日野から試衛館までの道のりは長い。
 どんなにせっせと歩いても、かなりの距離だった。試衛館に着く頃にはへとへとになってしまう。
 だが、歳三が最近、試衛館へ滅多に行かなくなったのは、何も距離のせいではなかった。 もっと、とんでもない──例えば、おのぶや近藤に知られたら、ひっくり返ってしまいそうな理由があるのだ。
 歳三は砂埃のたつ道の向こうに見える試衛館を遠く眺め、はあっとため息をついた。
 どのみち、この間、近藤と約束してしまったのだから行かない訳にはいかなかった。
 その上、近藤が去り際に残した一言。
『宗次郎が淋しがって泣いてるぞ。歳三さんは、歳三さんはって毎日だ』
 泣いてるってのは大げさにしても、淋しがってるのは確かだろう。
 だが、そもそもの原因がそれなのだから、始末におけない。
(何で、こうなっちまったんだか……)
 もう一度ため息をつくと、歳三は歩き出していったのだった。

 

 

「そりゃ、無駄なあがきってもんだろう」
 そう言ったのは、歳三の兄の石翠だった。
 自分でも理解できない感情に悩んでいた歳三から、全部聞き出した石翠はあっさりした口調で言ってのけたのだ。
 惚れちまったものは、仕方ないだろうと。
 だが、事はそう簡単に運ばないのだ。
 何しろ、相手が相手だった。出来ることなら、そんな感情を正直みとめたくない相手だ。
 ただ可愛いと、自分を慕ってくれるそのすべてが可愛いと、思っているうちは良かった。 だからこそ抱きしめもしたし、口づけまでやってのけた。だが、ある日突然、自分の内にある感情に気づいてしまったのだ。
 とんでもない感情に。
 それは本当のところ、ずっと前からあった感情みたいで。だが、それでも驚いて納得できなくて必死に否定しつつ、わき起こる愛しいという熱に混乱した。
 それに、自分が酷く汚れている気がした。あんなにも純真で無垢な少年に対して抱くこの感情は、いっそ冒涜のような気さえしたのだ。
 だからこそ、距離を置いた。離れれば少しはこの気持ちが薄れるのではないかと。
 だが──
「歳三さん! お帰りなさい!」
 試衛館の玄関に入ったとたんだった。
 たまたま廊下にいた少年がそれを見つけ、満面の笑顔で駆け寄ってきた。
 思わずいつもどおり両手を広げた歳三の腕の中に、勢いよく飛び込んでくる。細い腕できつく抱きつかれた。
 腕の中にすっぽり収まってしまう小さな体が、何よりも愛しい。
「すごく久しぶりですね! でも、嬉しいっ、歳三さんが来てくれるのずっと待ってたの」
 宗次郎は顔をあげ、にっこり笑った。
 大きな瞳がきらきらして、つやつやした桜色の唇が可愛かった。この少年の虜にされてしまっている男を篭絡させるには十分な笑顔だった。
 思わずその場で口づけそうになったが、歳三は何とか踏みとどまると笑い返してやった。
「……悪かったな、ちょっと忙しかったんだ」
「お仕事? じゃあ、仕方ありませんね」
 そう言ってから、宗次郎は歳三の手をとった。細い指でぎゅっと握りしめてから、躊躇いがちな口調で言った。
「あのね、今度は……いつまで?」
「え?」
「だから、その、いつまでいてくれるの?」
「あぁ……そうだな。そんなに長くはいられねぇかもな」
 本当は別に用もないのだが。
 ここにいると、どんどん自分がおかしくなっていきそうだったのだ。
 歳三の言葉に、宗次郎はふっと瞳を翳らせた。が、それに彼が気づくより先に顔をあげると、また花のように笑ってみせた。
「残念。でも、来てくれただけでも嬉しいから」
「……」
 歳三は思わずその笑顔から目をそらせた。
 無邪気で可愛い笑顔に、激しい衝動と酷い罪悪感を覚えたのだ。とんでもなく自分が悪人で汚れてる気がした。
 何もかも、己だけのものにしたかった。
 このさらさらした髪も、大きな瞳も、桜色の唇も。小さな細い体のすべて、その心までも自分だけのものにしてしまいたい。
 そんな、まるで女にむけるような恋心と欲望を──いや、それとも違う、もっと激しくて刹那的な感情を抱いてしまうなんて。
 こんな子供の宗次郎を相手に、俺はいったい何を考えているんだ。
 気の迷い。そうだ、気の迷いのはずなのに……。
 きつく唇を噛みしめたまま自分にそう言い聞かせる彼を、宗次郎が淋しそうな瞳で見つめていたことなど、気づく由もない歳三だった。
 


