紺色の空に、お月さまがぽっかり。
ぴかぴか輝くお月さま。
「……綺麗ですね」
ちょっと吐息まじりに云った総司に、土方は小首をかしげた。
公用の帰り道だ。
護衛としてついてきた総司と、二人きりで屯所への夜道を辿っている。
あたりは月明かりだけに満たされ、とても静かだった。
土方はしばらく黙った後、傍らを歩く若者を見下ろした。ぽつんと問いかける。
「綺麗って……おまえが?」
「……は?」
一瞬、固まってから、総司はかぁっと頬を紅潮させた。思わず、ぱしっと彼の腕を掌で叩いてしまう。
「何、寝ぼけたこと云っているんです! 酔ってるんですか?」
「寝ぼけてねぇし、酔ってねぇよ」
「だって、そんな訳わかんない事を云うし」
「おまえを綺麗だって云うことのどこが、訳わからねぇんだ?」
そう問いかけた土方に、総司はますます顔を赤くした。きゅっと唇を噛みしめると、そのまま俯いてしまう。
(……だって、急にそんな事を云うんだもの)
幼い頃から、ずっと片思いしてきた人。
だい好きなだい好きな彼。
だが、江戸にいた頃も、京にのぼってからも、彼の傍には目を瞠るほど綺麗な女の人が必ずいて。
いつまでたっても子供な自分では、絶対に手の届かない人で。
憧れ、恋する想いを胸いっぱいにつまらせながら。
切なく悲しく、遠い処から見つめている事しかできない人。
例えて云うなら……そう。
今夜の綺麗な月みたいな存在。
なのに、その彼自身から突然かけられた甘い言葉に、かぁっと頬が熱く火照ってしまう。胸がどきどきして、息さえつまりそうになってしまった。
気まぐれなんだ。
彼のいつもの軽口なんだと思うのに、なのに、それでも嬉しくてたまらなくて。
総司は俯いたまま、口を開いた。
「……き、綺麗だなんて」
ちょっと言葉をとめてから、小さな声でつづける。
「土方さん、一言も云ってないじゃないですか」
「けど、同じようなものだろ」
「全然違います……」
「じゃあ、ちゃんと云ってやるよ」
土方は悪戯っぽく笑うと、総司の顔を覗き込んだ。濡れたような黒い瞳に見つめられ、思わず息をとめてしまう。
「……綺麗だ」
甘くて低い声で囁かれたとたん、まるで恋を知ったばかりの娘のように、胸の奥がきゅんっとなるのを感じた。
思わず両手で胸をおさえてしまった総司に微笑み、土方は手をのばした。そっと、その白くてなめらかな頬を掌で包みこみ、柔らかく撫でてやる。
「おまえが一番……綺麗だ」
「……」
総司はまだ息をつめたまま、彼を見あげた。
見事な二重の切れ長の目に、黒曜石のような瞳。
すうっと通った鼻筋。今、柔らかな笑みをうかべている形のよい唇。
頬から顎にかけての鋭角的な線に、着物の襟元から僅かに覗く鎖骨まで。
みんなみんな、とても綺麗。
今夜のお月さまみたいに綺麗。
今、自分にふれてくれる指さき一つまで、うっとり見惚れてしまうぐらい、綺麗だから。
こうして、囁いてくれる彼の方が。
ずっとずっと───
「…………はぁっ!!」
不意に、息を吐き出した総司に、土方はかるく目を見開いた。
その前で地面に蹲り、総司は何度も何度も呼吸をくり返している。
「? どうした」
「い、息つめてたら……死にそうになっちゃって」
「そこまで息つめてどうする」
「別にしようと思って、した訳じゃありません。気がついたら、息をつめてたの」
「だから、何で」
「だって」
総司は地面に蹲ったまま両膝を抱えこんだ。ちょっと潤んだ大きな瞳で彼を見あげる。
好き、なんて。
到底云えるはずがないけれど、これぐらいは云ってもいいよね?
かるく息をついてから、総司は云った。
「だって……土方さんが、綺麗だから」
「は?」
「私なんかより、ずっと……お月さまみたいに綺麗だから、見惚れて息つめちゃったんです」
「──」
土方が目を瞠った。
が、すぐに吹き出した。思わず声をあげて笑ってしまう。
それに、総司は怒った顔で立ち上がった。
「どうして笑うの! 真面目に云ったのにー!」
「いや、悪い悪い」
ぽかすか小さな拳で叩いてくる総司を受け止めながら、土方は尚もくっくっと喉を鳴らし笑った。
それに、総司はぷうっと頬をふくらました。
「悪いと云いながら、まだ笑ってるし」
「すまん。けどさ、俺に綺麗はねぇだろう。しかも月みたいだなんて」
「だって、本当にそう思ったんです。でも、そんなに笑うなら答えなきゃよかった」
ぷいっと顔をそむけた総司に、土方はようやく笑いをおさめた。
総司は彼に背を向け、拗ねきった様子で地面に視線を落としている。が、その目が次の瞬間、大きく見開かれた。
「!」
突然、その躯に、男の両腕が後ろからまわされたのだ。そのまま男の胸もとに引き寄せられ、柔らかく抱きすくめられる。
目を瞠ったまま硬直している総司に、土方は優しい声で囁いた。
「……すまん、笑って悪かった」
「し、知りません」
身を固くしたまま答えると、土方は何故か抱きしめる腕に力をこめた。でも、華奢な総司の躯を気づかってか、すっぽりと抱きしめてくれるその腕は優しい。
「本当に謝る。すまねぇ。なぁ……機嫌を直せ。せっかく久しぶりの二人きりじゃねぇか」
「私と二人きりなんて、嬉しいはずがないでしょう」
「嬉しいさ。おまえがついて来てくれると云った時、すげぇ嬉しかった」
「そんな、どうして……」
思わず小さく呟いた総司の耳もとに、土方は唇を寄せた。男の吐息がふれてくすぐったく、また──どこか甘い疼きがうまれる。
「さぁ、どうしてだと思う……?」
「私にわかるはずがありません。土方さんの気持ちなんて、全然……」
「そうだ、わかるはずがねぇな。わかっていたら、おまえも俺の目前で他の男といちゃついたりしねぇものな」
「い、いちゃつくって、何……」
「昨日、斉藤とじゃれあっていただろ? 抱きしめられてただろ?」
「あれは、ただふざけあってて……」
「けど、あれを見た時、俺は斉藤の奴をぶっ飛ばしてやりたいと思った。すげぇ腹がたって仕方なかった」
「何、それ。どういう意味……」
「おまえって、本当に鈍感だな」
ちょっとため息ついてから、土方は腕の中で総司の躯を反転させた。向かい合った形になったとたん、総司はどきりとした。
どこか熱っぽく濡れた、彼の黒い瞳。
その唇にうかべられた、甘くて優しい笑み。
ゆっくりと手をあげ、土方は総司の頬を指さきで包みこんだ。そっと愛撫される。
「……口づけていいか」
いきなり、そんな事を訊ねられ、総司は目を大きく見開いた。
何がどう展開しているのか、まったくついてゆけない。
だいたい、さっきの話からどうして、突然、口づけをするなんて言葉が出てくるのだろう?
