どうした? さっきから黙ったままだな」
 レストランで食事をとりながら、土方は静かな声で訊ねた。
 それに、総司はふっと物思いから覚めたような顔で、彼をふり返った。
「先程からフォークとナイフを手にしたまま、ぼんやり外を見つめていたのだ。
 都会の一角にある、小さな邸宅めいたレストランだった。大きなガラス窓のむこうには緑が広がっている。
 それだけ見ていると、ここが郊外のように思えた。
 二人が案内されたのは緑の中庭に面した、奥まった席だったので、物慣れない総司も落ち着いて食事ができた。
「あ……すみません」
 慌てて謝り、総司は手を動かした。
 それに、土方が僅かに眉を顰める。
「ここの食事、おまえの口にあわなかったのか?」
「ま、まさか」
 総司は首をふった。
「とってもおいしいです。どれも綺麗な盛りつけだし、それに味も優しくて」
「なら、良かった。けど……おまえ、食事はまともに食わせてもらってるのか?」
「食事は、何とか。だって……ぼく……」
 ふっと総司の瞳に、翳りがさした。
「ぼく、早く躯を丈夫にして、何をされても死なないように……」
「総司」
「あっ……ご、ごめんなさい」
 低められた声に土方が怒ったと思ったのか、総司はまた慌てて謝った。
 それに嘆息すると、土方は手をのばした。そっと少年の細い手を握りしめてやる。
 大人の男である彼の手の中で、その手は壊れそうなほど華奢だった。
 テーブル越しに見つめると、潤んだ瞳がそっと羞じらいをうかべ見つめ返す。
(……こんなにも愛しいものを……)
 土方は悔しさに唇を噛みしめた。

 こんなに愛しいこのを他の男が蹂躙するのを、俺はただ黙って見ている事しかできないのか。
 何も出来ず、ただ手をこまねいているのか。 
 そんなこと許せるはずなかった。
 何があっても、俺は総司を守りたいのだ。
 この愛しい存在のためなら、俺は命だって捨てられるのだから。総司を失っては、生きてゆけぬほど愛してしまったのだから。
 不思議、だった。
 こんなにも小さくて、優しげで、可愛らしくて。
 なのに、この少年の表情一つに、まなざしに、一喜一憂してしまう俺がいる。
 愛してる。
 そう囁いても、悲しそうな瞳で俯いてしまうおまえ。
 総司、おまえはわかっているのだろうか。
 この俺が。
 視線一つで大勢の男たちを従わせ、思うままに振る舞ってきたこの俺が、世界中でただ一人──おまえだけに、気がおかしくなりそうなほど夢中だということを。
 そう、夢中なんだ。
 もう何もかも、溺れこんでしまっている。
 愛してる。
 総司、俺のすべてはおまえの手の中だ……。

