「……足抜け?」
 そう訊ねた歳三に、女は焦ったように頷いた。
 周囲の女郎たちも皆、強ばったような、どこか痛い処でもあるような表情で頷く。
 それに、黙ったまま眉を顰めた。



 久々に訪れた岡場所だった。
 ここの処遠ざかっていたのだが、ふと気が向いて立ち寄ったのだ。
 そこで何気なく、馴染みの一人である菊野の事を訊ねたとたん、ついこの間、足抜けしたと聞かされたのだが……



「一人でか?」
「それがね」
 女は話したくて仕方がなかったらしく、堰を切ったように喋り出した。
「驚いた事に、妓夫の庄助と逃げたっていうのよ。確かに、庄助はいい男だったけど、でも、所詮は妓夫じゃない」
「あたしだったら、絶対に御免よ。金のある男じゃなきゃ、先行き困るに決まっているもの」
「何でまた、菊野姉さんは、庄助なんかと逃げたんだろうねぇ」
 女たちは口々に云い、呆れたような顔だった。



 誰と逃げたにしろ、足抜けは重罪だ。
 すぐさま追っ手がかかり、必ず連れ戻されるに決まっていた。
 そして、連れ戻されれば、男の方は廓者によって始末され、女の方も仕置きされるのだ。
 まさに、命がけの逃亡、恋だ。



 歳三は酒を飲みながら、女たちの話を無言のまま聞いていた。
 何も云わなかった。
 ただ、ふと、好きな男と手に手をとりあって逃げた菊野は、幸せだったのかと思った。



 菊野は、本当にそれを望んだのだろうか。
 男の方も、菊野を地獄への道づれにする事を、真実望んだのか。
 もしも不幸を承知で逃げたのなら、愚かな行為だと思った。
 恋だとか愛だとかのために、我が身を破滅へ投じるなど、愚かそのものだ。



 そんな事をつらつら考えていた歳三は、酒の杯を干そうとして、ふと手をとめた。
「……」
 懐の重みに、ある事を思い出したのだ。
 そこには、先程買い求めた菓子が入っていた。
 友人の道場で彼の帰りを待っているだろう少年のために、買い求めたものだった。
「……帰る」
 突然、からりと杯を投げ出した歳三に、女たちが驚いて不平の声をあげた。水も滴るいい男である彼は、女たちをまるで魔力のように惹きつけるのだ。
 だが、歳三にとって、そんな女たちよりも、今はあの少年の方が大事だった。
 一刻も早く道場へ行き、己だけに向けられる、あの花のように可憐な笑顔を見たいと、心から思った。


(……宗次郎)


 懐のものを確かめ、出てゆく歳三の口許に、優しい笑みがうかんだ……。













 道ばたに、白い花が咲いていた。
 それも、樹木にしたたるように咲きこぼれ、はらはらと柔らかく舞いおちてくる。
 総司は、その白い花を澄んだ瞳で見上げた。しばらくの間そこに佇み、、じっと見つめている。
 そのきれいな横顔に、土方は静かに声をかけた。
「……疲れたのか」
 男の声に、総司はふり返った。僅かに目を瞠ってから、やがて、微かに首をふった。
「いえ……」
 そっと目を伏せれば、白い頬に長い睫毛が翳りをおとす。それが、まるで儚い夢のように美しかった。



 誰よりも綺麗で、愛しい若者。
 ようやく手にいれた、珠玉の宝物。



 小さな仕草一つにも胸が痛くなるほどの愛しさを覚えながら、土方はゆっくりと言葉をつづけた。
「あと少しで宿場に着くはずだ。今夜はそこで休もう」
「……」
 とたん、総司は顔をあげ、土方を見つめた。微かな翳りが瞳を揺らめかせる。
 桜色の唇が震えた気がして、すぐさま安堵させるように云った。
「大丈夫だ。まだ追っ手は来ないさ」
「……」
「それよりも、おまえの躯の方が心配だ。随分……無理をさせてしまったからな」
 土方の言葉に、総司はまた俯いた。そっと唇を噛みしめる。
 羞じらいのためか、それとも怒りゆえか、その白い頬に血がのぼった。



 数日前、土方はこの若者を抱いた。
 だが、それは、手込めにしたも同然だった。
 華奢な躯を男の楔で貫き、蹂躙したのだ。
 その瞬間の悦楽も歓喜も、そして──罪も、すべて忘れてはいない。忘れられるはずもない。
 その日から、総司の心はより遠ざかってしまった気がしたが、もはや後戻りは出来なかった。
 地獄への道づれは、あの婚礼の日から始まっていたのだ。
 否、それとも。
 初めて逢った時から、この破滅の恋は始まっていたのか。


(破滅、か)


 ふと、昔の事を思いだした。
 まだ江戸にいた頃、足抜けした遊女と妓夫の事だ。
 あの二人がその後どうなったのか知らないが、それでも、あの時、二人の行為を愚かだと思った事は覚えている。
 行く手に地獄があるのを知りながら、破滅への道を突き進んだ二人を、心の底から愚かだと思ったのだ。
 だが───


(その俺が、このざまだからな)


 土方は目を伏せ、くすっと笑った。
 訝しげに総司が見つめるのを感じたが、己を自嘲せずにはいられなかった。



 あの婚礼の日。
 総司を不幸にする、地獄への道連れだとわかっていても尚、奪わずにはいられなかった。
 その躯を抱きあげ、婚礼の席から浚ってしまわずにはいられなかったのだ。
 あの時と同じように、人は、彼らを愚かだと笑うだろう。
 理解できぬと云うだろう。
 だが、今ならよくわかるのだ。
 人を愛するという事は、愚かなものであり──そして。
 愚かであるからこそ、愛なのだと……。







「……土方さん」
 そっと、細い指さきが彼の腕にふれた。
 澄んだ瞳が、土方だけを見つめている。
 その事にさえ、躯中が熱く痺れるような歓喜を感じながら、愛しい若者を見つめ返した。
 そっと、総司の手をとり、指さきに口づける。
「愛してるよ」
 そう、心から囁いた土方に、総司は微かに目を瞠った。だが、やがて、黙ったまま彼の胸もとに身をよせてくる。
 土方はその細い躯に両腕をまわし、静かに抱きすくめた。柔らかな髪に頬をよせ、瞼を閉じる。



 この先、破滅しかないとわかっていても。
 愛さずにはいられない。
 愛することしか、もう……できない。
 この世には、互いしかありえぬのだから。



 抱きしめる土方の背に、やがて、躊躇いがちに白い手がまわされた。きつく縋るように、細い指さきがしがみつく。
 互いだけを抱きしめあい、互いだけを感じあって。
 誰よりも、何よりも。
 甘く激しく狂おしく、とろけてしまいそうな程。


「……愛してる……」


 静かに重なった誓いは、二人を深く結びつかせた。
 地獄の、破滅の刹那に、追いつめられながら。
 その瞬間、確かに。
 愛しあうふたりは、この世の誰よりも。



 幸せだった。













 ひらひらと。
 抱きあう恋人たちの上に、白い花びらが舞いおちてくる。


 優しく静かに、柔らかに。
 まるで、夢見るように。


 それは。
 この先、ふたりを待ちうける、破滅を予感させるがごとく。
 哀しいほど、うつしい光景だった……。


















破滅の恋


















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