冬の日射しが眩しかった。
 ここ最近にしては珍しくあたたかい日だ。近いうちに雨でも降るかもしれなかった。
 総司は井戸端で水を汲み上げ、はぁっとため息をついた。
 先ほどまで道場で稽古をつけていたため、体が濡れている。早く汗を拭い、着替えるべきなのだが、どうしても手早くできなかった。
 今朝から何度も何度も考えているのだ。
 この佐藤家の屋敷には出稽古にやってきていた。それも初めは総司だけの予定だったのだが、直前になって近藤も同行することになったのだ。
 驚く総司に、近藤は挨拶に行くのだと説明した。
(……挨拶、か)
 今度、試衛館の面々は京へ上ることになっていた。将軍家上洛の護衛に浪士隊が結成され、それに参加したのだ。多額の金が支給されることになっていたが、武士として働けるということが、近藤たちにとっては何よりも魅力だった。
 総司にしても嬉しかった。彼自身は武家の出だったが、喜ぶ彼らの姿に心が弾んだのだ。だが、それも近藤にある言葉を告げられるまでだった。
「──総司、おまえはここに残れ」
 一瞬、聞き間違いかと思った。
 この佐藤屋敷についてからすぐ、近藤から告げられた言葉。
 呆然としている総司に、近藤は静かに諭すようにつづけた。
「おまえはおれたちと違い、武家の出だ。京へなど行くこともない。ここで道場を切り盛りしてるうちに、様々なよい話もあるだろう。げんに、おまえの腕を聞きつけた先から養子や師範代の話もきている。それを受けた方がおまえの幸せになるだろう」
「……私の、幸せ」
「そうだ。おまえはおれたちとは違うのだ」
「───」
 総司は打たれたように目を見開いた。
 違う。
 自分はこの人たちから、そんなふうに思われていたのだ。
 一生、一緒だと思っていたのに。
 同じだと信じていたのに。
 試衛館に来て、この人たちと会って。だい好きになって。
 やっと自分の居場所を見つけられたと、そう思っていたのに。なのに……。
 俯いた総司は、膝上においた手をぎゅっと握り締めた。絞り出すような声で、小さく問いかけた。
「……それは、土方さんもですか……?」
「歳か」
 腕組みし、近藤は頷いた。
「あいつも同じ考えだと思うが、なんなら自分で聞いてみるがいい。今夜は帰ってくるらしいからな」
 自分がどんな残酷なことを言っているか知らず、近藤は鷹揚に答えた。
 それに総司はきつく唇を噛みしめた。
 聞いてみて。
 あの人に、どう思うか聞いてみて……それで、冷たく拒絶されたら?
 近藤と同じだと。
 まるで当たり前のことを聞くなと言わんばかりに、そう言われてしまったら?
 いったい、私はどうすればいいのだろう。
 どうやって、これから生きてゆけばいいのだろう。
 怖くて考えられなかった。そんなことできないと思った。
(どうしよう? もしも、土方さんに見捨てられたら……)
 総司は井戸端でのろのろとうずくまった。
 子供のように両膝を抱え込み、その上に顔を伏せた。
 幼い頃から彼に憧れていた。
 初めて樹木の上から抱き下ろしてくれた時から、好き好きでたまらなかった。
 笑顔をむけられ、彼の優しさにふれてからは、もう夢中だった。
 ただ、あの人のためにありたくて。
 彼にふさわしい存在になれるよう、それだけを思って生きてきた。
 あの人に必要とされている、大切だと思ってくれている。そんなことを彼のふとした言葉や仕草から感じられると、嬉しくてたまらなかった。
 土方が傍にいる時はいつでも幸せだった。
 逆に彼がいない時は淋しくてたまらなくて。
 その感情が恋だと知ったのは、十四の時だった。絡みつくような彼の熱い視線に怯えているうちに、逆にそれを求めている自分に気づき、そして──知ったのだ。
 彼が好きだと。
 この世の誰よりも、この人が好きなのだと。
 なのに。
(私はあなたの傍にいたらいけないの? もう一緒にいられないの……?)
 総司はより両膝を抱え込むと、きつく目を閉じた。
 

 

