気がついた時、土方は褥の中にいなかった。
既に着物を纏い、枕元に腰をおろしていたのだ。目が覚めた事に気づくと、微笑みかける。
「……土方さん……」
声が枯れていた。あまりに泣き叫びすぎたせいか。それに、先程までの激しい情事を思い出し、頬が火照った。
恥ずかしそうに目をそらす総司に、土方がくすっと笑った。
「手加減なしでやっちまったからな……躰、辛いか」
「大丈夫です」
そう答えてから、総司はそろそろと身を起こした。大丈夫だと言ったが、やはり躰が重く気怠い。男をあれだけ何度も受け入れさせられたのだから、当然のことだった。
総司は土方に手伝ってもらって着替えをすませた。隣室に行くと、既に食事の用意がされてある。
見れば、もう夜になっていた。
「月が出ている……」
そう呟いた総司に、土方が「あぁ」と答えた。
きれいな月夜だった。銀色に輝く月が柔らかく紺青の空に浮かんでいる様は絵のようで幻想的だ。
二人はそれきり無言で食事をした。
総司は夢のような一時から覚めると、あの土方の縁談を思い出していた。絶望も悲しみも。そのため、食事も進まなかった。
「……」
ちらりと見ると、土方も上の空だった。考えこんでいるのか、押し黙ったまま食事をしている。彼もあまり箸が進んでいないようだった。
卓の上のものを片付けさせると、土方は総司の肩を抱いて縁側に連れ出した。そこに坐らせ、不意にその手を握りしめた。
驚いて見上げると、ひどく熱っぽい瞳が総司を見つめていた。
やがて、低い声が囁いた。
「総司……俺の念弟になってくれないか」
「……」
一瞬、意味がわからなかった。
別れを切りだされると思っていたのだ。なのに、念弟? どうして? まったく意味がわからなかった。
呆然とした表情で彼を見上げる総司に苛立ったのか、土方が短く舌打ちした。それに、びくりと震える。
「土方…さん?」
「いや、おまえに怒っているんじゃねぇよ。ただ上手く言えねぇ俺に苛立っているんだ」
そう言ってから、土方は黒い瞳でまっすぐ総司を見つめた。静かに低い声で告げられる。
「俺はおまえに傍にいて欲しい。だから、その、俺の念弟になって欲しいんだ」
躊躇いがちに告げられた言葉に、歓びは感じなかった。彼の言葉の意味がわかったのだ。
土方が妻を娶れば、彼に恋心を抱いている総司は離れていくと思われたのだろう。
それでは伊東に奪われてしまう。利用価値のある駒を、今後も手放さないために、念弟とすることにしたのだ。
そう告げてやれば、総司が彼におとなしく繋がれていると思ったのか。
酷すぎる、と思った。
愛されていないことはわかっていた。
だが、念弟という居場所を与えることで、自分は愛する妻を娶っても、繋ぎとめようとするなど、総司の心も気持ちも考えていないからこそ出来る行為だ。
こんな事をされて傷つかないと、本気で思ったのか。
総司は俯いた。
彼の視線を受けながら答えることなど、出来なかった。
「……出来ません」
長い沈黙の後、告げた答えは拒絶だった。繋いでいる土方の手がびくりと震えたのがわかる。
それを感じながら、総司は言葉をつづけた。
「あなたの念弟にはなれません……そんなの堪えられないから」
「堪えられない? どういう意味だ」
「だって……っ」
涙があふれた。ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていく。
土方は、声もなく泣きつづける総司に、困惑したようだった。下から顔を覗き込み、躊躇いがちに言った。
「なぁ、総司……俺はまた何か間違えちまったのか。おまえに泣かれると、どうしたらいいのか、わからなくなっちまうんだ」
「……っ……」
「頼むから、教えてくれ。何で泣いているんだ」
男の優しい声音に、ますます涙がこぼれた。
告げることなんて出来るはずがない。
本当のことを話しても、何が悪いのかと呆れられてしまうだろう。
これ以上、惨めな気持ちになりたくなかった。
せめて、念弟を断ることで自分の矜持を保ちたい。
