やがて、総司の躯も回復し、日常をきちんとこなせるようになった。
 それを土方はとても喜んでくれたが、無理をするなよとだけ釘を刺すのは忘れなかった。だが、それも甘い声で囁かれれば、睦言にしか聞こえない。
 総司は嬉しそうに頷き、微笑ってみせた。
 その数日後の事だった。
 突然、近藤が再び訪れてきたのだ。そして、驚くような事を云い出した。
「……え?」
 総司は目を瞠り、思わず近藤を見つめた。
 近藤はそんな総司に、穏やかに微笑んだ。
「一週間でいいのだ。バザーがあって、どうしても人手が足りなくてね。申し訳ないが、おまえに手伝って欲しいのだよ」
「……え、でも……」
 総司は戸惑った。
 その間、ここはどうすればいいのか。一週間も、この教会を閉めていっても構わないのだろうか。
 そんな事を様々に思い煩い、黙り込んでしまった総司に、すぐ傍で話を聞いていた土方が不意に云った。
「一週間ぐらいなら、俺が見ていてやるぜ」
「土方さんが?」
 驚きふり返ると、土方はくすっと笑った。
「むろん、おまえみたいに相談事を受けたりはできねぇが、管理ぐらいはできるさ。今だって、さんざんやってる事だろう?」
「それはそうですけど……」
「なら、決まりだな」
 珍しく強引に、近藤が云いきった。
「今夜ここに一晩泊めてもらってから、明日出発としよう。ここへ戻るのは、一週間後だ。いいね?」
「え、でも……あの……」
「彼がちゃんと管理してくれると云っているんだ。何も心配はないだろう?」
 近藤は穏やかな口調で問いかけた。
 それに、総司は不安げな瞳で土方をふり返った。少年の視線に気づいた土方は頷き、優しく微笑みかけてくれる。
 云えるはずがなかった。
 何かもの凄く強い力に流されつつある──そんな印象があるのだが、確かな事でない以上、どうする事もできないのだ。近藤の申し出も、土方の助けも、何もかもおかしな処などないのだから。
(……なのに)
 しばらくした後、総司は一人になってから、きつく唇を噛みしめた。
 思わず両手で聖書を縋るように抱きしめる。
(どうして、こんなにも不安なの?)
(何か……そう、何かとんでもなく間違った方向へ、歩き出してしまった気がするのは……)
 ぶるっと身震いした。
 とたん、そっと背中から力強い両腕で抱きすくめられた。男の艶やかな黒髪が頬にふれる。
「……総司?」
 教会の中だった。
 他には誰もにいない。だからこそ、総司も安堵してその胸に凭れかかれたのだが。
「どうした……おまえ、震えてる?」
 土方は眉を顰めた。
「寒いのか? また熱が出てきたのか?」
「……違うの。大丈夫です」
「なら、どうしたんだ。云ってみろよ」
「……だって……」
 抱きしめてくれる男の腕の中、総司は俯いてしまった。
 云えるはずがないのだ。
 どう云えばいいのかさえ、わからない。
 この不安が何に起因するものなのか、総司自身にもまったくわからなかった。
 強いて云うのなら、彼と離れる事だろうか。一週間もの間、彼と離ればなれになるのが怖くて、だから、こんなにも……。
 その事を小さな声で告げた総司に、土方は苦笑した。すっぽりと華奢な躯を抱きすくめたまま、柔らかく子供をあやすように揺らしてくれる。
「おまえ、子供だなぁ」
「だって」
「ほんの一週間だろうが。すぐまた逢えるさ」
「本当に?」
 総司は不安げな瞳で彼を見上げ、問いかけた。
「本当に……逢える? ここでちゃんと待っていてくれる?」
 驚くほど真剣なその表情に、土方は僅かに息を呑んだ。だが、すぐに優しく微笑むと、頷いてくれた。
「待っているよ」
 耳もとに唇を寄せ、甘やかな声で囁きかけた。
「ここで……可愛いおまえの帰りを待っているさ」
「土方さん……」
「だから、おまえもちゃんと頑張ってこいよ。こっちの事は気にしなくても大丈夫だからな」
「はい」
 こくりと頷いた総司に、土方は微笑んだ。
「いい子だ」
 甘いキスを頬に落としてくれる。そうして腕をほどき、出てゆこうとする彼に、総司は思わず声をかけた。
「土方さん……!」
「?」
 ふり返った土方に、総司は唇を震わせた。だが、結局は俯いてしまった。
「何でも……何でもありません」
「そうか」
 土方は僅かに小首をかしげてから、頷いた。静かな声で、言葉をつづけた。
「ここは寒いからな、おまえも用事が終わったら早く家へ戻ってこいよ」
「はい……」
 総司はもっている聖書を、ぎゅっと抱きしめた。それにちらりと視線をやってから、土方は踵を返した。静かに扉を開き、出てゆく。
 それを見送り、思った。
(……どうして?)
