いなくなるんだと思った。
 彼を失ってしまう。永遠に。
 そんなの、いや。
 あなたが死ぬなら、ぼくも生きない。
 あなたの命が消えるなら、ぼくも息絶える。
 心臓がとまってしまう。
 心も躯も、生きることを拒んでしまう。
 そんなの、みんなわかってる。わかってるくせに。
 どうして?


 どうして……ぼくを残していくの?














 その光景を見た瞬間、息さえできなくなった。
 恐ろしさに、絶望に、目の前が真っ暗になる思いだった。
 気が付いたら、どこか遠くで誰かが叫んでいた。大声で、気が狂ったみたいに叫んでいた。
 それが自分自身の声だとわかったのは、随分たってからだった。
「……ッ!」
 総司は走り出した。もう躯の奥の痛みとか、そんなの全然感じなかった。
 ただもう無我夢中で走り、雪野原を横切った。そのまま、ばしゃばしゃと水飛沫をあげて湖の中へ走りこむ。
 冷たい水がたちまち腰まで上がって来た。だが、それでも、必死になって前へ進んだ。両手をのばし、叫んだ。
「土方…さん……っ!」
 凍るように冷たかった。体温がどんどん奪われてゆく。
 灰色の空の下、男の背はふり返ろうとしなかった。聞こえているはずなのに、一度としてふり返らない。
 男が抱える昏い闇と死への決意を感じとり、総司はどうしたらいいのかわからなくなった。頭の中が混乱して、怖くて怖くてたまらなくなる。
「土方さん、お願い……土方さん……ッ!」
 ようやく手がとどいた。そのまま無我夢中で縋りついた。
 両手で後ろから男の躯を抱きしめ、その広い背へむしゃぶりつくように頭を押しつける。
「──ッ」
 それに、土方がびくりと肩を震わせた。
 今、初めて気づいたのか、驚いた表情でふり返った。総司を見下ろしたとたん、大きく目を見開いた。
「……総…司……?」
「土方さん、土方さん……土方さん……ッ」
 それしかもう云えなかった。他に何を云えばいいのかさえわからない。
 泣きじゃくりながらしがみついてくる総司に、土方は息を呑んだ。躊躇いがちにだったが、そっと腕をまわしてくる。
「どうして……」
 掠れた声で呟いた土方に、総司は激しく首をふった。
 顔をあげると、泣き濡れた瞳で彼を見上げた。大声で叫んだ。
「どうしてって……聞きたいのは、こっちだもの!」
「……」
「こんな……こんな事するなんて! 湖に入って死ぬつもりだったの? 一人でいくつもりだったの?」
「総司……」
 土方は苦しげに眉を顰め、唇を噛みしめた。
 それに、総司はぽろぽろ大粒の涙をこぼした。
 悔しくて悲しくて、切なくてたまらなくなる。彼への愛しさで気も狂いそうだった。


