「この世界は様々な異世界が重なりあっているのです」
 静かな声で、斉藤は云った。
 土方の家のリビングルームだった。ソファに腰かけた宗次郎と土方の前、一人がけソファに座った若者が話していた。
 学者という言葉のイメージとは全く違う若者だった。つりあがった目が印象的だが、その鳶色の瞳は穏やかだった。クリーム色のシャツとジーンズを細身の躯に纏っている。
 どこか浮世離れした印象を与える若者は、土方の背に思わず隠れてしまった宗次郎に微笑み、手をさしのべた。「斉藤です、よろしく」と云ってくれた彼に、宗次郎はほっと安堵の息をついた。
 甘やかな紅茶の香りが漂う部屋の中、斉藤は言葉をつづけた。
「たとえば、ここにたくさんの円弧があるとします。それは一つ一つ違う世界なのです。この世界と似てる部分もあるし、違った部分もある。ある世界では同じ国々であって平和であっても、こちらの世界では戦争が起こっていたりする。そんな異世界が無数にあると信じられているのです」
「……」
「その世界は時の流れもそれぞれ違うし、同じようなところもある。そして、ほんの少しずつ重なり合い、常に不安定に揺れています。だから……」
 斉藤はちょっと悪戯っぽく瞳をきらめかせた。
「もしかすると、人は無意識のうちに異世界を行き来してる可能性もあるのです。たとえば、オレたちに全く関係ないある国が戦争をしてるかどうかなんて、知りえるはずがない。トンネルを抜けた向こうに広がる世界は、今までオレがいた世界とはほんの少し違っていて、でも、その事にオレは気づいてないだけかもしれないのです。むろん、これは仮説ですが、とても面白い考え方だと思いますよ」
「じゃあ……」
 土方は低い声で問いかけた。
「宗次郎は、その一つの世界からここに来たと云うのか」
「おそらく……世界と世界が重なりあった瞬間、どこかに小さな穴が出来て、そこに宗次郎くんは落ちてしまったんだと思います。そうして、この世界にやってきた。ただ、残念ですが……」
 斉藤はゆるく首をふった。
「オレには元に戻す方法なんて、わかりませんよ。いったいどこにその出入り口があるのかさえ、わからないのですから」
「本人は崖から落ちたと云ってるんだがな……まぁ、いい。おまえに聞きたいのは、元に戻す方法じゃねぇんだ」
「え?」
「その逆だ。宗次郎をこの世界にずっと留められる方法を、俺は知りたい」
 きっぱりした口調で云い切った土方を、斉藤はしばらくの間、呆気にとられた表情で見ていた。
 やがて、かるく背もたれに凭れかかり、鳶色の瞳でじっと見つめた。
「それは本気ですか?」
「むろんだ」
「どうして、また」
「俺が宗次郎を愛してるからだ。二度とこいつを手放す気はない」
「……」
 斉藤は難しい表情で、押し黙ってしまった。
 それを、宗次郎は不安そうに見つめた。思わず土方に寄りそうと、すぐ気づいた彼が優しく肩を抱きよせてくれた。その様子からも、二人がどれだけ深く愛しあっているか知ったのだろう。
 斉藤はため息をついた。
「これも残念ですが……方法はわかりません。ただ、確かなのは、宗次郎君がいつまでも此処にいられるはずがないという事です」
「なぜ」
「この世界には、もう一人の宗次郎君がいるはずだからです」
「時代が違ってもか? ただのタイムスリップじゃないのか?」
「宗次郎君は云ったでしょう? 彼の時代に、あなたと同姓同名の同じ容姿をした男がいると。それがすべての答えです。そこは異世界なのです、ただ時代の流れが違うだけの。おそらく、その世界にはオレもいるのでしょう」
 斉藤は静かな声でつづけた。
「いずれ、宗次郎君は元の世界に戻されるのです。同じ世界に二人の宗次郎君は存在しえない。それがいつなのか、数日後か、何年後か……わかりはしません。だが、この歪みが永遠であるはずがない。いつか必ず、歪みは矯正されるのです」
「……」
 押し黙ってしまった土方に、宗次郎はぎゅっとしがみついた。それを土方も守るようにきつく抱きしめた。
 そんな二人を、斉藤は痛ましげに見つめていた。

