涼やかな香りだった。
馥郁たるそれに、何故の香りかと夢うつつに考える。
(そうだ、百合だ……)
ぼんやりとした意識の中で、思った。
夕暮れ時の副長室だった。
京の夏の暑さは尋常ではない。そのため、土方も床についてもなかなか休めていなかった。
日中も同じくだ。江戸にいた頃のように、麻の単衣を着流し、襟元を大きく開けて団扇で扇ぐなど、新撰組副長が出来るはずもないから、尚更のことだった。
副長室にこもり、山積みにされた書類の決裁に追われていたが、とうとう疲れ果て、畳の上にごろりと寝ころんでしまった。
夕暮れになり、夏の日射しも少しは和らいできている。それが寝不足の身を誘ったのだろう。
いつのまにか、とろとろと寝入ってしまった。
ふと気がついた時には、辺りは薄暗かった。
とは云っても、夏の夕暮れは長い。仄かな紫色を帯びた空気が庭を包み、そよそよとした風が部屋を抜けてゆく。
心地よさの理由は、それだけではなかった。
馥郁たる香りが部屋に満たされ、誰かがゆっくりと団扇で風をおくってくれているのだ。
「……」
薄く目を開いた土方だったが、とたん、驚いた。
開け放たれた障子のすぐ傍に坐り、団扇で風をおくっていたのは、他でもない総司だったのだ。
だが、土方が驚いたのは、そんな事ではなかった。もっと別の事に目を奪われたのだ。
黄昏の光景の中、その姿は息を呑むほど可憐で美しかった。
伏せられた長い睫毛も、ふっくらした桜色の唇も、しっとりとなめらかな白い頬も、清らかで愛らしい少女のようだ。だが、そのくせ、危うげな色っぽさが、男心をひどく煽る。
土方は、思わず手をのばしそうになった。その細い躯を引き寄せ、抱きしめたくなったのだ。
だが、それはありえぬ話だった。
江戸の頃から、土方と総司は、兄弟同然に育ってきた仲だ。美しい姿形だとわかっていたが、こんな衝動を感じるなど考えてみた事もなかった。
男としての目で総司を見る日がくるとは、思ってもみなかったのだ。
(……酔わされているのか、百合の香りに)
総司の膝元に、百合の花が無造作に置かれてあった。
今摘んできばばかりであるように、瑞々しく花開いている。凜としていながら、一方で愛らしく艶めかしいそれは、どこか総司を想わせた。
風がやんだ。
総司が悪戯っぽい声で話しかけてくる。
「土方さん? 起きているのでしょう」
くすくす笑う声に、土方は仕方なく目を開いた。身を起こし、物憂げに前髪を片手でかきあげる。
そうして、寝起き特有の掠れた低い声で云った。
「……眠っていたようだな」
「えぇ。もう少し休まれますか?」
小首をかしげて訊ねる総司からはもう、先程の危うげな色香は感じなかった。いつもどおりの弟分としての愛らしい若者だ。
だが、土方は目を細めた。胸奥がざわめく。
「そうすれば……また風をおくってくれるか」
思わずそう訊ねてしまった。
土方の言葉に、総司は僅かに目を見開いた。
別に風をおくって欲しい訳ではなかった。ただ、夢のような美しい光景をもう一度見たかったのだ。
総司に感じた甘やかで切ない何かを、確かなものとして掴みたい。
「……いいですよ」
しばらく黙ってから、総司は微かに笑った。
夕闇が近づく部屋の中、その笑顔が思っていたより大人っぽく、そして、艶めかしいものである事に、土方は息を呑む。
いつのまに、おまえはこんなに美しくなったのだろう──?
初めて出逢った女を見るように、土方は総司を見つめた。
切れの長い目が熱っぽい光を湛える。
男のまなざしに、総司も何かを感じたようだった。桜色の唇が微かに開かれる。
「総司……」
そっと手を掴んだ男に、総司は微かに身を震わせた。だが、長い睫毛を瞬かせ、潤んだ瞳で土方を見上げる。
馥郁たる百合の香りが、また濃くなったようだった。
「……土方、さん」
小さく彼の名を呼んだ総司を、土方は優しく抱きしめた。胸もとに引き寄せ、小柄な細い躯を抱きしめる。
それに、総司も抗わなかった。なめらかな頬に朱をのぼらせ、男の背にそっと手をまわす。
───蜜のような百合の香り。
それは、恋の予感だったのか。
それとも、本当は長年、彼の中にあった熱い情念を呼びさましたのか。
ねっとりと甘く濃厚な夏の夕暮れ時。
紫色に染められてゆく部屋の中、土方は百合の香りとともに、愛しい存在をその腕に抱きしめた……。
自分の中にあった恋を自覚する土方さん。ずっと土方さんを好きだった総司という設定。