 好き。だい好き。
 愛してる。
 この人だけを。
 だから、お願い、死なないで。
 ぼくと一緒に生きて。


「……生き…て……っ」
 総司は子どものようにしゃくりあげた。涙でいっぱいの瞳が土方を見つめ、指さきが白くなるほど彼の腕に縋りついた。
「ぼくと一緒に生きて。だって……」
「……」
「生きることから逃げたら駄目だって、そう教えてくれたのは……土方さん、あなたでしょう?」
「……え」
「リストカットの痕を見た時、云ったじゃない。生きることから逃げたら駄目だって。だから、ぼくは生きてきたのに、なのに、そのあなた自身がこんな……っ」
「! 総司、おまえ……っ」
 土方は息を呑んだ。いきなり向きをかえ、細い肩を乱暴に掴みざま、鋭い口調で訊ねてくる。
「おまえ、思い出したのか! 俺のことを、おまえ……っ」
 総司は深く澄んだ瞳で彼を見上げた。それから、僅かに目を伏せると、こくりと頷いた。
「……っ」
 呆然と見下ろしていた土方の喉奥から、低い呻きがもれた。片手で口許をおおったかと思うと、激しく顔をそむけてしまう。
 それを見上げ、総司はそっと両手をのばした。爪先立ちになり、彼の頬にふれる。
 心をこめて囁いた。
「土方さん……大丈夫」
「……」
「ぼくはあなたを愛してます」
「……総司……?」
 どこか怯えたような表情で見つめる土方に、総司はまだ涙で潤んだ瞳のまま微笑んでみせた。それから、不意に土方の手を掴むと、ひっぱる。
「早く戻りましょう? ぼくもあなたもびしょ濡れだもの」
「総司」
「ね、お願い」
 声音は甘えをふくんでいたが、総司の瞳は真剣だった。
 不安なのだ。こんな処で話をしていれば、いつまた土方が死のうとするかもしれない。そうなれば、男の力に叶うはうずもないのだ。総司には止める術がない。怖くてたまらなかった。
 彼を死へ招きいれようとしたこの湖から、一刻も早く逃れたかった。
「お願い、早く」
 そう云った総司に、土方はまだ瞳を不安げに揺らしたままだったが、頷いた。ほっとした総司は手を繋いだまま、歩き出そうとした。だが、安堵したためか、がくりと膝が崩れてしまう。
「あ!」
 すくうように腰を抱かれ、そのままふわりと抱きあげられた。慌てて男の首に手をまわした総司を、土方はかるく両腕に抱きなおした。そのまま、ゆっくりと歩き出してゆく。
 柔らかく揺れる腕の中で、総司は男の顔を見上げた。だが、土方は押し黙ったままだった。僅かに目を伏せ、唇も固く引き結んでいる。
 湖からあがると、総司は土方の腕から降りた。まだ足が震えているが、何とか立つ事はできる。
 土方はその細い背と腰に腕をまわし、そっと支えてくれた。総司もまた彼の躯に手をまわし、離れられないでいる。
「……土方さん」
 そっと呼びかけると、濡れたような黒い瞳が総司を見つめた。男にしては長い睫毛が瞬き、その唇が僅かに震えた。
 総司は手をのばし、彼の冷たい頬にふれた。そのまま指さきをすべらせ、黒髪にさし入れる。しっとりと濡れた黒髪が指に絡みつき、それさえも哀しいほど愛しかった。
「あんな事……二度としないで」
 そう囁いた総司に、土方は何も答えなかった。押し黙ったまま、総司を見つめている。
 その沈黙が怖くなり、総司は懸命に言葉をついだ。
「お願い、あなたが死んだら、ぼくも死んでしまうの。その場で息ができなくなってしまう」
「……」
「実際、あなたが湖へ入ってゆくのを見た瞬間、息ができなくなって。怖くて怖くて気がおかしくなりそうでした。その時……記憶が戻ったの。あなたを失うと思ったとたん、どんなに自分があなたを愛しているのか、そして、愛していたのか……何もかも全部思い出したの」
「……総司」
 土方は目を伏せた。しばらく黙ってから、低い声で訊ねた。 
「おまえは……許してくれるのか」
 突然の問いかけに、総司は一瞬意味がわからなかった。え?と目を瞬き、彼を見上げる。
 それに、土方は言葉を重ねた。
「あんな事をした俺を、おまえは許してくれるのか。愛してると云ってくれるのか」
 総司の心の傷を思ってか、曖昧な表現だった。
 だが、彼の瞳に湛えられたその苦痛にも似た表情に、総司は言葉の意味を理解した。
「……兄さんのこと……?」
 そう訊ねた総司に、土方の躯がびくりと震えた。一瞬、身を離そうとする。だが、それに総司はすぐさま縋りつき、ぎゅっと抱きついた。
 彼の躯は氷のように冷たかった。凍えるような水に浸かっていたためか、冷え切っている。だが、それは自分も同じだろうと思った。それでよかった。むしろ、同じである事を望んだ。
 彼の冷たさも淋しさも、不安も、その奥に抱えた闇も何もかも、同じように感じたいと思ったから。今は少しでも早く、彼の気持ちを理解してあげたかったから。
「許すとか許さないとか」
 総司は静かな声で云った。
「そんなの考えた事もなかった……」
「……」
「あなたは刑事として当然のことをしたのです。それはショックだったけれど……だから、あなたの事も皆忘れてしまったのだろうけど、でも、兄さんのあれは自殺だったと思うから。兄さん自身が望んだこと。もし責められるなら……そこまで追い込んだぼく自身だと思うのです。あなたが責任を感じる事では、絶対にない」
 そう云ってから、総司は深く澄んだ瞳で土方を見上げた。
「それに、記憶が戻った瞬間、色んな苦しみや悲しみよりも、もっと強い記憶があったの」
「もっと……強い記憶?」
 聞き返した土方に、総司はそっと花のように微笑んだ。
「あなたに愛された記憶です」
「……」
 土方の目が大きく見開かれた。息をつめるようにして、腕の中の恋人だけを見つめている。
 それに、総司はゆっくりと言葉をつづけた。
「あなたはいつも心からぼくを愛してくれた。そして、ぼくもあなたを愛していた……ううん、今でも愛してる」
「総司」
「だから、記憶が戻った時、ぼくはとても幸せだったの。あなたに愛された記憶をとり戻す事ができて、本当に嬉しかったの」
「……」
「ありがとう、土方さん。ぼくを愛してくれて」
 総司は幸せそうに笑った。両手をのばし、ぎゅっと抱きついてくる。
「ずっと愛してる。あなただけを愛してる……」
「……」
 抱きついてくる総司を受けとめながら、土方は何も云うことができなかった。ただ、総司を呆然と見つめていた。


