テントから歩み出た土方は、空を見上げた。
 もうすぐ夕暮れだった。そのためか、少し空気が冷えはじめている。
 昼過ぎまで降っていた雨も今はやみ、耳が痛くなるほどの静寂だけが、この南半球の半ばに位置する山岳地帯をみたしていた。
 土方はラフに着込んだヘンリーシャツとジーンズの上から、コートをかるく羽織った。ウェストシェイプのコートは彼の躯のラインを際だたせ、風を孕んで広がるコートの裾は美しくも邪悪な闇の翼の如くだった。
「……」
 土方はテントの方をふり返り、薄い笑みをうかべた。


 このテントを用意させていた男は、彼の姿を見たとたん、悲鳴をあげて逃げ去ってしまったのだ。本能のまま生きる事に近い生活をしている人間には、彼が人ならぬ恐ろしい存在である事が見えてしまうのだろう。
 土方は、逃げ去る男を冷めた瞳で眺め、肩をすくめた。どのみち、テントの準備は整っているのだ。それさえ確かめられれば、どうでもよい事だった。
 テントと云っても大きく立派なものだ。中は幾重にも毛皮が敷かれ、なかなか居心地が良かった。大枚をはたいたおかげか、細々とした生活の用意もされてある。
 むろん、金は残していくつもりだった。土方にとって、人としての無法さと、魔王としての邪悪さは、全く別個のものなのだ。


 ゆっくりと足を踏み出した。足下で、さくりと崩れる感触。
 塩だ。
 ここは、塩の大地だった。それこそ、遙か地平線の彼方までだ。
 夜の星空の光景が素晴らしいと聞いていたが、正直な話、それを見るためにここを訪れたのではなかった。彼が見たかったのは、むしろ、その前だ。
 黄昏時の光景だ。
 この世界に、もっとも魔があらわれるという。
 逢魔が刻───
「……」
 土方は僅かに目を伏せ、微かに笑った。それから、コートの隠しに無造作に入れていた携帯電話を取り出すと、ある番号を呼び出す。
 思ったより早く、通話は繋がった。
『───土方さん?』
 甘く澄んだ、少年の声。
 それに目を細め、答えた。
「あぁ、俺だ。今……いいか?」
『はい。でも、土方さんこそいいの? お仕事中じゃない?』
「いや……仕事でこっちまで来た事は来たが、ついでにあるものが見たくなってね」
『あるもの?』
「黄昏の光景だよ」
 そう答えた土方は、ゆっくりと目をあげた。
 何とも云えぬ、満足げなため息が、その唇からもれる。
「あぁ……総司、とても綺麗だ」



 まるで天の奇跡のようだった。
 黄金色とオレンジ色がまざりあった光が、暮れかけた空を輝かせてゆく。乳白色の雲がたなびき、遠くに見える山は黒々とうかびあがる影絵のようだ。
 菫を思わせる紫が薄闇を支配し、その上に輝く空は夢幻のように柔らかで、彼方に小さく光る星がとけ消えてしまいそうだった。
 それらすべては、彼の足下にも広がる。
 水をみたした塩の大地は今、自然の美しくも広大な鏡と化していた。どこまでも澄み渡った鏡は、空も光も闇も映し出す。
 まさに、天空の鏡だ。
 天と地の境目さえわからぬその光景は、息を呑むほど美しい。



「総司」
 土方は携帯電話に、そっと囁きかけた。
「この光景を、おまえにも見せてやりたい」
『土方さん』
「だから……おいで」
 そう云った土方に、総司は驚いたようだった。それに、言葉をつづける。
「俺に黙っていた事を、怒ったりしないよ。ただ、おまえにこの光景を見せてやりたいだけだ」
 総司はしばらく黙ってから、口ごもりつつも訊ねた。
『……いいの? 本当に構いませんか?』
「あぁ。いいから、おいで」
 子供相手のような彼の口調に、総司は少し拗ねてしまったようだ。あの桜色の唇を尖らせる表情が、目にうかぶ。
 だが、すぐ、小さな声が答えた。
『行きます。待ってて下さいね』
「待ってるよ」
 携帯電話をきった土方は、それをコートの隠しに入れた。
 しばらく、ゆっくりと歩き、その奇跡のように美しい光景を独り占めできる事を、思う存分楽しむ。
 やがて、空の上の方で、ばさっと音がした。
「──」
 見上げれば、総司が白い翼をひろげ、舞い降りてくる処だった。その姿は天空の鏡に映りこみ、光輝くように清冽で美しい。
 それを見上げた土方は、僅かに目を細めた。