 

 

 
 ただ、愛しかった……。
 このまま腕の中に閉じこめ、どこにも逃がしたくなかった。
 だが、土方は不安で不安でたまらなかったのだ。
 この幸せはいつまでつづく?
 何の保証もない二人の生活。
 今日帰ったら、もしかすると宗次郎はどこにもいないかもしれないのだ。
 もう──そのほっそりした姿はどこにもなくて。
 過去へ宗次郎が帰ってしまったのだと、知らされるのかもしれない。今日にも、誰もいない真っ暗な部屋で一人絶望し、激しく慟哭するのかもしれない。
 ある意味、それは恐怖に似ていた。
 だからか、土方は毎夜そっと鍵を開ける瞬間、思わず息をつめた。
 この扉のむこう、もういないのかもしれない宗次郎の存在に。
 そして。
 扉を開けたとたん、嬉しそうに迎えてくれる宗次郎に、ほっと安堵の息をつくのだ。
 よかった、まだここにいてくれたと。
 その安堵感に思わずきつく抱きしめる土方の腕の中、宗次郎は驚いたように目を見開いたが、すぐに目を伏せた。
(……土方さん……)
 彼の気持ちが痛いほどわかっていた。
 その不安も、苦しみも、恐怖も。
 宗次郎も不安で不安でたまらなかったのだ。
 いつ、自分がこの世界から引き戻されるかわからない。
 何か見えない黒い大きな手が自分を鷲づかみ、無理やり浚ってゆくような、そんな恐怖を感じていた。
 確かに、初めの頃は帰りたいと思った。早くあの時代に戻りたいと。
 だが、今は違った。
 宗次郎は土方を愛していたのだ。ずっと、いつまでも傍にいたかった。彼と一緒に日々を過ごし、時に笑い、時に涙しながら、二人で歩んでいきたかった。いつまでもこの手は繋がれていると、そう信じたかった。
 なのに、それは望むべくもない事なのだろうか──?
 そんな日々がつづいたある日のことだった。 
「旅行をしようか」
 不意にそう云い出した土方を、宗次郎は驚いて見上げた。その少年から黒い瞳をそらしながら、言葉をつづけた。
「おまえと一緒に、あの梔子の花を見に。京へ二泊ぐらいはできるだろう」
「土方さん」
「休みはもうとってあるんだ。7月の半ば頃に……」
 そう云いかけ、土方はふっと口をつぐんでしまった。目を伏せ、端正な横顔で押し黙ってしまう。それに、宗次郎はたまらなくなった。
 男の引き締まった躯に両腕をまわし、ぎゅっとしがみついた。
 この人より、私はこんなにも子供だけど。
 でも、この人は、本当は脆く優しいものを抱えた人だから。
 そして、心から私を愛してくれている。
 私がいないと生きてゆけないと、そう縋りつくほど、彼の全部で愛してくれている。
 だから、神さま。
 永遠なんて望まない。
 でも、せめて、少しでも長くこの人の傍に……。
「……つれていって」
 宗次郎は小さな声で答えた。
 二人が引き離される前に、せめて、一つでも約束を果たそうとした彼の優しい気持ちを切なく感じながら、言葉をつづけた。
「あなたと一緒に、あの梔子の花を見たいから。だから、お願い……つれていって」
「宗次郎……」
 土方は目を閉じると、腕の中のいとおしい少年をきつく抱きしめた───

 

 


