綻びかけた蕾がついた枝に、鶯がとまっていた。
 愛らしくも美しい声を響かせ、道ゆく人々の足をとめさせる。
 総司は門前を箒で掃いていた手をとめ、柔らかな色あいの空を見上げた。
 春、だった。
 総司が新撰組を離れ、一人この京の外れで暮らすようになってから、初めて迎える春だ。
 ようやく一人住まいにも馴れてきた。子どもたちに読み書きを教える、穏やかで静かな日々にも。
 だが、こうして心落ち着くまで、何度も涙したのだ。
 淋しさに、彼への恋しさに、一人泣く夜もあった。
 それでも、決して悔いた事はなかった。己が選んだ道を。
「……土方さん」
 総司は愛しい男の名を呼ぶと、あの日の事を思い出すように、そっと目を閉じた。 












 見てすぐわかった。
 彼女がそうだった。彼女こそが、土方の願いを聞き届けた鹿の化身なのだ。
 柔らかな髪に、深く澄んだ瞳。
 若々しい娘の姿形だが、この存在は、確かに人ではなかった。
「……」
 土方の血に濡れた総司はゆっくりと立ち上がり、彼女と対峙した。
 時は完全にとまっていた。
 雪も、人も、街も、何もかもが時をとめ、しんと静まりかえっている。
 世界中が息をひそめたようだった。
 そんな中、自分だけが動いている事を、総司は不思議に思った。躯の辛さや気怠さがない事も、不思議だった。
 ふと思い当たり、呟いた。
「私は……死んだ……?」
 それに、女はゆっくりと首をふった。
「いいえ」
「なら、私はまだ生きているのですね。土方さんは死んだのに」
「すべて……決まっていたこと」
 女は、土方の亡骸を見下ろした。
 つられ、総司も視線を落とした。とたん、これまでの経緯が蘇った。
 二人悩み苦しんだ日々、思い定めた気持ち。
 そして、先程の出来事も──何もかも。
 突如、躯中の血が逆流するような怒りに襲われた。
「決まっていた事だなんて……!」
 思わず叫んだ。
「あんな結末まで、決まっていたはずがない!」
「そう。でも、彼の死は定めだった」
「あなたは、神なのでしょう? だから、土方さんの願いを聞き届けた」
 そう云った総司に、女は何も云わなかった。じっと総司を見つめている。
 総司は一瞬俯いてから、顔をあげた。まっすぐ女を見据え、云いきった。
「なら、今度は私の願いを聞いて下さい」
「彼に命を返せと?」
「そうです」
「願いには、対価がいる」
「対価なら私の……っ」
 云いかけ、絶句した


 対価なら私の命をさし出すと、云いたかった。
 だが、それは土方が何よりも拒んだ事なのだ。絶対に望むなと云われたこと。
 愛する彼のすべては、死んでも尚、総司を抱きしめていた。
 縛っているのではない。
 深く静かな愛そのままに、そっと守るように抱きしめているのだ。


「……何を」
 しばらく黙った後、低い声で訊ねた。
「何をさし出せば、叶えてくれますか?」
 女は何も云わなかった。それを、まっすぐ睨むように見据えた。
 眦がつりあがり、頬が強ばっているのがわかった。斬りつけるような激しい口調で、云いきった。
「私のすべてを奪われてもいい。だから、お願いします。土方さんを助けて下さい」
「すべてを?」
 女は鋭い口調で問いかけた。
「すべてを奪われても、構わぬと?」
 静かな声だった。
「死ぬより辛いこと。それでも」
「構いません。私にとって、土方さんが死ぬより辛いことはないから」
「なら……存在を」
 ゆっくりと、女は手をのばした。細い指さきが、総司の頬にふれる。
「存在を消そう」
「……それは、死ぬ事では?」
「違う。存在が消える。誰の記憶からも消し去られ、無となる。むろん……この男の中からも」
「──」
 総司は息を呑んだ。


 それは、つまり、忘れ去られるという事なのだ。
 存在自体が、かき消されるという事。
 今まで二人ともに過してきた日々、思い出、はぐくんだ愛情。
 それらを皆、奪いとられる事だった。


