川の流れに夕焼けが反射し、きらきら輝いている。
 あたりは淡い茜色の空気につつまれ、子どもたちが歓声をあげて彼の傍を走り抜けていった。
 店も明かりを灯し始めている、夕暮れ時。
 その中を、歳三はゆっくりと歩いていた。
 仕事帰りのため、いつもの紺木綿の印半纏姿だ。
 だが、それが歳三のすらりと引き締まった長身によく似合い、冷たいほど端正な顔だちとあいまって、道ゆく女達の視線を纏めてさらってしまっている。
 しかし、当の歳三はまったく気にもとめていない。
 彼の頭の中は今、可愛い恋人、総司のことだけで占められていたのだ。


(まったく……思ったとおりだ)


 結局、夕飯が終わった後も、総司はどこかうわの空だった。
 その様子から、歳三は察したのだ。
 斉藤から問いの答を聞き出せなかった総司が、次にむかうのはどこか──と。
 考えるだけで忌々しい話だが、それはおそらくあの八郎の元だろう。
 お磯に聞かなかった事から、たぶん、女性には聞きづらいこと。ならば、残る親しい男は、八郎しかいなくなるのだ。
 案の定、総司は八郎の元へ向ったようで、さきほど念のために覗いた家は留守だった。
 そのため、歳三は今、小稲の宿「穂波屋」へ向っているのだ。
 己の予想があたった事はいいのだが、それが逆にまた腹ただしい。
 最近、何か事あるたび、総司はあの八郎を頼るようになっていると感じられて仕方がないのだ。
 むろん、総司の恋人は自分だ。
 他でもない、彼自身が総司の中で一番なのだとわかってはいるのだが、それでも、この激しい嫉妬だけはどうにもならない。


(……ざまぁねぇよな)


 そう自嘲しながら歩んでいた歳三の足が、不意に、ぴたりと止まった。
 もう少しで穂波屋だという川縁だ。
 そこを、若い男と少年が仲良さそうに歩いていた。とても親しげに談笑しながら、こちらへと歩いてくる。
 八郎にむけられた、花のような笑顔を見たとたん、かっと頭に血がのぼった。拳を固め、一歩前へ踏み出した。
「総司!」
 鋭い声で、呼びかけた。
 それに、総司がびっくりしたように顔をあげた。
「あ、兄さん……!」
 歳三の姿をその瞳に映したとたん、少年の顔がぱっと明るく輝いた。嬉しそうにいそいそと走り寄ってくる。
「兄さん、どうしたの? 迎えにきてくれたのですか?」
「……あぁ」
 どこか喉に絡んだような声で答えながら、歳三はこちらへゆっくり歩み寄ってくる八郎を見据えた。
 切れの長い目が剣呑な光をうかべる。
 だが、八郎の方は飄々としたものだった。
「わざわざお迎えかい?」
 笑みをうかべ、訊ねてくる。
 それに、歳三は総司の細い肩に手をまわし、ぐっと抱き寄せながら答えた。
「……あぁ」
「ご苦労な事だね。兄さんもなかなか大変だ」
 そう云ってから、八郎は総司の方へ視線をうつした。にやっと笑ってみせる。
「じゃあ、総司。またな」
「はい」
「近いうちに、おいで。小稲も待ってるぜ」
 八郎はひらりと手をあげると、そのまま踵を返した。歩み去ってゆく。
 それを総司が見送っていると、肩を抱く歳三の手に、また力がこめられた。ぎゅっと痛いほど抱きよせられる。
「兄さん……?」
 不思議そうに見上げた総司を、歳三はどこか切なげな表情で見下ろした。形のよい眉を顰め、何かを堪えるように奥歯をぐっと噛みしめている。
 その黒い瞳は昏く翳り、不可思議な感情をうかべていた。
 だが、総司がそれをよく見つめようとしたとたん、ふっと視線をそらしてしまう。
「……帰ろうか」
 僅かに目を伏せた後、歳三はいつもの静かな声で云った。肩を抱いていた手も力が緩められる。
 それに、ほっと安堵の息をつきながら、総司は「はい」と返事をした。ちょっと躊躇ったが、兄の逞しい胸もとへ甘えるようにそっと身を寄せる。
 すると、歳三のまとう空気が柔らかくなった気がした。
「兄さん……迎えに来てくれて、ありがとう」
 そう囁くような声で云った総司に、歳三はちょっと驚いた顔をしてから、いつものように優しく微笑んでくれた。












 その夜、風呂から出てきた歳三は驚いた。
 先に出た総司が布団の上にいるのはいいのだが、何故か、布団は二組敷かれ、その片方に総司がきっちりと畏まって正座していたのだ。
「……どうしたんだ、いったい」
 濡れた髪を拭きながら訊ねた歳三に、総司は大きな瞳をむけた。
「あのね、お話があるのです」
「話?」
「聞いてくれますか?」
 そう訊ねる総司に、歳三はむろん頷いた。


 愛しい弟の話を聞かなくて、誰の話を聞くというのか。
 それに、これはあれだろう。
 昨日の夜から問題にしている、斉藤や八郎に訊ねた質問についての事に違いないのだ。なら、こちらから進んで聞きたい程だった。


