「伊庭さん」
思わず総司は会話を遮るように、叫んだ。
何を云うつもりなのかと思った。否、それがわかっているだけに、怖かったのだ。
だが、ふり返ることなく、伊庭は言葉をつづけた。
「知りたいだろうから、教えてやるよ。さっきも云っただろう? 俺があんたと話をするのを、総司がとめてくるって。それはさ、総司が何故土方さんを拒んでいるのか、全部ぶちまけられたら困るからさ」
「困る……?」
「土方さん、あんたが総司を抱いたのはただの気まぐれなのに、総司の方は本気になっちまったのさ。しかもいつか、あんたが嫁取りをするのを見るのが嫌で、今、逃げ出そうとしている。そのくせ、土方さんの立場のためだって云って己を誤魔化して、自分を正当化している。そんな弱くて狡い自分を知られるのが、怖いんだよ」
「伊庭……さん」
総司の声が震えた。
その傷ついた表情を見ないようにしつつ、伊庭は肩をすくめた。
「だから、おれは忠告してやったのさ。土方さんとの契りは一度きりにして、忘れちまった方がいいってね。土方さん、あんただって嫌だろう。面倒だろう。そこまで本気になられたらさ」
「……」
土方は無言のまま、伊庭の背後にいる総司を見つめた。総司は青ざめた表情で俯き、ぎゅっと唇を噛みしめている。
そんな総司に構うことなく、伊庭は云った。
「とにかく、話はそれだけだ。おれもさ、一時期は本気になっちまったけど、やっぱり嫌だね。総司みたいなのは、ちょっと面倒だよ」
「伊庭」
「じゃあな、土方さん、あんたも仕事で忙しいんだろ。いつまでもこんな処にいると、醜聞沙汰になっちまうぜ」
そう云いきるなり、伊庭は踵を返した。総司の方を一瞥することもなく、さっさと家を出ていく。
後ろ手に戸を閉めた瞬間、伊庭の表情が変わった。刺々しい態度が消え、切ない表情になる。
(……総司……)
一度は傷つけてでも、手に入れようとした。
だが、そんな事をしても、何になるのか。
伊庭が願ったことは、総司の笑顔であるはずだった。
なのに、伊庭自身が、己の身勝手さのために、その手で総司の笑顔を奪おうとしていたのだ。土方の身勝手さを非難できる資格など何処にもなかった。
だからこそ、自ら手放すことにした。たとえ、それが総司を傷つけることになっても、愛する男の元へ戻してやるのが一番いいのだと、よくよくわかっていた。
そのためには、何の未練もなく伊庭と別れを告げられるように、仕向けるべきだと考え、あえて総司を傷つけるような言葉を吐いたのだ。もっとも、土方は伊庭の気持ちを理解しているようだったが……。
(総司、幸せになりな)
そう心の中で呟くと、伊庭は一度として後ろをふり返ることなく、凛と背をのばし、歩き出していったのだった。
伊庭が出ていってから暫くの間、沈黙が落ちていた。
土方も何と云ってよいのかわからなかったのだ。そんな彼の前で行動を起こしたのは、総司だった。
不意に框を駆けあがると、土方の横をすり抜け、奥の部屋へ入った。そうして、ぴしゃりと襖を閉じてしまう。
「! 総司」
驚き、ふり返った。思わず部屋を横切り、襖に手をかける。意外にも、襖は難なく開いた。
入ってみれば、総司はまだ敷いたままだった褥の上に坐りこみ、俯いている。それに、土方は出来るだけ優しく声をかけた。
「総司……」
だが、返ってきた答えは、意外なものだった。
「ごめん…なさい」
「え?」
「勝手ばかりで……我儘ばかりで、ごめんなさい」
総司はのろのろと手をあげ、顔をおおった。細い肩が震えている。
「あなたに勝手に恋して、好きになって、抱いてもらっただけでも幸せなのに、どんどん欲張りになって……土方さんを拒むのは、あなたのだめだと云い聞かせていた、そう思い込もうとしていた。あなたの立場が悪くなるから、醜聞沙汰になったら困るからって」
「……」
「でも、本当の理由はそうじゃなかった。私は、あなたに飽きられるのが怖かったの。私ばかり本気で、好きで好きでたまらなくて……でも、いつか、あなたが奥様を娶られたら、私を見向きもしなくなる日がきたら、そう考えると怖くて、隊へ戻らずこのままずっとここにいようと思ったのです。あなたを拒んで、二度と分不相応の夢を見なければいいと自分に云い聞かせていた」
