脳裏をよぎったのは、裏切りという言葉だった。
 新見からの電話で、総司があの狼火の首領──伊東甲子太郎の弟だと聞かされた時、驚きよりも胸の内を突き上げたのは紛れもない怒りだった。
 騙されたと思ったのだ。
 何の関わりもないと思っていたのに。ただ巻き添えをくらわされた存在だと思っていたのに、初めから総司はすべてを知っていたのだ。何もかもわかった上で、ここにいたのだ。
 俺の傍にいてくれるのが、同情でも憐れみでもよかった。俺ゆえにおこった感情であるのなら、何でも構わなかった。
 愛されることなど初めから望んでいなかった。だから、総司が俺に告白してくれた時、それでも俺は信じられずにいたのだ。
 どんな理由であれ、傍にいてくれればよかった。こんな俺を受け入れてくれただけでも、夢のような僥倖だと思っていた。
 だが、それは真実の姿でなければならなかったのだ。
 無邪気な笑顔で俺を欺き、偽りつづけていたのなら。それも、他の男のためにであったなら、俺にとってそれは明らかな裏切りだった。許せるはずがなかった。
 俺の腕に抱かれながら、ずっと他の男のことを考えていたのか。その兄のために、おまえは俺を愛してるふりをしてきたのか。有頂天になっておまえに夢中になってる俺を、陰で嘲り笑っていたのか。
 あぁ……そうだ。これは当然の結果なんだな。
 あんな事をした俺がおまえに愛されるはずもなかったのに。許されるはずもなかったのに。
 一瞬でも夢を見た俺が馬鹿だった。
 それとも、これは仕返しなのか?
 おまえを傷つけた俺への、復讐なのか?
 だとしたら、お笑い草だ。
 俺は裏切られても笑っていられるような男じゃない。そこまで見くびっていたのか。だから、今、俺に銃を突きつけられ、驚いた顔で見ているのか。こんな事をすると思ってなかったんだろう。
 なぁ、総司。
 俺はこんなにもおまえを愛していたのにな……。
 


 