 京への旅行は楽しかった。
 さすがに飛行機は怖がったので、土方は宗次郎を新幹線に乗せた。宗次郎は次々と過ぎ行く車窓の光景に驚き、手をたたいて喜んだ。その姿はまるで子供のようだった。
 否、確かに子供なのだが、宗次郎はこのところ、土方との恋愛の影響なのか、酷く大人びた表情を見せるようになっていた。そのため、そんな無邪気な表情を見るのも久しぶりだったのだ。
 二人は京の小さな旅館に宿をとり、翌日、その梔子の花がある寺院へむかった。
 気持ちのいい初夏の昼下がりだった。
 まだ7月だからか、爽やかな風が彼の艶やかな黒髪をかき乱してゆく。それを、しなやかな指さきが時折かき上げた。まるで流れるように洗練された美しい仕草。
 宗次郎は思わずうっとり見惚れてしまった。
 それに気づき、土方が訝しげな表情でふり返った。
「? どうかしたのか?」
「ううん……」
 慌てて宗次郎は首をふった。
 あなたが綺麗で、この京の町にとても似合ってる気がして、思わず見惚れていましたなんて。
 そんなこと照れくさくて、とても云えるはずがなかった。
 小首をかしげる土方の腕を引いて、宗次郎は足早に歩いた。目的の寺院の門が見えてきた。
 門をくぐって右手がその庭園だった。もう、甘い艶やかな芳香が漂っている。
「あぁ……すごいな」
 庭園に足を踏み入れた土方は、思わず──とも云うように、感嘆の声をあげた。
 そこは、外の喧騒とはかけ離れた世界だった。
 さわさわと風に揺れる下草。
 濃い緑にはらはらと散った白い花びら。
 見上げれば、見事な八重の梔子が花開いていた。純白の花は指さきでふれれば、ほろりと零れてしまいそうだ。
 甘い濃厚な香りがあたりを満たし、何ともいえぬ雰囲気を醸し出している。
「……綺麗……」
 宗次郎はうっとりと見つめた。
 絵も美しいと思ったが、この光景の方がずっと美しい。
 他に誰もいないからか、夢のような世界だった。時折、柔らかな風に、はらはらと白い花びらが舞った。
 その一枚を、宗次郎はそっと拾いあげた。
 思わず、その花びらに小さく口づけた。
「……」
 ふり返ると、土方が驚いたように見ていた。目があうと、僅かに笑った。
「まるで……綺麗な絵みたいだな」
「この花が?」
「いや、梔子とおまえがだよ。本当に綺麗で……夢みたいで。ちょっと目を離した隙に消えてしまいそうな気がして、俺は……怖いよ」
 そう呟いた土方の黒い瞳が昏く翳った。
 が、すぐにゆるく首をふると、指さきで前髪をかきあげた。
「すまない、こんなこと云うつもりじゃなかったのに」
「……土方さん」
「本当はここで、おまえに云いたい事があったんだ」
「え?」
 小首をかしげた宗次郎に、土方はゆっくりと歩み寄った。そっと少年の細い手をとり、優しく握りしめた。
 そして、静かな声で云った。
「誕生日……おめでとう、宗次郎」
「え? 誕生日って……」
「おまえ、云ってただろ? 自分が生まれたのは天保15年6月1日だと」
「えぇ……」
「こっちの世界でも天保って時代があってさ、けど、旧暦とか新暦とか色々あって調べてみたんだ。で、旧暦で6月1日だと、新暦で7月15日になるんだ。だから、今日がおまえの誕生日って訳だ」
 宗次郎は大きく目を見開いた。
「じゃあ……もしかして、そのためにここへ? わざわざ日をあわせて?」
「あぁ。何か贈り物をと考えたんだが、他に思いつかなくて……すまない」
「そんな……嬉しい……!」
 宗次郎は思わず両手をのばし、土方に飛びついた。男の胸もとに顔を押しつけ、ぎゅっとしがみついた。
「本当に嬉しいです……ありがとう! 土方さん」
「おめでとう、宗次郎。本当に……おまえが生まれてきてくれて、よかった。おまえに逢えたことは、俺にとって一番の幸せだ」
「私もです。私もあなたに逢えたことが、一番の幸せです」
 そう答えた宗次郎に、微笑んでから、土方は何かを思いついたようだった。梔子の花を見上げ、「そう云えば……」と呟いた。
「花言葉というものを知ってるか?」
「……花、言葉?」
「たくさんの花に、それぞれ意味がつけてあるんだ。色んな言葉が。この間偶然知ったんだが、この梔子の花言葉は『私の幸せ』だそうだ」
「私の幸せ……」
 小さく呟いてから、宗次郎は大きな瞳でじっと土方を見つめた。
 ふわっと、まるで花がこぼれるように微笑ってみせる。
「今の私たちみたいですね」
「宗次郎……」
「ずっとずっと、これからも私たちの幸せはつづくと。あなたの傍に、私の幸せはあるのだと。そう信じてもかまいませんか……?」
「宗次郎……っ」
 土方は思わず少年の華奢な体をきつく抱きしめた。
 信じたかった。
 この幸せがずっとつづくのだと。
 いつまでも、このぬくもりが傍にあるのだと。
 儚い夢なのだと知りながら、ずっといつまでも……
「またここに来よう」
 土方は掠れた声で囁いた。
「おまえの誕生日に……ここに来て祝おう。この梔子の木の下で……」
「土方さん……」
 そっと、宗次郎は目を伏せた。抱きしめてくれる男の腕の中、何も云わずその胸もとに縋りついた。
 離さないで。
 ずっと愛して。
 あふれる切ない想いを告げるように。
 そんな二人を見守るかの如く、梔子の白い花がはらはらと降り舞っていた───
 

