その瞬間。
 呼吸がとまった。
 息さえ出来ないとは、こういう感覚なのかと。
 そんな事を、頭の片隅でぼんやり思った……。









「喉が乾いたな」
 そう呟いた土方に、斉藤は目をあげた。
 現場へ行った帰り道だ。珍しく車での移動ではなく、電車だった。
 二人して、駅への道を辿っている。
「そうですね」
 斉藤はかるくネクタイを緩めた。眩しそうな表情で、暮れかかった茜色の空を見上げる。
「まだ春先なのに、今日はやけにあたたかですから」
「何か買ってくるか」
「オレは別にいいですけど……あ、でも、甘いものが欲しいかな」
「甘いもの?」
 不思議そうに眉を顰めた土方に、斉藤は微かに笑ってみせた。
「ちょっと頭が痛くて。血糖値あげれば治るかと」
「そんなものか」
「そんなものですよ」
 二人は会話をかわしながら、結局、近くのスタバに立ち寄った。
 割合広い店内は、主婦や、学校帰りらしい学生、営業途中のビジネスマンなどで、なかなかに賑わっていた。
 斉藤は土方と同じように珈琲を注文したが、さっさと飲み干してしまうと、スイーツを物色しにレジへ戻って行ってしまった。
 それを見送る事もなく、土方は窓際のカウンター席で、ぼんやりと外を眺めている。


 その時、だった。


「あ、これこれ! この店だよ」
「どれ?」
「ほら、これ。ね、おいしそうでしょ?」
「知ってる。ここテレビにも出てたのよね」
「あたしも好きっぽいかも、ここ。可愛いレストランだし」
「飾り付けがいいよね。ぼく、一度行ってみたいなぁ」





 学校帰りの学生たちのようだった。
 ラフな格好をした若い男女が数人席に坐り、土方の後ろで、楽しそうに喋りあっている。
 だが、その話し声を聞いた瞬間、土方は鋭く息を呑んだ。
 口許へ珈琲を運ぼうとしていた手も、とまってしまう。躯中の血が逆流するような思いだった。

(……総…司……!)

 聞き間違えるはずがない。
 確かに、総司の声だった。
 この微かに尻上がりの、甘く澄んだ声。
 何度も何度も、「土方さん」と呼んでくれた、あの───





 土方は息をつめたまま、のろのろと顔をあげた。 
 目の前にある大きな窓ガラス。夕暮れ時のため、店内の明かりがそこに反射していた。そのため、店内で談笑する人々の姿も映し出されている。
 そして、彼の後方。
 3メートルほど離れた席に、楽しそうに笑いあう学生たちがいた。
 その中心にいる、白いセーターにジーンズ姿の少年。
 華奢な躯で、柔らかそうな髪で、大きな瞳で。
 楽しそうに。
 幸せそうに。
 微笑んでいる、愛しい少年……。
「……っ」
 土方はぎりっと奥歯を噛みしめた。必死になって両手を握りしめ、爪を肌に食い込ませる。
 でなければ、到底堪えられそうになかった。
 今にもふり返り、手をのばしてしまいそうだった。


 ずっと求めてきた。
 ずっと愛してきた。
 世界中の何よりも、命よりも大切な存在───


「あ、そろそろ行かなきゃ」
「時間まずい? これからバイト?」
「うん。原田さんとこのカフェ、夕方からも忙しいから」
「総ちゃんがバイトしてるの、見たいかな」
「じゃあ一緒に来る?」
「行く行く」
 くすくす笑いあいながら、総司たちはトレイを手に立ち上がった。歩み去ってゆく。
 少しずつ遠ざかってゆく、その姿。 
 それを、土方は窓ガラスごしに見つめつづけた。息を殺し、身動き一つできぬままに。
 だが、本当は叫びたかった。
 立ち上がり追いかけ、どんなにみっともなくとも、恥をさらす事になっても。
 人から嘲笑われても、侮蔑されようとも。
 総司に──誰よりも愛おしい恋人になりふり構わず縋りつき、懇願したかった。


 行かないでくれ。
 これ以上、もう……堪えられないんだ。
 おまえのいない日々に、俺は気が狂ってしまいそうだ。
 だから、頼むから。
 お願いだ。
 行かないでくれ……総司……!