 

 その夜のことだった。
 もう休もうとしていた歳三は、ふとふり返った。思わず眉を顰めてしまったが、すぐいつもどおりの表情をつくった。
「……何だ、またか?」
 からかうように、縁側に立った少年にむかって呼びかけた。
 布団の上で胡坐をかき、意地悪な笑みをうかべて首をかしげてやる。それに、宗次郎はぷうっと頬をふくらました。
「またって、歳三さんが来る時だけだもの」
「一人で寝るのがいやだって、おまえ幾つだよ」
「十一才」
 そう答えてから、宗次郎は拗ねたような口調で言った。ぎゅっと腕に抱えた枕を抱きしめる。
「もう、いいです。若先生と寝てくるから」
「……嫌だと言ってないだろ」
「だって、歳三さん意地悪言うから」
「わかった、悪かった。ちょっとからかっただけだ。ごめん」
 かるく頭を下げてみせてから、歳三は顔をあげた。とびきりの笑顔をうかべると、優しく両手をさしのべてやる。
「ほら……おいで」
「うん」
 宗次郎は嬉しそうに部屋へ入ってきた。迷いなく歳三の膝上にあがると、ぎゅーっと抱きついてきた。
 不意に小さな声が囁いた。
「どこへも行かないでね、朝までいてね」
 それに歳三はちょっと目を見開いた。
「今頃、俺がどこへ行くって言うんだ」
「花街行って女の人と遊んだりとか」
「……あのなぁ、そういう台詞は十年早いぞ」
「じゃあ、十年たったら言っていいの?」
「いや、そういう事じゃなくて」
「私、覚えてて、ちゃんと言ってあげますから」
 きゃっきゃっと楽しそうに笑う宗次郎に、歳三は苦笑した。
 無邪気な子供相手に何を言っても始まらないのだ。宗次郎を腕の中に抱くと、布団の中に体を滑こませた。
「ほら、もう寝るぞ」
「はーい」
 明かりを消して、布団をかけて。
 歳三の腕の中、宗次郎は小さくあくびをした。そして、「おやすみなさい……」と言ったかと思うと、もうすやすや眠り始める。
 それを歳三はちょっと複雑な表情で見下ろした。
(十年たったらか……)
 その頃には、自分たちはいったいどうなっているのだろう。その時も、自分はこの少年の傍にいさせてもらえるのだろうか。
 ……俺はいったい何を望んでいるのだろう──?
 歳三は小さくため息をもらすと、腕の中の少年をそっと抱き寄せたのだった。

 


