それを見たのは、過ちだったのか。
婚礼の席だった。
春の柔らかな日射しに包まれ、どこまでも広がっていた青空。
その空に、綺麗な桜がとてもよく映えていた。
絵に描いたような、美しい婚礼の席。
そこにいるのは、まるでその咲きこぼれる桜の精のように、玲瓏とした若者だった。
誰もがふり返り見惚れずにはいられない、美しい若者。
だが、その若者は──総司は、婚礼の席から浚われたのだ。奪い去られたのだ。
桜の枝が手折られるように。
「土方さん……!」
自分が驚いたように叫んだのは、覚えている。
思わず立ち上がった斉藤の前、土方は総司の細い躯を両腕に抱きあげた。冷たく澄んだ黒い瞳が、一瞬だけ、周囲を見据える。だが、すぐに踵を返した。
無言のまま、婚礼の席から歩み去ってゆく。
それは、まるで黒い嵐のような出来事だった。
おそらく、総司にとっても。
幸せを将来を出世を約束されていた若者。だが、それがたった今、すべて奪い去られたのだ。
己自身の躯と共に。
恋に狂い果てた男に浚われ、奪われた。
哀れな犠牲者。贄。
だが───
「……」
斉藤は凝然としていた。ただ息を呑み、今見た光景を脳裏に焼きつけている。
一瞬だった。
抱きしめている土方は、気づいていなかっただろう。
男の腕に抱かれた総司が、僅かに目を伏せた。
そして、微かに笑ったのだ。
桜色の唇で、満足げに。
夢見るように、うっとりと───
(……総司……!)
斉藤の視線に気づいたのか、総司が彼の方を見つめた。ゆっくりと長い睫毛を瞬かせる。
そこまでだった。
土方は、世にも稀な宝物のように、総司を両腕にしっかり抱きしめた。踵を返し、立ち去ってゆく。
それを、斉藤は呆然と見送る他なかった。
一瞬にして、事のからくりを知ってしまったのだ。
罠に嵌められたのが、誰なのか。
犠牲者は、哀れな贄は。
本当は、誰だったのか……。
だが、それを察したからと云って、斉藤にどうする事もできなかった。彼はただ、事の成り行きを見守る他なかったのだ。
土方が総司を抱えて馬を駈り、隊を去ったと聞かされたのは、そのすぐ後の事だった。
「……奇遇ですね」
しばらくの沈黙の後、そう云った
それに、目の前の男は無言のまま鋭く視線を返した。問いつめるような視線に、斉藤はゆるく首をふった。
獣のような鋭さに堪えきれず、目を伏せる。
「オレは追っ手ではありませんよ」
「……」
「別の用で、たまたまこの町に立ち寄っただけです。まさか、あなた達がここにいるなんて、思いもしなかった」
「……」
「総司は……どこですか?」
そう訊ねた斉藤に、初めて土方の態度が揺らいだ。
僅かに眉を顰める。
しばらく躊躇ってから、低い声で答えた。
「……宿にいる」
「体の調子でも?」
「少し優れん……あいつの体に旅は応えるのだろう」
「そうですね」
頷いた斉藤を、土方は静かに見据えた。
ゆっくりと問いかける。
「俺を……恨んでいるか」
「え?」
思いもかけぬ問いに、斉藤は驚いた。鳶色の瞳で、彼を見上げた。
「オレがあなたを? 何故です」
「おまえは、総司を好いていただろう。ずっと昔から」
「……」
「そんなおまえにとって、俺は許せぬはずだ。大切な総司を奪い、挙げ句にあいつの将来も幸せも何もかも、奪い去ってしまった。こんな地獄への道づれにした俺を、おまえは……」
「恨んでなど、いませんよ」
斉藤は静かな声で、答えた。目を伏せる。
「確かに、オレは総司を好いていますが……それでも、恨んではいません」
「何故」
「今、土方さんと一緒にいて、総司は幸せなのだと……そう思っていますから」
「俺と一緒にいて?」
土方は驚いたように目を見開いた。思ってもみない事を云われたらしく、呆気にとられ、斉藤を見る。
やがて、くっくっと喉奥で笑いだした。
傍らの家屋の壁に背を凭せかけ、おかしくて堪らぬというように、片手で顔をおおった。