「二度と逢う事は出来ない」
 女は静かにつづけた。
「この男に近づき声をかければ、願いは破棄され、この男は命を失う。この男を守るため、二度と逢うことは出来ない」
「……」
「それでも、望むか」
 総司はしばらく黙り込んでいた。だが、やがて、ゆっくりと頷いた。
 顔をあげ、凜とした表情で女を見つめる。
「構いません」
 激しい決意のこもった、静かな声だった。
「この人の命が助かるのなら、この人が生きることが出来るのなら……私は何を失っても構わない」
「……」
 それを聞いた瞬間。
 女は、微かに笑った。
 それは確かに、人のものではない。
 だが、しかし。
 優しく慈しむような笑みだった。














 気がつくと、総司は雪の降り舞う中、一軒の店屋の前に倒れていた。
 そして、老舗の小間物問屋である佐野屋の主人夫婦に助けられ、今日に至っている。
 天のはからいなのか、子どものない年老いた夫婦は、総司をまるで息子のように大切にしてくれた。起き上がれるようになると、すぐさま出ようとしたのだが、何度も引き留められ、結局は、北山にある佐野屋の寮を借りて住まいとする事となった。
 夫婦も店の者たちも皆、総司に本店で暮らすよう勧めたが、それは出来ぬ相談だった。佐野屋は洛中にあり、土方と行き会う事がないとは云いきれなかったからだ。


(もし逢ったとしても、何もありはしないのだけれど……)


 総司は目を伏せ、小さく苦笑した。
 自分から声をかけなければいいのだ。逢いに行かなければいいのだ。
 あの日、女が消える間際、告げた言葉があった。


『もし、この男の方から、おまえを求めたなら、願いは成就され続ける』


 つまり、土方が総司に目をとめ、彼の方から近づいたならば、願いが破棄される事はないというのだ。
 だが、そんな事ありえなかった。
 土方が自分に目をとめる事など、ありえるはずもない。一瞥もせぬまま、通りすぎてゆく事だろう。それは当然の事だった。
 総司が美しい娘ならともかく、男なのだ。
 もともと土方は女遊びの激しい男だった。総司とは子どもの頃からのつきあいだったからこそ、愛情をもってくれたのであり、それは僥倖のようなものだったと、今も思っている。
 なのに、そんな経緯も何もないままに、土方が総司を求めることなどありえなかった。
 彼に一瞥もされない切なさに耐えられなかったからこそ、総司は、洛中から離れた北山の地に居を構えた。離れたと云っても、山の方ではない。洛北と云ってもよい場所だったが、それでも、のどかな雰囲気と瑞々しくも美しい自然が、総司の心を癒してくれた。
 佐野屋の人々が総司を、療養中の親戚筋のものと云ってくれたからか、周囲に住む人々のあたりも柔らかい。仲良くなった子どもたちに乞われるまま、寺子屋めいたものを始めたのも、そのためだった。
 ここでは、あの新撰組での日々が嘘のように、穏やかな日々が流れてゆく。
 総司は掃除を終えると、外出の支度を調えた。
 今日は、佐野屋に行く日だったのだ。我が子のように総司を可愛がっている主人夫婦に、月に何度かは顔を見せてくれと云われている。総司も佐野屋の人々には深く感謝し、また、好意をもっているだけに、その言葉には素直に従っていた。
 家を出た総司は、ゆっくりと道を歩いた。時折、教えている子どもの親たちと出会い、挨拶をかわす。
 しばらく歩いた総司は、ふと思いついた。
「そうだ。桜を見ていこう」
 北山の川沿いに桜並木があるのだ。それは見事なのだと、子どもたちが教えてくれた。桜を見て、ついでに近くの店で茶菓子でも買い、佐野屋へ向おうと思った。
 桜並木に近づくにつれ、総司は気持ちがうきたつのを感じた。
 晴れわたった青空の下、人々が花見に興じている。あちこちで宴が開かれ、娘たちの艶やかな着物もまた彩りを添えていた。 
 だが、何よりも、桜が美しい。
 ひらひらと降り舞う花びら。見上げれば、青空の下、どこまでもつづく桜並木は本当に綺麗だった。
 総司は視線を戻し、ゆっくりと桜並木の中を歩いていった。
 そして、それは中程までいった時だった。


(……え……?)


 一際大きな桜の樹木があった。
 艶やかな美しい桜だ。
 それを見上げる一人の武士がいた。すらりとした長身に黒い小袖を着流し、懐手しながら桜を眺めている。
 凜と背筋をのばした立ち姿は美しく、見惚れる程だ。すれ違う者たちも皆、ふり返ってゆく。
 その端正な横顔を見た瞬間、総司は息を呑んだ。


(土方…さん……!)