 
「……おい、総司」
 誰かが肩をゆさぶっていた。
 何度も、だが、柔らかく優しく。
 少しずつ覚醒しつつあったが、それでも目を閉じていると、彼はため息をついた。
「ったく、仕方ねぇなぁ」
 そう言いながら、総司の腰と膝裏に腕をまわしてくる。次の瞬間、ふわりと抱き上げられた。
 さすがに総司は目が覚めた。
「ひ、土方さん……!」
「あぁ、目が覚めたか。あんな所で寝てると風邪ひいちまうぞ」
 そう笑いながら、土方は総司を抱いたまま、さっさと縁側にあがり歩いてゆく。総司は慌てた。
「ちょっと……おろして下さい! もう子供じゃないんだからっ」
「まだ十九歳だろ? しっかり子供だよ」
「大人です!」
 ばたばた暴れる総司を軽々と抱え、土方は部屋に入った。着やせするのでわからないが、本当はとでも逞しい体をもっているのだ。華奢な総司が叶うはずもなかった。
 そっと畳の上に下ろされ、総司はようやく息をついた。
 それでも拗ねた顔でそっぽをむいていると、かるく頬に口づけられた。
「何を怒ってるんだ。わざわざ運んでやった俺に対して、礼もなしかよ」
「……ありがとうございました」
「全然、気持ちこもってない」
「だって、気持ちありませんもの」
 すかさず言い返すと、土方はくすくす笑いながら、また口づけてきた。それを両手で押しのける。
「もうっ……ここ、試衛館じゃないんですよ。おのぶさんに見つかったら、どうするんです」
「どうしようかな。やっぱり下心ありますって白状しちまうか」
「下心?」
 きょとんとした総司に、土方はくっくっと喉を鳴らして笑った。
「覚えてないのか? ずっと昔、言われただろ。姉貴に、俺が下心があっておまえに優しくしてるんだって」
「そんなこともありましたね」
 なんだか、随分、遠い昔のような気がした。いや、実際、もう十年近く昔のことなのだ。
 あれから様々なことがあったけれど、自分と彼の関係は何も変わっていない。
 下心なんて全然なく、相変わらず彼にとって自分は可愛い弟分なのだ。
 でも、それでも構わなかったのに。この人の傍にいられるなら、もう何でもよかったのに。
 沈黙してしまった総司を、土方は静かに見つめた。
 彼も何を考えているのか黙り込んだまま、ゆっくりと総司の頬を指さきで撫でている。
  見上げると、深く澄んだ黒い瞳がじっと見つめ返した。
「……総司」
 不意に低い声で呼ばれ、総司はびくりと体を震わせた。
 目を見開き、じっと彼だけを見上げている。それを見下ろし、土方は一瞬、苦しそうに顔を歪めた。
 だが、目をそらすと、総司の頬を撫でていた手を下ろした。何かを堪えるように、ぎゅっと握りこむ。
「……おまえ、近藤さんから話を聞いてるな」
「───」
 総司は息を呑んだ。
 やっぱり、あの話なのだ。
 あの話をこの人はしようとしているのだ。
「俺も近藤さんとよく話しあった上で、決めた。だから、これはもう決定した話なんだ」
「………」
 体中が激しく震え出した。
 耳奥でキーンという鋭い音が鳴り出す。目の前にいる土方がひどく遠く感じた。
 何もかも紗がかかり、まるで薄い布にでも隔てられているようだ。
 その向こうから、愛しい彼の声が聞こえてきた。
「総司、おまえは京に連れてゆけない。ここに残るんだ」
 低い声だった。
 どこか掠れた、優しくさえある声。
 だが、それは総司のすべてを壊す声だった。
 すべてを奪う、残酷な言葉だった。
「……おまえは俺たちとは違うんだ」
「───っ」
 掠れた悲鳴が喉奥からもれた。 
 そして、次の瞬間。
 総司は気を失い、まるで花が手折られるように倒れたのだった。
 

 
 