 どうして、キスをしてくれないのだろう──と。
 愛してると、好きだと。
 何度も花びらを降らすようにあたえられた、甘い愛の囁き。そして、抱擁。身も心もとろけるような蜜事。その何もかもを恋人として熱くかわしながら、だが、土方は決してキスをあたえようとしなかったのだ。今も、唇を重ねられたことは一度もない。
 総司にはそれが不安でたまらなかった。
 一度ある娼婦から聞いた話だったのだが、どんなに躯を重ねても何をされても、キスだけはかわさないと云っていた。あれは特別なのだと。最後の砦なのだと。キスは、愛する人とするものなのだと。
 なのに。
 土方は今も、総司にキスだけはあたえない。
 不安に揺れるばかりの総司には、それがまるで、愛されてない証のように思えてしまって───
「……ううん」
 総司はふるっと首をふり、また聖書を抱きしめた。
「そんな事ないもの」
 自分に云い聞かせるように、呟いた。
「あの人は私を愛してくれている……世界中の誰よりも愛してると、何度も云ってくれたもの」
 だが、それでも。
 込みあげてくる不安を消す術は、どこにもなくて。
 総司は目を伏せると、小さく唇を噛みしめた……。








 翌日の朝早く、近藤と総司は出立した。
 門の処で、土方が見送ってくれる。
 総司は道を歩きながら、何度も何度も後ろをふり返ってしまった。角を曲がって見えなくなるまでのつもりなのか、土方はずっと見送ってくれていた。総司がふり返るたびに微笑み、手をふってくれる。
 やがて、とうとう彼の姿が見えなくなったとたん、胸がしめつけられるような不安に襲われた。
 今すぐにでも駆け戻り、彼の存在を確かめてみたくなる。だが、総司の恋も二人の関係も知らない近藤の前で、そんな事ができるはずもなかった。
 それでも、顔色が冴えなかったのだろう。
「総司? どうかしたのか?」
 訝しげに気遣う近藤に、総司は小さく首をふった。手にした鞄の柄をぎゅっと握りしめる。
「……いえ、何でもありません」
「そうか。なら、少し急ごう。汽車の時間に遅れてしまうからね」
「はい」
 総司はこくりと頷き、近藤に従った。彼への想いをふり払うように、足を速めた。
 町の真ん中にある駅から汽車に乗り、二人は近藤の家──総司が育った場所でもある家へとたどり着いた。
 近藤の妻である常子も、一人娘である珠子も、総司を心から歓迎してくれた。昔馴染みの信者たちも皆。
 賑やかな家と教会の中で、総司はくるくるとよく働いた。皆とわいわい賑やかに、バザーの仕事をこなしてゆく。それは、いつも一人ぼっちで過ごす総司にとって、心あたたまる日々だった。とても楽しいと心から思った。
 だが、夜、一人でベッドに入る瞬間、総司はいつもため息をついた。気がつけば、指折り日を数えていた。
 こんなにもあたたかく優しい皆が迎えてくれているのに、一刻も早く帰りたいと願ってしまってる自分を、とても罪深く感じた。申し訳なさで、たまらなくなってしまう。 
「……土方さん……」
 総司は眠る前の祈りを終えてから、ベッドの上で彼の名をそっと口にした。
 神への祈りの後に、ヴァンパイアである恋人を呼ぶなんて。とても罪深く、また神への冒涜でもあるだろう。だが、それでも、恋しいという気持ちはとめられなかった。
 今、どうしているのか。もう眠りについたのか。
 一人同じように、同じ夜空の月を見上げているのだろうか。
 そんな事を思い出すと、もうたまらなかった。今すぐにでもあの町へ駆け戻り、彼の腕の中へ飛び込んでしまいたくなる。きつく抱きしめられ、全身に彼を感じたかった。この身が燃えたちそうなほど、彼だけが恋しくて恋しくてたまらなかった。
「土方さん……」
 その名を何度も何度もくり返して。
 総司は枕に顔をうずめると、声を殺したまま涙をこぼした……。








 一週間も終わりに近づいた。
 明日、ようやく総司は土方のもとへ帰れるのだ。
 バザーの仕事をきちんと終え、困ったことのないよう片付ける総司に、近藤が云った。
「本当は、もっといて欲しいのだがな」
「……すみません」
 目を伏せた総司に、近藤は苦笑した。
