……もしも
私が死んだなら
あなたは、少しでも泣いてくれますか……?








 池田屋の夜の闇が濃かった。
 血生臭い空気をふり払うように、総司はかるく前髪をはらった。汗ばんだ濡れた髪が不快だ。
 ゆっくりと左足を体重を移し、身構えた。
 闇に、白刃がぎらりと光った。
 浪士たちの鮮血に濡れ、どす黒く染まっているはずなのに、何故だろう。
 不思議と白い刃の美しさが目を射るようだった。が、そんな事を考えたのは一瞬だ。
「──ッ!」
 撃ちかかってきた男の胴を、横なぎに払った。鈍い手ごたえがあり、ざくっと肉の斬られる音。鮮血を飛び散らせながら、男が倒れた。
 が、それを一瞥もしなかった。
 ただ敵だけを求め、飢えるように刀をふりあげた。次に向かってきた男を一刀のもとに斬り下げると、確かな手ごたえがあった。それに、総司は満足げに唇の端をつりあげた。
 もっともっと敵が欲しい。
 殺してしまいたい。
 私自身の中にある狂気もろとも……!
「!」
 不意に、総司は息を呑んだ。が、すぐに冷ややかな瞳で足元を見下ろした。
 総司が先ほど斬り捨てた浪士が、血塗れになりながらも恨みのこもった目で睨みつけ、その足首を掴んできたのだ。
「……往生際が悪いですね」
 総司はうすく笑った。そのまま片手をふり上げると、一気に刀を振り下ろした。ざぁっと血が迸り、男は息絶えた。それに総司は肩をすくめ、新たな敵を求めて歩き出そうとした。
 が、その瞬間だった。
 突然、胸奥を何かがこみ上げてきたのだ。
 それは、あっという間に喉奥を押し上げ、総司の唇から激しく迸った。
「……ぐっ……!」
 総司は片手で口をおさえた。が、その白い指の間からも鮮血があふれる。後から後から、血は止まることなくあふれ出た。まるで、総司の命を削り取ってゆくように。
 ぐらぐらと天井が回った。もう立っていることさえ出来ず、総司は血塗れの床に両膝をついた。それでも、吐血はとまらない。
 総司は息苦しさで涙を流しながら、喘ぎ、呻き、血を吐きつづけた。
 死ぬのだ……と思った。
 自分は、こうして血を吐いて吐いて、死んでしまうのだと。
 罰があたったのだろうか?
 この手を多くの人の血で汚し、それを何とも思わずにきた罰。
 いや、それよりも──
(……土方…さん……っ)
 心の中、総司は彼の名を呼んだ。
 この世の誰よりも、大切な男の名を。
 だが、その彼を私は今まで傷つけてきたのだ。
 生き地獄にも等しい苦しみをあたえ、そうしてもがきつづける彼を、嘲り笑いながら眺めてきたのだ。
 本当は、愛しくてたまらなかったのに。
 いつだって、あの人が苦しむたび、歪んだ歓びと同時に、胸を掻きむしるような苦痛を感じていたのに。
 愛してる、愛してる、愛してる。
 この世の誰よりも。
 私の命よりも、愛おしい───
「……土方…さん……っ!」
 総司は思わず泣き叫んでいた。
 血を吐きながら、掠れた、くぐもった声で。
 白い手も白い綺麗な顔も、何もかも真っ赤な鮮血に染め、絶叫した。
「助け…てッ! 土方さん…助け…て…ッ!」
 死にたくない。
 私はまだ死にたくない。
 あなたの傍にいたい。たとえ、憎まれていても。
 あなたを愛してるから。
 あなたを愛したいから。
 だから、お願い。
 助けて、助けて、助けて下さい。
 怖くてたまらない、今、私は死にかけてるのです。
 どうか、助けて。
 お願い。
「……っ……」
 もう、声にさえならなかった。
 総司は真っ赤な血の海の中、倒れ込んだ。もがき苦しみながら、それでも血を吐きつづける。
 ただ、彼だけに助けて──と懇願し、泣きじゃくりながら。
 やがて。
 すべてが、昏い血の闇に堕ちた──……







