お月さまがぽっかり紺色の空に浮かんでいた。
まだ満月ではないが、とてもとても綺麗な月夜だ。
それを総司は縁側から、うっとりと見上げた。夕食の片付けの後、風呂に入ってから夕涼みでここにいるのだ。
普通、こんな小さな家なら風呂などありえないのだが、何しろ土方は大工の棟梁だ。器用にさっさと作ってしまい、小さいが可愛らしい風呂を二人で楽しんでいた。むろん、一緒には入っていない。湯屋でもなければ入らないし、それに───
(……今、兄さんと一緒だなんて、考えただけでのぼせちゃいそうだもの)
総司は思わずなめらかな頬を、ぽっと薔薇色に赤らめた。
時折、目にした事のある兄の躯を思い出してしまったのだ。
小袖の襟元が崩れた瞬間にのぞく、男らしく厚みのある胸や逞しい腕。
そんな事に、どきどきしてしまう。
むろん、歳三が着やせするたちであり、細身だがとても均整のとれた躯つきである事は、子供の頃から彼自身に育てられた総司もよく知っている事だった。胸や腕どころか、何度もその裸まで見たことがあるのだ。何しろ、昔は一緒に風呂にも入っていたのだから。
だが、今それを思うと、なぜこんなにもどきどきしてしまうかと云えば───
「……総司」
後ろから不意に、ふわっと男の両腕がまわされた。総司の小柄な躯は、男の胸もとにすっぽりおさまってしまう。
「あ……兄さん」
そう云いかけふり返った瞬間、唇が重ねられた。
愛しくて可愛くてたまらないと云いたげに、すべすべした頬や背を撫でながら、何度も何度も口づけてくる。
それに、総司は一生懸命応えた。と云っても、ひたすら身を固くして兄の為すがままになっているだけだったが。
それでも、口づけはだい好きだった。抱きしめられるのも。
この兄にされる事なら、どんなことでもだい好きだと思った。
なぜなら、歳三は総司の恋人なのだから。
たった一人の兄であり、だが、血は繋がってなくて、それでもずっと赤子の頃から総司を育ててくれた優しい兄であり、そして、今は誰よりも愛しい存在となった優しい恋人───
見上げると、濡れたような黒い瞳がじっと総司を見つめていた。
口づけの余韻のまま、ぼうっとしていると、歳三はくすっと笑った。また胸もとに引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「すげぇ……可愛い」
「兄さん」
総司はちょっと恥ずかしそうに笑うと、その広い胸もとに顔をうずめた。背にまわした両手で抱きつく。
それを、歳三はひょいっと両腕に抱きあげた。慌ててしがみつくのに、笑いかける。
「そろそろ寝よう。夜更かしはおまえの躯にも悪いからな」
「うん」
こくりと頷いた総司を抱いたまま、さっさと部屋を横切ると、奥の部屋に入った。
棟梁になった事で収入も増え、更に総司の実姉であるお光がいろいろと買ってくれたことで、様々なものが部屋には増えていた。布団もその一つで、今までの煎餅布団よりはかなり良いふんわりした布団だ。
それにそっと下ろしてやってから、歳三は自分も布団にもぐりこんだ。
総司の細い躯を胸もとに引き寄せて、ぽんぽんと背中をあやすようにたたいてくれる。
「ほら……眠れ。明日も早いしな」
「うん、兄さん……新しいお仕事でしょう?」
「あぁ。俺が棟梁になってからも、順調に仕事が入ってきてるから、ほっとしてるよ」
端正な顔で笑いかけてくれる歳三に、総司はちょっと頬を紅潮させつつ云った。
「だって、あたり前ですよ。兄さん、とっても腕がいいもの」
「おまえにそう云って貰えるのが、一番嬉しいよ」
歳三は総司のなめらかな頬に、ちゅっと音をたてて口づけた。それから、耳もとに唇を寄せて、甘く低い声で囁きかける。
「おまえがだい好きだ……俺はおまえがいてくれるから、ここまでやって来れたんだ」
「兄さん……」
ぽっと頬を赤らめ、総司は歳三の寝着をきゅっと指さきで掴んだ。
「私も……私も、兄さんがだい好きです」
「……その呼び方」
歳三は思わずため息をついた。
「二人きりの時ぐらい、何とかならねぇのかな」
「だって……どうしても兄さんって呼んでしまうんだもの」
「ま、少しずつな」
苦笑し、歳三は手をのばした。行灯の明かりをおとすと、また総司の躯を抱きこみ、髪に額に頬に甘い甘い口づけの雨を降らせてくれる。
それに、総司はうっとりと目を閉じた。とたん、昼間の疲れもあってか、躯中がふわふわと心地よい感じになってくる。
「おやすみ……総司」
自分を柔らかく抱きしめてくれる兄の存在をあたたかく感じながら、総司は夢の中へと落ちていった……。
そして、変てこりんな夢を見た。
総司は兎になっていて、お月様を見上げているのだ。
まっ白な可愛い兎だった。
だが、所詮は兎。
言葉が話せるはずもない。
目の前にいる歳三に、自分だと総司だと云うこともできなくて。
「おーい、総司!」
あちこち心配そうな顔をして探し回ってる歳三に、兎の総司は泣きそうになった。
ぴょんぴょんついて回るが、歳三は全然こちらをふり返ってくれない。
それどころか、兎の総司を見向きもせぬまま、さっさとどこかへ行ってしまった。
総司は怖くて不安で、兎の姿のまま泣き叫んだ。
やだ。
やだやだ、待って!
