「お帰りなさい」
玄関へ出た総司がそう云うと、伊東は小さく微笑んだ。
そっと項を引き寄せてキスしてやると、頬を赤らめる弟が可愛らしい。
「ただいま」
囁くように告げ、伊東は玄関をあがった。
廊下を歩いてゆくと、小さな、だがあたたかく居心地のよさそうなリビングが現われる。掃きだし窓の外には庭が広がっていた。
ごく普通の一戸建てだ。どこか、昔両親と住んでいた家に似ていた。
懐かしい感覚。
そこは、伊東と総司の住まいだった。
あれから一年以上の月日が流れていた。
あの時、銃弾を受けて生死の境をさまよった伊東の姿に、総司は半狂乱となった。兄を死へ追いやろうとしたのは、自分の恋人なのだ。そんなこと、心優しい総司が受け入れられるはずもなかった。
司法取引により解放された伊東は、記憶を失った総司と郊外の街へ移り住んだ。テロから全く手をひき、勤めていた商社もやめている。あれだけの騒ぎを起したのだ、いられるはずもなかった。
今は、独力で小さな会社をおこし、働いていた。最近、その会社もようやく軌道にのり始めた処だ。
失ったものは多く、辛酸をなめられもした。だが、それでも構わなかった。
すべては、総司のためだった。
この愛しい弟が手元に残るのなら、他の何を失っても悔いはしない───
「今日の夕食は、魚かな」
「うん、ムニエルにしたの」
総司はこくりと頷き、キッチンで忙しそうに立ち働いている。思ったより早く帰ってきてくれた兄に、嬉しそうだ。
それを眺めてからソファに腰をおろすと、伊東は新聞を広げた。
相変わらず凄惨な事件が多い。だが、司法取引で応じた事による狼火の壊滅は、少なからず影響を及ぼしているはずだった。
「……」
伊東は微かに目を細めた。
狼火を壊滅させた事は惜しいとは思うが、悔いていなかった。
司法取引により自由の身になっても、それゆえ裏切り者と指弾されても、別に何の感慨もわかなかった。
己自身がつくり出したものを、この手で壊して何が悪いか。始末をつけただけの事だ。下らないゲームにも飽き始めていたのだから、頃合いだったとも云える。
それに、気が向けば、また再開させる余地は残してあった。今は監視つきだが、そのうち警察も諦めるだろう。
そう、今も。
この平穏な日々を──愛する弟総司と暮らす日々を、あの男はどこかから見ているのだろうか。
微かに口角をあげた伊東の後ろで、総司の「あ」という声が響いた。
それにふり返ってみると、総司が困ったように冷蔵庫の中を見ている。
「どうしたんだい」
「ん、レモンがないのです。レモン醤油にするつもりだったのに」
「買ってこよう」
立ち上がりかけた伊東に、総司がううんと首をふった。
「いいの。兄さんは疲れているのだから、ぼくだけで」
「外はもう夜だよ。危ないから、一緒に行こう」
「でも」
「ほら、支度しなさい」
強引な兄の言葉に、総司はちょっと躊躇いながらも嬉しそうに頷いた。
「兄さんとお買い物なんて、久し振り」
スーパーからの帰り道。
総司は伊東とならんで歩きながら、そう云った。ふわふわのコートに華奢な身を包んでいる。マフラーにそっと口許をうずめ、兄を見上げた。
それに、伊東が首をかしげる。
「そうかな」
「うん。兄さん、最近忙しいから」
「すまない。もっとおまえの傍にいてあげたいのだが」
「いいの。ぼくのためにも頑張ってくれているんだものね」
総司は花のように笑うと、伊東の腕に手をからめた。甘えるように頬をすりよせてくる。
その仕草がたまらなく可愛かった。
伊東は微笑み、総司の柔らかな髪に口づけた。
くすぐったそうに笑う声が鈴のようで愛らしく、思わず細い腰に腕をまわして抱き寄せる。頬に首筋に、キスの雨を降らせた。
「やだ。もう……兄さんたら」
恥ずかしそうにしながらも、総司はそれを拒まなかった。なめらかな頬を染め、兄の腕の中でおとなしくしている。