 
「……どっちがいい?」
 低い声で訊ねた土方を、総司はぼんやりと見上げた。
 それに土方は薄く笑った。
「ここで殺されるのと、芹沢の前で殺されるのとどっちがいいかと聞いているんだ」
 銃口は総司の胸に押しあてられていた。
 シャツごしにあたる金属の感触がひどく冷たい。
 それを感じながら、総司は静かに息を吐いた。
「どちらでも構いません……」
「芹沢の所で殺される方が、まだ時間稼ぎできるぜ。もしかしたら、逃げれるかもしれねぇ」
「なら、ここで殺して下さい」
 不意に、はっきりした口調で総司は言った。
 澄んだ綺麗な瞳でまっすぐ土方を見つめ、静かにつづけた。
「あなたに殺されるなら構いません。どうせ死ぬなら、せめて、あなたの手で殺して下さい」
「………」
「ぼくは確かに伊東甲子太郎の弟です。あの人がしてきた所業をすべて見てきた、狼火結成時からのすべてを知り尽くしている。それをあなたが知りたいのなら、何でも話します。それから殺してもいい。もちろん、今すぐ殺したいのならそうされても構いません。ぼくは……あなたになら何をされてもいいのだから」
 土方は大きく目を見開いた。
 総司の瞳は深く澄みきっていた。真摯な口調も何もかも、嘘をついている人間のものではなかった。
 だが、それでも銃を下げることは出来なかった。信じられなかった──否、土方は信じることが怖かったのだ。
 押し黙ったまま、じっと鋭い目で総司を見つめている。そんな彼を総司は静かに見返した。
 ゆっくりと手をあげた。
「……総司」
 思わず息を呑んだ。
 総司が手を重ねてきたかと思うと、拳銃の引き金に指をかけたのだ。彼の指ごと引き金をひこうとしてくる。
「よせ、総司」
「どうして? 殺していいって言ってるのに」
「総司」
「お願いだから、ぼくを殺して。あなたがぼくを殺したいほど憎んでるなら、やっぱり……愛してくれてなかったのなら、もう生きていたって仕方ないの。あなたがいてくれるから、ぼくを愛してるって言ってくれたら、生きてゆこうと思ったのに……!」
 総司の大きな瞳に涙があふれた。ぽろぽろと零れてゆく綺麗な涙を、土方は茫然と見つめた。
 それに、総司は嗚咽をあげながら言いつのった。
「ぼく…は、あなたと幸せになりたかった。あなたがぼくを愛してるって言ってくれた時、嬉しくて嬉しくて……夢じゃないかって思った。でも、やっぱり、みんな嘘だったんだ。ぼくなんか、こんな簡単に殺せてしまうような存在だったんだ……っ」
「総司……!」
 思わずその細い体を抱き寄せようとして、土方はまだ拳銃を下ろしていなかった事に気づいた。少年の手を引き離そうとするが、それに総司はかぶりをふって抵抗した。
「総司、放せ」
「いやです! ぼくは……もう死んだ方がいいんだから……っ」
「俺がいやなんだよ。おまえを殺すなんざ、絶対にできるものか」
「だって、今……殺そうとした……っ」
「それは嫉妬したからだ。おまえが他の男のものなのかと思ったら、悔しくて憎らしくてたまらなかったんだよ……!」
 いきなり叫んだ土方に、総司は驚いて顔をあげた。思わず力が緩んだ。
 拳銃を下ろすと、土方は荒っぽい口調のままつづけた。
「俺はな、おまえに夢中なんだ。骨抜きにされちまってるんだ! 言っただろ? 他の男に笑顔を見られるだけで腹が立つって。俺はおまえが兄のために内情を探るために、ここに留まったと思ったんだ。騙されてたと考えちまったんだよ」
「そん…なの、そんなことあるはずないでしょう!? ぼくは土方さんを愛してるのに! あなたのことしか考えられないのに、なのに……っ」
「あぁ、俺が悪かった。おまえを信じきれない俺がみんな悪いんだ」
「土方さんなんて……もう……っ」
 言いかけた言葉が不意に途切れた。
 荒々しく引き寄せられたかと思うと、噛みつくように口づけられたのだ。熱く激しいキスに総司は目を見開いた。が、すぐさま男の力強い腕に縋ってしまう。やがて、優しい唇が頬や首筋にそっと押しあてられた。
「……愛してるよ……総司」
「ぼくも……愛してます……」
 何度も抱きあいキスしてから、土方は総司の体を引き離した。そして、その細い肩を掴み、綺麗な顔を覗きこんだ。
「いいか? 今から言うことをよく聞いてくれ」
「はい」
「すぐ外へ出る仕度をしろ。ここから逃げるんだ」
「え、でも……」
「このままじゃ、おまえは殺される。あの伊東の弟だ。おまえを使って報復しようと考えている奴は大勢いるだろう。だから、奴らがくる前にここから逃げるんだ」
「だけど、それじゃ……土方さんは?」
 総司は思わず彼の胸に縋りついた。
「土方さんはどうなるの? あなたも一緒に逃げてくれないの……?」
「俺はまだやる事がある。それが全部始末できたら、おまえを迎えに行くさ」
「やる事って何? ぼくにも手伝わせて下さい」
「無理だ。これは俺の仕事だからな」
「……土方さん」
 見上げた総司に、土方は手をのばした。そっと、なめらかな頬を手のひらでつつみ込んだ。
「本当は……おまえを責める資格なんか、俺にはねぇんだ」
「え……?」
「俺もずっと隠してきたんだからな。おまえを騙しつづけていた」
「どう…いう事……?」
「総司、俺は……」
 一つ息をついた。
 そして、土方は静かな声で言った。
「俺は……テロリストなんかじゃない。俺は、ここへ捜査のため潜入している刑事なんだ」
「………」
 総司は大きく見開いた。
 呆気にとられたまま、目の前の恋人を見つめる。混乱し、何も考えられなかった。
「……刑事……土方さんが……?」
「あぁ。はじめも仲間で、俺と同じ刑事だ」