「土方さん」
「俺といる事が幸せとは、な」
「……」
「よくそんな事が云える……そんな事ありえるはずねぇだろうが」
土方の口調は苦々しく、吐き捨てるようだった。
「俺は、あいつのすべてを奪ったんだ。あいつを狂ったように愛して、あいつの将来も何もかもめちゃくちゃにした。その俺といる事が、どうして幸せになると云うんだ」
「土方さん、あなたは」
斉藤は、思わず云いかけた。手をのばし、彼の腕を掴む。
そうして、真実を口にしかけた。
めちゃくちゃにされたのは、あなたの方だ。
罠に嵌められ、哀れな贄とされて。
何もかも奪われたのは、土方さん、あなた自身なのです。
そう、云いかけた。
だが、口にする事はなかった。不意に、我に返ったのだ。
(今更、云ってどうなる……)
土方が総司とともに逃げたのは、確かに、当初、総司の罠に嵌められたが故だった。だが、それを選びとったのは、結局の処、土方自身なのだ。
彼自身がすべてを捨てて、総司だけを選びとったのだ。
始まりが何であれ、今ふたりがゆく修羅の道は変わる事はないのだから……。
「後悔しているのですか」
そう問いかけた斉藤に、土方は顔をあげた。
「……何だと」
「だから、聞きました。後悔しているのですか、と」
「……」
形のよい眉が顰められた。
鋭い、深い憤りさえ感じさせる黒い瞳で、まっすぐ見つめる。
その研ぎ澄まされた刃のような空気を、心地よく感じながら、斉藤はかつての新撰組副長を見返した。
土方は、微かに唇の端をあげた。
まるで──あの頃のような不敵な笑み。
「……後悔などするはずねぇだろう」
低い声が答えた。
「ずっと欲しかったものを手にいれたんだ。その為なら命も矜持も地位も、躊躇いなく捨ててやる」
「……」
「俺は、地獄の底までも、あいつを連れて逃げつづけるさ」
そう云った土方は、すっと背を起した。斉藤に一瞥だけあたえてから、踵を返し、歩み去ってゆく。
遠ざかる広い背を、斉藤は見送った。
引き留めるべきだとわかってはいたが、しかし、引き留めてどうなるのか。
そんな事をつらつら考えていた斉藤は、突然、はっと目を見開いた。
(……総司……!)
それは、紛れもなく総司だった。
宿から歩み出たほっそりとした姿が、男に寄りそった。見下ろした土方が手をのばし、その華奢な躯を抱きよせる。
久しぶりに見る若者の横顔は、息を呑むほど儚げで美しかった。
澄んだ瞳は愛しい男だけを見つめ、桜色の唇に微かな笑みがうかべられている。
あの頃よりも尚、まるで匂いたつような美しさだった。
それを見た瞬間、斉藤は知った。己の言葉の正しさを。
(幸せなんだ、総司。おまえ、本当に……)
追っ手が迫り、死に追われながら。
それでも尚、永遠の恋人たちは至福の時を共にゆくのだ。
愛しあっているからこそ、傷つけあい、求めあい、すべてを奪いあって。
手足をからめ、地獄へ堕ちてゆくそんな恋を、人は愚かだと云うだろう。
斉藤も思うのだ。
他に道はなかったのか。
もっと穏やかな道を、どうして選べなかったのかと。
だが、その一方でわかっていた。理性ではなく、感情で知っていたのだ。
まさに、破滅の恋だからこそ。
後先のない恋だからこそ。
彼らは、誰よりも幸せなのだ、と───
見つめる斉藤の前、土方と総司は静かに寄りそった。
言葉もなく見つめあい、そっと互いの存在だけを求めあう。
指さきを絡め、また見つめあって。
それは、幸せな恋人たちの姿だった。
白い花のように美しく、陽だまりのように柔らかな。
(……土方さん、総司……)
鮮やかなまでの光景を瞼に焼きつけるように、目を閉じた。
その日。
京へ戻る道すがら、二度と帰らぬ日々のために、斉藤は泣いた……。
破滅の恋
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