兄さん───!
「兄さん……!」
自分の声で目が覚めた。
ばちっと目を開くと、見慣れた天井が映る。周囲はもう光に満ちていて、朝のようだった。
慌てて起き上がってみたが、歳三の姿はもう何処にもない。
「兄さん……!」
なんだか、まだ夢の中にいるような気がして、総司は慌てて部屋を飛び出した。だが、狭い家の中だ。歳三がどこにいるかなどすぐわかってしまうはずなのに、兄の姿はどこにもなかった。
「ど、どうしよう……っ」
井戸端で呆然と突っ立っていると、門から斉藤が入ってきた。
あの騒動の後、主家である日野藩へ戻っても良かったのだが、斉藤自身の希望と、近藤が歳三と総司の身辺に危険が及ぶ可能性が完全に消えた訳ではないと判断した事から、ここに留まっていた。相変わらず、腕の良い飾り職人として働いている。
そんな斉藤が総司に気づき、「おはよう!」と声をかけてきた。
「どうした、そんな処に突っ立って」
「お、おはようございます! あの、あの……兄さんが……っ」
「あぁ。土方さんなら、もう仕事に行ったみたいだ。何か初日だから早いとこ行かないと駄目だって、まだ日も昇らないうちから出かけていったよ」
「えっ……あ、そうだったんだ……」
おそらく、ぐっすり眠っている総司を起こさぬよう、そっと床を抜けていったのだろう。今までもよくある事だった。
だが、総司は安堵のあまり、その場にぺたんと坐り込んでしまった。
それに斉藤が驚き、慌てて駆け寄ってきた。
「おい、どうしたんだ! 大丈夫か?」
「うん……大丈夫です。ちょっと気が抜けちゃって」
斉藤は総司を抱え起こすと、ぱんぱんっと土を払ってくれた。それから、鳶色の瞳で総司を見つめた。
「もしかして……土方さんがどこかへ行ってしまったと思ったのか?」
「う、うん。ちょっと変な夢を見たから」
「夢?」
不思議そうな斉藤に、総司は小さく笑ってみせた。いくら何でもあの夢の事を話すのは、ちょっと恥ずかしかったのだ。
なので、斉藤の手をひっぱりながら、明るい声で云ってみせた。
「それより、ね? 斉藤さん、朝餉まだでしょう?」
「あぁ」
「一緒に食べませんか。一人で食べるの淋しいもの」
そう云った総司に、斉藤は頷いた。
確かに、一人で食べるよりは誰かと一緒に食べた方がおいしい。それも、この可愛い総司と一緒なら、尚のことだろう。
(土方さんが溺愛するのも、よくわかるよな)
目の前で、にこにこと花のような笑顔を見せる総司に、斉藤はしみじみ思った。
もっとも手を出す気はない。こうして、可愛い笑顔を見ていられるだけでいいと、斉藤は思っていた。
「じゃあ、まぁご相伴にあずかるかな」
艶やかな髪を撫でながら云ってやると、総司はまだにっこり笑った。
「はい!」
元気よく返事をすると、いそいそと家の中へ入ってゆく。基本的に世話好きなのだ。だからこそ、歳三の身の回りの世話も誰もが感心するほど完璧にこなしているのだろう。
「土方さん、可愛い幼妻でも持ってる心境だろうなぁ」
しみじみとそう呟きながら、斉藤は総司につづいて家の中へ入っていった。
「総ちゃんは今夜どうするの?」
いきなり、お磯にそう訊ねられ、総司は「え?」を目を瞬かせた。
また訪ねてきてくれたお磯と、おまんじゅうを食べながら色々お喋りしていると、不意に訊ねられたのだ。
お磯は総司と縁組みする気はないと、きっぱり両親に伝えていた。それに両親はかなり落胆したようだが、本人達の意思がそうであるなら仕方ないと諦めてくれたのだ。