「……ごめん…なさい」
涙声になりながら、謝った。
「言えないの……ごめんなさい。お願いだから、許して」
「……」
「私は、土方さんの念弟にはなれないから……」
「……それは伊東のためか」
不意に低い声で言われた言葉に、目を見開いた。弾かれたように顔をあげれば、土方は苦痛を覚えたように顔を歪めていた。
「そうなんだな。伊東の念弟になっちまっているから、俺のものにはなれない。そういう事なんだろう」
「そんな、ちが……っ」
「言ったはずだ、俺は絶対に許さない。おまえを奪われるぐらいなら殺してやる、そう言ったはずだ。忘れたのか」
「……っ」
総司は激しく首をふった。必死に否定しようとした。
だが、土方は完全に思い込んでしまったようだった。
激しい嫉妬と怒りに我を忘れ、総司の手首を強く掴んだ。痛いと総司が顔をしかめるのにも構わず、強く掴んで引き寄せ、その小柄な躰を抱きしめる。
「おまえは俺のものだ。誰にも渡すものか……っ」
「私は……!」
不意に、怒りがこみあげた。
身勝手な男に、酷い仕打ちに、我慢が出来なくなったのだ。
男の胸に両腕をつっぱね、睨みつけた。気がつけば、叫んでいた。
「私は……あなたのものなんかじゃない!」
「総司!」
「何でも、あなたの思い通りになるなんて思わないで。私にだって気持ちがあるんだから、感情っていうものがあるの。私のことを、命じられれば躰を開く人形だと思っているの?」
涙がこぼれた。
「お願いだから、私の心をこれ以上、弄ばないで……!」
心からの叫びだった。
苦しくて切なくてたまらなかった。
驚いた表情の土方の手から、力が抜けた。呆然とした顔で見下ろしている。
その瞳に傷ついたような色を見つけたとたん、大声で泣き出したくなった。
本当は、もっともっと叫んでやりたい、今まで我慢していたことを全部、ぶちまけてしまいたい。
でも、そんなこと出来なかった。これ以上、彼を傷つけたくないから、傷ついた彼を見て苦しむのが嫌だから。
だから、もう全部、終わりにしてしまうの。
それが一番いいはずだから。
不意に、総司は土方の手から逃れた。そのまま刀掛けに走り寄り、己の脇差を掴みとる。
あっという間の出来事だった。
脇差の刃を抜き放つと、次の瞬間、総司は、一気に己の首を掻っ切ろうとしたのだ。
「……総司……ッ!」
無我夢中だった。
気がつけば、土方は総司に飛びかかっていた。その腕を掴んで手刀を叩き込む。音をたてて、脇差が床に転がった。
それを総司が素早く掴みとろうとするのを押さえ込み、部屋の片隅へ脇差を蹴り飛ばす。それでも総司は暴れた。まるで手負いの獣のようだ。
二人とも無言だった。だが、その争いはすぐに決着がついた。土方と総司では体格差がありすぎるのだ。
「……っ」
身動き一つできないよう、きつく抱きすくめた土方の腕の中で、総司は、はぁはぁと肩で息をしていた。涙でいっぱいの目を見開き、荒く呼吸を繰り返している。
それを抱きしめていた土方は、不意に、異変を感じた。覗きこめば、総司がきつく唇を噛みしめている。
だが、堪えられるはずがなかった。あっと思った時には、もう血が迸っている。
真っ赤な血が唇からあふれ、滴り落ちた。
「総司……っ」
思わず叫んだ土方の腕の中で、くたりと総司の躰から力が抜けた。気絶してしまったのだ。
その躰の重みを、血の匂いを感じながら、土方は総司を失うかもしれないという恐怖に目を見開いた……。
覚醒は緩やかだった。
ぼんやりと目を開き、天井を見上げる。
何度か見たことがある天井だと思ったとたん、今までのすべてを思い出した。
この離れで彼に抱かれたこと、念弟になってくれと言われたこと、そして、彼の前で血を吐いてしまったこともすべて。
(もう……終わりかな)
そんなふうに思った。
いつの間にか、褥に寝かされていた。血は綺麗に拭われ、真新しい寝着に着替えさせられている。
だが、傍らに土方の姿はなかった。先ほど起きた時のように、土方はいてくれなかったのだ。