 歳三は総司の前に腰をおろすと、優しい声で促した。
「おまえの話なら何でも聞くよ」
「ありがとう、兄さん」
 総司は緊張しているのか、膝上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。それから、云った。
「あのね、兄さんもわかってると思うけど、話というのは、昨日から斉藤さんや八郎さんに聞いた事なの」
「……あぁ」
「それで、何を聞いたのかというと……その、ち、契りの事を聞いたの」
 その言葉を口にしたとたん、総司の頬がかぁっと紅潮した。耳朶まで真っ赤にし、もじもじと俯いてしまう。
「?」
 だが、歳三は一瞬、意味がわからなかった。
 いくら明敏な彼でも、ただ「ちぎり」だけではわからなかったのだ。だが、頬を火照らせて俯く総司を見ているうちに、だんだん得心がいってくる。
 そして。


「おまっ……何を聞いてんだっ!」


 思わず怒鳴ってしまった。
 それに、びくっと身をすくめた総司を見はしたが、それでも怒りの方が先にたって収まらない。


 心底、冗談ではない! と思った。


 この可愛い可愛い──それこそ、目の中に入れても痛くないほど可愛い総司は、自分がこの手で大切に育ててきたのだ。
 穢れにふれさせぬよう、余計な事は耳にいれぬよう気を配ったし、その彼の望みどおり、総司は素直で可憐で純真で、まっ白な花のように可愛らしい恋人となってくれた。
 なのに、その総司がよりにもよって、契りの事を、あの斉藤や八郎に訊ねていたなどと、考えただけで頭に血がのぼりそうな衝撃だった。


 それはむろん、いつかは教えなければならない事はわかっている。
 総司も十五だし、そろそろ契りを交わしたいと云ったのは己自身だ。
 だが、それは自らの手ですべて優しく甘い夢を見させるように教えてやりたいのであって、決して、下世話な与太話のついでに教えられるような形にしたい訳ではなかったのだ。
 なのに。


「どうして……何でそんな事をしたんだ!?」
 歳三は思わず手をのばし、総司の細い肩を掴んだ。
 可愛い顔を覗きこむようにすれば、怯えきった瞳が見上げる。
「……兄さ…ん……っ」
 ぷるんとした桜色の唇がわななき、彼の手の中で華奢な躯が震えた。まるで罠にかかり怯える小さな白兎のようだ。
「ごめ…ごめんな、さい……」
 声が震えたかと思うと、その大きな瞳に涙がもりあがった。大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。
「私……そんな、悪い事と思わなくて……ごめん、なさい……っ」
「……総司」
 いじらしい総司の様子に、歳三の怒りもたちまち消え去った。
 この可愛い弟を前に、いつまでも怒っていられるはずもないのだ。
 こんなにも可愛く、いとおしいのだから。
「怒鳴って悪かったよ……」
 歳三はそっと総司の細い躯を抱きよせた。まだ泣きじゃくる弟の髪を撫でてやりながら、静かに謝る。
「かっとなって、つい怒鳴った俺が悪かったな。ごめん。謝るよ」
「兄さん……」
 総司は両手で目をこすると、ふるりと首をふった。
「ううん、私も悪かったのです。八郎さんにも云われたから、そういう事は兄さん自身が教えたいって思ってるだろうから、人に聞いちゃ駄目だって」
「……あいつがそんな事を?」
 歳三は思わず苦笑した。
 八郎への敵愾心は相変わらず消える事はないが、ちょっぴり感謝する気持ちにもなる。
「だから、ね。私、まだ何も聞いてません。兄さんから教えてもらうまで、聞かない事にしました」
「教えてもらうって……」
 そんな言葉を平気で口にする弟に、歳三はちょっと困惑した。


 この可愛い恋人は、本当に何も知らないのだろうか?
 契りというものが何をするのか。
 教えてもらうというのは、何を意味するのか。
 というか、ここまで云うって事は、教えて欲しいと、とっていいのか?
 本当に、本当に……構わねぇのか?


「ですから」
 総司はちょっと小首をかしげ、云った。
「兄さんに、これ以上我慢させるの申し訳ないと思うのです」
「我慢……まぁ、な」
 歳三は頷き、ちょっと咳払いした。


 確かに、これまでの忍耐、我慢は並ではなかった。
 ところ構わず身をすり寄せてくる総司に、どれだけ煽られまくった事か。
 今すぐ自分のものにしちまいたい……! と、強く抱きしめてしまった事も、一度や二度ではなかった。
 そのたびに、総司に「兄さん? どうしたの?」と無邪気に訊ねられ、その可愛い笑顔に「……いや、何でもねぇ」と首をふってきたのだが。
 だが、本当に今度こそ……いいのだろうか?


