総司はゆっくりと歩いていた。
見上げれば、青い空が広がっている。もう日も高くのぼり、昼を回ろうとしていた。
大津を抜けて江戸へ向おうと思っていた。もっとも、たいした路銀は持っていない。昨夜もち出した銭しか身につけていなかった。だが、それでも、屯所へ戻ろうとは思わなかった。
(……土方さん……)
既に、土方は総司の事に気づいただろう。
今頃、どれ程怒っているか、傷ついているかと思えば、胸が苦しくなった。
また裏切ったのだ。
愛してると告げながら、彼のもとから逃げ出した。そんな総司を、彼はいったいどう思っているか。
裏切られたと怒りに燃え、殺意さえ覚えているのかもしれないと思った。否、それも当然なのだ。
隊を脱するものは許さず。
あの隊規に照らせば、殺されても仕方がない。土方の手で殺されるならいいが、そうでない事は明らかだった。今、新撰組は伊東一派のために不安定であり、とても難しい時だ。そんな中での幹部の脱走。
見せしめに連れ戻され、処刑されるかもしれないと思った。
(私は……それを望んでいるのだろうか)
そんな事になれば、より深く土方を傷つけるとわかっていながら、逃げ出してしまった己の弱さを、総司はふと憎みたくなった。
どうして、もっと強くあれないのか。苦界にありながら幸せを掴んだ、あの小紫のように。
総司は、今朝の事を思いだした。
朝というより、まだ夜明け前だった。
大切な宝物のように抱きしめてくれている土方の腕の中から抜け出すのは、容易なことではなかった。彼の腕の強さ故だけではない。総司の躯も心も、離れたくないと悲鳴をあげていた。
愛しい男のぬくもりが、どれ程、総司の心を甘くとろかせたか。
だが、それでも、総司には自信も勇気もなかった。土方の将来までも犠牲にし、地獄の中を共に生きてゆく自信など、何処にもなかったのだ。
共に堕ちてくれ──と。
彼は云った。
だが、そんな事許されるはずもなかった。こんな自分のために、彼がその身を投げ捨て堕ちるなど、許されるはずもない。
恋はいつかは終るのだ。
永遠など、何処にもないのだ。
(土方さん……)
京を離れる際、一望できる小高い山の上に立ち、総司は見下ろした。
様々な思い出が胸に去来し、涙があふれそうになる。だが、それを総司は堪えた。今は泣いている場合ではなかったし、いずれ追ってくる土方から逃れるため、一刻も早くこの地を離れるべきだった。
逃げなければならないのだ。
愛しい愛しい男から。
その皮肉さにほろ苦い笑みをうかべつつ、総司は踵を返した。
ゆっくりと歩き出してゆく。
柔らかな髪を、朝の風がさらさらと吹き乱していった。
屯所へ戻ってみたが、やはり、そこに総司の姿はなかった。
一度帰営する事もせず、そのまま京を出たらしい。
それを知った土方は、すぐさま近藤の部屋に向った。近藤は昨日あのまま休息所へ向い、そこから朝早く帰営していたのだ。
「……総司が?」
部屋へ入るなり事の次第を話した土方に、近藤は厳つい顔を強ばらせた。
「それは、間違いないのか」
「あぁ」
土方は頷いた。
「だが、これが隊内に知れれば事になる。とりあえず、出張という事にしておいてくれ」
「……」
口早にそう云いきった土方に、近藤は目を細めた。しばらく黙っていたが、やがて、背を返そうとした友に呼びかけた。
「歳」
「何だ」
一刻も早く総司を追いたいと、気が急いている土方はぶっきらぼうな口調で答えた。
それに、近藤は云った。
「昨夜、おれは総司に許した」
「……え?」
土方は驚き、ふり返った。それに、近藤はゆっくりと云った。
「総司に、江戸へ帰る事を許したと云ったのだ」
「! 近藤さん、あんた……」
「だから、脱走にはならん。おれが了解した上での話だ」
「……」
土方は剣呑なまなざしを近藤に向けた。低い声で、問いかける。
「近藤さん、あんたは何が云いたいんだ」
「歳」
「総司を逃がしてやれ、と云うのか。そんな事、許せるはずがねぇだろう」
「なら、追うのか。追いかけて連れ戻すのか」
「知れた事だ」
荒々しい、吐き捨てるような口調だった。いつも副長として見せている冷静沈着さなど、かなぐり捨ててしまっている。
「絶対に連れ戻す」
「本気なのか」
「あたり前だろう! 俺は総司を愛している、あいつを失うつもりなんざ毛頭ねぇよ」
「なら……」