 はっと近藤は顔をあげた。
 何か異様な叫び声が屋敷の奥から響いてきたのだ。
 くり返し、くり返し。
 それは親友の声であり、そして、自分の愛弟子の名を呼ぶ叫びだった。
「歳!」
 慌てて近藤は走り出した。声が聞こえる部屋へと駆け込むと、まず土方の背中が目に入った。
 腕の中に華奢な少年の体を抱きしめ、激しくゆさぶっている。狂ったように総司の名だけを叫んでいた。
 取り乱し、入ってきた近藤にさえ気づいてないようだった。
「歳、いったいどうしたんだ」
「……っ」
 土方はぐったりとした総司を両腕に抱きしめたまま、顔をあげた。いつも冷静な彼が完全に己を見失っている。その端正な顔は青ざめ、唇が震えていた。
「総司が! 総司が、目を覚まさねぇんだ……っ」
「目を覚まさないって、いったい何が」
「わからねぇよ! いきなり昏倒して、それに息も細いし、体が氷みたいにどんどん冷たくなってくんだ。なぁ、こいつ、死んじまうのか!? そんな事になったら、俺は、俺は……っ」
「落ち着け、歳。とにかく医者を呼んでこよう、話はそれからだ」
 近藤は足早に部屋を出ようとしたが、そこで飛び込んできたおのぶとかち合った。手短に事情を話すと、すぐさま医者を呼んでくれた。
 医者が来るまでの間、土方は総司を決して放そうとしなかった。
 褥に寝かそうと言ったのだが、黙ったまま首をふり抱きしめていたのだ。
 時折、総司の耳もとでその名を呼び、手のひらで肌をさすっていた。何とか総司を呼び戻そうとするかのように。
 だが、総司の目は固く閉ざされていた。長い睫毛が青ざめた頬に翳りをおとし、ぞっとするほどの美しさだ。淡く開かれた唇がまるで花のようだった。それにも土方は手をのばし、指さきでなぞった。
 何度も何度も。
  恋人にあたえる行為のように。
「……歳、おまえ」
 思わず問いかけた近藤に、土方が黒い瞳をあげた。鋭く見返してくる。
 その様は、まるで傷ついた仔を守る獣のようだった。この世の何を敵にまわしても構わないと、男の表情が物語っていた。
 近藤は何も言えず、嘆息した。
 
 

 

 医者が来て、ある程度の手当てはしてくれた。
 だが、結局は発作のようなものだとされ、あとは本人が目覚めるのを待つだけだという事になった。
「近藤さん」
 ようやく落ち着いた声で土方は呼びかけた。
 それに頷き、近藤は腰をあげた。総司が寝かされている部屋から少し離れると、襖を固く閉ざした。
「いったい、何があったのだ」
 そう問いかけた近藤に、土方は視線をおとした。
「例の話をしたんだ」
「京へ連れてゆけないことか」
「あぁ、それから最後に、おまえと俺たちは違うと言ったとたん、昏倒しちまった」
 土方は目を閉じ、くしゃっと片手で前髪をかきあげた。
「なぁ……近藤さん、俺たちが間違ってたのか」
「歳」
「あいつのためにと思った。あいつの幸せだけを願った。だが、それは……あいつには苦痛だったんじゃねぇのか。押し付けだったんじゃねぇのか。本当の幸せなんて、本人にしかわからないのに」
「だが、歳……京は危険だ。それに、あいつはまだ十九だぞ。子供だ」
「子供じゃねぇよ。あいつはもう十九だ。いや、そんなことじゃない、俺はあんたよりずっと長く総司を見てきた。この手で育てたも同然だ。だが、あいつは初めから子供じゃなかった。いつでも気を使って、俺たちに好かれるよう頑張っていた。子供であるべきだったのに、そうでなくしたのは俺たちだ。だったら、その責任を最後までとるべきなんじゃねぇのか」
「京に連れてゆくというのか」
 苦々しく呟いた近藤の前で、土方はいきなりその場に膝をついた。頭を畳に擦りつけた。
「頼む、近藤さん……!」
 彼にしては珍しい、必死な声音だった。
「あいつを連れてゆかせてくれ。もうこれは総司のためだけじゃない、俺自身が我慢できねぇんだ! 一日だってあいつを手放せないのに、置いてゆくことなんか、はなから出来るはずもない。この話がでてから、俺はずっと堪えていた。あいつの幸せのためだと、何度も自分に言い聞かせていた。だが、あいつが俺たちと共にあることを望むなら、俺はもう自分の想いを殺さねぇ」
「歳……」
「俺はあいつを連れてゆく。あんたが誰が何を言っても、絶対に連れていってやる……っ!」
「………」
 半ば呆然としたまま、近藤は土方を見下ろしていた。
 これほど激した親友を見るのも久しぶりだった。ここまで自分の気持ちを暴露したのも。
 人一倍、矜持の強い彼が親友相手であれ、頭を下げているのだ。そこにどれ程の想いがあるか、いくらそういった事に疎い近藤でもわかることだった。
 近藤は諾と告げるため、口を開こうとした。
 その時だった。
「近藤先生、歳……!」
 突然、おのぶが部屋に飛び込んできた。いつもどっしり構えている彼女らしくもなく、慌てきっている。
 それを見た瞬間、土方は何が起こったのかわかった。
「姉さん、総司が……!?」
「今見にいったら、どこにもいなくて! 屋敷内にもいないのよ。いったい、どこに……っ」
「すぐ手分けして探そう」
 慌しく近藤と土方は飛び出した。生憎、もう夜でしかも雨が降り出している。今はまだそれ程でもないが、これから雨脚が強くなりそうな気配だった。
 土方は傘もささずに走り出した。
 雨の夜の中。
 ただ、愛しい少年の姿だけを求めて……。