「……愛してる」
 そう囁きざま、もちあげた手の指さきに唇を押しつけた土方に、総司は目を瞠った。
 驚いた顔でしばらく男を見つめていたが、やがて、ふるりと首をふった。
「そんなこと……云っちゃだめ」
「どうして」
「信じてしまいたくなるから、今の幸せを」
「信じたらいいだろう?」
「だって……今だけ、じゃない。今だけの幸せなのに、そんな大それたこと……望めるはずがない」
 みるみるうちに、総司の目に涙があふれた。なめらかな頬を、ぽろぽろと零れ落ちてゆく。
 綺麗な、綺麗な涙。
 まるで真珠のようだと思った。
 だが、本当は泣かせたい訳じゃない。せめて、自分といる時は、笑っていてほしいのに。
「泣かないでくれ……」
 そっと指さきでぬぐってやった。二人ならんで一緒に坐っているのなら、唇で涙をぬぐいとってやるのに。
「俺はいつもおまえといると、どうしていいのかわからなくなる」
 低い声で、そっと囁いた。
 その黒い瞳で愛しい少年を見つめながら、言葉をつづける。
「俺にとって、おまえは世界中の何よりも綺麗で大切なんだ。今まで出逢った事もない。おまえの一挙一足に、この俺が喜んだり悲しんだりして……自分でも驚くほどだ」
「土方…さん……」
 総司はまだ潤んだままの瞳を彼にむけ、小さく笑った。
「ぼくの方こそ、あなたは今まで逢った中で一番綺麗な人だと思っています。その体も、心も」
「……俺が?」
 心底、土方は驚いたように目を見開いた。呆気にとられた顔で総司を眺めてから、急に声をあげて笑い出す。
 テーブルに肘をつき、くっくっと喉を鳴らした。
「まさか、俺がそんな風に云われるとはな」
「え、云われた事ないのですか?」
「あるものか」
 土方は椅子に凭れかかると、すらりとした足を組んだ。
「俺はやくざなんだぞ。その俺の心が綺麗だなんて、いったい誰が云うと思う?」
「でも、ぼくは本当にそう思うのです」
 総司は頬を紅潮させ、一生懸命に抗弁した。
「あなたはとても優しい人です。それに、とても綺麗な心をもっている。だから、ぼくを……!」
「わかった、わかった」
 土方は尚も笑いながら、総司の言葉を押しとどめた。ちょっと黙ってから、優しい声で云う。
「おまえって、本当に考えることも、云うことも浮世離れしてるよな」
「え?」
「他の誰とも違う。すげぇ変わってる」
「そ、そうですか」
 戸惑う総司に、土方は優しい笑顔で云った。
「ほら……この間おまえが云っていた、あれみたいだ」
「え?」
「ジュリエット。そんな感じだな」
「? よく意味がわからないんですけど」
「だからさ、おまえ……まるで、そのジュリエットみたいだなって云ったんだ」
「ジュリエットみたい?」
 不思議そうに目を瞠った総司を、土方は見つめた。
 その深く澄んだ黒い瞳が愛しげに、たった一人の可愛い恋人だけを見つめる。
「映画とかのせいかな……俺は、ジュリエットにどこか浮世離れしたイメージをもっているんだ。鳥籠の中に閉じこめられた、無垢で純真で、何も知らないお姫様みたいな」
「何だか、変わってますね」
「でも、そうだろう? あの娘は純真で何も知らなくて、無垢で。だからこそ、ロミオと逢った瞬間、恋に落ちたりしたんだ。いや、もしかすると……あれかな」
「え?」
「ジュリエットは、新しい世界へ連れ出してくれるなら、それがロミオでも誰でも良かったのかもしれねぇな」
「……」
 とたん、総司が小さく息を呑んだ。だが、土方は何も気づかなかった。すぐに話題をかえてしまい、食事をつづけてゆく。
 それは総司も同じくだった。土方との心地よい会話や食事に心が浮き立ち、すぐ、自分が何に驚いたのか忘れてしまった。
 ただ、総司の心の奥にちくりと棘が刺さったような痛みが、少しだけ残った……。





 自分をジュリエットになぞらえた事はなかった。
 あれは少女だし、自分は少年だ。
 だが、昔たった一度だけ読んだまともな本だったためか、ジュリエットの事を考えることが時々あった。
 だからこそ、彼の言葉が奇妙なほど頭に残ってしまったのかもしれない。

 だから、ロミオと逢った瞬間、恋に落ちたりしたんだ。
 新しい世界へ連れ出してくれるなら、ロミオでも誰でも良かったのかもしれねぇな。

 本当に?
 ジュリエットはロミオに恋してなかったの?
 やっぱり、一目惚れなんてありえない?
 でも、なら……ぼくは?
 ぼくが土方さんに恋をしたのは、ただ、この悪夢のような場所から逃げ出したかったからなの?
 土方さんの云うとおり。
 新しい世界へ連れ出してくれるなら、誰でも良かったのだろうか──?