近藤は歩みより、土方の肩を掴んだ。じっとその顔を覗き込み、低い声で云い聞かせる。
「本気で連れ戻せ。躯だけを連れて戻るな」
「……」
土方は眉を顰め、友人を見返した。
「……どういう意味だ」
「言葉のままだ」
「だから」
「躯だけではなく、心も連れ戻せという事だ」
「……」
無言のまま見返した土方に、近藤は静かな声で言葉をつづけた。
「無理やり躯だけを連れ戻しても、総司自身は手に入らん。本当に、あいつの事を大切に思っているのなら、心も連れ戻してやれ」
しばらくの間、土方は黙っていた。だが、やがて微かに嘆息すると、低い声で答えた。
「……わかった」
一言だけ返し、さっさと踵を返してしまう。
一刻も早くと気が急くあまり足早になる男の背に、迷いはなかった。ただ、強い意志だけが感じられる。
それを見送った近藤は、祈るように固く瞼を閉ざした。
大津より少し手前の宿だった。
一日歩き通した総司だったが、病身のため無理も出来ず、ここに宿をとる事にした。
その宿を、夜明け前に発った。気がたっていたためか、早くに目が覚めてしまったのだ。
宿を発った総司は、粉雪が降り舞う薄闇の中、一人歩きつづけた。
大津へ通じる道は昼間ならば人通りも多いだろうが、さすがに夜明け前となると人気もなかった。
そこを恐れる事なく、歩いてゆく。
「……」
総司はふと立ち止まり、空を見上げた。雪はもう止んでいる。
まもなく陽が昇ろうとしていた。夜明けだ。
左手──雑木林の向こうに、きらきら輝くものを見つけた。訝しげに小首をかしげる。
湖までは未だ至っていないはずだった。
「……何だろう」
しばらく考えてから、雑木林の中へ歩み入った。薄暗い雑木林だ。地面を這う根で足をとられ、何度も転びそうになった。
だが、それでも総司は歩きつづけた。何故だか、引き返す気にはなれなかったのだ。
林を抜けた瞬間だった。
ぱっと目の前が開け、総司はそこへ飛び込んだ。息を呑む。
「!」
白一色の世界だった。
どこまでも続く雪野原が広がっていたのだ。まっ白な雪は朝陽をあびてきらきら輝き、眩しいほどだった。
向こうの方を兎が駆けてゆくのが見えたが、人の姿は全くなかった。足跡一つ残されていない。
「……綺麗……」
しんと静まりかえった世界の中、総司はそっと呟いた。大声を出してはいけない気がしたのだ。
神々しいほどの静寂だった。
不思議な感覚に襲われた。
まっ白な雪と夜明けの空だけにみたされた世界に、総司は一人佇んだ。
冷たい朝の空気が心地よい。寒さで指さきまで凍りそうだったが、それでも、気持ちがいいと思った。
躯の中の色々なものが洗い流されてゆくようだ。
辛いことも悲しいことも、気負いも、怒りも嫉妬も憎しみも。
いやなものが、少しずつ洗い流されてゆく。
そして、ただ一つだけのものが残るのを感じた。
大切な想いだけが。
(あの人を愛している……)
総司は雪野原に佇んだまま、そっと両手を組みあわせた。胸に押しあてる。
この胸の奥にある命のような想いは、きっといつまでも消える事はないのだ。
もう二度と逢えなくても、命絶えても。
それでも、あの人を愛してるという想いだけは生きつづける。
私の中に、いつまでも。
その事が例えようもなく嬉しかった。幸せだった。
苦しんで泣いて傷ついて、でも、あの人を愛することができたのは、本当に幸せだったから。
総司はゆっくりと顔をあげた。
そうして、静かに雪野原の中へ歩きだそうとする。
その瞬間だった。
「!」
不意に足音と気配が迫ったかと思うと、片腕を掴まれた。そのまま乱暴に後ろから抱きすくめられる。
総司は目を見開いた。
突然の出来事に息がとまる。だが、すぐわかった。
自分を抱きしめる腕に、耳もとにふれる息づかいに。
「……土方…さん……っ」
その名を呼んだとたん、より強く抱きしめられた。
離さないとばかりに抱きしめ、その首筋に顔をうずめている彼。雪に濡れた男の前髪が頬にふれた。
「手間ばかり…かけさせやがって……っ」
余程急いできたのか、土方の息づかいは荒かった。馬を飛ばして来たのだろう。
「こんな事、許すかよ! 俺から逃げるなど…絶対に許さない……っ」
「……っ」
声が出なかった。
嬉しくて、切なくて。
望んだ事ではなかったが、彼が追ってきてくれた、それがたまらなく嬉しかった。