 
 翌日はよいお天気だった。
 真っ青な空に飛び回る雲雀の声も賑やかだ。
 いつもと変わらない試衛館の朝。だが、その日はちょっとだけ違った。宗次郎が朝から台所に閉じこもりっぱなしだったのだ。
 朝、少し稽古しただけで、あとはもう台所にずっと篭っている。そっと覗きにいった近藤の話では何か作っているらしいのだが、いったい何なのかさっぱりわからなかった。
 とうとう自分で確かめようと決めた歳三が行ってみると、ふわっと甘い匂いが漂ってきた。
「……宗次郎?」
 台所には甘い匂いがひろがっている。砂糖と醤油と油の匂い。
 それは懐かしい、けれどよく知っている匂いだった。
 だが、そこには宗次郎の姿はなかった。ぐるりと土間を見回した歳三は、上がった板間のところで眉を顰めた。
「宗次郎?」
 こちらに背をむけて、宗次郎がちょこんと坐っていたのだ。だが、その小さな背は何だか悲しそうだった。
 挙句、呼びかけた歳三の声に、びくんっと肩を震わせた。
 歳三は板間にあがると、宗次郎の傍に膝をついた。そして、その可愛い顔を覗きこんで──次の瞬間、深く息を呑んだ。
「……どうしたんだ」
 宗次郎は果実のような唇をぎゅっと噛みしめていた。
 そして、驚いたことに、大粒の涙をぽろぽろ零していたのだ。
「おまえ、何があった!? いったい、どうしたんだ」
 歳三は宗次郎の涙に胸が息苦しいほど痛むのを感じながら、その小さな細い背に手をまわした。どうしたらいいのか分からないほど、辛くて仕方なくなる。
 それに、宗次郎は俯いた。可愛い唇から、小さな小さな声が絞り出された。
「……お稲荷さん……」
「は?」
「お稲荷さん……だめだったの……」
「?」
 意味がわからず、歳三は眉を顰めた。
 ふと、その視線が宗次郎のものを追うように手元へ落ちた。
 宗次郎の手には皿があり、その上に小さな稲荷がのっていた。齧られたあとがあったから、味見でもしていたのだろう。
「これは?」
「……お稲荷さん」
「そりゃ、見ればわかる。けど、これ、おまえが作ったのか?」
「うん……だけど……」
 宗次郎はぎゅっと皿をもつ指に力をこめた。また、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「駄目だったの……すごくまずくなっちゃたの。辛くて食べれない……」
「初めて作ったんなら仕方ねぇだろ。けど、そんな事ぐらいで泣くなよ」
「だって……っ」
 宗次郎の涙声が震えた。そして、皿を膝に置いたまま、わぁっと泣き出してしまう。
 しゃくりあげて泣く宗次郎に驚いた歳三は、おろおろと両手をのばした。慌てて抱き寄せ、その背中を優しく撫でてやる。
「ごめん、俺のいい方が悪かった。そうだな、おまえには大切な事だったんだな」
「うん……だって、だって……と、歳三さんが……っ」
「? 俺?」
「歳三さん……が、食べたいって言ってたから、昨日、だから……っ」
「……」
 しばらくの間、歳三は呆然と宗次郎を見下ろしていた。
 はっきり言って、そんな事を言ったことさえ完璧に忘れていた。だが、確かに言った覚えはある。
 何気なく、稲荷が好きだ、急に食べたくなっちまったなぁと。
 しかし、まさかそれを聞いた宗次郎が、わざわざ稲荷を作ってくれるとは、思ってもみなくて──
「宗次郎、おまえ……」
 あまりの嬉しさに幸せに、歳三は思わず微笑んでしまった。
 ちょっと気恥ずかしく、くすぐったいような──甘酸っぱい想いで、胸の中がいっぱいになった。
 まだぐすぐす泣いてる宗次郎を腕の中にぎゅうっと抱きしめ、そのなめらかな頬に唇を押しあてた。
「おまえ、めちゃくちゃ可愛いな」
「歳三さん……」
「俺のために、朝から頑張ってくれたのか。すげぇ嬉しいよ、ありがとう」
 そう言って、歳三は皿を取り上げた。
「あっ、だめ!」
 慌てて止めようとする宗次郎にも構わず、さっさと齧りかけの稲荷を口の中に放り込んだ。
 噛むと、甘辛い味が口の中いっぱいに広がる。