(……土方さん……)

 月明かりの中、総司は白いシーツの上で身を丸めると、ぎゅっと目を閉じた……。










 土方と外出した日から数日後だった。
 夕刻、総司は芹沢に呼ばれた。
 入っていってみると、芹沢は葉巻をふかしていた。ふり返り、舐めるような目つきで総司を眺めた。
「もう、だいぶ調子がいいようだな」
「!」
 その言葉に、総司はびくんっと躯を震わせた。芹沢の言葉が何を意味しているのか、わかっているのだ。
 思わず後ずさったが、どこにも逃げ場はなかった。
 怯えた小動物のような総司を眺めながら、芹沢はにやりと笑った。
「そろそろ、おまえを味見してみなくてはな。飼っているペットにかまうのは、当然のことだろう」
「……っ」
「心配しなくとも、殺しはせんさ」
 芹沢は葉巻をもみけすと、ゆっくりと総司にむかって手をのばした。華奢な手首が乱暴につかまれる。
 指が食い込んだ。
 そして。
 芹沢は残忍な歓びにみちた笑みをうかべながら、告げたのだった。

「死んだ方がマシなぐらいの目には、あわせてやるがな……」






 土方は苛ついた表情で車に乗りこむと、先程まで話していた携帯電話を乱暴に放り投げた。
「……くそっ」
 山崎が運転する車が制限速度を遙かにオーバーし、疾走してゆく。
 目的地は、芹沢の屋敷だ。
 事務所へ連絡をつけたのだが、屋敷にいると聞いて仕方なく向かっていた。
 芹沢の舎弟の一人が発砲事件を起こしたのだ。それも、同じ暴力団相手にだった。挙げ句、近藤たちの舎弟を無理やり参加させての仕業だ。死傷者も出ている以上、下手すれば戦争だと、近藤は苦々しげに吐き捨てていた。
 もともと、その発砲事件の相手は、土方が水面下で手を組むことを探っていた佐々木組だった。芹沢組を切り捨てた後、そちらと手を組むことで勢力を拡大させようとしていたのだ。
 まさか、それに勘づいての芹沢の行動ではないかと云った土方に、近藤は首をふった。
「どうやら何も知らんらしい。あっちの新見が驚いていた。勝手に下のものがやったらしいな」
「勝手に、か。上下関係の規律も何もあったもんじゃねぇな」
「もともと、そういう腐った組織だ。仕方あるまい」
 とりあえず、事を穏便におさめる他なかった。でなければ戦争なのだ。土方は残忍な手口で知られる策謀家だが、無駄な血を流すことは嫌っていた。今回のことは手間をかける価値もない。
 屋敷につくとすぐ、土方は車から降り立った。出迎えた平間に聞けば、今さっき知らせが入ったばかりらしい。
 どこまで腐りきっているのかとうんざりしながら、土方は歩みをすすめた。
 リビングへ入ると、ちょうど芹沢が隣室から出てくる処だった。バスローブ姿だ。
 かなり機嫌が悪いようで、顔が憤怒で真っ赤になり醜い。
「まったく、最悪だな」
 苛立った口調で、芹沢は云った。入ってきた土方を、濁った目でじろりと見やる。
「どうせ、そっちの組の者がうちを巻き添えにしたのだろう。責任はとってもらうぞ」
「お言葉ですが、逆です。うちのものが無理に手伝わされたのです」
「その云い草はなんだ。責任をなすりつけるつもりか」
「事実を云ったまでです。こちらとしても、そちらの舎弟の教育にまで責任は持てませんので」
 丁寧な、だが、慇懃無礼な物言いに、芹沢は尚更怒りをつのらせたようだった。
 ふんっと鼻を鳴らす。
「まぁいい。どのみち分ることだ。まったく……おちおち家で楽しんでもおれんな」
「──」
 その言葉に、土方の目が僅かに見開かれた。
 芹沢のバスローブ姿、隣室から出てきた時、僅かに開かれたドアの奥、今の芹沢の言葉。
 それらの事に、突然気がついたのだ。
 まさか、とは思う。
 だが───
 立ちつくす土方の前で、芹沢は踵を返した。
「少し待っていろ。後始末をしてくるからな」
 そう云うと、芹沢は隣室へ入っていった。わざとなのか、扉は閉じられない。
 とたん、くぐもった悲鳴が聞こえてきた。
 それに土方は鋭く息を呑む。
(……総司……!?)
 信じたくない、見たくないという気持ちとは裏腹に、部屋をのろのろと横切った。扉の口から、部屋の中へ視線を転じる。
 それは──薄暗い部屋だった。
 真ん中に大きなベットが置かれ、その上に白い裸身が横たえられてある。
 後ろ手に縛られ、猿轡まで噛まされていた。
 その白い肌には残された、無残なほど痣や傷が痛々しかった。
 顔は青ざめ、涙に濡れていた。華奢な躯が細かく震えている。
「ふん、まだ気を失っておらんのか」
 芹沢は嘲るように呟きながら、総司の両膝を押し広げた。すると、その小さなものに食い込んだ金具が目に入る。何度も無理やり吐精させられたらしいそれは、鋭い金具で傷つけられ血まで流していた。
「っ…ぅっ…ぐっ、ぐ……っ」
 総司が苦痛に喘ぎ、呻いた。
 長い睫毛が瞬き、だが、苦痛に半ば霞んだ瞳がぼんやりと部屋の入り口へ向けられる。
 その、次の瞬間。