 

 
 雨脚が激しくなった。
 それに手をのばすと、雫が幾つも落ちてくる。
 総司は雨宿りしていた小屋の壁に凭れ、小さくため息をついた。
 部屋で目を覚まして、まず思ったのは、もうあの人の傍にはいたくないということだった。
 傷つけられた獣が己を守るように、もう二度と彼の言葉に傷つきたくなかったのだ。
 ……あの人に必要とされていなかった。
 大切に思われている、好いてくれている──そう思ったのは、全部、自分の思い込みだったのだ。
 むろん、総司にもわかっている。
 土方が総司の将来を思い、あの言葉を言ったのだろうことは。
 だが、それでも悲しかった。
 総司の幸せを取り違えている彼が。
 何もわかっていない彼が。
 自分のためだと、あんなふうに簡単に突き放すことができる彼が。
 いっそ憎らしいくらいだった。
 いや、本当に憎んでしまえたら、どんなに楽だろう。
 残酷で冷たい人だと思い知らされて、いっそ憎んでしまえたら……。
「……そんなの、できるはずない」
 きゅっと総司は唇を噛みしめた。
 長い睫毛が瞬き、なめらかな頬を涙がぽろぽろ零れ落ちてゆく。
「あの人を、嫌いになんかなれるはずないのに……っ」
 総司はのろのろと両手で顔をおおった。
 その時だった。
 激しい雨音の中に、別の音が響いた。
 誰かが駆けてくる音だ。そして、聞き間違えようのない声。
 はっと総司は息を呑んだ。
 一瞬、どこかへ身を隠そうかと思ったが、そんなことしてもすぐ見つかってしまう。総司は急いで小屋の屋根下から飛び出し、反対方向に思い切り走り出した。
 そんな総司の姿を見つけたらしく、足音はより速まる。彼の声が総司を鋭く呼んだ。
 だが、決して総司はふり返らなかった。ふり返ることができなかった。
「……総司ッ!」
 たちまち総司は追いつかれ、背後に土方の足音と声が迫った。
 とたん、道の窪みに足がとられる。あっと思った瞬間、体が傾いだ。が、その細い体は力強い腕に抱きとめられ、ぐいっと引き戻された。
「総司……!」
 見上げると、当然のことながら土方もずぶ濡れだった。いや、彼の方が酷いくらいだ。
 冬の雨に打たれながら汗だくになり、激しく肩で息をしている。そのことから、彼がどれほど長い間、探し回っていたかがわかった。
 少し怒ったように眉を顰め、濡れたような黒い瞳で総司をじっと見つめている。その手は痛いほど総司の腕を掴んでいた。少し身を捩ったが、より強く引き寄せられただけだった。
「放して下さい」
 総司はできるだけ感情を出さないように言った。それに土方は首をふった。彼が口を開くと、唇から白い息がもれる。
「駄目だ。放したら、また逃げるだろう」
「あたり前じゃないですか。私は自分の意思で外へ出たんです、こんなふうに捕まえられる理由なんかない」
「………」
「それとも何ですか、私みたいな子供にはそんな自由もないと言いたいのですか? 勝手に何もかも決めて、私の人生なのに、私自身のことなのに……!」
「やっぱり、おまえ……それが原因で倒れたのか。そんなにも京へ行きたかったのか」
 土方の言葉に、総司はカッとなった。
 何もわかってない彼の、的外れな言葉が腹ただしかった。
 京へ行くかどうかなんて、そんなこと全然違うのに。もっと大切なことがあるのに。
「土方さんは何もわかってない!」
 総司は思わず叫んだ。
「あなたなんかが、私の気持ちをわかるはずないんだ。わかろうともしてないのに、いつも子供扱いして、私の本当のこと全然見てくれなくて……っ」
「総司……」
「京へ行くか行かないかなんて、そんなのどうだっていいんです。私は、あなたと離れたくないだけなのに……っ!」
「!」
 土方の目が大きく見開かれた。
 驚いたように見下ろす土方の前で、総司の目に涙があふれた。ぽろぽろと真珠のように頬をこぼれてゆく。
 ずぶ濡れのまま泣きじゃくる総司は、いとけない子供のようだった。 
「あなたに捨てられたら、私は……どうすればいいの? 子供の頃からずっと、あなただけを見てきたのに。土方さん、あなたの傍にいられるよう、少しでもふさわしくなれるよう、一生懸命頑張ってきたのに。誰よりも、あなたに必要とされたかったのに……っ」
「……俺の…ためだったのか。こんな俺のために、おまえは……っ」
 低く呻いた土方の胸もとに、総司は抱きついた。彼の濡れた着物にしがみつき、泣きじゃくった。
「捨てないで! お願いだから、私を放さないで。それとも、もう私なんか必要じゃない? もういらないの……っ?」
「総司、俺は……」
 答えかけ、土方ははっと我に返った。
 腕の中の総司の体は冷え切っている。もともとあまり丈夫でない総司を、このまま冬の雨に晒しておく訳にはいかなかった。
 その体に腕をまわし、強引に小屋へむかって歩き出した。
 見上げた総司に、口早に告げた。
「とにかく、話は後だ。あの小屋へ入ろう」
「………」
 総司は目を伏せると、黙ったままこくりと頷いた。
 