 

 

 京都から帰ってからすぐ、宗次郎は学校へ入る準備をする事になった。
 むろん、戸籍など問題が様々にある。そのため、色々手続きに手間取ったが、土方の友人が随分と骨折りしてくれたらしく、9月からは学校に通えることになった。
「でも、ついていけるかなぁ」
 教科書などを買いに行った帰り道、宗次郎は小さくため息をついた。
 それに、傍らを歩いていた土方はくすっと笑った。
「おまえなら大丈夫さ。それに、俺もいろいろ教えてやる」
「え、でも、土方さん、忙しいのに」
「おまえのためなら、いくらでも時間をつくるよ」
 そう云いざま、土方は宗次郎の頬に小さくキスした。
「!」
 誰にも気づかれぬほど素早いキスだったが、それでも、ここは天下の公道だ。
 宗次郎は顔を真っ赤にしてしまった。
「もう! 土方さんったら……っ」
「いいじゃねぇか。恋人同士なんだから」
 くすくす笑う男に、宗次郎は可愛らしく唇を尖らせた。その桜色の唇を、しなやかな指さきがふれる。
「そんな風に誘うな。云ったろ? 男を煽るなって」
「誘ってないし、煽ってません」
「無意識ってのが怖いなぁ」
「訳わからないことばかり、勝手に云ってて下さい」
 そう云って宗次郎はさっさと足早に歩き出した。後ろから土方が追ってくる気配がした。それに、ちょっと安堵する。
 くるりとふり向き、訊ねた。
「それで? 今日はどこでご飯を食べるんですか?」
「あぁ、この先の……」
 そう、土方が云いかけた。
 その瞬間だった。
 突然、強い風が二人の間をすり抜けた。
 ごおっと耳元で風が鳴り、宗次郎の長い髪も吹きあげる。思わず両手で髪をおさえた。
「あっ!」
 とたん、バランスが崩れた。
 後ろへ一歩二歩とよろめいたが、その先には地面がなかった。
 大きな階段になっていたのだ。
「きゃあっ!」
 悲鳴をあげた宗次郎の瞳に、走り寄る土方の姿が映った。
「宗次郎!」
 もの凄い勢いで手首が掴まれる。が、もう遅かった。宗次郎の小さな体は重力に従い、階段を落ちてゆく。それを土方は両腕で抱えこんだ。
(……土方さん……!)
 悲鳴。風の音。
 落ちてゆく落ちてゆく。
 どこまでも───
 次の瞬間、宗次郎は全身を襲った衝撃に悲鳴をあげた。
 どさっと躯が地面に投げ出される。
「……ぅ……っ」
 宗次郎は呻き、手であたりを探った。が、どこにも彼の感触はない。
 それどころか、指さきにふれたのは硬いアスファルトでなく、柔らかな叢と地面の感触だった。
(……う…そ……!?)
 のろのろと宗次郎は目を開いた。見つめた。
 そして──絶望した。
 見慣れた光景だった。日野の田畑と山の光景だった。
 あの時代の、光景だった。
 そう。
 自分は戻ってきてしまったのだ。
 愛しい男と、無理やり引き離されて。
「……土方…さん……っ」
 宗次郎の目に涙があふれた。嗚咽をあげながら、激しく泣きじゃくる。
 後から後から、涙がぽろぽろ零れた。
 ──そして。
 そのまま少年は気を失った。
 残酷な現実を拒絶するように。
 これが夢であればいいと、心から願いながら───
 