それに最近、お磯にはいい人が出来たようだった。何でも、隣町にある同じ小間物問屋の次男坊で、とても働き者の爽やかな少年らしい。総司はまだ逢った事がないが、お磯から話を聞いているので、いつか逢わせてもらえる事を楽しみにしていた。
「え…と、今夜って何?」
そう訊ねた総司に、お磯はちょっと目を見開いた。
「総ちゃん、忘れてるの? 今夜、中秋の名月じゃない」
「……あ」
「ほら、お月見祭り。今年こそは行きたいって、云ってたでしょ?」
「忘れてた……」
総司は小さく呟いた。
何しろ、ここの処の騒動でお月見どころではなかったのだ。
だいたい、それに、お月見祭りは当然、夜に行われるので、心配性の歳三は総司が行く事をいつも絶対に許してくれなかった。歳三がつきそっても心配で仕方ないから駄目だと禁じられていたのだ。
だが、総司も十四才になる。そろそろいいだろうと許してくれそうな気配だったのだが、今回の事があった以上、ようやく傷が癒えたばかりの総司の外出を歳三が許してくれるのかどうか、ちょっと謎だった。
「うーん……今年も駄目かも」
「怪我の事があるから?」
「それもだし、兄さん、今すごく忙しいから……」
「でも、総ちゃん、あのお祭り、すっごく楽しみにしていたじゃない。一度でいいから行ってみたいって」
「だって……お月見のお祭りなんて、とっても綺麗な感じがするし。どんなのかなぁと思ったから」
「じゃ、歳三さんにおねだりしてみたら? 連れていってって」
「どうかなぁ」
総司は小首をかしげ、手にしていたおまんじゅうをぱくりと食べた。甘い餡がとてもおいしい。
ぱくぱく食べながら見上げると、薄青い空に白い真昼の月がぼんやりと浮かんでいた。この分だと、今夜、綺麗な満月になるだろう。
「云うだけ云ってみようかなぁ……」
だめもとでと思いながら、総司は小さく呟いたのだった。
だが、歳三はあっさりしたものだった。
夕暮れ時、帰ってきた歳三は、おそるおそる訊ねた総司に、
「あぁ、いいぜ」
と、あっさり快諾してくれたのだ。
拍子抜けしてしまい、ぽかんとしている総司に、歳三はくっくっと喉を鳴らして笑った。手をのばし、くしゃっと総司の髪を撫でてやる。
「おまえ、俺が駄目だって云うと思ってたのか?」
「だって……兄さん、いつも駄目って」
「けど、おまえも十四だからな。それに、おまえはもう俺の恋人だ。ずーっと手を繋いで歩いても、構わねぇだろう?」
「ずっと手を繋ぐって……え? え?」
びっくりしてる総司に構わず、歳三は仕事用の着物を脱ぎ捨て、こざっぱりした小袖にさっさと着替えながら云った。
「俺を兄だと思いこんでるおまえじゃ、ずっと手繋ぐなんざ嫌がられそうじゃねぇか。けど、おまえは俺を恋人だと認めてくれたからな、手を繋ごうが抱きあげようが構わないって事さ」
「い、今までも手繋いだり、抱っこしたりしてたじゃありませんか」
「そりゃそうさ。けど、あれでも遠慮してたんだぜ」
悪戯っぽい瞳で笑いかける兄に、総司はうそ〜っと思ってしまった。
あれで遠慮してたなら、これからはいったいどうなるのか。毎日毎日、抱っこされたり、口づけされたり、もしかして外出する時もずっと手を繋いだり──なんて事になっちゃうのだろうか。考えただけで、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
(……でも、兄さんとなら嬉しい、かな……?)