「────ッ!!」

 獣のような悲鳴が、部屋の空気を切り裂いた。
 信じられないものを見たかのように、涙に濡れた瞳がそこに呆然と立つ土方を見た。
 激しく首をふり、身を捩って必死に彼の視線から逃れようとする。
 だが、それを芹沢は他の男に見られたゆえの屈辱だと思ったらしく、下卑た嘲笑をあげた。
 そのすべてを、土方は見ていた。聞いていた。
 だが、それは──彼が狂ってゆくための過程だった。
 そして。
 次の瞬間。
 土方の視界が。
 殺意という狂気に。


     ……染まった。












 思ったより大量の出血だった。
 醜く目を見開いたまま、芹沢は巨体を絨毯の上に横たえている。もう死んでいる事は明らかだったし、それにより引き起こされる事態も十分にわかってはいたが、一片の後悔さえ土方にはなかった。
 土方はまだ煙を吐き出している拳銃を握りしめたまま、総司のもとへ足早に歩み寄った。だが、ベットの上、怯えきった様子で後ずさる総司に、慌てて拳銃をホルスターに仕舞い込む。
 ベットに片膝をついて身をのりだすと、スプリングが軋んだ。
 低い声で囁きかけた。
「……大丈夫だ。おまえを絶対に傷つけない」
「っ…ぁ……っ」
「怖がるな。頼むから……俺を怖がらないでくれ」
 まるで小さな子供に話しかけるような口調で云いながら、土方はおそるおそる手をのばした。
 細い肩にふれた瞬間、びくりとその躯が震えたが、逃げることはなかった。ただ身を竦ませ、彼を見つめている。
 それに安堵を覚えながら、戒めを解いていった。
 長時間、金具が食い込んでいた総司のものは血を流し、痛々しい事この上なかった。あらためて、芹沢への憎悪がこみあげる。
「土方…さん……っ!」
 腕を縛っていた縄を解いたとたん、総司が身を投げるようにして土方の躯に抱きついてきた。細い両腕を彼の背にまわし、ぎゅっとしがみつく。
「……土方…さ……ぼく……っ」
「もう大丈夫だ。総司」
 土方は優しく両腕で抱きすくめてやりながら、囁いた。そっと裸の背を掌で撫でてやる。
「助けてやるのが遅くなって、すまねぇ。怖い目にあわせちまって、悪かった……」
「そんなの……でも……っ」
「総司……」
「ご、ごめんなさ…っ」
 総司は啜り泣きながら、首をふった。
「あなたまで……巻き込んで、こんな……」
「……」
「ごめん、なさい……ぼく、ぼく……どうしたら……っ」
 朧気ながら、総司もわかっているのだ。
 土方がその手で芹沢を射殺した。その意味が。
 この事が知られれば、土方は極道者たちの手によって処刑される。何よりも芹沢の舎弟たちが許しておかないだろう。
 近藤もそんな土方を守ってやる事はできない。
 手を組んだばかりの組の組長を、若頭が射殺したのだ。それも、個人的な理由で。
 組長のものに手を出した挙げ句のこんな暴挙が、許されるはずなかった。
 ──裏切りものには、死を。
 それがこの世界の掟なのだ。
「……逃げようか」
 不意に、土方が低い声で云った。