「う…そ……そんな……っ」
「信じられねぇだろ? ま、当然だけどな」
 茫然としている総司を前に、土方は苦笑した。
「おまえみたいな未成年を現職刑事が強姦しちまったんだ。帰っても、懲戒免職くらうかもしれねぇよ」
「ちょっと……待って、ぼく、よくわからない。じゃあ、土方さんは人を殺した事なんかないの? テロリストじゃなかったの?」
「刑事が人を殺しちまってどうするんだよ。まぁ、さっきおまえを殺しかけた俺が言う台詞じゃねぇけどな」
 肩をすくめてから、土方は踵を返した。ここへ来る時に着ていた白いコートを取り出し、それを総司の体に着せてやった。きちんとボタンまで止めてやってから、総司の手をひき玄関へむかった。どこからか総司のスニーカーも取り出してくる。
「……それ、どこに隠してたんです?」
 思わず唇を尖らせた総司に、土方はくっくっと喉奥で笑った。悪戯っぽい瞳で総司を覗きこんだ。
「秘密だ。おまえを逃がさねぇよう、俺も色々画策していたって訳さ」
「もう……土方さんって、ほんとはすごく意地悪じゃありません?」
「何だ、今頃わかったのか」
 笑いながら、土方は総司の肩を抱いた。そして、扉を開いた。
 が、次の瞬間──その足がとまった。
 愕然とした表情で前方を凝視している。訝しく思った総司は彼の視線を追い、鋭く息を呑んだ。
 エレベーターの扉が開いたかと思うと、体格のいい男たちが数人降りてきたのだ。その中には芹沢や新見もふくまれていた。
 立ち尽くしてる二人を見ると、芹沢は声をあげて笑った。
「何だ、準備がいいな」
 鷹揚に笑いかけているが、その細い目は冷たく光っていた。ゆっくりと歩み寄ってくる。
「今から、わしの所に来るつもりだったのか」
「………」
「そいつか、伊東の弟というのは」
 芹沢の目が総司を見た。それを総司は勝気な表情で見返した。
 不思議と怖くなかった。愛する人と一緒だからなのか。
 土方の手が総司の肩にまわされ、強く抱き寄せるのを感じた。
「あの憎らしい伊東の弟らしいな。気の強そうな目をしておるわ。ま、その強気がいつまで続くか見物だが」
 そう言い、芹沢は手下の連中に顎をしゃくった。
「早く連れて行け。ただし、まだ殺すんじゃないぞ。色々と聞きたい事があるからな」
 男たちは頷き、二人の方へ歩み寄ってきた。総司をとらえようと手をのばす。
 だが、次の瞬間、総司の体は素早く土方の後ろに押しやられていた。庇うように立ちふさがり、土方は鋭い目で男たちを見据えた。
「……こいつには指一本ふれさせねぇよ」
「愛人に情が移ったのか」
 新見がにやにや笑いながら言った。
「さすがの隼人も篭絡されたという訳か。だが、そいつは伊東の弟だろう。あいつにはこっちもさんざんな目にあわされているんだ」
「そんなもの、俺の知った事じゃねぇ」
「おまえ! それでも黒手団の幹部か。さんざん芹沢先生に世話になっておきながら……」
「あぁ? 冗談抜かすんじゃねぇよ。俺はこれっぽちも芹沢の世話なんざ受けてねぇぜ。こいつのおこぼれ貰って尻尾ふってたのは、おまえらの方じゃねぇか」
「こいつ、言わせておけば……っ」
 あまりの言い草に激怒した新見が土方に殴りかかろうとした。が、それを止めたのは芹沢だった。
 手で制してから、ゆったりとした態度で土方を見た。
「隼人、そんなにおまえはその子供が大事なのか」
「……あぁ、大事だ」
「なら、交換条件を出そう。おまえがそれを呑むなら、そいつに手出しは一切しないと約束する」
 土方は僅かに目を細めた。
「条件とは何だ」
「簡単なことだ。おまえが完全にわしらの仲間となればいい」
「? どういう意味だ」
 訝しげな土方に、芹沢はゆっくりとした口調で言った。
「おまえがこの黒手団に骨をうずめる覚悟をするということだ。警視庁の刑事など辞めてな」
「──ッ!」
 芹沢の言葉に周囲の男たちはいっせいに息を呑んだ。驚愕の表情で土方をふり返る。反射的に皆、拳銃を取り出していた。その照準はすべて土方ただ一人に向けられた。
 己の正体が暴かれたと知っても、顔色一つ変えていない男に。
 僅かに眉を顰めただけで、土方は薄い笑みさえ口元にうかべていた。ゆっくりと両足を開いて立ち、傲然とした態度で芹沢に対した。
 切れの長い目が射抜くような激しさで男たちを見据えた。
「……知っていた訳か」
「少し前からな。だが、それでもわしはおまえが気にいっていた」
 くくっと芹沢は笑った。
「おまえは死神の目をしている。その目は刑事の目ではない。だからこそ、言うのだ。刑事など辞めて、この黒手団で思うまま力を発揮するがいいと。その方がおまえに似合っている」
「そんな誘いに俺がのると思ってるのか」
 土方は嘲るように唇を歪めた。
「生憎だが、俺は刑事って奴が気に入ってるんだよ。それに、あんたみたいな薄汚ねぇ代議士先生は大嫌いだ」
「なら、ここで殺されるか」
「殺られるものか」
「おまえ一人ならな。だが、その子供をつれて逃げれると思ってるのか。幾らおまえでも無理だろう」
 突然、話をふられ、総司は顔をあげた。
 その顔は真っ青になっていた。本当の意味で、今、総司の恋人は絶対絶命なのだ。こんな銃に囲まれ狙われた状態で、逃げられるとは思えなかった。それも足手まといになる自分をつれてなんて……。
 思わず彼の左側から歩み出ようとした。が、それを察した土方はすっと左側へ動き、より自分の背中の後ろへその細い体を押しやった。総司は息をつめ、男の広い背中を見つめた。
「俺は絶対にあんたに従わない」
「ここで犬死にする気か。おまえだけじゃない、おまえの大事な愛人も死ぬのだぞ」