「く、口づけって……っ」
口ごもってしまった総司に、土方は悪戯っぽく笑った。
「接吻だ。おまえ、そんな事も知らねぇのか?」
「知ってますよ! でも、何で、土方さんがそんな事を私に……っ」
「理由ぐらい考えて、わかれよ」
「わかりません。っていうか、わかるはずがないでしょう?」
「男が誰かに口づけるなんざ、理由は一つに決まっているだろうが」
そう肩をすくめた土方を、総司は大きな瞳で見つめた。
「……それは、それは……私のことを好きっ…てこと?」
思わずそう訊ねてしまった総司に、土方は黙ったまま微笑んだ。
手をのばし、しなやかな指さきを若者の唇にすべらせた。愛撫するように、下唇を指さきでゆっくりとなぞられる。
その感触に、総司は身の内がぶるりと震えるのを覚えた。
「……口づけていいか」
もう一度、低い声でくり返された。
「だ、だから、駄目とかそんなじゃなくて……!」
ふるふるっと首をふり、叫んだ。
「そんな事をするつもりなら、先に言葉を下さい! 口づけする理由を教えて欲しいのです」
「……」
黙ったまま見つめる土方の前で、総司はすうっと息を吸い込んだ。両手を握りしめ、決心した。
僅かに躯を震わせながら、懸命に告げた。
「わ、私はあなたが好きです……!」
「……」
「ずっと、子供の頃から好きでした。だから、さっきもあなたが月みたいに綺麗って云っちゃったんです」
自分の想いを正直に告げた総司を、しばらくの間、土方は無言で見つめていた。
その深く澄んだ黒い瞳が、総司だけを見つめている。
やがて、ゆっくりと手をあげると、細い肩を柔らかく掴んだ。そのまま己の胸もとへ引き寄せながら、耳もとに唇を寄せた。
「……おまえは月よりも綺麗だ」
「……」
総司は一瞬、目を見開いた。かぁっと頬を熱く火照らせたが、すぐ拗ねたような表情になった。
ぷうっと頬をふくらませる。
「それじゃ、答えになってませんけど」
「そうかな」
土方は肩をすくめた。
「俺なりに、十分答えたつもりだが」
そう云って笑うと、すっと踵を返した。さっさと歩き出してしまう。
それを、総司は慌てて追いかけた。きゃんきゃん、叫ぶ。
「全然、十分じゃないですよ! 絶対、誤魔化してるっ」
「誤魔化してねぇさ」
「嘘。だって、そんなの納得できるはずないもん」
「だから、それぐらいわかれって」
「絶対絶対、わかりません」
「あぁ、煩せぇな」
そう呟き、突然、土方は立ち止まった。ふり返りざま総司の腕を掴んで引き寄せると、不意に、唇を重ねてくる。
「!」
総司の目が見開かれた。
一瞬だけの口づけ。
驚く間もなく始まって終わった、初めての口づけ。
「ひ、土方さん……っ」
慌てて身を捩り、男を突き放した。
「私……まだいいって云ってないのに! それに、ここ外ですよ!」
「誰もいやしねぇよ」
「でも、月が見ています!」
そう答えた総司に、土方は一瞬だけ夜空を見あげた。
それから、肩をすくめるようにして、くすっと笑った。
「月しか見てない」
「……」
思わず黙り込んでしまった総司に、土方は柔らかく笑った。
その綺麗な笑顔に見惚れていると、さっき口づけられた桜色の唇が、ゆっくりと男の指でなぞられた。
やがて、柔らかく抱きよせられ、耳もとに囁かれた。
僅かに掠れた、甘い声で。
「おまえは、月よりも綺麗だ……」
男の囁きに、総司は目を見開いた。
だが、すぐなめらかな頬を淡く染めると、長い睫毛をちょっとだけ伏せた。
その睫毛に、一瞬だけ唇でふれてから。
土方は総司の躯を、両腕で抱きしめた。
そして。
誰よりも愛おしい恋人に、優しく口づけたのだった……。
そんな二人を見ているのは
今夜の綺麗なお月さまだけ……
戻る