総司はため息をつくと、顔をあげた。潤んだ瞳が土方を見上げた。
「ごめんなさい……あなたに不愉快な思いをさせて。嫌な事ばかり聞かせてしまって、本当にごめんなさい。そして、どうか、お願いだから忘れて下さい。今朝あったことも、私のことも皆、早く忘れて……」
「忘れられる訳がねぇだろう!」
思わず叫んだ土方に、総司は目を見開いた。だが、すぐにぽろぽろと涙をこぼし、両手を握りしめる。
「そう、ですよね。こんな嫌な思いをさせられて、そんなすぐに忘れられる訳ないですよね。我儘ばかりで、本当にごめんなさい」
「違うんだ。総司、そうじゃねぇんだよ」
土方は苛立った様子で髪をかきあげると、総司の傍に歩み寄った。びくりと身を竦ませる総司に痛ましさを感じながら、褥の上に片膝をつく。
手をのばし、慌てて逃れようとする総司の細い躰を、両腕に抱きすくめた。
「俺はおまえを忘れるなんざ、絶対に出来ねぇ。それに、今朝のことも忘れるものか。初めて、おまえが俺のことを好きだと云ってくれたのに、何で忘れなきゃいけねぇんだ」
「だって……」
「いいか、総司。よく聞けよ」
土方は細い肩を掴むと、身をおこし、総司の顔を覗き込んだ。瞳を見つめ、静かな声で告げる。
「俺はおまえが好きだ」
「……」
「云っておくが、これは弟のようにじゃねぇぞ。念弟としてだ、恋人としてだ。俺はおまえと初めて逢った時から、惚れぬいてきたんだよ」
「……え……?」
総司の目が瞬かれた。意味がわからないという表情で、ぼうっと彼を見上げている。
そのなめらかな頬を両手ではさみ、軽く口づけた。それから、もう一度くり返す。
「おまえが好きだ、愛している。俺の恋人になってくれ」
「……う、そ」
桜色の唇が震えた。
呆然とした表情で男を見上げ、ゆるゆると首をふる。その仕草を誤解した土方は、たちまち不機嫌そうに眉を顰めた。
「俺の恋人になるのが、嫌なのかよ」
「そ、そうじゃなくて……信じられないのです。あなたみたいな人が、何で私を? 私を好きって……本当に?」
「信じられないのは、俺の方だよ。子どもの頃から愛してきたおまえが、俺を男として好いていてくれたなんて、まるで知らなかった。てっきり伊庭の念弟だと思い込んでいたしな」
「違います。伊庭さんとは友人で……それも、さっき全部終わってしまいましたけど」
「……」
「でも、じゃあ、土方さんが私を自分のものだと云ったのは、恋人としての意味だったの?」
「決まっているだろう。他にどんな意味があるんだ」
「それは」
呆れたように聞き返す土方の前で、総司は俯いてしまった。口の中で小さく呟く。
「……その、隊の中で使い道がある駒として、とか……」
「あのな、総司」
土方はため息をつき、総司の躰を抱きしめた。
「確かに、俺は副長として隊士を動かす立場だ。だが、可愛いおまえをそんなふうに考えるはずがねぇだろうが。俺はおまえが可愛くて仕方がねぇから、山南の時でも嫉妬で狂ったし、伊庭の時でも頭が変になりそうだったんだ」
「じゃ、じゃあ、殺すって云ったのは……」
「俺のものにならねぇなら、他の男に奪われるぐらいなら、いっそ殺してしまいたいと思ったのさ」
そう低い声で呟いた土方を、総司は見つめた。それに、小さく笑いかける。
濡れたような黒い瞳が、総司を見つめた。
「俺が怖いか?」
「いいえ」
総司はきっぱりと首をふり、両手をのばした。土方の躰に抱きつき、その背に手をまわしながら、告げる。
「私はあなたになら、何をされてもいいのです。殺されても……それでも、私はあなたを愛しているから」
「総司……俺もだ」
土方は総司の手をとると、その指さきに口づけた。
「おまえは、この手の中に俺のすべてを握っているんだ。俺の命も、心も、何もかもな」
「土方さん……」
愛しい恋人を抱きすくめ、土方は、そっと唇を重ねた。
春の日射しがあたたかだった。
緑がとても美しかった。竹林の音がさらさらと鳴る。