 そう言われた瞬間、初めて土方の端正な顔に動揺の色が走った。
 きつく唇を噛みしめ、獣のようにぎらつく黒い瞳で男たちを睨みつけた。それに、芹沢が粘ついた声でつづけた。
「おまえがわしの申し出を受けさえすればいいのだ。そうすれば、そいつもその若さで死ぬ事もない。第一、おまえはともかく、その子供はここで簡単に殺されると思うのか。情報を聞き出す為さんざん痛めつけられ、大勢の男達に姦された挙句での悲惨な死だ。それでも、おまえは断ると言うのか」
「……っ」
 土方は鋭く息を呑んだ。ぐっと握りしめた拳が震えている。それを総司は見つめた。
 何もかも自分が悪いのだ……。
 矜持の高い彼が誰かに屈するなど、考えられなかった。だが、彼は今、それを強制されていた。
 土方は刑事という仕事に誇りをもっているのだろう。だからこそ、こんな危険な処へ潜入し、懸命に捜査してきたのだ。なのに、そのすべてが今、無に帰そうとしていた。それも全部、総司のためなのだ。
(……ぼくさえいなければ……)
 総司は固く目を閉じ、思った。
 自分さえいなければ、彼がこんな窮地に追い込まれる事もなかったのだ。こんな足手まといの自分さえいなければ───
 ゆっくりと総司は後ずさった。
 その気配を感じた土方がふり返った。総司がしようとしている事を察し、大きく目を見開いた。
「! 総司……よせっ!」
(ごめんね、土方さん……)
 総司は涙をいっぱいにためた目で彼を見つめ、そして、身をひるがえした。一番近くにいた男に飛び掛り、無謀にもその拳銃を奪おうとする。いっせいに銃口が総司の細い体へ向けられた。怒号と叫びが廊下に交差した。
 一瞬のことだった。
 もの凄い力で総司の体が突き飛ばされた。音をたてて床に倒れこんでしまう。
 次の瞬間、凄まじい銃声がすべてを引き裂いた。
「───ッ!!」
 音をたてて、真っ赤な鮮血が総司の体に降りかかった。生温かい。その血が土方のものだと知ったのは、目前の床に彼の体が倒れこんだ瞬間だった。
 咄嗟に、土方は総司の体を突き飛ばしたのだ。総司を庇い、その身に銃弾を受けたのだ。
「……あ……」
 総司は大きく目を見張った。 
 がたがたと体中が震えた。頭の中がまっ白になった。何も考えられないまま土方に近づくと、震える手でそこに倒れている彼の体にふれた。
 土方の胸から腹にかけて、もう血で真っ赤だった。溢れ出す血が彼のシャツをどす黒く染めてゆく。彼の体の下にたちまち血の海ができ、その黒髪も血に濡れた。
 青ざめた瞼は固く閉ざされ、僅かに開いた唇から血が流れていた。もう身動き一つしない。
 鼓動も感じなかった。愛する人は死んでしまったのだ。
 それを感じた瞬間、総司の中で何かが弾けた。
「……い…やあぁぁぁ──ッ!」
 喉も張り裂けんばかりの声で絶叫し、土方の体にしがみついた。
「お願い……お願いッ、し、死なないで……っ!」
 泣きじゃくりながら、総司は血まみれの手で愛する男の体を激しく抱きしめた。
 頬に頬を擦りつけた。冷たかった。総司の胸に抱かれた土方は、ぐったりと目を閉じている。身動き一つしなかった。それが恐ろしかった。
 絶望と混乱が総司を襲った。
「ぼくを一人にしないで! お願い……死んじゃいやだぁ……っ!」
 縋りつき、総司は子供のように泣き叫んだ。
 その瞬間だった。
 ドンッと階下の方で鈍く重い爆音が響いた。その振動は何度も伝わり、芹沢が顔色を変えた。
「……何だ、今のは」
 慌てて確かめるため階段へ走りかけた男たちが、鋭く息を呑んだ。
 突然、扉が開き、完全武装した男たちがなだれ込んできたのだ。それと同時に、芹沢の携帯電話が鳴った。
「何だ! それどころでは……何だと? 屋敷に警察が踏み込んできた……!?」
「──芹沢鴨だな」
 低い声が響いた。
 武装した男たちの間から、一人の大柄な男が歩み出た。凄みのある目で芹沢を見据えた。
「警視庁組織犯罪対策部の近藤だ。いい加減、観念しろ」
「わ、わしは代議士だぞ。こんな事をして……っ」
「法の前にはお偉い先生だろうが何だろうが関係ない。潔く裁きを受けるんだな」
 そう言い捨て、近藤は足早に廊下の奥へ向かった。そこには血まみれのまま、土方を抱きしめて泣く総司がいた。歩み寄ってきた近藤に気づき、顔をあげた。
「……歳」
 親友の惨状に、近藤も顔色を変えた。すぐさま救急車を手配させ、自分は応急措置を始める。総司は懸命にそれを手伝いながら、近藤の顔を縋るように見上げた。
「土方さんは……この人は……っ」
「一応、息はあるな。心臓もとまっていない」
 近藤は眉を顰め、瀕死の重体である親友の端正な顔を見下ろした。
「だが、この状態だ。予断を許さんことは確かだろう」
 そう呟いてから、近藤は総司をあたたかい目で見た。
「きみはこいつの手を握ってやっててくれ」
 担架に乗せられた土方につきそう総司に、静かな声で言った。
「そうして名を呼んでやって欲しい。今のこいつには、それが一番大切な事だろうから」
「はい……」
 総司は血まみれの手で、土方の手を固く握りしめた。
 エレベーターで地上へ降り、玄関口に横付けされた救急車に乗り込んだ。
 地上はもう騒然となってた。夜の闇に響きわたるサイレン音、赤い点滅灯、眩しい程のカメラのフラッシュ───
 だが、その混乱の中で総司は彼以外見ていなかった。愛する男の存在しか感じていなかった。
 走り出した救急車の中で、総司は土方を見つめた。
「……土方さん……」
 固く握りしめた男の手は冷たかった。それを、総司はそっと自らの頬に押しあてた。
 熱い涙が頬を濡らし、彼の手も濡らしていった……。
 