だが、突き放さなければならないのだ。
彼を愛しているのなら、尚のこと。
「……離して下さい」
自分でも信じられないぐらい、冷たい声が唇からもれた。
「許さないなんて、あなたに云われる事じゃない」
「総司」
「離して……!」
一気に身を捩った。
土方の腕から抜け出し、勢いよく走り出す。
だが、それはほんの少しの事だった。あっと思った時には天と地がぐるりと回り、雪の中に倒れ込んでしまっている。
見上げると、空を背にした土方が見下ろしていた。腕を掴まれ、雪の上に組み伏せられた総司は、もう身動き一つできない。
それでも、渾身の力で暴れ、叫んだ。
「離してッ! 離し……」
「誰が離すかっ!」
不意に、土方が一喝した。聞いた事もない、物凄い声だった。
それに驚き、びくりと目を見開く。
土方は総司の手を痛いほど掴んだまま、荒々しく吐き捨てた。
「誰が離すか、おまえを離してたまるものか。おまえは俺のものだ……俺だけのものなんだ。逃げるなど、絶対に許さない」
「そん…な……そんなの……っ」
総司はきつい瞳で彼を睨みつけた。
「土方さんに云われる事じゃないでしょう!? 私の意志だって、あるんだから。私は、江戸へ帰るのです」
「成程……」
土方は、唇の端をあげた。
「まともな路銀も持たずにか」
「……」
黙り込んだ総司を、土方は真っ直ぐ見つめた。
形のよい眉は寄せられ、黒い瞳は鋭い光をおびている。雪に濡れた黒髪が額に乱れるさまが、総司の目をひいた。
土方は顔を近づけ、低い声で云った。
「路銀も持たず、何が江戸へ帰るだ。おまえ、野たれ死にするつもりだったのか」
「……だっ…て……」
もう我慢できなかった。
ずっとずっと堪え、必死に装ってきた偽りが、もう剥がれ落ちかけていた。気負いも我慢も、何もかもが崩れてゆく。
気がつけば、叫んでいた。
「その通りだもの! 私、死んでも構わないと思った! 江戸へ帰りたいなんて嘘だったから、ただ、あなたから離れたかったから……っ」
「……俺から?」
土方の目が一瞬、見開かれた。その後、端正な顔が苦痛に歪んだ。
短い沈黙の後、問いかける。
「おまえ、あれは嘘だったのか。昨夜、俺に云った事は……」
「嘘なんかじゃない! そうじゃなくて、私は土方さんが好きだから、愛しているから」
「なら、どうして」
「あなたに相応しくないの。こんな私は、土方さんの前から消し去るべきなの……っ」
「──」
一瞬、土方が強く息を吸い込んだ。信じられない事を聞いたとばかり、愕然とした表情で総司を見つめている。
その前で、総司はもう半ば泣き出していた。土方に組み伏せられたまま、泣き声で何もかも告げる。
「本当の私は……こんなに弱い。いつか、あなたに捨てられたら、こんな私だもの、きっとその日が来るはずと、愛してくれるあなたからずっと逃げつづけて……本当に弱くてみっともなくて。その上、病になってしまった私なんか、もう……あなたの傍にいられるはずがない……っ」
「総司……」
土方の眉が苦しげに寄せられた。掴んでいた総司の手を離し、そっと痛ましげに撫でてくれる。
その優しさがかえって辛く、総司は唇を噛んだ。それでも嗚咽はもれる。
「土方さん、あなたを……守りたい支えたいと思って、ずっと剣術に励んできたのに……っ」
「……」
「それさえ……出来なくなる、いつか…何の役にも、たたなくなる。だから、死にたいと……死んでしまいたいと思ったのです……」
「……」
しばらくの間、土方は黙っていた。だが、やがて、ゆっくりと総司の背に手をまわすと、柔らかく抱きおこした。
雪の上に坐り込み、髪や着物についた雪をはらってやる。そして、黙ったままされるがままになっている総司を、そっと静かに抱きしめた。
苦しげな声が耳もとにふれた。
「……どうして、死のうなんて思うんだ」
「土方さん……」
「おまえ……雪に消えちまいそうだ」
土方は身をおこし、総司の頬を掌で包みこんだ。躊躇いがちにふれ、そっと指さきで撫でる。
男にしては長い睫毛が瞬き、濡れたような漆黒の瞳が総司を見つめた。
「おまえを追ってきて、この雪野原でおまえを見つけた時……身動きできなかった。すげぇ綺麗で儚くて、ふれる事を躊躇った。けど、おまえを失いたくなかった。今にも、雪の中に消えてしまいそうで……」
「……」