頬をあからめ俯いてしまった総司を、歳三はとろけそうなほど優しい瞳で見つめた。身をかがめると手をのばし、そっと総司の火照った頬を撫でてやる。
「可愛いな……総司、おまえが一番だ。おまえだけが好きだよ」
「兄さん……私も……」
小さな消え入りそうな声で云ってから、総司も手をのばした。きゅっと歳三の着流した小袖の袂を掴み、言葉をつづける。
「私も好き……だい好きだから、ずっと一緒にいてね」
「あぁ、もちろんだ」
歳三は優しく微笑むと、総司の頬にかるく口づけてくれた。
「ずっと一緒だよ」
そう囁きながら……。
お祭りはかなりの賑わいだった。
見上げれば夜空に満月が美しいが、足下を照らす灯籠も朧気に浮かび上がり、とても綺麗だった。
だが、いかんせん人が多い上に、明かりは仄かなものだけで、後はほとんど暗闇だ。そのため、総司は何度も転びそうになったが、そのたびに歳三が腰に腕をまわして抱きとめてくれた。
それが申し訳なくてたまらない。
周囲を見れば、幾組もの男女が楽しそうに寄り添い歩いていた。それが皆、とても大人に見えて、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
こんな自分を連れて来たくなかったのも、無理はないと思った。
何しろ、自分はまだまだ子供なのだ。大人である兄には全くふさわしくない子供。きっと、このお祭りにも兄は艶やかな美しい女を連れて来た事があるのだろう。なのに、今年は自分なんかを連れてきて───
(……つまらないって思ってる?)
そんなふうに思ったとたん、たまらなく悲しくなってしまった。胸の奥がちくちく痛くなる。
手をひいて歩いてくれる歳三の端正な横顔を、総司はそっと見上げた。
薄闇の中、精悍で男らしい顔が浮かびあがっている。均整のとれた長身に纏った黒っぽい小袖もよく似合っていて、すれ違う女たちが皆ふり返る程だった。
だが、その兄に自分は本当にふさわしいのだろうか。
もっと早く大人になりたいのに。この人の傍にいる事を誰もがみとめてくれるくらい、この人がどこか遠くへ行ってしまわないと安心できるくらい、綺麗で何でもできる大人になりたい。だい好きな兄にふさわしいように。
だが、そんな事を考えていたからだろうか。
総司は三度目に大きく転んでしまった。慌てて歳三が抱きとめてくれたが、それでも膝を少し擦ってしまった。
とたん、歳三が総司を抱いたまま短く舌打ちするのを、耳もとで聞いた。
「ったく……危なくて仕方ねぇな。やっぱり、まだ早かったか」
「──」
それに、総司は大きく目を見開いた。泣き出しそうになってしまう。
兄さんに呆れられた!
やっぱり、つまらないと思っていた?
こんな子供の私なんかと祭りに来ちゃったこと、後悔しているんだ……!
頭の中をそんな言葉ばかりがぐるぐる回り、総司は躯中が激しく震えるのを感じた。
それに、歳三はすぐ気がついた。眉を顰め、顔を覗き込んでくる。
「総司? どうかしたのか?」
が、不意に総司は大きく身を捩った。驚く歳三の腕の中から抜け出すと、頬を紅潮させて叫んだ。
「もう……構わないで!」
「え?」
「私、私……兄さんに迷惑かけたくないから! ちゃんと一人でも歩けるから!」
「は? 何を云ってるんだよ、いったい……」
呆気にとられつつ手をのばしてくる歳三に、総司は後ずさった。ふるふるっと首をふった。
「ごめんなさい、私、子供で……ごめんなさい……!」
そう云うなり、総司は身をひるがえした。神社境内の雑踏の中へと、走り出してゆく。
歳三は目を見開き、叫んだ。
「総司! 一人で行くな!」
だが、それを総司は聞いていなかった。半泣きになりながら、必死になって駆けた。
あちこちで人にぶつかったが、もう何も見えていなかった。
やっぱり、後悔してたんだ。
私が子供だから、いやだったんだ。
あんなにお祭り行きたいって私が云ったから、無理して連れてきてくれて。
でも、だけど、兄さん、本当はもっと大人で綺麗な女の人とかと来たかったはずで───
総司はもう頭の中がぐちゃぐちゃだった。
まだ恋を自覚したばかりで、その上だい好きな兄が恋人となり、でも、それがどうしても実感できなくて。
幼い総司からすれば、歳三との恋は不安ばかりだったのだ。
「っ……ひっ、く……っ」
総司は境内の一角で足をとめると、いつのまにか涙で濡れていた頬を手の甲で拭った。何とか落ち着こうとする。
その瞬間だった。
「!」
不意にもの凄い力で腕を掴まれたかと思うと、そのまま傍らの雑木林の中へ引きずりこまれた。
一瞬の出来事で、総司は何が何だかわからなかった。
だが、樹木の幹に躯を押しつけられ、酒臭い息を吐きかけられたとたん、理解した。
自分は今、酔漢に襲われているのだ……!