「そんなにも、おまえはあの町が気にいったのだね」
「そういう事ではないのですけど……」
「なら、何故?」
 近藤は穏やかな口調で問いかけた。
 教会の中に、他の人の姿はない。窓の外はもうとっぷりと暮れ、夜空に星が瞬いていた。
 総司は今、近藤と一緒にバザーの後片付けをしていたのだ。
「どうして、そんなにも早く戻りたいのだ?」
「それは……」
 総司は口ごもり、俯いてしまった。
 まさか、彼に逢いたいからだなどと云えるはずもない。
 だが、そんな総司を見下ろした近藤は、静かに言葉をつづけた。
「それは、彼のためではないのか……?」
「……え」
「彼のため、あの男に逢うために早く帰りたい……そうなのだろう?」
「──」
 総司は深く息を呑んだ。いつのまに知られてしまったのかと、驚きと不安に揺れる瞳で見上げてしまう。
 それに、近藤は苦笑した。
「わたしは知っているのだよ」
 手元の箱に様々なものを仕舞いながら、云った。
「おまえと……彼の関係も。おまえの気持ちも皆……そう、ただ一つを除いてね」
「ただ一つ……?」
 聞き返した総司に、近藤は静かな目をむけた。
 しばらく黙ってこの弟とも息子ともつかぬ存在を見つめてから、口を開いた。
「……おまえの想いの深さだ」
「私の?」
「そう。おまえの想いの深さ……彼への愛の深さだ。どれほど思っているのか、愛しているのか。それだけがわたしにはわからない」  
「心から、愛しています」
 即座に、総司は答えた。
 胸の前で両手を固く組みあわせ、まるで許しを乞うような──だが、切なく真摯な表情でつづけた。
「私は、あの人を……土方さんを愛しています」
「……」
「誰よりも、心から愛しているのです……」
 そう告げたまま、総司は俯いた。それに、近藤は低く問いかけた。
「それは……彼がヴァンパイアであっても、なのか?」
「!」
 弾かれたように、総司は顔をあげた。愕然とした表情で、近藤を見つめている。
 その視線を感じながら、近藤は立ち上がった。ゆっくりと教会を横ぎり、正面にある十字架を恭しく見上げた。
 そして、問いかけた。
「彼が神に許されぬ存在……呪われたヴァンパイアであっても、それでも、おまえは彼を愛していると……?」
「……どうして、それを……っ」
 信じられぬといった口調の総司に、近藤は苦笑した。
「ずっと前から、知っていた事だよ。もう……5年も前から」
「5年前……?」
「彼は……歳は、わたしの親友だ」
 ふり返りながらそう告げた近藤に、総司は大きく目を見開いた。
 突然の言葉がまったく理解できない。
「親友…って……」
「幼馴染みというべきか、ずっと子供の頃から一緒に育ってきた。だが、今から5年前、あいつは実の妹によってヴァンパイアにされたのだ。その事でわたしと歳は別れる事となった」
「でも……!」
 思わず、総司は叫んだ。
「でも、それなら……5年前なら、私も知っているはずじゃありませんか。土方さんのこと、知って……っ」
「もちろんだ」
 近藤は頷いた。
「幼いおまえを本当に育てたのは、わたしではない。実際は、隣家にいたあいつが心から可愛がり育てたのだ。妹の琴音が激しく嫉妬するほど、あいつはおまえを溺愛していた。だからこそ、歳は……」
 辛そうな表情で口をつぐんだ近藤の前、総司は激しく首をふった。両手を握りしめる。
「でも、私はそんなの……何も覚えていません! 土方さんの存在も何もかも。あの人とはこの間逢ったばかりだと思っていたのに、なのに……っ」
「おまえが消したのだよ」
「え……っ」
「おまえが、自分自身の中から歳の記憶だけを消し去ったのだ」
 悔恨にみちた口調で、近藤は言葉をつづけた。  
「わたしは、ずっとそれが、おまえの歳への恐怖ゆえだと思っていた。恐怖と、憎しみと。だからこそ、わたしはおまえを歳から守るため、尼僧の姿をさせ、遠く離れた教会へもやった。だが、それは間違いだったようだ」
「間違いって……どういう意味ですか?」
「おまえが歳を記憶から消し去った理由だ。総司、おまえは歳を怖がっても憎んでもいない。いや、むしろ……」
 そう云いかけ、近藤は口をつぐんだ。僅かに苦笑する。