傍を流れる小川は穏やかで、春の光に柔らかく輝いた。それを眺めていた土方は、ふと後ろをふり返った。
軽やかな足音が響き、総司が駆けてきたのだ。
「土方さん」
男の名を呼ぶ、花のように笑いかけた。
あれから十日ほどの時が過ぎていた。
総司は新選組に戻り、土方の提案どおり副長室の隣室で寝起きしている。
それに、当然、噂が巻き起こったが、土方は平然としたものだった。念兄弟であることを一切隠さなかったのだ。その堂々とした態度に、隊士たちも誹謗中傷する者もなく、ごく当然のように受け入れられている。
むろん、陰では嫉妬まじりの噂もあるだろうが、土方は全く気にもとめていなかった。当然、その手の噂は総司の耳には届かないように、気を配ってある。
「お待たせしました」
巡察の後だった。
待ち合わせ場所に現れた総司は、少し息を弾ませている。だが、その瞳はきらきらと輝き、頬は上気して、息を呑むほどの愛らしさだ。
「急がせてしまったか」
眉を顰めて問いかけた土方に、総司は「いいえ」と首をふった。
「ちゃんと仕事は済ませましたよ、副長」
悪戯っぽく笑う総司に、苦笑した。
「それはわかっているよ。そうではなく、ここまでの道中、急がせてしまったかと思ったのさ」
「だって、早く土方さんに逢いたかったから」
「毎日、逢っているだろう」
「それはそうだけど」
まだ恋人同士になって日も浅い。だからこその甘い会話だと知りつつ、土方は優しい笑みをうかべた。
二人してゆっくりと歩き出しながら、様々な事を話す。
だが、総司は、ふと土方が酷く考え込んでいる事に気づいた。何か上の空で、小川の方ばかりを眺めているのだ。
「土方さん、どうかしたの……?」
問いかける総司に、土方は我に返ったようだった。はっとしたように総司を見下ろすと、苦笑する。
「すまん、話を聞き逃しちまったな」
「それはいいんだけど……でも、何かあったのですか?」
「何かではなく、少し思い出していたのさ」
「?」
不思議そうな総司の前で、土方はゆっくりと言葉を続けた。
「前に……見た夢を思い出していた」
「夢?」
「あぁ。おまえと仲たがいしている頃に見た夢だ。こんなふうに春の小川のほとりを、おまえと歩いているんだ。仲が良くて俺たちは恋人同士で、幸せで」
「それで?」
「俺は立ち止まり、こんなふうにおまえを抱きしめる」
土方は手をのばし、総司の細い躰を胸もとに引き寄せた。柔らかく抱きすくめる。
僅かに目を伏せた。
「俺は幸せで、おまえが愛しくてたまらなくて……なのに、おまえは失われてしまうんだ」
「失われるって、どういう事?」
「気が付くと、おまえは腕の中から消えてしまっている。どこにもおまえはいなくて、探してもいなくて……」
「土方さん」
不意に、総司が土方の話を遮った。夢を思い出しながら話していた土方は、我に返ったように、腕の中の恋人を見下ろした。
その不安に揺れる彼らしくもない瞳に、総司は息を呑んだ。思わず両手をのばし、彼の胸もとにぎゅっと縋りついた。
「私はここにいます」
「総司」
「あなたの傍に、ずっといる。二度と離れません……私はあなたを愛しているから、ずっとずっと愛しているから」
抱きしめる土方の腕の中、総司は言葉をつづけた。
「私はあなたの元を一度は離れたけど、でも、戻ってきたの。戻ることをあなたが許してくれたの……二度と私はあなたから離れない、いつまでも愛しています」
「総司……愛している」
掠れた低い声が、耳もとにふれた。
そして、包みこむように抱きしめられ、頬に、髪に、口づけられる。
男の想いの丈をこめた口づけと抱擁に、総司は瞼を閉じた。
失ったと思った互いの存在だった。
だが、二度と間違わない。迷わない。
彼だけを愛しつづけるから。
この春の陽だまりの中で、あなたを心から愛しているから。
いつまでも、永遠に。
春の柔らかな光の中、互いを慈しむように抱きしめあった。
そんな恋人たちを祝福するように、どこからともなく降り舞う花びらが、二人を優しく包みこんでいったのだった。
ラストまでおつきあい下さり、ありがとうございました♪