「やっぱり、我慢させていたのですね。ごめんなさい」
 そんな兄の苦悩と葛藤を知らぬまま、総司はぺこりと頭をさげた。
 そして、云った。
「これからは毎晩、別々のお布団で眠る事にしますね」
「……は!?」
 思っていた事とは全く正反対のことを云われ、歳三は驚いた。呆気にとられ、目の前の総司を見つめる。
 それに、総司は無邪気そのもので云ってのけた。
「八郎さんに助言されたのです。一緒のお布団で眠るなんて、苦行に違いないって。兄さん、我慢大変だろうって」
「……」
「ね、そうでしょう? ずっと我慢してきたのでしょう?」
「……我慢……我慢は……確かにしてきたが」
「ごめんなさい」
 総司はつぶらな瞳で彼を見つめ、心から申し訳なさそうに云った。きゅっと細い指さきが着物を握りしめる。
 そっと俯けば、さらさらした髪の間からのぞく白い項がなめらかで、幼いゆえの艶っぽさが匂いたつようだ。
 歳三は疼くような想いで、それをじっと見つめた。
「本当にごめんなさい。兄さんの我慢に気づいてあげられなくて」
「いや……」
「でも、今夜からはきちんと別のお布団で寝ますから、安心して下さい。これで、兄さんもゆっくり眠れますよね」
 まったく見当違いの総司の言葉に、歳三は何か云おうとした。
 だが、もう何を云っていいのかわからない。というか、何か云う気力もなかった。
 仕方なく頷いた歳三に、にこにこと笑い、総司は「おやすみなさい」と丁寧に頭を下げた。そのままお布団へごそごそと潜り込み、歳三がぼんやりと眺めているうちに、すうすう寝息をたてて眠ってしまう。
「……何というか、まったく」
 しばらくたってから、歳三は自分の布団の上に胡座をかき、はぁっと大きくため息をついた。


 我慢しているという事に気づいてくれたのはいいが、何だって、こういう展開になってしまうのか。
 これでは、ますます手が出せないではないか。


「あの八郎って野郎、余計な事を云いやがって……」
 先程の感謝の気持ちはどこへやら、歳三は苦々しい思いで舌打ちした。


 確かに、総司を抱きしめて眠るのは我慢の連続だ。
 だが、それでも、一緒の布団に入って眠る幸せは、何にも代え難いものだったのだ。
 たとえ我慢を強いられる事になっても、己の腕の中ですやすや眠る総司を見つめ、その愛しいぬくもりを感じながら己も眠りへ入ることは、一日の終わりのささやかな幸せだったのに。


「何でこうなっちまうんだろうな」
 歳三はもう一度深くため息をつくと、仕方なく自分の布団の中へ入った。ひんやり冷たい布団が妙に侘びしく、淋しく感じられる。
「独り寝の夜は、身に染みるって奴かな……」
 そう自嘲まじりに呟くと、歳三は静かに瞼を閉じた。












 夜更けだった。
 いわゆる丑三つ時という頃合いか。
 歳三は、ぽんぽんという音に目が覚めた。
「……?」
 訝しく思って身を起せば、総司が両手をひろげ、ぽんぽんと布団の上や畳の上を叩いている。
 まるで、何かを探すような仕草だ。
「いったい、何をやってるんだ?」
 歳三は眉を顰め、総司を覗き込んだ。とたん、総司の目がぱちっと開いた。
 大きな瞳が薄闇の中で、じーっと彼を見つめている。
 そして。
「……兄さん、いた」
「え?」
「どこ……行ってたの?」
 そう云うと、総司は両手をのばした。思わず身をかがめた歳三の背に手をまわすと、ぎゅっと抱きついてくる。
 胸もとに身をすりよせ、甘く澄んだ声で囁いた。
「兄さん、どこにも行っちゃ…やだ」
「総司」
「ずっと……一緒にいてね」
「……」
 とたん、歳三の胸を甘酸っぱい想いがみたした。
 たまらないほど、今にも叫びだしたくなるほど、総司が可愛くて愛しくてたまらなくなる。
「総司……」
 優しい声でその名を呼び、歳三は総司の髪に、額に、瞼に、頬に、口づけを落とした。
 腕の中の細い躯が何よりも愛おしい。
「一緒にいるよ」
 歳三は、一緒の布団の中へ、そっと躯をすべりこませた。
 とたん、ぎゅっと抱きついてくる総司が、胸が痛くなるほどいじらしくて可愛い。
「俺はどこにも行かねぇ……いつまでも、おまえと一緒だ」
 柔らかな声でそう囁いた歳三に、総司は小さく、夢見るような微笑みをうかべた。
 こくりと頷くと、彼の胸もとに顔をうずめ、安堵したように再び眠りへと落ちてゆく。
 その背をゆっくりと掌で撫でてやりながら、歳三は微笑んだ。
「……やっぱり、二人一緒の方がいいよな」


 どんな事よりも。
 ふたり一緒にいられる幸せは、代え難いものなのだから。


「おやすみ……総司」
 歳三は満ち足りた気持ちで囁きかけると、可愛い恋人をそっと優しく抱きすくめたのだった……。 
















 

[あとがき]
 そして、現状変わらずってとこです(笑)。結局、これからも歳三兄の苦行はつづく訳でして。じりじり前進はしているようなのですが、うさちゃん可愛さでなかなか手出せそうもないし。これは、歳三兄の方が少し頑張らないといけないかな。
 またつづきupしたら、読んでやって下さいね♪