 

 

 夢ではなかった。
 宗次郎はこの時代に戻ってきたのだ。
 不思議なことに、あの崖から落ちた日から全く時は過ぎていなかった。そのためか、服装も着物のままだった。結局、あまりに遅い宗次郎を心配し、探しにきたおのぶや歳三に、崖下で気を失っているところを見つけられた。
 目が覚めた瞬間、宗次郎はやはり錯覚した。
 褥の傍に坐り、心配そうに見つめている彼を見た時、思い違いをしたのだ。
 あぁ、やっぱりあれは夢だったと。
 だって、この人はここにいる。
 ここにいて、私を見つめてくれている──
 だが、彼が口を開いた瞬間、それは消え去った。
「──宗次……大丈夫か」
 と、彼は訊ねたのだ。
 宗次──だった。
 そう、歳三はいつからか、宗次郎でなく宗次と呼んでいたのだ。優しい声で、いつも。
 だが、あの土方は決してそんなふうに呼ばなかった。いつも「宗次郎」と呼んでいたのだ。
 それに、彼は着物姿だった。艶やかな黒髪を一つに束ねているが、少し額に乱れている。どこから見ても、この時代の男だった。
「歳三…さん……」
 そう呼んだ宗次郎に、歳三は眉を顰めた。
 手をのばし、少年の額にあてた。ひんやり冷たい手が心地よい。
「大丈夫か、どこか痛いところはねぇか」
「……大丈夫、です」
「そうか。……もう少し休むといい。薬湯は今飲むか?」
「後にします」
「わかった。ゆっくり休めよ」
 そう云うと、歳三は立ち上がった。部屋を出ると、静かに障子を閉めて立ち去った。
 その遠ざかる足音を聞きながら、宗次郎は目を閉じた。
 あの人は違う。
 私の愛しいあの人とは違うのだ。
 もう、彼には逢えないのだから。
 宗次郎が心から愛した男には、もう二度と。
(……土方さん……!)
 思わず両手で顔をおおった。
 あの後、彼はどうしたのだろう。
 階段から落ちて、怪我はしなかったのだろうか。
 そして──腕の中から失われた私の存在に。
 どれだけ嘆き悲しんだだろう。
 今にも、あの人の叫び声が聞こえそうだった。
 私の名を呼ぶ声が。激しい慟哭が。
 一人ぼっちで、あの世界に取り残されたあの人の───
(土方さん、土方さん、土方さん……!)
 宗次郎は心の中で何度も彼の名を呼んだ。
 愛しい男の名だけを。
 頬を涙に濡らしながら。
 そして。
 宗次郎の切ない恋は終わりを告げた……。