ぞぉっと全身が総毛立ち、思わず悲鳴をあげかけた。
「や……!」
が、その唇も男の手で覆われ、声一つ出せない。
大きく見開いた総司の目に、雑木林の向こう──境内の中を探し回る歳三の姿が映った。血相をかえ、必死になって総司を捜している。
(……兄さん……!)
だが、声さえ出せず、助けも求められないのだ。
すぐそこにいるのに、ふり返ってもらうことさえできない。こんなにも恐ろしい目にあっているというのに。
まるで、今朝見た夢のようだった。
否、もっともっと怖かった。だから。
総司はあの夢のように、叫んだ。心の中で。
(兄さん! 助けて、兄さん───!)
その瞬間だった。
信じられないような事が起こった。
歳三がびくっと肩を震わせたかと思うと、もの凄い勢いでこちらをふり返ったのだ。
「──総司! そこか!?」
そう叫ぶと、そのまま境内を横切り、雑木林の中へ飛び込んでくる。
とたん、酔漢に押さえ込まれ躯をまさぐられている総司を目にし、鋭く息を呑んだ。その黒い瞳にかっと怒気が燃えあがる。
「この野郎……ッ!」
叫びざま、歳三はその酔漢を殴り飛ばしていた。地面に崩れたところで容赦なく腹を蹴りこみ、失神させてしまう。
その間、総司は幹に背をはりつけたまま、細かく躯を震わせていた。
「総司……!」
その小さな躯が、いきなりすくうように抱きあげられた。息もとまるほど力強い腕で抱きしめられ、何度もその名を呼ばれた。
「総司……総司……!」
それに、わっと泣きだした。
あたたかい兄の体温、感触、兄の声に、ようやく総司の躯も感情もきちんと動き出したのだ。安堵感に、熱い涙がこみあげた。
「兄さん……!」
しがみついた総司の細い躯を、歳三はしっかりと抱きしめてくれた……。
帰り道、歳三はもう決して総司の手を離さなかった。
家へ戻るとすぐに、総司の擦り傷などの手当をしてくれた。あの酔漢に押さえ込まれた時に抵抗したので、あちこち傷を負っていたのだ。
塗り薬をぬってもらいながら、総司は小さな声で訊ねた。
「あの……酔った人……どうなったの?」
「まだ気絶してのびてるさ」
「……まさか……死んだりとか」
「あれぐらいで死ぬものか。もっとも俺は殺しても飽き足らねぇぐらいだがな」
苦笑しながら呟いた歳三に、総司はふるふるっと首をふった。
それに、歳三は顔をあげた。低く喉を鳴らして笑うと、そっと総司の頬にふれてくる。
「心配しなくても、おまえには何もしねぇよ。俺の怒りがむくのは、おまえを傷つける奴らだけだ」
「兄さん……」
総司は俯き、ぎゅっと両手を握りしめた。
「ごめんなさい……」
「……」
「勝手に一人になったりして、心配かけて……ごめんなさい」
「もう一人で行ったりするなよ」
歳三は優しく総司の頬を撫でながら、言葉をつづけた。
「おまえはめちゃくちゃ可愛いんだ。だから、俺はいつも心配でたまらねぇ。本当は……あの祭りに連れていくのだって、心配でたまらなかった」
「……子供、だから?」
総司は小さな声で訊ねた。
「私が……子供だから、なの?」
それに、歳三はゆっくりと首をふった。
「違う。おまえが俺の恋人だからだ」
「……」
総司は大きく目を見開いた。
歳三は両手をのばすと、その細い躯をぎゅっと胸もとに抱きすくめた。大きな掌が背を撫でてくれる。
「おまえが俺にとって、何よりも大切な存在だからだ。俺はおまえがいないと、生きてゆけない……それぐらい大切なんだ。愛おしいんだ。だから、おまえが危ない目にあるんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなくなる。今夜だって心配だったが、ずっと手を繋いでいれば大丈夫だと思っていた。俺が必ず守ってやれると、なのに、思ったより足下が暗くて危なくて、可愛いおまえに怪我でもさせたらと思うと心配でたまらなくて……」
「だから、危なくて仕方ない、連れてくるの早かったと云ったの?」
「そうだ。……おまえ、まさか自分が子供だから俺が苛立ってるとでも思ったのか」
眉を顰め、ちょっと怒ったような口調で云った歳三に、総司はおずおずと頷いた。だが、すぐに「兄さん、ごめんなさい」と告げ、その広い胸もとに顔をうずめた。