 何も変わらぬのだ。
 その姿が変わっても、白い翼をえても。
 魔王たる俺を滅ぼすであろう、大天使であっても。
 真実は、何も。
 あの頃も、おまえは俺だけを愛してくれたのだから……。


 土方はゆっくりと両手をさしのべた。
 その腕の中に、大天使はふわりと舞い降りてくる。
 澄んだ瞳が彼を映し、幸せそうな笑顔が彼の心を包みこんだ。
「総司……俺の大天使」
 そう云って抱きしめた土方の腕の中、総司は柔らかく笑った。小首をかしげ、訊ねる。
「どうして、わかったのですか?」
「何が」
「ぼくがすぐ近くの国にいるという事。大天使の仕事だったんですけど……」
「おまえの事なら、わかるよ」
 土方は微笑み、そっと総司の髪を撫でてやった。


 お互い、この近隣にある国で争っているのだ。
 魔王たる彼が政治家としての仕事の途中、少し手出ししていたとしても、ごく当然の事だった。
 そして、総司が大天使としてその国いる事をわかっていたのも、また……。


「ほら、総司……見てごらん」
 土方は優しく囁いた。
 それにふり向いた総司が、微かに息を呑む。
 鮮やかなオレンジ色と金色に、黄昏の空が燃えていた。
 佇む二人を映す鏡はどこまでも広がり、地平線の彼方で空を優しくとけあっている。
 紫色がかった薄闇と、黄金色の光が織りなす美しい光景に、総司はうっとりと見惚れた。
「なんて……綺麗」
「あぁ」
「これが、土方さんの見たかったもの……なのでしょう?」
「そうだよ。ここは星空が見事だという話だが、俺はこの光景が見たかった。この、闇と光がとけあった光景がね」
「それは……どうして?」
「人の心そのものだと、思うからさ」
 そう答えた土方を、総司はふり向いた。だが、何も云わず長い睫毛を伏せてしまう。


 彼が悪魔である限り、闇はそこにあるのだ。
 総司が大天使である限り、光があるのと同じように。
 だが、人の心に闇と光が混在するのなら、大天使も悪魔もまた、しかりなのではないだろうか。


 微かな吐息をもらした総司に、土方は微笑んだ。
 そっと頬にキスをおとしてやり、甘く低めた声で囁きかける。
「今夜は……俺と一緒にいてくれるか?」
「え」
 総司は驚いたように、彼を見上げた。
「あなたと一緒にいても……いいの?」
「あぁ。場所はテントだが、なかなか居心地よくつくられてある」
 そう云われたとたん、総司はなめらかな頬を上気させた。布張りのテントの中で彼と過ごす夜を、思ったのだろう。
 甘い吐息をもらして素直に凭れかかってくる総司に、土方は微笑んだ。


 どれほど時が過ぎても。
 何百年という時が、己の上を過ぎていったとしても。
 変わらない。
 たった一つの真実だけは。


「……愛してる」
 そう囁いた土方に、総司は微かに躯を震わせた。
 澄んだ瞳で彼を見上げ、小さな唇で答える。
「ぼくも……ぼくも、愛してます」



 ───お慕いしております、歳三さま。



 土方は微笑み、ゆっくりと両腕を広げた。
 そして。
 闇の翼のようなコートで大天使の躯を包みこむと、そっと優しく抱きしめたのだった。 

















 W×Wで見たアンデス地方の光景です。あの夕焼けを見た時、魔王さま土方さんと大天使総司がうかんだので。ちなみに、携帯電話は使えるのかな? わからないので、スルーしてやって下さいね。