 


 
 病院の入り口では、連絡を受けた医者や看護婦たちが待ち受けていた。
 土方の体はすぐさまストレッチャーに乗せられ、手術室に運ばれていった。もちろん、総司は手をふれる事もできなかった。銀色の扉の奥に消える彼を見つめているしかなかったのだ。
 手術中を表す赤い表示がつき、総司はそれを唇を噛んだまま見つめた。
 どれぐらい、そこに立ち尽くしていたのか。
 突然、そっと肩に手が置かれた。
「……総司」
 のろのろとふり返ると、そこには山口が立っていた。その顔も青ざめている。
「山口さん……」
 そう呼びかけた総司に、山口は小さく首をふった。
「もうわかっているかもしれないが、山口というのは偽名だ。おれも隼人さん──いや、土方さんと同じ刑事なんだ。本当の名前は斉藤一だ」
「……斉藤さん」
 小さく呟いた総司を、斉藤は痛ましげに見つめた。その場から連れて行こうとしたが、総司は首をふった。
「ここにいたいんです。少しでもあの人の傍に」
 それに斉藤は静かな声で窘めた。
「手術はかなり長時間になるらしい。ここにいても、おまえが出来る事は何もないだろう。それに病院側にも迷惑だ」
「………」
「色々話したい事があるから、向こうの部屋に行こう」
 しばらく躊躇っていたが、総司はやがて小さく頷いた。何度も手術室の方をふり返りながら歩き出した。
 斉藤が連れていったのは、同じフロアだが反対側の一角にある静かな小部屋だった。警察の権限でおさえているのか、他に誰の姿もなかった。
 椅子に総司を坐らせると、斉藤は静かな声で話し出した。
「……もう一年前になるんだ、あの黒手団におれたちが潜入捜査に入ったのは」
「一年……」
「そうだ。そのたった一年で、土方さんは芹沢の奴に気にいられ、あっというまに黒手団の大幹部へとのしあがってしまった。危険な立場だったが、好都合であることも確かだった。それでも案じるおれや近藤さんをよそに、あの人は大丈夫だと笑っていた。全然、大丈夫じゃなかったんだが……」
 ため息をつき、斉藤はじっと総司を見つめた。
「そんな時だった、土方さんがおまえに逢ったのは。おまえとつきあい出したと聞いた時、おれは思わず耳を疑った。そんな事をしてる場合じゃないはずなのに、あの人はおまえにもう夢中だった。忙しい仕事の合間をぬって、おまえを逢う時間をつくり、おまえのことを誰よりも大切にしていた」
「………」
「だから、あの銀行強盗があって。それを知った土方さんがおまえとの待ち合わせをキャンセルして屋敷へ向かったら、おまえが人質に囚われているのを見た時、あの人がどれほど驚いたかわかるか? 何とかおまえを逃がそうと思ったらしいが、とてもそんな事ができる状態ではなかった」
 黙ったまま、総司は目を伏せた。
 覚えている。あの時の彼のことを、みんな。
 自分を抱きながら、どこか苦しそうだった彼。
 怖がり泣いた自分を、辛そうな瞳で見つめて───
「事の次第を聞いたおれは、なんて皮肉な話だろうと思った。だが、それでもあの人はおまえを愛していた。傷つき苦しみながら、おまえだけを見つめていた。だから、おまえがあの人とわかり合えたと聞いた時、おれは心からよかったと思ったんだが……」
 そう、斉藤が低く呟いた時だった。
 不意にガチャッと音が鳴り、静かに扉が開かれた。ふり返った総司の瞳に、沈痛な表情で立つ近藤が映った。
 扉を閉めると、ゆっくり入ってくる。
 そして、総司を見下ろした。
「……手術が終わった」
 近藤の静かな声に、斉藤が驚いた。
「え、どうしてこんなに早く……」
「もう処置の必要がなくなったんだ」
「───」
 その言葉に総司は目を見開いた。
 恐ろしい予感が足元から這い上がってくる。息がつまるほど鼓動が激しくなった。まるで心臓を鷲づかみにされたようだった。
 斉藤が椅子を蹴倒して立ち上がった。飛び掛るように近藤の肩を掴み、その顔を覗きこんだ。
「どういう事です!? もう必要がないって、いったい……っ」
「言葉どおりだ」
「まさか」
「歳は……あいつは死んだ」
「………」
 その瞬間、二人の傍でヒュウッと喉の鳴る音が聞こえた。
 ふり返った二人が見たのは、真っ青な顔で立ち尽くす総司の姿だった。大きく目を見開いていたが、突然、その体が大きく揺らいだ。そして、崩れるようにその場へ倒れこんでしまう。完全に気を失っていた。
 慌てて、近藤が看護婦を呼ぶため部屋を飛び出して行った。それを見送った斉藤はきつく唇を噛んだまま、気絶した総司の顔を見つめた。
 