 

 

 小屋というより小さな家だった。
 今は誰も住んでないらしく、物らしいものは何も無い。
 だが、それでも板間の真ん中には囲炉裏があったので、すぐさま土方は火を起こし始めた。あちこちに転がっていた板を放り込み、火打石で火をつけた。たちまち、小屋の中が茜色のあたたかさに満たされる。
「総司、着物を脱げ」
 土方は自分のずぶ濡れの着物を脱ぎ捨てながら、言った。総司はちらりと目をあげたが、ぎゅっと唇を噛んで首をふった。
「何、意地はってんだ。そのままじゃ風邪ひいちまう、さっさと脱ぐんだ」
「………」
 総司はため息をつくと、着物を脱いだ。すらりとした白い肢体が、土方の目を惹きつける。が、すぐ彼は目をそらせた。
 黙ったまま総司の着物を受け取って固く絞り、かるく火の上で乾かしてやってから返した。土方のものに比べれば、総司の着物はまだましだったのだ。総司は目を伏せ、その着物をすばやく身につけた。
 土方は自分も固く絞った着物をかるく羽織ると、囲炉裏の傍に腰をおろした。それにならい、総司もすぐ隣に座る。
 しばらくの間、二人は押し黙っていた。
 雨音と火の爆ぜる音だけが小屋の中に響く。
 やがて、不意に総司が小さく声をあげた。
「……あ」
 それに土方は視線をむけた。
「何だ」
「おのぶさんや近藤先生……心配してるんじゃ……」
「あたり前のこと、今更言うなよ。だが、まぁ安心しな。俺一人で探すと言って、みんなには帰ってもらったからさ」
「どうして?」
 驚いたように目を見開いた総司に、土方は苦笑した。
「たぶん、俺が原因なんだろうなと思ったんだ。俺のせいでおまえは傷ついてるんだろうって」
「………」
「だって、そうだろう……?」
 土方は手をのばし、総司の濡れて額にはりついた髪をそっと指さきでかきあげてやった。そのまま、優しく額に口づけを落としてやる。
「おまえが苦しんだり傷ついたりするのは、いつだって俺のことだった。今までだってそうだし、これからもきっとそうだろう。いや……もしかしたら、この先の方がそうなのかもしれない。おまえは俺のせいで、もっと傷つけられて……」
 彼の黒い瞳に、躊躇いと苦渋の色がうかんだ。
「おまえは後悔するのかもしれねぇな。こんな俺を選んじまったことを、俺と一緒に歩もうと決めたことを。いつか、この夜の事を、深い後悔の中で思い出すのかもしれない……」
 いったい、どんな予感が彼を捉えていたのか。
 この先にある修羅を、どれほどわかっていたのか。
「私は……っ」
 ぎゅっと総司は両手を握りしめた。
 今にも叫び出しそうだった。
 それでも後悔しないのだ──と。
 どんなに傷ついても苦しんでも、それが彼ゆえであるのなら構わない。
 自分で決めたことだから。
 彼の傍にあることは、もうずっと昔に選びとっていたのだから。
「土方さん、私は……」
 言いかけたとたん、土方の低い声にさえぎられた。
「……それでも」
 いったん言葉を切った。
 その黒い瞳で総司をまっすぐ見つめ、一息に告げた。
「俺は、おまえについて来て欲しいんだ」
「………」
 大きく目を見開いた総司に、土方は手をのばした。そのなめらかな頬を手のひらでつつみこんだ。深く瞳を見つめあう。
 一言、一言、言い聞かせるようだった。
「身勝手だとわかってる。おまえの幸せを考えたら、とんでもない話だ。さっきも言ったように、おまえと俺は違う」
 びくりと総司の体が震えた。
 それに土方はため息をついた。