歳三はため息をつき、ぽんぽんっと背をかるく叩いてくれた。
「ったく、しょうがねぇな。俺も言葉足らずだったが、この俺がおまえに苛立つ事なんかありえねぇよ。おまえが可愛くて可愛くてたまらねぇんだから。あの祭りだって確かに心配だったが、可愛いおまえを連れてゆけて、俺、すげぇ自慢で嬉しかったんだぜ」
「本当……?」
「嘘ついてどうするんだよ。俺にとって、おまえは一番なんだから」
「兄さん、嬉しい……」
きゅっと抱きついた総司に、歳三は喉を鳴らして笑った。その体温をぬくもりを感じてるうちに、総司はふと思い出した。
身を起こすと、小首をかしげた。
「あのね、兄さん……あの時、聞こえたの?」
「? 何が」
「兄さん、助けて!って叫んだ私の声。ちゃんと聞こえたの?」
「あたり前だろ」
不思議そうな顔で、歳三は云った。かるく小首をかしげる。
「あれだけ大きな声なら、誰だって聞こえるさ」
「そう……」
総司は頷くと同時に、ほんわかと胸が熱くなるのを感じた。
夢とは全然違ったのだ。
この兄は、声に出さなくても、ちゃんと総司の声を聞きとってくれたのだ。それが嬉しくてたまらなかった。
「兄さん……だい好き」
そう云った総司に、歳三は微笑んでくれた。
不意に立ち上がったかと思うと、総司の腰と膝裏に腕をまわし、軽々と抱きあげた。部屋を横ぎり、縁側に出てゆく。
そっと縁側に下ろされながら、総司は小首をかしげた。
「兄さん……?」
「月見、楽しむ暇なかったからな」
歳三は総司の傍らに腰をおろしながら、笑いかけた。
「見ろよ、ほら……綺麗な月だ」
「うん」
こくりと頷き、総司は彼の傍らに寄りそった。その細い肩を男の腕が優しく抱き寄せてくれる。
紺色の空には、まん丸の月がぽっかり浮かんでいた。
「ぺったんぺったん、兎さんがお餅をついてるね」
「月見団子、用意するの忘れたな」
「明日、つくります。きな粉いっぱいかけましょうね」
楽しそうに云ってから、総司はふと歳三の方を見上げた。
ちょっと躊躇っていたが、やがて、小さな声で呼びかけた。
「ね、兄さん……?」
「あぁ」
「もしも……もしもね、私が兎になったらどうします?」
「え?」
歳三は驚いたように、総司を見下ろした。突然、意味がわからない事を云いだした弟に戸惑っているらしい。
それに、総司はもじもじと両手を組み合わせた。
「だから……私が兎になったら。もしかして、捨てちゃう?」
「まさか」
歳三は肩をすくめ、月を見上げながら云った。
「どこへ行く時も、一緒につれてゆくさ。俺の懐に入れて仕事場へ連れていって、ちゃんと飯食わせて、しょっちゅう撫でてやって、うんと可愛がって……」
そうつづけてから不意に言葉を途切らせ、歳三は苦笑した。
「何だ。今と変らねぇか」
「……」
総司はちょっとびっくりした顔で歳三を見ていたが、やがて、ぱっと花が開いたように笑った。
嬉しくて嬉しくてたまらない。
兎になっても、やっぱりちゃんと可愛がると云ってくれた兄が嬉しかった。愛されてると実感できた気がして、とてもとても幸せだった。
「兄さん、だい好き……!」
突然、両手をのばして抱きついてきた総司に、歳三はびっくりしたようだった。それに構わず、歳三の膝上にあがると、そのまま抱きついて彼の頬に口づける。
そんな総司に、歳三は優しく微笑んだ。桜色の耳もとに唇を寄せ、囁きかける。
「……おまえが兎でも何でも、ずっと愛してるよ」
そして。
歳三は、彼だけの可愛い兎を抱きしめると、甘く優しく口づけたのだった……。
>>>
[あとがき]
甘ーい。どこまでも甘い甘い、いちゃつき兄弟です。恋待蕾シリーズ化、一つめのお話、いかがでしたでしょうか。ちょっと遅れてしまいましたが、中秋の名月。この総司はかなり幼いです。あくまで可愛く幼くって感じで。でも、そこが土方さんも可愛くてたまらないのでしょうけど。この総司はとくに、兎ってイメージで書いてます。
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