立ち上がった。
部屋を横切ると障子を押し開き、出てゆく。
縁側に出た処で、冷たい冬の月を見上げた。凍えそうな月だと思った。
まるで、今の己の心のように。
「……」
踵を返し、土方は自室へと歩き出した。その時、総司の声が微かに彼の名を呼んだ気がしたが、ふり返らなかった。
そんな事は、あるはずがないのだ。あってはならない事だった。
(明日から、俺はまた仮面を被りつづける)
優しい兄代りという仮面を、被りつづける。演じつづける。
それが、いつ粉々に砕け散ってしまうのか。
兄弟でも、友人でも、恋人でもない。
危うい均衡の上に成り立った今の関係が壊れる瞬間を、息をひそめるようにして見つめながら。
土方は目を伏せると、己を自嘲するように低く嗤った……。