 ……やがて。
 土方は、ゆっくりと瞼を閉ざした。
 もう、総司の気配は感じない。遠ざかり、この店からも出ていってしまったのだろう。 
 静かに息を吐き出したとたん、躯中の強ばりがとけた。どれ程緊張していたのか、今にしてわかる。
「……土方さん?」
 突然、傍らから声をかけられた。
 それに驚き、びくりとしてふり返る。
 だが、そこに立ち、訝しげに彼を眺めていたのは斉藤だった。鳶色の瞳に不審げな色をうかべている。
「いったいどうしたんです。顔色が悪いですよ」
「……いや」
「もう珈琲飲み終わりましたか」
「あ、あぁ……」
「じゃあ、行きましょう。欲しいスイーツがなかったんで、オレ、もういいですし」
「そうか」
 頷きつつ、土方はトレイを取り上げた。が、立ち上がったきり、そこから動くのを躊躇うように歩み出そうとしない。
 それに斉藤は小首をかしげた。
「どうしたんです」
「いや、悪いが……おまえ、これもついでに返してきてくれねぇか」
「え? オレがですか」
「急ぎの電話、思い出したんだ」
「まぁ……いいですけどね」
 斉藤は土方のトレイを受け取ると、さっさと歩み去っていった。
 それを見送り、ほっと安堵の息をつく。
 万一、総司たちがまだ返却口辺りにいたら困ると思ったのだ。
 土方は斉藤を見送ってから、先程、総司たちがいた席へ歩み寄ってみた。どこに坐っていたのかも、ちゃんと覚えている。
 楽しそうに女友達と喋っていた。珈琲の苦手な総司だから、きっと甘いココアか何かを飲んでいたのだろう。スイーツも注文したに違いない。
 恋人同士としてつきあっていた頃なら、彼も一緒に食べただろう。甘いものは苦手だが、こういうカフェに入った時はいつも、少しだけと一緒に食べることをねだられた。
『ね? 土方さん、いいでしょ?』
 くすくすと楽しそうに笑う総司の甘い声が、今にも聞こえてきそうだった……





「──ごめんね、すぐだから」
 不意に、明るい声が響き、土方は大きく目を見開いた。
 驚いて見やれば、それは紛れもなく総司だった。総司が何か友達に云いながら、こちらへ走ってくる。
「!」
 突然の出来事に咄嗟に動けず、土方は呆然と立ちつくすばかりだった。
 総司は軽やかな足取りで走ってくると、自分がいた席から一冊の本を取り上げた。忘れ物をしたらしい。
「あー、よかった。これ失したらまずいものね」
 ほっとしたように、小さく笑う。
 その花のような笑顔に見惚れていると、総司が彼の存在に気がついた。すぐ傍に立っている男を、不思議そうに見上げてくる。
 だが、その澄んだ瞳が彼の顔をとらえる直前、土方はすっと背を向けていた。
「……」
 背後で、総司が再び走り去ってゆく気配がした。
 遠く聞こえる、彼らの笑い声。
 やがて、それも聞こえなくなって。
 少しずつ離れてゆく、二人。
 遠ざかってゆく存在。
 もう二度と逢えない、かつての恋人。


(……総司)


 土方はそれを感じながら、固く瞼を閉ざした。


 まだ……愛してる。
 愛してる。
 ずっといつまでも。
 たとえ、もう二度と逢えなくても。
 遠く離れた場所で、互いに生きつづける運命であっても。
 それでも。


(……愛してる……)


 声にならない囁きは、空気にとけた───。








 引き離されていた恋人たちが再会を果たすのは、この数ヶ月後の事である。













 総司と離れている間の土方さんを、どうしても書きたくて。
 「かくれんぼの恋Wの8」の、再会するまでの春頃の出来事です。