「この先は、わたしが話す事ではないな。おまえ自身が探し出さなければならない、記憶だ」
「でも……」
「今さっき、おまえは歳を愛してると云ったな」
 そっと肩に両手をおき、近藤は云った。見上げる少年の瞳を覗き込んだ。
「誰よりも愛してる──と。それは、真実なのか? どんな事があっても何をされても、たとえ……この先には、恐ろしい地獄と修羅しかないとわかっていても尚、おまえはあいつを愛してゆけるのか……?」
「近藤さん……」
「ヴァンパイアを愛するという事は、生半可な覚悟で出来る事ではない。今までの生活すべてと訣別しなければならないのだ。それでも、おまえは愛しつづけられるのか? 何もかもを捨てても、歳についてゆくというのか?」
「……はい」
 しばらく黙った後、総司ははっきりと頷いた。まっすぐ近藤を澄んだ瞳で見つめたまま、決意にみちた口調で答えた。
「私はあの人を愛しています。何があっても何をされても、構わない」
「……」
「この先何があったとしても、それでも……私はあの人しか望まないのです」
「……」
 近藤は総司の真意を見抜くように、しばらくの間、じっと見つめていた。だが、やがて僅かに嘆息すると、そっと手を離した。
「……そうか」
 苦笑し、云った。
「なら……行きなさい」
「え……?」
 聞き返した総司に、近藤は告げた。
「まだ最終列車があるだろう。あれに乗れば、夜明けには向こうにつける。もしかすると、もう間にあわないかもしれないが……」
「近藤…さん……?」
「歳は出てゆくと云っていた」
 静かな声だった。この教会で説教をする時のように、とても穏やかな。
 「これ以上、おまえを巻き込む訳にはいかない。おまえが大切だからこそ、去るのだと」
「!」
 総司は鋭く息を呑んだ。
 信じられぬ想いに、躯中が細かく震えだした。
 やはり、そうだったのだ。彼は自分を捨ててゆくつもりだったのだ。出てゆくため、自分をここにやり、その間に姿を消すつもりで───
「……ぁ……」
 のろのろと両手を首にやり、激しく喘いだ。
 頭の中がまっ白になって、己の鼓動だけが響いた。すうっと指さきが冷たくなり、やがて、それは全身に至った。
 呆然としたまま、きつく瞼を閉ざす。
(捨てられた……! 土方さんに捨てられたんだ……っ)
 その言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回った。とたん、総司の心がそれを激しく拒絶しそうになる。ショックのあまり何もかもを否定し、白い闇でおおいつくそうと……
「総司ッ!」
 とたん、鋭い叱咤が飛んだ。
 驚いて顔をあげた総司の頬が、ぱんっと張られる。それ程力をこめられてはいなかったが、それでも頬がかっと熱くなった。
「……あ」
 見上げた総司を、近藤は厳しい表情で見据えていた。ぐっと肩を掴まれ、揺さぶられる。
「しっかりしろ! 5年前のくり返しになっていいのか!?」
「くり…返し……?」
「そうだ、くり返しだ。あの時も、おまえは歳にされた事よりも、自分を残して行ってしまったという事実に絶望し、あいつの記憶を消し去ってしまった。こんなにも辛いならと、何もかもなかった事にしてしまったのだ。それを、おまえはまたくり返そうと云うのか」
「私は……」
「あの時と違って、今なら間にあうかもしれないのだ。歳を心から愛してるなら、早く行きなさい。そして、今度こそあいつの手を離さんようにするのだ」
「近藤さん……」
 まだそこに立っている総司を、近藤は無理やり教会から押し出した。家へ戻って荷物をとってくると、それを慌ただしく手渡した。
 夜中なので危ないからと、駅まで送ってもくれた。
 最終の汽車に乗り込んだ総司は、窓を開いて身を乗り出した。
「近藤さん……!」
「……総司、元気で」
 ホームに立った近藤は、穏やかに微笑んでみせた。
 そっと手をのばし、少年の頬にふれた。
「歳と……幸せになりなさい」
「近藤さん」
「わたしはいつも、おまえたち二人の幸せをこの地で祈っているよ」
 そう囁いてから、近藤はゆっくりと手を離した。一歩下がり、僅かに目を細める。
