雨が降っていた。
夏の日によくある、突然の俄か雨だった。
それを全身に浴びながら、歳三は足早に歩いていた。
早めに帰ってきたのだが、運悪く雨に降られてしまったのだ。目的地である佐藤家の屋敷までは、まだ大分距離があった。
「……」
歳三は道の向こうを透かし見るようにして、目を細めた。
小さなお堂が見える。
あそこで雨宿りしようと足を早めた。
ばしゃばしゃと音をたてて走ってゆくと、視界の先で何かが小さく動いた。
「?」
一瞬、眉を顰めた歳三だったが、次の瞬間、大きく目を見開いた。
慌てて駆け寄り、お堂の中を覗き込んだ。
「──宗次郎!」
思わず叫んだ歳三に、幼い少年は怯えたように大きな瞳を見はった。
まだ八つの年を数えたばかりだ。
そのか細い体はぐっしょりと濡れそぼり、小さく震えていた。
「おまえ、なんだってこんな所に……っ」
歳三はお堂の中に入ると、宗次郎の小さな手を掴んだ。
彼の手の中、子供の手は驚くほどなめらかで小さい。
それが、彼の心にたまらなく強い保護欲をかきたてた。
「びしょ濡れじゃねぇか! しかも、おまえ怪我して……っ」
「……っ、おこ…らないで……っ」
宗次郎はふるふると首をふった。
いつも桜色の唇も青ざめ、震えている。
「歳三さん……怒っちゃ…いや」
少年の大きな瞳は今にも泣き出しそうで、歳三は息を呑んだ。
まるで、自分がこの少年を苛めているような気持ちにさせられ、怯えた様子で彼を見上げる宗次郎に、きりきりと胸が痛んだ。
深い罪悪感がこみあげる。
「……怒ってねぇよ」
歳三はため息をつき、その場に跪いた。両手をのばし、そっとさし招いてやる。
「ほら、おいで……宗次郎」
「うん……」
まだ躊躇いがちにだったが、おずおずと宗次郎は彼に近寄った。
手拭で膝の怪我をくるんでやってから、歳三は胡坐をかき膝上に少年の体を抱きあげた。
いつもどおり、彼の腕の中にすっぽりおさまってしまう。
小さな、だが体温の高い少年の体を抱きしめながら、歳三は訊ねた。
「おまえ、いったいどうしてこんな所にいたんだ?」
「歳三さん……怒らない?」
まだちょっと不安そうに宗次郎は訊ねた。それに、くすっと笑った。
「あぁ、怒らねぇよ。約束する」
「あのね……歳三さんを迎えに来たの」
その言葉に、歳三は目を見開いた。
驚いた表情の彼に、宗次郎は目を伏せながら答えた。
子供特有のふっくらした頬に、長い睫毛が翳りを落とした。
「彦五郎さまのお家に来たけど、歳三さんまだ帰ってなくて。早く帰ってこないかなぁと思って」
「……」
「歳三さんに少しでも早く逢いたかったから、迎えに来たの。たくさん雨が降ってたけど、どうしても逢いたくて走ったら、途中で転んじゃって。お堂にいたら、歳三さんが来てくれて逢えて……とても嬉しい、です」
そう云ってから、宗次郎は少し恥ずかしそうに笑った。
そんな幼い少年を、しばらくの間、歳三は黙って見つめていた。
黒い瞳が何ともいえぬ複雑な感情をうかべた。
あまりにつづく沈黙に、宗次郎が小首をかしげた。
「歳三さん?」
小さく呼びかける宗次郎に、歳三は目を伏せた。
黙ったまま、そっと背中からその小さな細い体を抱きしめる。
濡れた柔らかな髪に顔をうずめた。
「……宗次郎……」
「なぁに?」
「ずっと一緒にいような……」
「うん」
こっくり頷いた宗次郎が、何よりもいとおしい。
それを切ないほどの想いで感じながら、歳三は静かに目を閉じた……。
……ざぁ──ッ……
雨が降っていた。
それを感じながら、土方はゆっくりと目を開いた。
いつのまに降り出したのか、褥に入るまでは確かに聞こえていなかった音が聞こえていた。
しめやかに伏見の町を濡らしてゆく雨。
あの夏の時と違う、冬の凍えるような雨だった。
「……」
土方は僅かに吐息をもらし、片手で黒髪をかきあげた。
先ほどまで見ていた夢と現が交差し、どうもはっきりしない。
あんな昔の夢を、どうして今頃見たのか。
それも、あんな夢を。