 え?と見あげた総司を、強い意志を宿した黒い瞳で見つめながら、言葉をつづけた。
「ふたり一緒に逃げてしまおうか」
「土方……さん」
「ここにいても、殺されるだけだ。だから、総司……俺と一緒に逃げてくれねぇか」
 そう云った土方に、総司は呆然と目を見開いた。
 やがて、その瞳に涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。
 唇が震えた。
「……つれて…いって、くれるの……?」
「総司」
「ぼくも……一緒に、逃げていいの? 土方さんと一緒にいて……かまわないの?」
「あたり前じゃねぇか……!」
 土方はやるせない程の愛しさに、総司の細い躯を力いっぱい抱きしめた。
「俺はおまえと一緒にいたいんだ。一緒に逃げてほしいんだ!」
「本当に…いいの? ぼくなんかでいいの?」
「おまえでなきゃ駄目だ。俺は、おまえがいないと生きていけねぇんだよ」
「土方さん……っ」
 泣きじゃくりだした総司の頬に、土方は優しくキスを落とした。あの時願ったように、その涙を唇でぬぐいとってやる。
 そうしてから不意に身をひき、部屋の中を素早く見回した。総司が訝しげに目を瞬かせる。
「土方さん……?」
「いや、この部屋にはまともな物がねぇな」
 そう呟きながら、土方は部屋奥のクローゼットをあけてみた。そこには幾枚かのリネンがあるばかりだ。だが、その一枚である白いシーツを抜き取り、土方はばさっと音をたてて広げた。
 小首をかしげながら彼を見ている総司の元へ戻ると、その白いシーツでそっと少年の躯を包みこむ。
「何も着てねぇよりはマシだろう」
「え……?」
「後で服は用意してやるよ」
 そう云った土方は、シーツでくるんだ総司の躯を柔らかく抱きあげた。従順に身をまかせ、その胸もとに小さな頭を凭せかけてくる少年が、たまらなく愛おしい。
 土方は一度だけキスを落としてから、総司を両腕に抱いて歩き出した。
 銃声はサイレンサー付の拳銃だったため、事件はまだ誰にも気づかれてないようだった。少しでも時を稼がなければならないのだ。
 寝室から歩み出た土方は扉をしっかり閉めた。総司の躯を抱えなおすと、足早に歩き出そうとする。
 その時、だった。
「!」
 不意に開かれたリビングの扉に、息を呑んだ。
 立ちつくす土方の前で、一人の男がゆっくりと歩み入ってくる。静かに扉を閉めるその姿に、土方の目が見開かれた。
「……斉藤?」
 理解できぬものを見たように呟いた土方の前で、斉藤はその鳶色の瞳をあげた。
 無表情のまま、二人を見つめてくる。
 それに、土方は鋭い声で訊ねた。
「おまえ……どうして、ここに」
「遅かった訳ですか」
 土方の問いかけに答えぬまま、斉藤は低い声で云った。
「その様子だと、若頭は既に一線を越えられてしまったのですね。……芹沢鴨の遺体は?」
「……」
 一瞬黙ってから、土方は隣室の方へ顎をしゃくってみせた。
「あっちでくたばってるさ」
「成る程、なら、まだどうとでもなりますね」