 それに、総司はもう何も云えなかった。ただ涙でいっぱいの瞳で、父とも兄とも慕ってきた人を見つめるばかりだった。
 やがて、発車の合図があり、ゆっくりと汽車は走り出した。少しずつ少しずつ、近藤の姿が遠ざかってゆく。
 総司はそれをいつまでも見つめていた。あふれる涙をぬぐおうともせず、ただ、慕わしい人だけを見つめて。
 夜の闇に、汽笛がもの悲しく鳴り響いた。








 汽車が町についたのは、夜もまだ明け遣らぬ頃だった。
 薄靄の中、総司は駅のホームに降り立った。周囲を見回しても、あまり人影はない。
「……」
 総司は鞄の柄を握りしめると、歩き出した。本当は駆けたかったのだが、華奢でまだ病み上がりの躯ではすぐ息が切れてしまうだろう。
 その上、急いで汽車に乗ったため、裾の長い尼僧服を纏ったままだった。フードは外しているため、柔らかな髪が揺れるが、足に裾がまとわりついてとても走れない。
「……っ…は、あ……っ」
 それでも、懸命に先を急いだ。
 もしかすると、もう彼はいないかもしれない。とっくの昔に──総司が家を出てすぐ去ってしまったかもしれない。だが、それでも一縷の望みに賭けずにはいられなかった。それしか縋るものがなかったのだ。
(お願い……!)
 心から、必死に祈った。
(お願いだから、まだそこにいて。土方さん、私を捨てていったりしないで……!) 
 何度も何度も。
 それだけをくり返しながら、総司は小走りに家へ向かった。やがて、懐かしい小さな教会の尖塔と、家の屋根が木々の向こうに見えてくる。
 息を弾ませながら、ようやく家へと辿りついた。
「……土方さん……!」
 扉を押し開け、家に飛び込んだ。
 だが、そこに人の気配はなかった。しん──と静まりかえり、ただ冷たい空気だけが総司を迎える。
 それに一瞬息を呑んだが、すぐさま慌ただしく部屋の扉を開けてまわった。彼の居室としている客間にも入った。
「……あ」
 思わず、声をあげた。
 ベッドには誰かが寝ていたという痕跡さえなかった。きちんと折りたたまれたシーツ、毛布。片付けられ、彼の衣服などが全く消えてしまっている部屋。
「……っ」
 その冷たいシーツにふれた指さきが、小さく震えた。
 やはり、もう手遅れだったのだ。
 彼は行ってしまったのだ。
 あの5年前と同じように、自分を捨てて行ってしまった……。
「……土方…さん……っ」
 涙があふれた。5年前に捨てられた時の苦しみなど、今も思い出せない。思い出したくもない。だが、それでも、彼への愛しさや、また捨てられてしまったという悲しみは、総司の心を鋭く残酷に切り裂いた。
 今にも息絶えてしまいそうな、深い絶望が総司を襲う。
「……」
 のろのろと総司はベッドの上に坐り込んだ。だが、不意に視界をかすめたものに、びくんっと躯を震わせる。
 信じられないものを見たかのように、その目が大きく瞠られた。
「!」
 総司は立ち上がると、部屋を抜け出て走った。先ほどとは逆に扉を開いて家を飛び出し、庭へと走り出してゆく。
 朝靄がたちこめる中、濃厚な芳香があふれる薔薇の園へ───
「……土方さん……!」
 思わず叫んだ。
 歓びと涙にふるえる声で。
 咲き誇る薔薇の中、彼は佇んでいた。こちらに背をむけ、手もとの薔薇に指さきでふれている。
 その広い肩が僅かに震え、驚いたようにふり返った。
 黒い瞳が総司をみとめたとたん、大きく見開かれる。
「……総司……っ」
「土方さん……!」
 呻くようにその名を呟いた男の腕の中へ、総司は迷わず飛び込んだ。両手を彼の背にまわし、もう二度と離れないとばかりに躯を激しくすり寄せる。
「間にあった……間にあったんですね。あなたはまだここにいてくれた……!」
「総司、俺は……」
「出ていこうとしていたのでしょう? 私を捨てていこうとしていた、そうなのでしょう?」
 矢継ぎ早に問いかけた総司に、土方はらしくもなく視線をそらせた。形のよい唇がきつく噛みしめられている。
 男の端正な顔を、総司はまっすぐ見上げた。
「あの5年前と同じように、私を捨てようとした。そうなのでしょう……?」
「!」