 

 
 総司には斉藤が付き添った。
 それが正解だったと実感したのは、総司が目を覚ました時だった。気がついた総司はすぐさま起き上がり、傍の窓から身を投げようとしたのだ。
 それからもう修羅場だった。ただ土方の名だけを泣き叫ぶ総司を押さえつけ、駆けつけた医者が精神安定剤を打つのを見ていた。それでも狂ったように泣いていた総司がようやく落ち着いたのは、長く苦しい夜が明ける頃だった。
 抜け殻のように呆然としている総司の細い手を、斉藤はそっと握りしめた。
「……総司」
「……」
「おまえは……死んだら駄目だ」
 低い声で言い聞かせた。
「あの人が守ってくれた命だろ? おまえは絶対に死んだら駄目だ、何が何でも生き抜かないと、あの人の死が無駄になってしまう」
「……いない、のに……?」
 掠れた声が部屋に響いた。
 ようやくまともな反応が返り安堵した斉藤を、総司は泣き腫らした目で見た。
「あの人が……土方さんが、もう…どこにもいないのに……?」
「………」
「ぼくは、あの人がいるから……あの人がこんなぼくを愛してくれたから、生きてゆこうと思ったのに。なのに……」
「前に、土方さんが言っていたよ」
 斉藤はその鳶色の瞳でまっすぐ総司を見つめた。
「おまえのこと……おまえに生きたいと思って欲しいって。逃げたりしないで、どんな事があっても生きて欲しいって」
「………」
「あの人の願いなんだ。だから、頼むから……総司、死ぬなんて言わないでくれ」
「……っ」
 俯いた総司の目から大粒の涙がこぼれた。ぎゅっと握りしめた手の上にぽたぽたと涙が落ちてゆく。
 それを斉藤は黙ったまま、痛ましそうに見つめていた。
 


 

 
「いやです!」
 鋭い声で総司が叫んだ。
 病室で自分の左手を庇い、後ずさった。それに近藤は困惑の表情をうかべた。
「しかし、それを付けてる意味もないだろう。そんなものを付けられて、きみも迷惑だったはずだ」
「迷惑なんて……っ」
 激しく総司は首をふった。
 あの銀色のブレスレットだった。それを外そうとした近藤を、総司は拒絶したのだ。
「これは、土方さんがぼくにくれたんです。ぼくを愛してくれた証なんです」
「………」
「たった一つの形見です。どうか、ぼくから取り上げたりしないで……!」
「……困ったな」
 近藤はため息をついた。ちらりと傍らで黙している斉藤を見たが、すぐ総司の方に向き直った。
「それは発信機が内蔵されているんだ。そんなものを未成年のきみに、現職刑事が付けさせていたと知れたら、大事になる。ただでさえ、今回の件は別の見方からすれば、きみは被害者だ。何しろ、あいつはきみを監禁し強姦までしたのだからな。だが、今更、そんな事を外に出したくない。きみさえ内密にしてくれる気があるのなら……」
「話しません」
 きっぱりと総司は答えた。その澄んだ瞳でまっすぐ近藤を見つめた。
「絶対に話しません。だから、その代わり、このブレスレットをぼくに下さい。このまま嵌めさせていて下さい」
「……だが、それじゃ」
 ずっと黙っていた斉藤が、不意に静かな声で言った。
「総司、おまえが辛いだろう。いつまでも、あの人のことを引きずっていく事になる。思い切れなくなるぞ」
「そんなの構いません。ぼくはあの人を思い切るつもりなんかありませんから」
「………」
 斉藤はため息をついた。
 静かに総司の傍に歩み寄ると、その白い手をとった。訝しげに見上げる総司の手の中に、そっと一本の鍵を落とした。
「これが鍵だ」
「斉藤さん」
「おまえが気持ちの整理がついて。あの人のことを忘れ、新しい人生を歩もうと思った時、その鍵を使えばいい」
「……ありがとう」
 総司は手の中の鍵をぎゅっと握りしめ、目を伏せた。
 忘れることなんてないと思うけど。
 一生、この鍵を使うことなんてありえないけど。
 それでも、斉藤の心づかいが嬉しかった。総司の意思を尊重してくれた気持ちに、心から感謝した。
(……土方さん……)
 総司は目を閉じると、左手首をそっと胸に押しあてたのだった。
 