土方は病のことを知らなかったのだ。労咳もちだと知っても尚、念弟にしたいと思うはずがない。駒としての利用価値も一気に下がってしまったのだから、繋ぎとめておく必要もなくなったはずだった。
だから、もう去ってしまったのだろう。
行ってしまったのだ、総司をここに残して。
(なら、死なせてくれたらよかったのに……ううん、これで良かったのかな。あの人も、私を簡単に切り捨てることが出来たはずだし……)
そんな事を考えながら、ゆっくりと身を起こした。
とたん、ぎくりとした。
仄かな明かりの中に、人影があったのだ。
横たわっている状態ではわからなかったのだが、柱に凭れかかるようにして土方が坐っていた。両手に顔をうずめ、俯いている。髪が顔にかかり、表情はわからなかった。
だが、総司が起きた事に気づいたのだろう。はっと顔をあげ、こちらを見た。
「総司……! 気がついたのか」
すぐさま立ち上がり、近寄ってきた。傍に跪くと、総司の顔を覗きこんでくる。
「大丈夫か、医者は安静にした方がいいと言っていたが」
「……」
「まだ夜中だ。屯所には朝に戻ろう、それまで休んだ方が……」
「……どうして……」
総司は掠れた声で言った。
「どうして……あなたがいるの」
「……」
「土方さん、あなたが何故ここにいるの……?」
その問いかけに、土方は苦痛を覚えたような表情になった。しばらく黙った後、目を伏せる。
「……すまない」
「え」
「おまえは俺に傷つけられて、それで自害までしようとした。なのに、俺がここにいるなんざ、おまえにとっては嫌な事だよな。悪かった……すぐに出ていくよ」
「ちょっと待って、土方さん」
今にも出て行きそうな彼の袂を、慌てて掴んだ。ふり返った土方に、首をふる。
「そうじゃないの……あなたを責めているんじゃない。私が血を吐いたのを見たでしょう? 労咳だとわかったでしょう? もう私なんかに用がないはずなのに、どうして、あなたが傍にいてくれるのだろうと思ったから」
「? 用がないって……どういう意味だ」
「だから、私に利用価値がなくなったということです」
総司には辛いことだったが、それでも口に出した。
「あなたは私が利用価値のある駒だから、傍においていたはずです。だから、お琴さんを娶ることが決まっても、私を念弟にして繋ごうとした。でも、私は労咳だから、そのうち一番隊組長として役にたたなくなるから、もう用がないはず……」
最後まで言えなかった。
土方の瞳がぎらりと底光りするのを見たのだ。切れの長い目の眦がつりあがり、奥歯をきつく噛みしめていた。
怒っていることは明らかだった。それも、今まで見たことがないほど、彼は怒っているようだ。
いつも冷静な彼が、ここまで感情を明らかにするのは珍しい。
長い沈黙の後、土方が口を開いた。怒りを抑えていることが明らかな声音だった。
「……おまえは、そんなふうに思っていのたか」
「……」
「俺を、そんな男だと思っていた訳か。妻を娶るのに、おまえを念弟にしようとしたり、おまえに利用価値があるからと、抱いたり捨てたりするような男だと思っていたのかよ。えぇ?」
「……違う…の……?」
「莫迦野郎ッ!」
思いっきり怒鳴りつけられた。それに、びくりと躰がすくみ上がる。
殴られるのかと身を固くしたが、土方にそんな気はないようだった。おそるおそる見れば、はぁっとため息をつき、両手で顔をおおっている。
沈黙の後、低い声が言った。
「……色々誤解があるようだから、言っておく。俺はお琴を娶るつもりはないし、既に断った」
「え」
「それからな、俺はおまえの病のことなんざ、とうの昔に知っていたんだ」
「!」
総司の目が大きく見開かれた。呆然としている前で、土方は言葉をつづけた。
「池田屋で血を吐いたことも知っているし、おまえが医者に通っていることも知っている。だが、おまえが知られるのを嫌がっているようだったから、知らぬ顔をしていたんだ」
「……」
何も言うことが出来なかった。