 青空が広がっていた。
 京の初夏の空だ。
 どこからか風鈴の音が響き、総司は思わず微笑んだ。
 非番の日、一人で京の町を散策していたのだ。こんなふうにのんびりできるのも、本当に久しぶりの事だった。
 あれから数年の時が流れ、宗次郎は「総司」と名をあらためていた。そして、試衛館の人々と一緒に京へのぼり、新撰組結成となったのだ。まだ出来て間もない隊だったが、多忙であることは確かだった。
 そのため、副長である土方もかなり忙しそうで、恋人である総司とも言葉をかわす暇もない程だった。
 ──そう。
 二人は恋仲になっていた。
 あの愛した男と、全く同じ姿形の男がそこにいるのだ。心が揺るがぬはずがなかった。
 身代わりにしてる──そうわかっていながら、それでも優しく手をさしのべてくれた土方に、思わず縋ってしまったのだ。
 その事を思うたび、総司は激しい罪悪感に苛まれた。
 今は土方自身を愛している。
 だが、それが彼への想い故なのか、それとも、あの現代で愛しあった彼と重ねているからなのか。
 総司自身、まったくわからなかった。
 そんな想いをどこかで感じているのか、土方は黙ったまま静かに寄り添ってくれた。時折、探るような鋭い瞳にあう瞬間もあったが、すぐ優しく抱きしめられた。何一つ訊ねようとせず、ただ愛することだけを与えてくれたのだ。
 だが、総司の罪悪感は消えることはなかった。
 そして──あの彼への想いも。
「……私は酷い人間だ……」
 総司は呟き、ため息をついた。
 同じ時の流れではないとわかっている。だが、今頃、彼はどうしているかと、ふとした瞬間にも思ってしまうのだ。
 やはり、あそこは異世界だったらしく、この世界にも「斉藤」がいた。むろん、全くの初対面なので、総司も何も言えなかったが。
 だが、異世界であるなら、あの世界で土方はもしかすると、もう一人の宗次郎と出逢ったかもしれないのだ。そして、恋に落ちたかもしれなかった。
 それは総司にとって辛い想像だったが、そうであって欲しいと望むことでもあった。彼の幸せを願わずにいられなかったのだ。
 あの梔子の木の下で誓ったように、二人幸せにはなれなかったけれど。本当は彼の傍にあるのが、自分で在りたかったが、それは叶わぬ願いだったから───
「今の私には、土方さんがいる」
 そっと目を伏せた。
「これで……よかったんだ」
 小さく、己に云い聞かせるように呟いた。
 その時だった。
 ふと気づき、顔をあげた。
 ふわりと、どこからか甘い香りが漂ってきたのだ。
「……梔子……」
 そう呟いた総司は、思わずふらりと足を踏み出した。
 優しく懐かしい記憶を揺り動かす。
 艶やかな甘い芳香──
 その香りに誘いこまれるように、総司は歩んだ。
 時折、途切れはしたが、迷うとすぐ梔子の香りは風にのって纏わりついた。
 まるで、誘いこむようだった。
 やがて辿りついた場所に、総司は大きく目を見張った。
「ここは……!」
 あの寺院だったのだ。
 現代の京で、土方と訪れた梔子の寺。
 総司は思わず足早に階段をあがり、寺の中へ入った。庭園の場所も、光景もほとんど同じだった。
 あの日のように、梔子が美しく咲き誇り、はらはらと白い花びらが降り舞ってゆく。
 錯覚してしまいそうだった。
 何も変わらないと。
 あの頃に帰ったのだと。
 自分はまだ十四才の宗次郎で、傍にはあの人が寄りそってくれて──
『花言葉というものを知ってるか?』
『……花、言葉?』
『たくさんの花に、それぞれ意味がつけてあるんだ。色んな言葉が。この間偶然知ったんだが、この梔子の花は『私の幸せ』だそうだ』
 あの時の会話が耳奥に蘇った。
 まるで、昨日のことのようだった。
 あの時、「あなたの傍に、私の幸せはある」と告げた私を、あの人は優しく抱きしめてくれた。
 彼のぬくもり、その吐息、囁きまで感じられそうなのに……。
「……」
 総司は身をかがめ、白い花びらを拾いあげた。
 そして。
 あの日のように、そっと唇を押しあてた。
 その瞬間、だった。
「──宗次郎」
「!」
 背後からかけられた声に、総司は大きく目を見開いた。
 この声。
 この呼び方。
(……まさか……!)
 勢いよくふり返った総司は、そこに土方の姿をみとめた。が、それは黒い小袖に袴を身につけ、両刀をさした侍の姿だった。
 彼ではなかった……。
「──」
 言い様のない想いに立ち尽くす総司に、土方はゆっくりと歩み寄ってきた。
 それを総司はぼんやりと見つめた。涙がこみあげそうになる。
 それは失望なのか、悲しみなのか、安堵なのか。
 何もわからなかったけれど……。
「……土方さん」
 総司はふと身じろいだ。
 どこか、土方の様子がいつもと違うことに気づいたのだ。こちらの気持ちが伝わってしまったのだろうか。