 弾かれたように、土方は視線を戻した。その切れの長い目が見開かれ、なぜだ?と問いかけている。
 それに、総司は微笑んでみせた。
「まだ記憶は戻っていません。でも、あなたとの事は近藤さんに聞きました」
「近藤さんが……」
「あなたは私をまた捨てていくつもりだったのですか? 私を愛して、ずっと傍にいるとあんなに約束してくれたのに、なのに、なぜ……っ?」
「おまえは、近藤さんから話を聞いたのだろう」
 低い声で、土方は訊ねた。手がのばされ、総司の細い腕がぐっと掴まれる。
「なら、聞いたはずだ」
「……何を」
「俺が5年前、おまえに何をしたのか」
「え……?」
 意味がわからず見上げる総司を、土方は獰猛な獣のような瞳で見下ろした。眉が顰められ、緊張のためかその頬が僅かに青ざめている。
「5年前、俺はおまえに酷い事をした。だからこそ、近藤さんと俺は仲違いしたし、おまえも俺に恐怖し忘れ去った」
「酷い事って……何を? 何をしたの?」
「……っ」
 それに、土方は堪えきれぬように一瞬だけ瞼を閉ざした。
 総司の細い躯をその腕にかき抱くと、柔らかな髪に頬をすり寄せた。
「許してくれ、総司……!」
「……土方…さん?」
「俺は、俺は……おまえにとり返しのつかない事をしてしまったんだ。今さら悔やんでも仕方ねぇが、俺はずっとその罪を悔いつづけてきた」
「罪……」
「一人が──孤独が恐ろしかった……。愛しくて愛しくてたまらなかったおまえだけを、心から望んだ。ずっと傍においておきたくて、愛しくて。絶対に失いたくなかった、永遠に俺だけのものでいて欲しいと、心から願った。だから……」
 土方は一瞬黙ったが、すぐに低い声で告げた。
 その決定的な言葉を。
「5年前……俺は、おまえをヴァンパイアにしたんだ」
「……え……?」
 男の腕の中、総司は僅かに目を見開いた。
 いったい、何を云われているのかわからない。男の言葉の意味が掴めず、誤魔化されているのかと思ってしまった。
 そんな総司を抱きしめながら、土方は口早に言葉をつづけた。
「おまえはヴァンパイアなんだ。俺が五年前、そうした。おまえに血の契約を強いた。俺はまだ14才だったおまえの首筋に牙をたてて血を奪い、そして、俺の伴侶とするために己の血をあたえたんだ……」
「伴…侶……?」
 そう問い返した総司に、土方は答えた。
「ヴァンパイアになって初めて血の契約を交わした相手は、その者の永遠の伴侶となる。そういう定めなんだ。むろん、伴侶自身が拒絶すれば絶たれる繋がりだが、それでも、伴侶の傍にいればその気だけで生きてゆける。血を奪わずに、ただ互いの気を力を糧として生きてゆけるんだ」
「じゃあ……だから……」
 総司はようやく理解できた事実に、目を瞠った。
 初めて逢った時、この薔薇の中に倒れていた彼。なのに、自分がふれたとたん、力を取り戻した。ずっと傍にいるようになって、見る見るうちに生気を取り戻していったのは、あれは───
「そうだ」
 土方は頷いた。
「俺はおまえから気を得ていた。だからこそ、血も必要としなかったんだ」
「じゃあ、どうして?」 
 総司は思わず訊ねた。
「どうして、私は今、19才なの? ヴァンパイアは不老不死でしょう? なのに、どうして成長がとまらずに……」
「それは、おまえと俺が交わした血の契約が、完全ではなかったからだ」
「だって、血を交わしあったのでしょう?」
「あぁ。だが、最後の大切な行為がなされていない。近藤さんに遮られ、俺からおまえは引き離されちまったからな」
「どういう…事?」
 小首をかしげた総司に、土方はゆっくりと手をあげた。そして、しなやかな指さきで総司の唇にそっとふれた。
「? 土方…さん……?」
 不思議そうに目を瞬かせる総司を、土方は深く澄んだ黒い瞳で見つめた。
 静かな低い声が囁いた。
「キス──だ」
「え……?」
「くちづけを……キスを交わす事で、血の契約は成立するんだ。まるで、神の御前で誓う婚礼のキスのように……」
「……」
 総司の目が大きく見開かれた。
 今この瞬間、ようやく理解できたのだ。
 あんなにも何度も躯を重ねながら、どうして、土方が自分にキスをあたえようとしなかったのか───