「わかってる、この言葉がおまえを傷つけたんだな。だが、やっぱりおまえは武家の出だ。今の時代じゃ身分だけがものをいう。俺とおまえの間には歴然とした差があるんだ」
「そんな……土方さん……」
「いいから黙って聞けよ。総司、俺はな、そんな全てから抜け出したいと思っている。昔は武士になりたいとしか思ってなかったが、今は正直、そんな事どうでもいいんだ。それより、俺は俺自身を試したい。今の世の中で俺という男がどこまで通用するのか、どこまでやれるのか自分の力を試してみたいんだ。そのためには、今度の話がうってつけだった。とにかく、今までと違う何かがあるはずなんだからな」
 熱っぽく話しつづける土方を、総司は見つめた。
 その黒い瞳をきらきらさせ、頬を紅潮させて話している彼は、まるで少年のようだ。普段の怜悧さはどこかへ消えうせ、今そこにいるのは、仄かな憧れと決意にあふれ、誰よりも熱っぽい瞳をしている男の姿だった。
「俺はおまえを当然つれてゆくつもりだった。一緒に行かねぇなんて考えもしなかったよ。だから……近藤さんに残すと聞かされた時、がんって頭を殴られたみたいだった。どうしようと思った。いっそおまえを浚っちまおうかと思ったよ」
「土方さん……」
「だが……俺は近藤さんの言葉に反論できなかった。おまえの幸せのためだと言われて。大切なおまえを、無理やり俺の人生の巻き添えにしようとしている。それを暗に責められた気がして、何も言えなかったんだ」
「………」
「だが、俺が間違っていた」
 土方はため息をつき、総司の体を引き寄せた。子供の頃のように膝上に抱き上げ、すっぽりと広い胸のうちにおさめてくれる。驚いて身を起こそうとする総司の背中を、優しくそっと彼の手のひらが撫でた。
「他の何でもない……俺は自分自身のことで間違ってたんだ」
「どういう意味ですか」
「俺は大丈夫だと思っていた。おまえを手放せる、おまえの幸せのためだと男らしく引き下がれると思ってたんだ」
 ふっと土方は苦い笑みを口元にうかべた。
「だが、そんな思い込みは、おまえが倒れたのを見た瞬間、吹っ飛んじまった。頭の中がまっ白になって、無我夢中でおまえの体抱きしめて、俺の方が息つまって死んじまいそうだった」
「………」
「あの時、わかったんだ。俺は全然、大丈夫なんかじゃない。おまえを失ったら生きてゆけない。おまえを手放したくないんじゃねぇ、俺の方がおまえに捨てられたらもう駄目なんだって、いやってほど思い知らされたんだ」
「そんな……」
「なぁ、こんな俺は嫌か? 情けねぇ兄貴分だと鬱陶しくなるか?」
 小さく笑いながら訊ねた土方に、総司は必死に首をふった。
 ぎゅっと胸もとにしがみつく。そんな総司の細い体を土方はきつく抱きしめた。
「どのみち……もう手遅れだ。おまえが嫌がっても、俺が放さねぇ。俺にはおまえが必要だ、おまえがいなきゃ生きてゆけないんだよ。だから、近藤さんにも土下座して頼み込んだ。おまえを連れてゆかせてくれって、必死になって頭さげたんだ」
 総司は目を見開いた。
 この人が土下座するなんて信じられない。
 だが、そんな嘘を彼が自分につくはずもなかった。
 本当に、彼は自分を必要としてくれたのだ。手放したくないと思ってくれているのだ。
 言いようのない歓喜が胸のうちに込み上げるのを感じた。
 嬉しくて嬉しくて、体中が熱くなってゆく。自分でも瞳が潤み、頬が紅潮するのがわかった。
「……土方さん……!」
