まるで、傷ついた獣のようだった。
「……土方さん」
小さな声で呼ぶと、彼は目を開いた。
その黒い瞳が薄闇の中、総司を見つめる。端正な顔に苦痛の色をみつけたとたん、胸奥が抉られるように痛んだ。
先程、総司を庇って崖から落ちた際、足に酷い怪我を負ってしまったのだ。歩く事はおろか、立ち上がる事さえ出来ぬ酷い傷だった。
雑木林の中、二人は獣のように身をよせあっていた。樹木に凭れた土方に寄りそうように、総司も坐り込んでいる。
「手当を……しないと」
己に云いきかせるように呟き、総司は晒しを取り出した。黙って見ている彼の視線を感じながら、震える手で手当をしてゆく。だが、みるみる晒しを濡らしてゆく真っ赤な血に、体中が震えた。
こんな傷も血も、見慣れているはずだった。常ならば冷静に対処できるはずだ。
なのに、幼い子どものように狼狽えた。どうすればいいのかわからず、混乱した。
「土方さん……!」
いつもの冷たい態度も忘れ、総司は男の躯に縋りついた。
昼でも尚、薄暗い山奥だった。
だが、追っ手は少しずつ迫ってきていた。この薄闇が彼らを匿ってくれるのも、僅かな事だろう。
一刻も早く、この場を立ち去らなければならない事は、必定だった。
だが───
「どうすれば……どうしたらいいの……っ」
思わず呻いた。
不安で怖くて、たまらなかった。
命よりも大切な、愛しい男が傷を負った様に、気も狂いそうになる。
代われるものならば、代わりたかった。
だが、実際、彼は総司を庇ったが故に、傷を負ったのだ。
追っ手に迫られ、崖から足を滑らせた総司。その躯を深く胸もとに抱きかかえ、己自身も身を投じたのは土方だった。
愛するものを守るがための行為。
それは今、二人を追いつめていた。
「総司……」
土方が掠れた声で、その名を呼んだ。
樹木に背を凭せかけたまま、胸もとに縋りついている総司の肩を掴む。苦しい息の下から、黒い瞳で若者だけを見つめた。
形のよい唇が動き、ある言葉を告げた。
それに、総司は息を呑んだ。
「……っ」
震える手で、男の腕を握りしめた。
絶対に離さないというように、男の言葉を拒絶するように。
だが、土方は首をふった。
低い声で、告げた。
「……行け」
「土方…さん……っ」
「俺はもうおまえと共に行けない。おまえ一人だけでも、生きのびるんだ」
「そんな、そんなの……っ」
「早く、行け」
俺をここに置き去りにして。
総司の気持ちを思ってか、彼はその言葉を口にしなかった。だが、総司には痛いほどわかっていた。
彼は、傷ついた自分をここに残していけと云っているのだ。
迫り来る死を甘んじて受けるつもりなのだ。
そして。
おまえは一人生きのびろと。
総司は目を見開いた。息をつめる。
なんて、残酷なのか。
一人で生きてゆけ、なんて。
こんなにも愛してるあなたを残して?
あなたをここに残して失って、どうして私が生きてゆけると思うの?
本気で、私がそう出来ると思っているの?
この世で、あなた以上に大切なものなんてあり得ないのに。
この命よりも、すべてよりも。
私は、あなただけを……
「そん…なの……っ」
総司は涙を堪え、大きな瞳で彼を見上げた。
桜色の唇が震える。
「そんなの……身勝手、です。どうして、今更……」
「今更、か」
土方は微かに、力なく笑った。
「そうだな……確かに、今更だな。ここまで道連れにした挙げ句、俺はおまえを突き放そうとしている」
「……」
「だが、それでも……総司」
ゆっくりと、男の大きな掌が総司の頬を包み込んだ。いつのまにか、あふれた涙を、しなやかな指さきがぬぐってくれる。
「俺は云わざるを得ないんだ。……行け、と」
「……っ」
総司は思わず土方の広い胸もとに縋りついた。その背に両手をまわし、ぬくもりを鼓動を──生きているという証を感じとるように、きつく抱きしめる。
そのまま、激しく首をふった。
涙まじりの細い声が、切れぎれに伝える。
「ぃ…や、いや……そんなの、いや……っ!」
「総司……」
「あなたを残して、行けるはずがないじゃない。私にそんな残酷な事を命じるなんて……っ」
「……おまえ」
土方が目を見開いた。その肩を掴んで引き起こし、瞳を覗き込もうとするが、総司はより強く彼の胸もとに顔をうずめてしまう。
「あなたなしで……生きてはいけない」
「総司」
「土方さん、あなたは私のすべてなの……!」
「……」
土方は、その細い躯を思わず抱きしめていた。
傷は深く、苦痛にともすれば意識が霞みそうだった。だが、それでも、これ程の幸せは知らなかった。
今、腕の中にある愛しい存在は、身も心も己のものなのだ。
彼にとってそうであるように、総司もまた、彼がすべてなのだと心から告げてくれた。
それが、たとえ。
絶望と死の足音が迫る中の、最後の告白であっても。
土方は総司を抱きしめる腕を、そっと緩めた。
耳もとに唇を寄せた。低い声で囁きかける。
「……愛してる」
「土方…さん……」
「俺も、おまえがすべてだ……おまえさえ手に入れば、他は何も望まなかった」
「……」
「だから、今……俺は幸せだ」
「……」
総司は目を見開いた。
こんな時であるはずなのに。否、だからなのか。
愛する男の微笑みは、薄闇の中、哀しいほど美しかった。優しく穏やかだった。
だが、一方で、それは彼が何もかも諦めてしまった証のような気がした。怖くて、思わず息をつめる。
そんな総司に、土方が囁いた。
「……総司、行け」
「土方さん」
「俺を残し、行くんだ。そして、二度とふり返るな」
「い…や……っ」
のろのろと、総司が首をふった。
ぎゅっと細い指さきが、彼の黒い着物を握りしめる。それを包みこむように握りしめ、きれいに澄んだ瞳を覗き込んだ。
幼い子どもに云いきかせるようにくり返した。
「行くんだ。総司……早く」
声が掠れた。
抱きしめたい、と思った。
離したくない、と思った。
なんて身勝手なのか。最低なのか。
事ここに至って尚、まだ愛しい者を地獄への道連れにしようとしている。
本当は、行かせたくなかった。
ここにいてくれ、一緒にいてくれと叫びたかった。
だが、愛しているからこそ、この世の何よりも愛しい存在だからこそ、それは許されなかった。
総司だけは、生きて欲しいから。
生きつづけて欲しいから。
土方は身を裂かれるような想いのまま、その手を離した。
霞んでゆく視界の中、告げた。
「行け、総司」
俺が引きとめてしまう前に。
身勝手でどうしようもない俺自身が、おまえを地獄へ引きずり込む前に。
死への道連れにする前に。
ここを去れ。
どうか、おまえだけは生きのびてくれ。
そして───
土方は瞼を閉じた。
微かに、笑った。
永遠に……俺だけを愛しつづけろ。
破滅の恋
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