「……総司」
 その細い腰に腕をまわし、土方は柔らかく引き寄せた。そのまま抱きすくめ、髪に額に頬にキスを落とした。
 心地よげに受ける総司に、静かな──だが、熱のこもった声で訊ねた。
「おまえに、キスをしてもいいか……?」
 それに、総司は黙ったまま顔をあげ、彼を見つめた。
 ここから、すべては始まったのだ。
 薔薇の香りの中、彼と出逢ったことで。
 いつまでも続いてゆくと信じて疑わなかった、優しい世界。
 神に捧げた信仰と純潔。
 そんな総司の前に、突然、彼が現れたのだ。
 何も知らずただ神への信仰だけに生きていた総司に、狂気じみた愛を妄執を欲望を教えこみ、身も心も激しく奪いとってしまった彼。
(でも、私は今……)
 この人を選ぼうとしていた。
 彼と共にあろうと決意し、彼が棲む昏い闇へ身をゆだねようとしている。
 愛しいヴァンパイアに。
 これが神への裏切りである事など、わかりきっていた。だが、それでも……彼だけが愛おしくてたまらないから。
 愛しくて愛しくて、もう気が狂ってしまいそうで。彼がいなかったら、生きてゆけないほど愛して───
「……」
 総司は一瞬、自分を取り囲む世界を見回した。
 小さな家と小さな教会。
 薔薇と、人々との暮らし、優しい日々。
 この人を選びとれば、もう二度とここには戻って来れないのだ。
 一歩踏み出したら最後、二度とは戻れえぬ道なのだから。
 だが、それでも構わなかった。
 たとえ……そう、この先に地獄が破滅が私たちを待ちうけていたとしても、後悔だけはしない。
 この人を愛していること。この人に愛されること。
 それだけが、たった一つの願いなのだから。
「……土方さん」
 総司は清らかに澄んだ瞳で、土方をまっすぐ見上げた。そっと手をのばし、静かに囁いた。
 甘い声が、薔薇の中に響いた。
「キスをして下さい……」
「……」
「どうか、私にキスを」
 そう囁いた恋人を、土方は見つめた。
 ずっと求めつづけてきた、永遠の恋人を。
 そして。
 今ようやく一つにとけあえる、この愛しい存在を。
「二度と離さない……!」
 土方は、その細い躯をきつく抱きすくめた。男の力強い腕に息もとまるほど抱きしめられ、総司が微かに喘ぐ。それさえも可愛かった、愛しかった。
「愛してる、おまえは俺のものだ」
「……土方さん……」
「俺だけの……永遠の恋人だ」
 そう囁いた土方の表情は、ある決意を秘めた男のものだった。
 不意に、その黒い瞳が昏く妖しい光をうかべた。総司の項を片手で掴んで引き寄せると、その白い首筋に唇が押しあてられる。
 次の瞬間──鋭く牙をたてられた。
 全身が熱くなるのを感じ、総司は大きく目を見開いた。    
「……ぁ……っ」
 微かな、だが甘く掠れた声をあげ、僅かに身じろいだ。だが、それでも男は離さず、より強く抱きしめると血を啜った。
 とたん、とろけるように甘美な快楽が、少年の躯の芯を貫いた。
「ぁ、ぁあ…ぁ、あ……っ」
 まるで情事の時のような声をあげ、総司は男の腕にしがみついた。必死に躯を押しつけ、その衝動を快楽をやり過ごそうとする。
 だが、もう止まる事はできなかった。
 躯中が熱くて熱くて、どうにかなってしまいそうだ。周囲に咲き乱れる薔薇の艶めかしい芳香が、より強く甘やかな酩酊へと誘いこんだ。
「…ん、は…ぁ…あ…っぁあ……」
 艶めかしく喘ぐ総司に、土方は薄く笑った。
 もう一度だけ強く血を啜ってから、ゆっくりと唇を離した。その形のよい唇が、少年の鮮血に濡れている。
「……すげぇ甘い」
 喉奥で低く笑った。
 艶めかしく濡れた黒い瞳に総司だけをとらえながら、ぺろりと名残惜しげに舌で血を舐めとった。その仕草が、ぞくりとするほどセクシャルだ。
 ぼうっと見惚れる総司の前で、土方は自分の手首に唇を押しあてた。そのまま顔をふせると、牙を鋭くたてる。
 とたん、とろりと流れだした鮮血を、総司は潤んだ瞳で見つめた。
「これを……飲むんだ」
 血濡れたそれをさし出され、総司はとまどった。何をどうしたらいいのか、わからない。