「どうして、俺と一緒に生きようと思わねぇんだ。命を捨ててもいいぐらい好いてくれてるなら、何故、俺と共に生きようとしない」
「だって……私は……」
「俺はおまえを愛している。おまえが傍にいてくれたらいいんだ。おまえが……俺の傍で笑いかけてくれたら、それだけで俺は強くなれる。何があっても、戦ってゆこうと思えるんだ」
「でも……っ」
総司は、男の腕の中で、ゆるく首をふった。
「私は、あなたを貶めたくないのです」
「……貶める?」
「こんな病もちの私を置いていたら、あなたが非難される。それも恋人だなんて、あなたの立場が悪くなる。あなたが駄目になってしまう……」
「おまえは……っ」
不意に、土方の声が激した。ぐっと肩を掴まれる。
「本当に、俺を何だと思っているんだ!」
驚いて見上げた総司に、土方は激しい口調で云った。
「この俺がそんな事で駄目になるような男だと、本気で思っているのか」
「土方…さん……」
「他人がどう云おうが構やしねぇ。非難されようが何だろうが、俺はおまえを愛している。苦しくても辛くても、どんな地獄がこの先待っていようと、それでも、俺は絶対におまえを手放さない」
目を見開いた総司を、土方は深く澄んだ瞳で見つめた。それは真摯で、激しいまなざしだった。
二人の行く末を予感させるような。
やがて、土方はゆっくりと手をのばし、総司の頬にふれた。指さきで包みこみ、仰向かせる。
間近で見つめたまま、静かに囁いた。
「生きろ、総司」
「……」
総司の目が見開かれた。息を呑み、彼だけを見つめている。
それを見つめ返しながら、土方は言葉をつづけた。
「自ら死のうなんて絶対に思うな。どんなに苦しくても辛くても、それが地獄でも、俺と共に生きるんだ」
「……土方さん……」
「おまえには、俺がいる」
そう云って抱きしめた土方の腕の中、しばらくの間、総司は呆然となっていた。
だが、やがて、涙がこぼれた。嗚咽がこみあげ、すぐさま視界がぼやけてしまう。
痛いぐらいの幸せが信じられなかった。だが、これが本当の事なのだと知ったとたん、涙がとまらなくなった。
子どものように泣きじゃくり、男の背に手をまわしてしがみついた。
だい好きな人だった。
この世の誰よりも、愛しい人。
この人のためなら生きてゆける。
苦しくても辛くても、どんな地獄でも。
私はあなたのためなら、生きてゆける。
たった一つ残った、この想いだけを信じて。
「愛している、総司……」
男の声が耳もとにふれた。それに、何度も何度も頷いた。
涙でうまく答える事ができない。
だが、それでも、懸命に告げた。
「好き…です。土方さん、あなただけを愛してます……」
かき消されそうなほど小さな声だったが、土方にはちゃんと聞こえたようだった。優しく微笑むと、総司の躯を抱きしめてくれる。
「愛している……」
この世の誰よりも愛しい男を感じながら、総司はそっと目を閉じた。
二人がいる世界に、雪がきらきらと眩く輝いた。ゆっくりと陽が天高く昇ってゆく。
眩しいほどの夜明けの光景の中、いつまでも、二人は抱きあっていた。
清らかで美しい此処から、すべてが始まるのだと。
そう、信じて……。
半刻後、雪野原に、二人の足跡だけが残されていた。
まっ白な雪の野原に残されたそれは寄りそい、林の中に消えてゆく。その先にある道は、京へとつづいていた。
やがて、あたたかな陽光が、雪の中にうずもれた花菫の蕾をつつんだ。
凍えた蕾が、ゆっくりと柔らかくとけてゆく。
青空の下、愛らしい花菫が咲きこぼれ、命あふれる春の訪れは、もうすぐそこだった……。
完
[あとがき]
「花菫の咲く頃に」完結です。
このお話は、総司が主人公のようであって、実は、土方さんがメインのお話でした。土方さんが総司と瓜二つの小紫さんに惹かれ、けれど、やはり違うと知り、過ちも犯し、けれど、そこから、己の心に、総司に、力強く真摯に向きあうようになってゆく。その過程を、あれこれ考えながら書かせて頂きました。
今後も、幕末のお話を色々書いてゆきたいなと思っています。そのためにも、宜しければ、この「花菫の咲く頃に」へのご感想を頂けましたら、とても嬉しいです♪ 色々と参考にさせて頂けますし、また、更新への力強い励みとなります。よろしくお願い申し上げます。
最後になりましたが、ラストまでおつきあい下さった方々、本当にありがとうございました♪