 まぎれもなく、彼だった。
 切れの長い目を僅かに細めながら、桜を見上げている。形のよい唇には、あるかなしの微かな笑みがうかべられていた。
 何一つ、変わっていなかった。
 その長身も、逞しい躯つきも、顔だちも。何もかも。
 総司は呆然と、その場に立ちつくした。





 まるで、時が戻ったようだった。
 何事も起こらず、あの雪の日もなく、二人が睦みあう頃に戻れたのだと錯覚してしまいそうな程、土方はあの日のままだった。
 あの頃、何度も愛してると囁いてくれた唇も。
 濡れたような黒い瞳も。
 総司だけに見せてくれた、優しい笑顔も。
 何もかも、きっと変わらない。
 変わったのは、自分たちの関係だけなのだ。
 二度と声をかける事も、逢うことも許されない関係だけ……。





 総司が見つめていると、土方はゆっくりと視線を戻した。ふと何かに気づいたのか、総司の方をふり返る。
 人波ごしに、一瞬、彼の目が総司をとらえたように思えた。それに、息をつめた。
 彼と逢うのが怖いと思っていた。
 他人として見向きもされないのが怖くて、土方と偶然会うことさえ恐れていた。
 だが、今、総司の中にそんな思いは全くなかった。


(あなたが生きている……)


 それだけしか感じなかった。
 彼が生きている。
 あの時、私の前で死んでしまった彼が、今、ちゃんと生きているのだ。
 それが私にとって、どれほどの幸せか。


 土方さん、あなたにわかる……?


 涙があふれそうになった。
 あの頃、土方の腕の中でよく泣いたように、ぽろぽろと涙をこぼしてしまいそうになる。
 だが、泣く訳にはいかなかった。そんな事をすれば不審に思われてしまう。彼の目をひいてしまう。
 それだけは避けなければならなかった。
「……っ」
 総司は必死に唇を噛みしめ、こらえた。


 逢えなくてもいい。
 もう二度と、あなたを見ることができなくてもいい。
 ただ、この世に、あなたが生きてさえいてくれれば。
 それだけで、私は……幸せだから。






 不意に、総司はくるりと踵を返した。
 本当はずっとずっと、見ていたかった。
 傍によって、出来ることなら話しかけたかった。
 だが、それは許されない。そんな事をすれば、願いは終ってしまうのだ。
 総司は、足早にその場から立ち去った。後ろを決してふり返らず、前だけを見つめて歩いてゆく。
 随分歩き、桜並木も途切れかけた頃、ようやくふり返った。
 そっと後ろを見てみるが、むろん、そこには誰もいなかった。
「……」
 総司はその場に佇み、しばらくの間、桜並木を見つめていた。
 ひらひらと桜の花びらが降り舞い、春らしい優しい風がそれを川面へとはこんでゆく。
 夢のような光景だった。
 否、あれは、夢だったのだ。
 神さまが──あの女が見せてくれた一時の夢に違いない。
 そう、心から信じた。
「……ありがとう……」
 総司は小さく呟いた。
 誰にともしれず、ただ心から感謝の言葉を告げた。
 そして、祈った。
 彼が幸せであることを。
 ただ、愛する男の幸せだけを願って、総司はそっと目を閉じた。

















 美しい月の夜だった。
 幻想的までに美しい月が、紺色の夜空に浮かんでいる。
 おそらく、今日訪れた桜並木も、夜桜見物の客で賑わっていることだろう。
 そんな事を思いながら、土方は杯を干した。
 屯所の局長室前にある縁側だった。円座を持ち出し、そこで近藤と二人、久しぶりに酒をくみかわしている。
 ぼんやり月を眺めている土方に、近藤が首をかしげた。
「どうした」
「……」
「歳」
「……え?」
 ようやく気づいたらしい土方は、驚いたように近藤を見た。それに苦笑する。
「え、ではない。どこか躯の具合でも悪いのか」
「別に何もないが、何故だ」
「妙に気もそぞろみたいだからな。何かあったのか」
「いや……」
 土方は目を伏せた。端正な顔に、戸惑いの色がうかぶ。
「何かあった……という訳でもないが
「しかし、あったのだろう。話してみろ」
「だから、近藤さんが気にするような事じゃねぇよ」
 そう云ってから、土方は吐息をもらした。
「人と、逢っただけだ」
「女か」
「違う。男だ」
「は?」
 呆気にとられる近藤の前で、土方は彼らしくもなく狼狽えた様子で口早に云った。
「すげぇ綺麗な、優しげな姿をした若者だった。まるで……桜の精のような」
「娘ではないのか」
「違う。両刀をさしていた」
「侍か!」
「あぁ」
 土方は懐かしむような表情で、目を細めた。
 その若者の事を思いだしているのか、彼にしては驚くほど柔らかな表情だ。
 近藤は戸惑いつつ、訊ねた。
「それで、その若者がどうしたのだ」
「……どうもせん」
「どうもしないとは、どういう事だ」
「だから、何もないのだ。北山の桜並木の処で逢った、それだけの事だ」
 土方は目を伏せた。
「言葉を交わした訳でもない」
「よくわからん」
「俺にもわからねぇよ。ただ……」
 ふと、口をつぐんだ。
 あの時の光景が、瞼の裏にうかんだ。


