──それ、を見た瞬間。
 狂おしい程の喉の渇きを、覚えた……。








 夕暮れ時だった。
 黒谷から帰ってきた土方は玄関の框をあがると、まっすぐ己の部屋へむかった。
 近藤に報告すべき事などを頭の中で考えていた土方は、今すれ違ったばかりの一番隊隊士たちに、ふと思考が他所へ逸れるのを感じた。


(……総司……)


 あの夜から、まだ二日しか過ぎていない。
 だが、まるで遠い昔のような心地さえした。
 彼の腕に抱かれたまま、おとなしく目を伏せていた若者。
 きれいな涙をふくんだ、長い睫毛。
 微かに震えていた桜色の唇。
 甘やかな吐息。
 その何もかもが切ないほど遠く、また、愛おしかった。


 この世の何よりも愛しい存在。
 新撰組副長として、血も涙もない男だと畏怖され、敵ばかりか味方にまで恐れられる冷徹な彼が、この世で唯一心揺さぶられる存在。
 最愛の若者───


 その存在が、もしも……手に入るのならば。
 この手の中に堕ちてくれるなら、それはどれ程の僥倖か。
 望外な歓喜に身を震わせ、自分はすべてをさし出すに違いなかった。
 男としての矜持も、命も何もかも。
 だが、こんなふうに、総司さえ手に入るのならば、何を失っても奪われても構わないとまで思ってしまう自分は愚かなのか。
 いや、そうではあるまい。
 恋に狂う男は、皆、愚かなのだ……。







 土方は目を細め、廊下の先を見やった。
 その時、遠くの方から微かに響いてくる水音に気がついた。
 何とはなしに、そちらの方へ足を向ける。
 誰かが井戸を使っているのか、稽古の後なのか──そんな事を考えながら角を曲がった土方は、とたん、息を呑んだ。
 目を瞠ったまま、その場に立ち尽くしてしまう。


(……総…司……!)


 そこにいたのは、まさに総司だった。
 この世の誰よりも、彼が愛おしく想っている若者。
 稽古後なのか、総司は一人で井戸を使っていた。小袖をもろ肌ぬいた格好になり、固く絞った手拭いで汗を拭っている。
 露のような美しい汗が白い肌をいろどり、妖しいほど艶めかしく見えた。
 しかも、総司は土方の方に背をむけていた。
 細く白い背が、夕闇の中にうかびあがっている。
 雪のようにまっ白な肌。
 そこに咲いた、艶やかな朱の花────



「……っ」
 その瞬間。
 土方は狂おしいほどの喉の渇きを覚えた。まるで嵐のように、一気にあの夜の記憶が彼に襲いかかり、巻き込んでゆく。
 愛しくて愛しくてたまらず。
 焦がれるほど欲した存在が目の前にありながら、己のものに出来ぬ歯がゆさに、もがき苦しんで。
 思わず小袖を剥ぎ取り──目を灼いた白い肌を見たとたん、躯の奥から突き上げた雄の熱い欲望。
 欲しくて欲しくて、この白い肌に己の狂おしい愛を刻みこんでやりたくて。
 せめて、一つだけでもと。


 ───その背に、くちづけた。


 だから。
 あの朱の花は、己の欲望の証なのだ。
 一縷の望みもない……切ない愛の証なのだ。










 土方はそっと目をそらし、僅かに嘆息した。
 その吐息は、微かなものだった。
 だが、鋭敏な総司はすぐさま己の背にある人の気配に気づいたのだろう。さっと身をひるがえすように、ふり返った。
 顔を引き締め、こちらを見据える。
「!」
 澄んだ瞳に男の姿を映しだしたとたん、その目は大きく瞠られた。嫌悪の色はなかったが、驚きと怯え、不安がそのきれいな顔をよぎる。
 その表情さえも愛おしいと思いながら、土方は口をひらいた。
「……稽古の後か」
「は、はい……」
 総司はどこか掠れた声で、答えた。
 その青白い顔が夕闇の中、儚く美しい。
「そうか」
 土方は頷いてから、何か云いかけた。
 だが、若者の細い指が縋るように手拭いを握りしめている事に気づくと、そのまま言葉を呑み込んだ。


 こんなにも……俺は嫌われているのだ。
 こんなにも、怯えられているのだ。
 だが、それも当然の事だろう。
 今までの所業……ましてや、先日の夜の事を思えば。
 なのに、今更、何を云おうとしたのか。
 どんなに優しい言葉をかけた処で、総司の心が開くことなど永遠にありえぬのに……


 土方は僅かに目をふせると、静かに踵を返した。
 背後で、「……あ……」と総司が微かな声をあげたが、ふり返らなかった。ふり返っても仕方がないと思った。





 夕闇の中にうかびあがっていた白い背は、今も目に灼きついている。
 あの夜、花びらを刻んだ瞬間、己の胸奥を満たした歓喜は遠く。
 今あるのは、狂おしいほどの喉の渇きだけだった。
 もっと欲しい、もっと求めたいと。
 手をのばし再び求めても二度と与えられぬ花の蜜を、あの夜、愚かにも味わってしまった憐れな男。
 それが、己なのだ……。


 土方は夕闇にみちた廊下をゆっくりと歩んだ。
 そして、自嘲するように、ほろ苦く笑ったのだった。





    愛ゆえの証。
    その所有の証を刻みこまれたのは、むしろ───