 思わず男の背中に両腕をまわし、抱きついた。しがみつき、体を擦り寄せる。
 それを土方もすぐ抱きしめてくれたが、しばらくすると柔らかく抱きなおした。総司が楽なように、小さな頭を自分の胸もとに凭れさせる。
「? 土方さん……?」
「少し眠れ。どのみち、この雨じゃ帰られねぇからな」
「でも、土方さんが……」
「俺は大丈夫だ。一晩ぐらいどうってことない」
「でも……っ」
 いいつのる総司に、土方は苦笑した。そっと総司の体を床に下ろして寝かせると、自分もその隣に体を横たえた。添い寝し、腕の中に優しく抱きこんでくれる。
「これでいいだろう?」
 悪戯っぽく笑った土方に、総司は頬を赤らめた。だが、こくりと頷くと、彼の胸もとに顔をうずめた。
 男の着物をぎゅっと掴み、小さな声で言った。
「……どこへも、行かないでね」
「行かねぇよ」
「もう二度と……私を一人にしないで」
 総司の言葉に、土方は目を見開いた。
  しばらく黙ったまま総司を見下ろしていたが、やがて、ゆっくりと微笑った。
「……あぁ、一人にしない。絶対に約束するよ」
「ありがとう、土方さん……」
 優しい男の腕の中、総司はうっとりと吐息をもらした。
 さっきまでの悲しい想いが嘘のようだった。
 この人は、傷つき血の涙を流していた私の心を、彼自身の心で癒してくれたのだ。
「土方さん……」
 縋るようにしがみついた総司を、土方は優しく抱きしめた。
 そっと顔をあげさせ、何度も啄ばむような口づけをあたえてくれる。
 その甘い口づけを受けているうちに、総司はだんだん眠りにひきこまれてゆくのを感じた。
 体中から力が抜け、瞼が重くなってくる。
 それに気づいた土方が、柔らかく髪を撫でてくれた。
「……おやすみ、総司」
「ん……」
「もう二度とおまえを放さねぇから、安心して眠りな。俺の……大切な総司」
 甘く唇を重ねられた。
 そして……
 夢のむこうで、囁かれた言葉。
 幸福な夢の中で。
「………」
 それに、総司は微笑んだ。
 いつでも。
 いつまでも。
 この人だけだから。
 私の心を冷たく傷つけるのも、優しく癒してくれるのも。
 こんな二人の在り方を、人によっては残酷だと思うかもしれないけれど、でも……これでいいの。
 だって、この心は土方さんのものだから。
 この身も心も、この人のためにだけあるのだから───
「……土方さん……」
 総司は彼の名を呼んだ。
 そして。
 まるで傷つけられた獣のように。
 誰よりも残酷で優しい彼の腕の中、そっと体を丸めたのだった……。
 













[あとがき]
 なぎさ様、5000キリ番リクエスト、ありがとうございました!
 さて、このテーマは他所のサイト様でたくさん書かれてるので、頂いた時、うーんと悩みました。どうしても同じになりそうで。でも、えーい、いつもどおり書いちゃえ!と突っ走った結果がこれです。確かに他所様とは違うものになりはしたのですが、なんかすごくヨコシマで不健全な気が……。あぁ、素敵で健全なリクを頂いておきながら、申し訳ありません。
 傷つけられた獣たちは、もちろん、土方さんと総司のことです。二人とも傷ついてるけど、とくに総司の傷は、みんな土方さん故なんだって話。甘いようで残酷な話です。その辺りが少しでも皆様におつたえする事ができてれば嬉しいのですが……。


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