 

 
 結局、黒手団は壊滅し、首謀者の芹沢は逮捕された。裁判の成り行きから見ると、幹部たちのほとんどが死刑を宣告される事は疑いの余地もなかった。
 ひとしきり巷を賑わせたその事件もやがて沈静化し、平穏な日々が再び訪れた。
 そして、それは総司にとってもだった。
 身の危険があるからと、総司は東京を離れるよう助言された。そのため、総司は以前、土方と行ったあの花畑がある町に移り住んでいた。
 相変わらず美しいその花畑は、総司に思い出の涙を流させたが、傷ついた心を癒してくれたのも確かだった。
 総司は花畑近くのカフェで働きながら、日々を過ごしていた。
 こうしていると、まるで、あの頃の事が夢のように思えた。
 彼と逢ったことも、傷つけあい泣いて苦しんで、それでも心から激しく愛したこともみんな……。
 だが、夢ではなかった。
 本当に、二人は愛しあい、共に日々を過ごしたのだ。
 時折、総司は左手首に嵌めたブレスレットに唇を押しあてた。あの頃、土方がよくしてくれたように。
 そうしていると、彼が傍にいてくれる気がしたのだ。
 少しでも愛する彼を感じたかった。
 その日、総司はカフェでの朝の仕事を終えると、あの花畑へ向かった。
 あれからもう半年の時が過ぎていた。季節は移り変わり、もうすぐ初夏が訪れようとしている。だが、まだ風は冷たく爽やかだった。
「………」
 総司は花畑の丘上にあがり、目の前に広がる美しい光景を見下ろした。平日のためか、ほとんど人の姿はなかった。
 風がさらさらと髪を吹き乱してゆく。それを片手でかきあげ、きつく唇を噛みしめた。
(……土方さん……)
 確かに月日は総司の心を癒してくれた。あの頃、二人で見たこの美しい光景も。
 だが、それでも総司の想いは何も変わっていなかった。
 彼を愛してるという気持ちは、今もその胸に強くあったのだ。
 忘れられるはずがなかった。
 あんなに愛した、初めて心から愛した人なのだ。
 今だって、本当は挫けそうだった。あの人のもとへ逝きたかった。
 何度も一人、泣いたのだ。
 愛してる──と。
 土方さん。 
 あなたを愛してる。
 その想いはこれからもつづくのだろう。
 きっと死を迎える、その瞬間まで───
「……っ」
 総司はこみ上げくる涙に、唇を震わせた。
 ずっと逃げてきていた。
 自分を隠して、逃げて逃げつづけて。
 でも、逃げたらだめだと教えてくれたのは、彼だった。
 生きることから逃げたらだめだと。
 あの日、彼はそう囁いてくれたのだ。
 そんな彼を愛した。 
 優しく寄りそい、抱きしめてくれる彼がいてくれたから、生きていこうと思ったのに。
 やっと、そう思えるようになったのに……。
(……土方…さん……!)
 きつく目を閉じ、左手首を胸に押しあてた。
 だが、それでも涙があふれた。
 とうとう総司はその場に膝をつき、坐りこんでしまった。そして、両手で顔をおおうと、激しく泣きじゃくった……。
 

 