「早くしろ!」
 祇園囃子が響く中、土方は隊士を引き連れ、必死に駆けていた。
 四国屋を目前にしたところで、隊士が知らせをもたらしたのだ。場所は池田屋だと。もう既に近藤たちが少数ながら踏み込み、中は激しい戦さ場になっていると。
 ようやく見えてきた池田屋に、土方はきつく唇を噛みしめた。
 が、次の瞬間、その広い肩がびくりと震えた。
「!」
 総司の声が聞こえた気がしたのだ。が、そんな事あるはずなかった。
 まだ池田屋は遠目に見えたばかりだ、声がとどく距離ではなかった。
 なのに、どうして──?
 土方は鋭く息を呑んだ。
 ざわざわと背筋を悪寒が走り抜けた。考えたくもない想像に、指さきまでもが冷えてゆく。
 それを感じながら、大きく目を見開いた。
「副長……?」
 突然、顔色を変えた土方の気配を感じ取ったのか、傍らから斉藤が問いかけた。それに首をふり、足を早めた。
 池田屋に走り込むと、ちょうど階段を駆け降りてきた永倉が、大きく息をついた。
「よかった、間に合ったよ」
「のようだな、近藤さんは」
「あっちの上で闘っている。早く加勢してやってくれ」
 永倉の言葉に頷き、土方は手早く命じた。隊士達がどっと池田屋の中へ走りこんでゆく。
 それを見送ってから、永倉が土方の方へ向き直った。
「あんたも早く上へあがってくれ」
「あぁ、そのつもりだ」
「……いや、そうじゃないんだ」
 刀に手をかけて上がろうとする土方に、永倉は首をふった。その腕を掴んで引きとめた。
「いいか、落ち着いて聞いてくれよ」
「え?」
「総司のことなんだ」
「!」
 土方は鋭く息を呑んだ。
 それを見据え、永倉は誤解がないよう口早につづけた。
「勿論、あいつは無事だよ。斬られてなんかいない」
「……」
「じゃあ、何だという顔だね。総司はさ、血を吐いたんだ」
「──」
 土方はしばらくの間、じっと永倉を見返していた。かなり長く沈黙してから、低く呟いた。
「……血を…吐いた……?」
「みたいだ。総司の声に驚いて上がってみたら、血を吐いて苦しんでいた。気を失ってしまったが……」
「……」
「まぁ、すぐ意識を取り戻したがね。まだ動けないんで、上の物陰にいる。あんた、早く行ってやってくれ」
「だが……」
 躊躇う土方に、永倉はぐっと腕を掴む手に力をこめた。
「おれはね、あんたたちの確執を知ってるよ。あんたと総司がのっびきならない関係だって事も、そのくせ、ちっとも心が通い合ってないことも。だがね」
「……」
「総司はあんたを呼んでいたんだ」
 静かに、だが、きっぱりと告げた永倉に、土方は大きく目を見開いた。
 信じられないという顔で見ている彼に、永倉は言葉をつづけた。
「もの凄い声で、土方さん、土方さん、助けて……ってな。血を吐きながら、まるで子供みたいに泣き叫んでいた。必死になって、そればかり繰り返していたんだ」
「……っ」
 土方は体中が震え出すような感情に、声さえ出せなかった。
 血を吐いて恐怖し、自分の名を呼んだ総司。
 幼い日の少年を見るようだった。
 いつでも、俺だけを求め、無邪気な笑顔で手をさしのべてきた愛しい少年。
 その誰よりもいとおしいと思っていた総司を、俺は裏切ったのだ。
 裏切り、残酷に傷つけた。
 なのに──総司。
 おまえは俺を呼んでくれるのか。
 助けてと、俺の名を叫んでくれたのか。
 あの幼い頃のように……。
「──」
 不意に、土方は無言のまま踵を返した。そして、足早に階段を駆け上がった。
 薄暗く、天井の低い二階。辺りには血の匂いが立ちこめていた。
 だが、その中を、土方は迷うことなく突き進んだ。
 何故か、どこに総司がいるのかわかる気がしたのだ。その息づかいまでも感じられる気がした。
「……総司」
 そして、それは間違いではなかった。
 暗闇の片隅、男が求めた愛しい若者はうずくまっていた。壁に凭れかかるようにして、じっと目を閉じている。それに、土方はゆっくりと近づいた。
 傍らに跪くと、総司はうっすらと目を開いた。
 闇の中、土方をみとめたのか、微かに笑ってみせた。
「……間にあったみたいですね」
「あぁ……遅くなってすまなかった」
 低い声で答えた土方に、総司はゆるく首をふった。
 それから、また目を閉じて、細く喘ぎながら云った。
「近藤先生に加勢してあげて下さい。私が倒れてしまって、もう……」
「大丈夫だ。もう皆が行った。おまえは何も心配することない」
 そう云ってから、土方はゆっくりと両手をのばした。そして、血濡れたその華奢な愛しい躯をそっと胸もとに引き寄せた。優しく抱きすくめる。
 それに、総司は一瞬、戸惑ったようだった。
 僅かに身じろぎ、そして、小さく笑った。いつものように、どこか冷ややかに。まるで、何事もなかったように。
「……どうしたんですか?」
「……」
「土方さん……?」
 それに、土方は何も答えなかった。
 血を吐いて、恐怖し。
 そして、彼の名を呼んでくれた。
 助けてくれと、叫んでくれた。
 そのくせ、彼の前では決してそんなふうに見せない。まるで何もなかったように振舞ってみせる。
 そんな総司が──誰よりも愛しかった。 
 哀しいほど、愛しかった。
 もっと素直になれたらいいのに。
 誰よりも守ってやりたかったのに。
(……総司……!)
 その髪に顔をうずめながら、きつく目を閉じた。
 おまえの逃げ道も安らげる場所も何もかも奪ったのは、この俺だ。なのに、今更、こんな事を思うのはお笑い草なのだろうか。
 だが──それでも、俺は願ってしまうんだ。
 おまえを愛してやりたいと。
 この腕の中、守ってやりたいと。
 何一つおまえを傷付け、苦しめるものがないように。
 ただ幸せと愛だけを、あたえてやりたかったと───
「……」
 ゆっくりと、土方は顔をあげた。そして、総司の両頬を手のひらで包みこむと、静かに見つめた。
 その彼の深く澄んだ黒い瞳に、総司はふと息を呑んだ。
 息をつめたまま、じっと見つめ返している。
 それに、土方は黙ったまま、そっと口づけた。
 額に、瞼に、頬に、最後に──唇に。
 柔らかな、愛しさにみちた口づけをあたえた。そうしてから、再び総司の細い体を抱きしめた。
 もう二度と離さないと、そう己の想いを告げるように。
(……土方さん……)
 その愛しい男の腕の中、総司は静かに目を閉じた。