 青空の下、桜がふり舞う光景の中。
 ひっそりと佇んでいた若者。
 夢幻のように美しく、たおやかだった。
 儚げで優しくて、手でふれれば、今にもとけ消えてしまいそうな。


 しばらく黙った後、土方は低い声で呟いた。
「……泣いていたんだ」
 それに、近藤は「え?」と聞き返した。
 静かにつづけた。
「泣いていたんだ。涙を流すこともなく、俺を見て……泣いていた」
「涙もないのに、何故、泣いていたとわかったのだ」
「さぁ、どうしてだろうな」
 土方は微かに苦笑した。


 何故かはわからない。
 だが、あの時、あの瞬間、確かに思ったのだ。
 わかるのだと。
 おまえの気持ちも想いも、すべて己が事のようにわかるのだと。


 黙ったまま、土方は杯を重ねた。
 何か遠いものを思い出すような表情で、目を伏せている。
 しばらくの間、それを近藤は無言のまま眺めていた。やがて、突然思いついたように、云った。
「この分では、明日も晴れだな」
「……」
 土方は顔をあげ、怪訝そうに近藤を見やった。
「まぁ、そうだな」
「北山の桜が青空に映え、見事だろう」
「……」
「仕事がなければ、明日また行ってみればいい」
「逢うために?」
 思わず聞き返した土方に、近藤は喉奥で笑った。膝上に頬杖をつきながら、盟友を眺める。
「おれはただ、桜が見事だろうと云っただけだ」
「……」
「まぁ、ついでに、その美しい花を探すのも一興だな」
「美しい花、か」
 その言葉に、桜の花びらが舞い散る中、ひっそりと佇んでいた若者の姿を思い出した。
 潤んだような瞳で、彼だけを見つめていた若者。


(あれは……何故……)


 ……懐かしかったのだ。
 初めて出逢ったはずなのに、たまらなく懐かしかった。
 ここで、逢えたこと。
 ただ、それだけが泣きたくなるぐらい幸せだった。
 信じられないほど幸せで……





 土方は夜空を見上げた。
 そして。
 静かに杯を干すと、何かを想うように目を閉じたのだった。












        めぐり逢い
        愛しあい
        そして、いつか見つけ出す


        それが俺たちの……幸せのかたち


















[あとがき]
 「シアワセのかたち」というタイトルは、恋人たちそれぞれに、幸せがあって、それぞれのかたちがあるんだろうなぁと思った事で、つけました。総司にとって、それは「土方さんが生きていること」だったのですが、土方さんにとっては、「総司と共に生きること」だったのです。
 ラストの一文は暗示でして、この後、土方さんは総司を見つけ出します。そして、恋に落ち、前と同じぐらい、いえ、それ以上に深く愛して、すべてを思い出すのです。
 ただ、つづきを書くつもりはありません。どんなふうに土方さんが総司を見つけ出すのか、どんなふうに恋に落ちてゆくのか、それは皆様のご想像におまかせしたいと思います。
 連載中、メッセージ、拍手を下さった方々、本当にありがとうございました! とってもとっても励みになりました。皆様のおかげで、無事完結できました。心よりお礼申し上げます。
 これからも、土方さんと総司の恋愛のお話を楽しく書いていくつもりです。皆様もご一緒に楽しんで頂けると、とっても嬉しいです♪
 「シアワセのかたち」良かったと思って下さった方は、ぜひ、ぱちぱちお願い申し上げますね。今後の更新への大きな励みになります。
 ラストまでお読み下さり、本当にありがとうございました♪