だが、その理由を彼はよく知っていた。己の心の動きを、痛いほどわかっていたのだ。
「……」
土方は僅かに身を起こし、ふと、己の腕の中に視線を落とした。
無言のまま目を細めた。
彼の胸に寄りそうようにして眠っている、誰よりも愛しい恋人。
あの頃と変わらず、なめらかな頬に長い睫毛が翳りを落としていた。違うことと云えば、その頬がひどく青白いことだ。病人特有の弱々しさだった。
僅かに開かれた桜色の唇からは、規則正しいとは云えぬ寝息がもれていた。
それに、土方は眉を顰め、そっと額に手をあてた。
少し微熱があるようだ。
だが、こんな事はもう日常茶飯事になってしまっていた。
総司の躯を侵した病は、もう取り返しのつかぬ処まで来てしまっているのだ。
だからこそ、戦に連れてゆく訳にはいかなかった。むろん、ここ伏見においてゆく訳にも行かない。
狙撃され負傷した近藤と共に、総司は、明日、大阪へ下ることになっていた。
その決断を下したのも、嫌がる総司に有無を云わせずそれを強いたのも、土方自身だった。
「……総司……」
土方はその愛しい若者の名を呼び、手をのばした。
しなやかな指さきで、そっと、頬に──唇にふれた。
……本当は手放したくなかった。
大きな戦なのだ。自分も無事でいられるかわからなかった。再び、総司とあいまみえる事ができるのか。
それでも、彼自身にはどうしようもない事だった。
もし、ただの男だったなら、今頃、愛しい恋人をつれてこの地を去っていただろう。
二人、どこかで残り少ない日々を静かに過ごしたに違いない。
許されることならば。
だが──、彼は新撰組副長だった。
逃げることなど、許されるはずもない立場の男だった。
近藤が負傷した今、隊を率いるのは彼しかいないのだ。すべての重責が今、彼の肩にのしかかっていた。
その前では、恋人への彼の想いなど些細なものとして片付けられてしまうだろう。
土方自身が、決して望まぬ事であったとしても。
恋人を愛することだけに、己の人生を捧げられるはずもなかった……。
「……総司、赦してくれ」
囁き、そっと抱きしめた。
あの頃のように、腕の中、華奢な躯はすっぽりおさまってしまう。
そのか細さが愛しく、そして切なかった。
「一緒にいようと云ったのは、俺の方だったのにな」
低く呟いた。
あの時、どれほど嬉しかったか。幸せだったか。
お堂の中で、おまえが待っていてくれた時。
『歳三さんに少しでも早く逢いたかったから』
この腕の中、そう笑ってくれた瞬間。
俺は初めて、おまえを心から愛したんだ。
あんな風に云ってくれたのは、おまえだけだった。
あんな風に、俺を求めてくれたのも。
俺なんかのために、少しでも早く逢いたいからと雨の中を迎えにきてくれたおまえ。
そんなおまえを、どれほど愛しいと思ったか。
いつまでも離したくなかった。
これから先もずっと、いつまでも。
おまえの笑顔が俺の傍にあってくれればいい──と、そう心から願ったんだ。
なのに……。
「……いつも、俺はおまえを傷つけてばかりだったな」
土方は掠れた声で囁いた。そっと、総司の髪を撫でてやりながら。
「おまえの気持ちを理解せず、受け止めてやらず……挙げ句、ようやく愛しあうことができたおまえを、俺は自ら手放すことに……」
声が途切れた。
土方は総司の細い体を抱きすくめると、その柔らかな髪に顔をうずめた。
「こんな俺を……どうか赦してくれ……」
不意に、涙があふれた。
頬を濡らしてゆく。
男の肩が震え、その唇から低い嗚咽がもれた。
「……総…司……っ」
冷たい雨が降りしきる夜の底で。
土方は泣いた。
もう二度と帰らぬ懐かしい日々を。
愛しい恋人を。
そして。
いつか必ず訪れるだろう、永遠の別れを想って──……
男の腕の中、総司は眠っている。
愛する男の慟哭も。
永遠の別れも、知らぬまま。
どんな夢を見ているのか。
雨が降りしきる夜の底で───
やがて、雨はやみ。
伏見の町に、静かな夜明けが訪れた……。