 ……もしも。
 私が死んだのなら、あなたは、少しでも泣いてくれるのでしょうか。
 泣いて悲しんで、私の存在を惜しんでくれるだろうか。
 私の死があなたの傷になるだろうか。
 ほんの少しでも、あなたの心に残るのだろうか。



 だけど──今。
 私は思うのです。
 あなたが泣いてくれなくてもいいと。
 私のことなど切り捨て忘れ去り、力強く生きつづけて欲しいと。
 その方があなたらしいから。私たちらしいから。
 私は死ぬまであなたを愛し、そして、あなたは死ぬまで私を憎みつづける。
 そうして、他の誰も届きえない深い場所で。
 狂気のように結び付けられた関係のまま逝けるのなら、こんな幸せなことはないでしょう。
 どんな形であっても、あなたと繋がっていられるなら。
 あなたに助けを求めることは間違っている。
 私にはそんな甘えなど許されない。私はそんな資格など持ちえない。
 あなたは私を憎んでいるのだから。
 あなたは私を愛してなどいないのだから。



 だけど……でも。
 それなら何故、私はあなたの名を呼んだのでしょう。
 あなたに助けを求め、泣いたのでしょう。
 そう──。
 私は本当はこんなにも弱い人間なのです。
 あなたを愛し、憎まれつづける事に耐えられない、弱い一人の子供なのです。
 あの遠い日、真っ暗な夜に泣いていた迷い子の私を、探しにきてくれたあなた。
 息を弾ませながら「見つけられてよかった」と私を抱き上げ、その優しい腕で抱きしめてくれたあなた。
 土方さん。
 あの優しかったあなたを、何度も何度も思い出してしまう。
 そんな弱い私を、どうか許して下さい。
 あなたを愛さずにはいられない、あなたの心に残りたい、本当はあなたに愛されたいと願いつづける私を。
 どうか──許して……







……もしも
私が死んだなら
あなたは、少しでも泣いてくれますか……?
 















長いお話へ戻る          
  「恋でもなく愛でもなく」の扉へ戻る