 そう呟くと、斉藤はスーツの内側から拳銃を引き抜いた。安全装置を音をたてて外すと、すぅっと腕をあげ、そのまま照準をあわせてくる。
 土方の眉が顰められた。
「……いったい何の真似だ」
「その子供を始末します」
「何だと」
「もともとの原因は、その子供にあなたが溺れたことだ。なら、その子供にすべての責任を被せてしまえばいいのです。芹沢鴨はその子供が殺した。そして、それを見つけたオレに射殺された。それで、すべてが上手くおさまるでしょう」
「!」
 土方の腕の中で、総司が小さく息を呑んだ。思わず見下ろせば、怯えきった瞳で見あげてくる。
 それに、土方は抱きしめる腕に力をこめることで、自分の想いを伝えた。
 きっぱり云いきった。
「そんなこと絶対に許さねぇ」
「なら、あなたは破滅するつもりですか」
 斉藤の声に苛立ちがこもった。引き金に指がかかる。
「その子供もろとも? 今までのすべてを捨てて、逃げるつもりなのですか? そんなこと許されるはずがない」
「許しなんか求めてねぇさ。俺は総司を守ってゆくだけだ」
「若頭」
「そこをどけ、斉藤」
「どきません。その子供を始末します」
 斉藤は目を細め、総司に銃の照準を合わせた。とたん、土方が総司を胸もとに強く抱きしめ、己の躯で庇った。躯の角度をかえ、斉藤から少年の躯を隠してしまう。
「若頭……!」
「撃つなら、俺を撃て! 総司は絶対に殺させない……っ」
「考えてもみて下さい。こんな大変な時期なんですよ。あなたまでこんな事件を起こして逃げれば、近藤さんがどれ程の打撃を受けるか」
「……」
「これは、近藤さんへの裏切りでもあるんじゃないですか?」 
「──」
 土方はきつく唇を噛みしめた。
 だが、すぐに低い声ではっきりと答えた。
「俺は何があっても、総司を守る。他の誰を裏切っても殺しても、構わない。俺はもう……総司しか望まないんだ」
「……」
「総司が手に入るなら、他の何をくれてやってもいい」
「……それは」
 斉藤は僅かに躊躇った後、静かに問いかけた。
「あなた自身の命と引き換えにしても、という事ですか……?」
「あぁ」
 きっぱり答えた土方に、斉藤は微かな苦笑をうかべた。ゆるやかな動作でその右腕を下げると、ため息をもらした。
 しばらく黙りこんでいたが、やがて、ぽつりと云った。
「……この屋敷の外です」
「……」
「東へ100メートル行った処に、オレの車が停まっています。それを使って下さい」
「斉藤」
「チャンスは一度きり。次は絶対に見逃しませんから」
 そう云いざま、斉藤は車のキーを土方にむかって投げた。きらりと金属の反射が宙を切る。それを片手で受け取った土方は、掌の中に握り込んだ。
 戸口近くで斉藤とすれ違う瞬間、声をかけた。
「……すまない」
 他にかけるべき言葉がなかった。胸がつまって、もう何も云えなかった。
 それに、斉藤は無言のままだった。ただほろ苦い笑みをうかべ、僅かに目を伏せた。
 土方は総司を抱いたまま扉を開けると、外へ歩み出た。