 立ち尽くす総司へ歩み寄った土方は、その黒い瞳に静かな決意をうかべていた。
 それを感じ取った総司は、僅かに息を呑んだ。
 しばらくの間、土方は無言のまま総司を見つめていた。やがて、その手から白い花びらを取り上げ、低く呟いた。
「……やっぱり、おまえだったんだな」
「え?」
 意味がわからず聞き返した総司に、土方は小さく笑った。
「今、この花びらに口づけていただろう?」
「そうですけど……」
 戸惑う総司に、土方は何も答えなかった。かわりに、そっと総司の髪を撫でた。
「すまなかった」
「? 土方さん……?」
「……」
 土方は僅かに目を伏せた。
「今まで黙っていて悪かった。俺は……今の俺を好きになって欲しかったんだ」
「どういうこと……?」
「おまえがあの宗次郎自身なのか、確証がもてなかった……」
「? いったい……何を云ってるの?」
 彼の云ってる意味が全く掴めなかった。不安げに見あげる総司を、土方は深く澄んだ黒い瞳で見つめた。
「俺が十八の時だった」
 静かな声で、土方はつづけた。
「おまえが落ちた崖から、俺は同じように落ちたんだ。そして、ある世界で過ごした。己の名以外はすべて忘れて……そこで十年も生きていたんだ」
(……え……?)
 総司は目を見開いた。
 一瞬、混乱した。いったい、何を云っているのか。
(崖から落ちた? ある世界で十年って……まさか……!)
 鋭く息を呑んだ。
 信じられない思いに、躯がふるえた。鼓動が早くなった。
 呆然とする総司を前に、土方は微笑んだ。
「そんな俺の前に、ある日……一人の少年が現れた。その少年は宗次郎と名乗った。時を超えてきたのだと。自分がそこから来た事さえ忘れていた俺は、その少年を夢中で愛した。可愛かった、大切に思っていた。だが、ある日、その少年を助けようと階段から落ちて、俺は……」
「土方…さん……そんな……っ」
「気がつくと、この時代に戻っていた。年も十八のままだった。その数ヵ月後だ。俺はおまえと出逢ったんだ……」
「土方さん……っ!」
 もうたまらなかった。
 総司は彼の名を叫ぶと、土方の躯に抱きついた。きつくしがみついた。
 あの日のように。
 ずっと傍にいてくれた彼に。
 初めて逢った瞬間から、彼は自分を愛してくれていたのだ。
 いつの日か。
 あの時代の自分に出会い、恋をすると知りながら、ずっと見守ってくれていた彼───
「……約束しただろう……?」
 声もなく泣きだした総司を抱きしめ、土方は囁いた。
 想いのたけをこめて。
 遥かな時を越えて。
「この梔子の木の下で、祝おうと……」
「土方さん……」
「誕生日、おめでとう……総司」
 そう告げてくれた土方を、総司は見つめた。
 今も昔も、ただ一人。
 ずっと愛してきた男を。
「……愛してます」
 ぽろぽろと涙が頬をつたい落ちた。
「土方さん……あなただけを愛してる……」
 そう囁き、総司は潤んだ瞳のまま、そっと微笑んだ。
 あの日のように、こぼれる花のように。
 幸せそうに───
「総司……」
 優しい唇が涙をぬぐった。
 額に瞼に、頬にふれる、柔らかな口づけ。
 何度も、耳もとに囁きかけてくれる声。
「……愛してる……」
 土方は総司の背中に腕をまわし、固く抱きしめた。
 ──そして。
 誰よりもいとおしい恋人に、口づけたのだった。
 愛を。
 想いを。
 永遠を……誓って。



 白い花びらが降り舞う、梔子の木の下で───……

 

 

 

 

……いつか
あなたと出逢う
遠く離れた私たちでも

私の幸せは、愛は
いつまでも
土方さん
あなたの傍だけにあるのだから……

 








 

[あとがき]
 「梔子の木の下で」完結です。いかがだったでしょうか。本当は、由季さまのご希望は土方さん(転生版)とあったのですが、それではどうしても悲恋ものになってしまうので、少し設定を変えました。どうしても、ハッピーエンドにしたかったので。もし、そうだったのか! そういうオチか!と、ちょっとでも皆様が驚いて下されば、はっぴーです。一言でもメッセージを頂けると、とてもとても幸せなのですが。今後の糧とさせて頂きます。いや、マジで皆様のメッセージは私の宝物、力ですから♪
 ちなみに、この梔子の寺は完全なフィクションです。間違っても京都マップなどで探索されませんように(笑)。
 由季さま、本当に強引にリクをお願いして、申し訳ありませんでした。尚且つ、こんな素敵なリクを頂き、本当にありがとうございます。ほんのちょっぴりでも気にいって頂けたらいいのですが。もしよければ、どうか貰ってやって下さいませ。
 皆様、最後までお読み頂き、ありがとうございました!


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