 
「──絶対、無理だな」
「そうは思いませんが」 
「いや、絶対に無理だ。半年もたってるんだぞ」
 近藤は嘆息し、手許の煙草に火をつけた。ふうっと紫煙を吐き出しながら、呟いた。
「だいたい、あの少年は伊東の弟だ。どう考えたってまずいだろう」
「そんなの本人には関係ありませんよ。それに、総司はいい奴です。とても素直で綺麗な心をもっている。むしろ、あの人にはもったいないくらいだと思いますがね」
「下手すると、この先の出世は望めんぞ」
 それに斉藤は肩をすくめた。
「あの人がそんなものいいって言ったのでしょう? なら、構わないじゃありませんか。近藤さんも意外と心配性ですね。まぁ……だからこそ、こんな事を画策したのでしょうが。確かに、これであの人が黒手団の残党から狙われる心配は消えたと思いますがね」
「消えた訳じゃない、薄れただけだ。いや……それよりも、あの総司という少年だ。もう気持ちの整理もついて、ブレスレットを外してる可能性の方が高いだろう。そうなれば、探し出すことなんか到底出来ない」
「さぁ……それはありえないと思いますが」
 斉藤は静かに微笑んだ。
「総司は絶対、あのブレスレットを嵌めてますよ。鍵を使うことなんてありえない。確かに鍵で外してしまえば、内蔵されている発信機も作動しなくなりますがね。だけど、総司があれを外すことなんか考えられませんよ」
 そう言ってから、斉藤は窓際に歩み寄った。
 ガラス窓のむこう、都会とその上に広がる抜けるような青空を見つめた。
 同じ青空の下で、総司はもう再会を果たしただろうか。あの人につかまえてもらえたのだろうか。
(……幸せになれよ、総司)
 斉藤は祈るようにそっと目を閉じた。

 


 
 
 ───どれくらい泣いていただろう。
 気がつくと、背後に人の気配がした。
 それに、総司は慌てて涙を手の甲で拭った。
 恥ずかしい。
 こんな姿を他人に見られたなんて、恥ずかしくてたまらなかった。
 だが、それでも涙がとまらなかった。まるで涙腺が壊れたみたいに、あとからあとから涙がこぼれてくる。
 総司はぎゅっと左手首を胸に押しあてた。
 その時だった。
 背後から、低い声がかけられた。
「……そんなに泣いてると、瞳がとけちまうぞ」
「!」
 総司は大きく目を見開いた。
(……え……)
 驚きで息をつめている総司の後ろで、その人は笑った。
 その声も。
 笑い方も。
 みんな──聞きなれたものだった。
 耳になじんだ、そして、総司がいつも心から求めてきたものだった。
 もう一度聞きたいと。
 一度だけでいいから、あの声で囁かれたいと。
 そう、何度も願って、涙も枯れるほど泣いた───
(……これは……ゆ…め……?)
 茫然としたまま、ふりむく事もできない総司に、歩み寄る気配がした。そして、ゆっくりと跪いた。
 思わず目を閉じた。 
 次の瞬間。
 ふわっ──と、その体に力強い腕がまわされた。優しく、あの頃のように背中から抱きすくめられる。
 首筋に黒髪の感触がさらりとふれた。愛しいぬくもりだった。
 そして。
 総司の耳もとで。

「……つかまえた」

 この世の誰よりも愛しい男の声が囁いたのだった……。

 

 

       つかまえてね
      かくれて泣いているぼくを
      追いかけ、つかまえてね
      そして──思いきり抱きしめて
 
      好きだと言って
      愛してるって囁いてね
      その時、きっと 
      あなたの腕に抱きしめられたぼくは
      世界中の誰よりも
      幸せそうに微笑んで
      あなたを愛してるって告げられるから
 
      ……土方さん
      愛してる
      何があっても、あなただけを
      世界中の誰よりも
      ぼくは愛しつづけるの
      だから、約束してね

      ぼくをつかまえて
      そして
      お願い
      もう…二度と放さないで──……
 






FIN











[あとがき]
 かくれんぼの恋、完結です。いかがだったでしょうか。これこそ、本当にご感想を頂きたいです。どう思われたのかなぁと、すごく気になるので。それに、色々なご意見を頂いて、今後、新しく始める連載ものの参考にさせて頂きたいと思っております。
 本当はね、初めからハッピーエンドが約束されてたんです。ラストにも入れた詩で予告したつもりだったんですが、おわかりになっていた方、いらっしゃったでしょうか。こんなのわかる訳ないじゃんと思われた方の方が多いと思いますが。いや、ほんとそうですね。
 ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました! でも、実はこれ、まだ続きがあるんです。番外編やら、総司と伊東さんの問題も、土方さん自身の暗い過去関係の話も(この人の子供時代も悲惨なんですよ。だから、総司に逢うまで誰も愛する事ができなかったのです)、全然終わってないので。つづき、読んでやっていいよって方もどうかメッセージ下さい。それによって書くかどうか、決めるつもりです。
 本当にここまで読んで頂き、ありがとうございました。応援して下さる皆様のおかげで、無事書き上げられました。この場をかりて、心から感謝の言葉を述べさせて頂きます。
 このお話を読まれて、少しでも皆様が楽しんで下さっていたら、幸せに思う葉月雛でした。


長いお話へ戻る         「かくれんぼの恋」扉へ戻る