 青白い月だった。
 星のない夜空に、幻想的な月だけが浮かんでいる。
 それを見あげながら、土方は石の階段を下りた。斉藤が何か仕掛けてくれたのか、人影は全くない。
 門から出て歩み出すと、月明かりに照らされた白い道だけが二人の前に開けていた。
「……土方さん」
 不意に、腕の中で総司が呼びかけた。見下ろすと、きつく唇を噛みしめている。
 少年の瞳は、悔恨と悲しみの涙でいっぱいだった。
 土方は優しく微笑みかけた。
「何も心配するな。これから先、俺たちはいつまでも一緒だ」
「だけど、でも……ぼくのせいで……」
「おまえのせいなんかじゃねぇよ。俺にはおまえが必要なんだ。総司……おまえがいなければ、一秒だって生きてゆけない」
「土方さん……」
「愛してる。総司、おまえだけを愛しているんだ」
 そう真摯な声で囁きかけた土方に、総司はぽろぽろと涙をこぼした。彼の胸もとに顔を押しつけ、子供のように泣きじゃくる。
 土方は夜道に佇んだまま、総司の躯を包みこむように両腕で抱きすくめた。



 愛しくて愛しくて、たまらなかった。
 こんなにも愛しいもののために死ねたなら、それはきっと幸福と云えるのだろう。
 世界中で、たった一人の存在。
 いつどこで、どんなふうに出逢ったとしても、きっと俺たちは恋に落ちた。
 激しく引き寄せられ求めあい、愛しあったに違いない。
 身も心もとけあわせるように。
 運命の恋に、何もかもすべてを捨て去って……。



 黙ったまま、もう一度だけその愛しい躯を抱きすくめた。
 白いシーツに月の光が落ちる。
 生まれたままの裸身にシーツだけを纏った少年を、土方はそっと腕に抱きなおした。総司の躯が楽なように胸もとへ凭れかからせる。
 月明かりの中、ゆっくりと歩き出した。
 その男の腕の中で、総司は瞼を閉ざした。
(……土方さん……)
 こんな事になるなんて思いもしなかった。
 彼の人生まで狂わせようなんて、絶対に望まなかったのだ。
 ただ、逢えるだけで幸せだった。
 たとえ、あの時、苦痛の中で死んだとしても悔いはなかっただろう。
 土方とめぐり逢い、彼に愛された。それだけで幸せだった。彼との優しい記憶だけを抱いて逝けるならと、そう──思っていたのだ。
 なのに、突然現れた彼は、銃口を芹沢にむけた。引き金をひいた男の表情に、一切の躊躇いはなかった。
 鮮血が部屋中に飛び散っても、眉一つ動かさなかったのだ。
 その手で人殺しをしながら氷のように冷たい態度は、彼がどんな種類の男であるかを思い出させ、総司を怯えさせた。
 一瞬、土方も残虐な芹沢と同じ極道者なのだと、思い知らされた気がしたのだ。
 だが、そうではなかった。
 土方は総司が怯えて後ずさると、すぐに拳銃をしまってくれた。そして、優しい瞳で見つめ、抱きしめてくれたのだ。
 彼の腕の中で、そのぬくもりを感じながら、総司は彼自身の心のぬくもりをも感じとっていた。
 とても……優しい人なのだ。
 この人の本質は、綺麗で優しいものなのだ。
 だから、自分は彼を愛した。
 だから、一緒に逃げようと云ってくれた時、泣き出すぐらい嬉しかった。
 この人のためなら、死んでもよかった。この人を失うぐらいなら、死んだ方がマシだった。
 さっき、云われた言葉。

    おまえがいなければ、一秒だって生きてゆけない

 それは総司も同じだった。否、もしかすると彼以上に───
「……土方さん」
 総司は細い両腕をのばし、そっと彼の首をかき抱いた。身をすり寄せると、より深く抱きしめられる。
 低い声に優しく訊ねられた。
「どうした……?」
「ううん、何でもないの。ただ……」
「ただ?」
「あなただけを愛してる……そう、思って……」
 小さな声で云った総司に、土方は微笑んだ。
 月明かりの下。
 それは──とても静かな笑みだった。
 今まで築き上げ、彼が歩んできた人生のすべて。
 そのすべてを。
 愛しい恋人のために、捨て去った男の。
 幸せにみちた微笑みだった……。










    ……ジュリエットは恋していた

    命がけの恋だった
    愛して恋に狂って
    最期は、愛する男のために命を捧げた

    それは……ぼくも同じなのだろうか
    この先の事なんて、何一つわからない
    どんな破滅が待っているのか
    どんな修羅が、ふたりを待ち受けているのか

    それでも
    ふたり一緒に逃げてくれる?

    手に手をとりあって
    どこまでも
    いつまでも


       「……愛して…る……」


    その瞬間

    ぼくたちの愛は
    永遠となる……




















 

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