 それに、土方は総司の小さな頭を抱え込むと、その唇に己の手首を押しつけさせた。血が唇の中に流れこみ、びくっと躯を震わせる。
 だが、恐れることはなかった。総司にとって、彼の血はたまらなく甘美だったのだ。
 こくりと喉が鳴ったのを確かめてから、土方は手を引こうとした。
「……っ…ぁ……っ」
 だが、総司はむずかるように首をふり、その手首の血を貪るように舐めつづけた。小さな赤い舌がちろちろと男の血を舐めとってゆく。
 それに、土方は僅かに目を細めた。くっくっと喉を鳴らして笑い、総司の髪に指をさし入れる。
 まるで愛撫するように髪を梳いてやりながら、その耳もとに唇を寄せた。
「いい子だな……俺の血がもっと欲しいか」
「……ん…ぅ……っ」
「そうか。だが、まだやる事がある。後で血はくれてやるから、今は俺の方を見ろ」
 先ほどの土方のように名残惜しげに血を舐めながら、総司はゆっくりと顔をあげた。
 血に濡れた唇のまま、潤んだ瞳で一途に見つめてくる少年を、男は静かに抱き寄せた。
「おまえだけを……愛してる」
 腰に片腕が回され、より強く躯を密着させられた。
 まるで、とけあうように。
「もう二度と離さない」
「土方…さん……」
「いいか? 覚えておけよ。俺はおまえの手を絶対に離さない。この先、どんな地獄が──破滅が待ち受けていたとしても……俺たちは永遠に一つだ」
「は…い」
 こくりと頷き、総司は潤んだ瞳で男を見上げた。
「愛してます……あなただけを」
「俺も愛してる、おまえだけを。だから……」
 静かな声が囁いた。
「総司……ともに堕ちてくれ、闇へ……」
 土方は身をかがめ、総司の両頬を掌でそっと包み込んだ。
 やがて、血に濡れた唇が、そっと重ねられた。
 次第にその口づけは深まり、舌が熱く絡められる。互いの血がまざりあい、甘やかな痺れが全身を一気に貫いた。
「!」
 総司の目が、一瞬だけ見開かれた。だが、すぐまたうっとりと閉じられた。
 それは……薔薇のキスだった。
 婚礼の誓いにも似た──だが、神に祝福されるものでは決してありえない。
 闇と血に灼きつけられた、永遠の契約。
 ただ一つの、薔薇のキス……。
(……愛し…てる……)
 熱いキスを交わしながら、総司は男の胸もとに縋りついた。息もとまるほど抱きしめられ、また深く唇を重ねられる。
 その瞬間、ざぁっと風が凪いだ。
 辺り一面に、薔薇の花びらが舞い散る。
 薔薇の花びらはいっせいに舞いあがり、夜明けの空へと鮮やかに散っていった。
 そして。
 甘く濃厚な薔薇の香りが、ふたりを包み込んだ。
 優しく静かなこの世界と訣別し、二人ともに闇へ堕ちゆくことを望んだ恋人たちを。
 狂気と修羅の中で。
 永遠の命を刻みながら。
 まるで、燃えあがる焔のように。
 互いだけを、深く激しく愛しあう。



 ……ふたりのヴァンパイアを。










キスをして


まるで、薔薇のような
甘く激しいキスをして


この指さきに
瞼に
頬に
そして──唇に


この優しい世界から
私を連れ去るあなたがくれたのは
闇と愛と歓びと


この身も心も灼きつくす
激しく狂おしい



薔薇のキス……
 












FIN







[あとがき]
 7万ヒットキリリク「薔薇のキス」、これで完結です。思いもかけず連載になってしまいましたが、連載中、つづき楽しみというお言葉を頂き、本当に嬉しかったです♪ 読んで下さった皆様のおかげで、完結させる事ができました。
 このお話は、日記でも書きましたが、かなりアン・ライスの「夜明けのヴァンパイア」に影響されてます。ヴァンパイアとなると、あれしか思い浮かばない私ですので。どこか破滅的で艶めかしい、闇の匂いを纏いつかせたヴァンパイア。そんな風に、土方さんを書けていたらいいなぁと、思っています。
 最後になりましたが、朧さま、とっても素敵なリクエスト、本当にありがとうございました♪ 朧さまと、読んで下さった皆様が、少しでも楽しんで下さった事を祈って、筆を置かせて頂きます。


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