まさか、知られているとは思ってもいなかったのだ。総司の病のことを知りながら黙っていてくれた土方の気持ちを考えると、胸が痛くなる。
しばらく黙り込んでいた総司は、やがて、小さな声で訊ねた。怖かったが、それでも今、これだけは聞かなければ一生後悔する気がした。
「土方さん……あの、一つだけ答えてもらってもいい?」
「……」
「あの、あのね……土方さんは、どうして私を抱いたの? 念弟になってくれなんて言ったの?」
とたん、土方が顔をあげた。まだかなり怒っているらしく、鋭い瞳を向けられる。
「そんなもの決まっているだろうが!」
荒々しい口調だった。
「おまえが好きだからだ」
「え」
「愛しているからに決まっているだろう。それ以外に何があるっていうんだ」
「……」
総司の目が大きく見開かれた。
信じれないと呟き、両手で唇をおおった。それに、土方が眉を顰めた。
「信じらないって、何だよ。おまえ、俺が嘘でもついていると思っているのか」
「そうじゃないけど……でも、私なんかをどうして?」
「は? どうしても何もあるか。おまえだから好きなんだよ、ずっと昔から、それこそ逢った時から惚れていた。可愛くて可愛くてたまらなかった、おまえしか俺は欲しくなかったんだよ。だから、伊東になんか奪われるものかと思ったし、奪われるぐらいなら殺してやりたいと思った。それぐらい、愛しているんだよ。悪いか」
彼にしては珍しく一気にまくしたててから、土方は拗ねたような表情で、ぷいと顔を背けた。
そんな彼の姿に、総司は心の奥があたたかくなるのを感じた。今まで冷たく凍っていた何かが溶けていくようだった。
愛されていたのだ。
この人に愛されているのは、自分だったのだ。
それが泣き出したいぐらい、嬉しかった。
幸せだと……心から思った。
総司は身をのりだし、両手をのばした。土方の胸もとに縋りつき、抱きつく。
戸惑ったように抱きとめる彼を感じながら、告げた。
「私も好きです……好き、あなただけを愛してる」
「……え?」
土方は一瞬、理解できないようだった。意味がわからぬという表情で、総司を見下ろしている。
やがて、おそるおそる訊ねた。
「それは……兄としてか」
「違います。……え、もしかして」
総司は驚き、顔をあげた。
「私の気持ち……知らなかったのですか」
「おまえの気持ちって、何が」
「あなたが好き、愛してるという気持ちです。もちろん、兄としてじゃなくて、その、男の人として。私、前にも好きって告げたつもりだったんだけど」
「確かに、それは聞いたが、しかし、兄としてだと思って……」
呆然と呟いた土方は、不意に、実感がこみあげたようだった。総司の肩を掴み、その瞳を覗きこんでくる。
「今、言ったことは本当か? おまえ、本当に俺を愛してくれているのか」
「はい。あなたを……土方さんを愛しています」
「総司……!」
次の瞬間、総司の躰は男の腕に抱きしめられていた。背中がしなるほど抱きしめられ、頬に、髪に、首筋に、口づけられる。
それを夢心地に受けながら、総司は男の背に手をまわした。
ずっと、すれ違ってきたのだ。
ただ一言さえ告げればよかったのに、それだけで良かったのに。
否、今でも遅くないはずだった。
これから、今までの分を取り返せばいいのだ。
たくさん愛しあって、互いを想いあっていけばいい。
「総司……愛してる」
熱のこもった声が囁いた。
それに見上げれば、優しく口づけられる。深く唇を重ねられ、貪られた。
総司は震えながら両手を男の背にまわし、縋りついた。とたん、きつく息もとまるほど抱きしめられる。
互いのぬくもりが、何よりも心地よかった。
泣きたいぐらい、愛しかった。
(……愛してる)
ここからすべてが始まるのだ。
何度でもやり直せるはずだから。
私にはあなたがいる。あなたには私がいる。
ふたり一緒にいられるのなら、恐れることなんて何もないから。
ずっとずっと、どこまでも。
一緒に駆けていこう。
世界の果てまでも。
愛してる。
この言葉さえあれば、何も怖くない。