 確かにお世辞にもおいしいとは言えなかった。宗次郎の言うとおり、辛すぎだ。
 だが、それでも宗次郎が彼のために一生懸命つくってくれたものだと思えば、不思議とおいしく感じられた。
(これも惚れた弱みって奴だな)
 不安そうにじっと見ている宗次郎に、歳三は優しく微笑みかけた。
「確かに辛ぇが、けっこう旨いぜ」
 そう言った歳三に、宗次郎は目を見開いた。しばらくじっと彼を見ていたが、やがて小さな声で言った。
「……歳三さん、ごめんなさい……」
「何が」
「頑張るから。歳三さんのために……もっと頑張るから」
 宗次郎は俯いた。
 そして、幼い子供ながら懸命で必死な様子で言った。
「だから、お願い。ずっと……一緒にいて下さい」
「……」
 その瞬間、歳三は、宗次郎がこれを作った意図を察した。
 おそらく、最近めったに試衛館に寄りつかない歳三を引き止めるため、稲荷を作ることを思いついたのだろう。
 歳三はそっと手をのばし、宗次郎が膝上でぎゅっと握りしめている手を優しく握ってやった。びっくりしたように顔をあげた宗次郎を見つめ、そして、静かな声で囁いた。
「……頑張らなくていいんだ」
「歳三さん……」
「そんなに頑張らなくても、俺はおまえの傍にいる。今のままのおまえでいいから、それで構わねぇんだから」
「……」
「俺はさ、おまえがいつも俺の傍で笑っててくれたら、すげぇ嬉しいんだ。それだけで……幸せなんだ」
 宗次郎の綺麗な目が大きく見開かれた。
 それに歳三は微笑み、静かに身をかがめた。なめらかな頬を両手で優しく包みこんだ。
 ……愛してると。
 おまえが誰よりも好きだと。
 そんな事を告げられる日がくるかどうか、わからない。
 いつか汚してしまうかもしれない。傷つけてしまうのかもしれない。
 だが、それでも自分にもう嘘はつけないから。
 誰よりも、ずっとずっといつまでも。
 おまえだけを愛してるから……。
「宗次郎……」
 そっと唇を重ねた。
 甘い甘い口づけ。
 髪に頬に瞼に口づけてから、耳もとに唇を寄せた。柔らかな髪を撫でてやりながら、そっと囁きかけた。
「……約束する」
「……」
「おまえの傍にいるよ、ずっとずっといつまでもな」
「歳三さん……」
 不意に、宗次郎が細い両腕をのばし、歳三に抱きついてきた。ぎゅっと抱きつき、また泣きじゃくる。
 その背中をぽんぽんと優しく叩いてやった。
「もう泣くな。それより、俺の好きな笑顔を見せてくれ」
「……うん」
 宗次郎は涙を両手で拭うと、顔をあげた。そして、まだ涙をためた瞳のまま、笑ってくれた。
 ぱっとそこだけに陽が射したような、花のような笑顔。
 それがたまらなく可愛くて。
 何よりも愛しくて。
 この笑顔を守るためなら、何でもできるだろうと思った。
 きっと、どんな酷い事でも汚い事でもできるのだろう。
 そう。
 何があっても、どんなに辛い事があったとしても。
 いつでも。
 その瞬間だけは、誰よりも幸せになれるのだ。
「……宗次郎」
 誰よりも愛しい少年の名を呼ぶと、歳三は優しくその体を抱きしめた。
 そして、生まれて初めてだと思うほどの幸せな気持ちのまま、静かに目を閉じたのだった。

 
   ……そうだ
   ずっと戦ってゆける
   どこまでも一緒に走ってゆける
   そして、誰よりも幸せになれるんだ
   ──きみが笑ってくれるなら











 

[あとがき]
 何かもう言い訳致しません。ちょっと切なめになってしまいました。うっちーさま、ごめんなさい! どこが日常なんだ、ほのぼのなんだってお怒りにならないで下さい〜。
 歳三さん、恋心を自覚する編です。最後の詩なんて、気障すぎて笑えます。ううっ。でも、このタイトル一度使ってみたくて。とにかくもう、うっちーさま、すみませんでした。もう煮るなり焼くなり好きになさって下さい。
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