不意に、小さく声をあげた。
「……あ」
それに見上げれば、ひらひらと舞い落ちる粉雪。
夜空に、白い雪が花びらのように降り舞っていた。
もう3月も終わりだというのに、雪とは。
「なごり雪だね」
そう呟いた伊東に、総司はこくりと頷いた。柔らかな髪に、長い睫毛に、白い粉雪が舞い落ちる。
なごり雪。
指さきでそっと払ってやりながら、伊東は訊ねかけた。
「総司……」
「はい」
「おまえは……今、幸せかい?」
「え」
総司は驚いたように目を見開いた。
「どうして、急にそんな事を聞くの?」
「いや、聞きたくなったんだ」
「ふうん?」
小首をかしげた総司は、優しい兄の腕の中で小さく笑った。
「もちろん、幸せだよ」
「本当に、私と一緒にいて幸せ?」
「うん」
素直に頷いてくれる総司に、伊東は微笑んだ。そっと少年の華奢な躯を抱きすくめ、目を伏せる。
───降り舞う雪の中。
こうして抱きあう私たちの姿は、物陰から撮られている事だろう。警察の監視の一つとして。
その写真は、いずれ、あの男の手元にも届くに違いない。
ならば、これは宣戦布告か。
もう二度と手放さないという、宣言か。
いや、違うな。
勝敗はとうに定まっている。
追いつめられた総司が、あの男の記憶をすべて失った時点で終わっているのだ。
何もかも。
「……総司、愛してるよ」
伊東は愛しい弟の躯を抱きしめ、囁いた。
それに、頬を染めた総司がこくりと頷く。
「うん……ぼくも」
「ぼくも? はっきり云ってごらん?」
「あ、愛してます。ぼくも……兄さんを」
「総司、可愛いね」
伊東は微笑み、そっと身をかがめた。路上である事も構わず、唇を重ねる。
一瞬ぴくんっと震えた総司だったが、他に人影がない事を知ると、ほっとしたように目を閉じた。
兄から与えられる甘やかなキスに酔いしれる。
「……ぁ、ん…っ」
伊東はまるで監視者たちに見せつけるように、何度も唇を重ねた。少年の細い腰を抱きしめ、甘く柔らかなキスで総司を虜にしてゆく。
「…ぁ……っ」
唇を離すと、総司は喘ぎながら兄の胸もとに顔をうずめた。それを抱きしめ、伊東は囁いた。
「つづきは、帰ってからね」
「ん……兄さん」
伊東はいとしげに総司の額に頬にキスをあたえながら、目を細めた。
その鳶色の瞳に、狂気じみたかげろいが宿る。
形のよい唇の端がつりあがり、ゆるやかな笑みがたちのぼった。
(……もう離さない)
総司は己のものなのだ。
世界中でただ一人、総司と自分は誰よりも繋がっている。
それは血であり魂であり、肉であり精神でもある。
───絶ちがたき永遠の繋がり。
狂気と裏切りで彩られたこの愛は、禍々しくも清らかだ。
まるで、この世界のように。
今、二人が佇むこの世界が夢なのか、現実なのか。
それさえ掴めぬ──幸せの名残めいた世界に、ひらひらと降り舞う雪のように。
清らかに狂った、なごり雪のように。
「帰ろうか」
そう云った伊東に、総司は「はい」と頷いた。
甘えるように兄の胸もとへより身を寄せてくる。それが可愛くて、伊東は細い肩を抱きよせた。
誰かを愛したことも。
深く激しく愛されたことも。
何もかもすべて忘れ去った総司は、今、伊東の腕に抱かれていた。
兄であり、恋人でもある伊東の腕に。
そして、今や。
この世でただ一人愛する男の腕の中、総司は幸せそうに微笑んだ。
何一つ翳りない、きれいな花のように。
「……総司」
その美しいと云ってもよい澄んだ微笑みを、伊東は静かな瞳で見つめた。
ふと、心から願った。
信じるはずもない神に、己自身に。
どうか、総司が幸せであるように。
何よりも、この愛しい存在だけを守ってゆきたい。
今が現実なのか、一瞬の夢なのか。
それさえもわからぬ、不可思議な世界の中で。
この愛しい存在だけは。
二度と傷つけない。泣かせない。
今度こそ、誰よりも。
おまえの幸せだけを願って
私は───
>
>