 愛してる、と云ってくれた。
 あの事件の事も何もかも思い出した上で、それでも愛していると。
 総司の優しく柔らかな心が、彼の傷ついた心をそっと包みこんでくれた気がした。


「……総…司……っ」
 掠れた声が、土方の喉奥からもれた。そのまま強く引き寄せると、腕の中にようやく取り戻せた恋人を抱きしめる。
 髪に頬をすり寄せ、目を閉じた。
「総司……俺の総司……っ」
「土方さん……」
 爪先立ちになり、総司は土方の首を両腕でかき抱いた。冷たくなった躯をふれあわせ、互いのぬくもりだけを求めあう。
 愛してる、という言葉さえいらなかった。
 今はただもう、互いの存在を感じていたかった。酷く動物的な感覚で、言葉も何もないまま、土方と総司は互いを何度も確かめあった。抱きしめ口づけて、指さきをすべらせ互いの顔の輪郭をたどり、また抱きあって深く唇を重ねた。
 気がつくと、二人とも雪の上に膝をつくようにして坐り込んでいた。
 髪も服もずぶ濡れだったが、そんな事どうでもよかった。もう互いしか目に入らず、感じる事ができなかったのだ。
「……っ、ぁ…っ……」
 首筋を強く吸われ、総司は微かに声をあげた。首筋にも、頬にも、瞼にも、唇を押しあてられた。
 土方が愛しくてたまらないと云いたげに、キスの雨を降らせる。
 それを心地よげに受けながら、総司は男の背にきつくしがみついた。
 息もとまるほど抱きしめられた。


 もう二度と離れたくない。
 離さない。
 誰よりも……愛してる。


 声なき声で囁きあい、二人は互いを見つめあった。
 そして、また固く静かに抱きしめあう。
 心から愛しあう恋人たちの上に、粉雪が柔らかく降り舞いはじめていた……。














 それから、数週間後の事だった。
 総司は一人きりで、街を歩いていた。
 街は賑やかに飾りつけられ、緑や赤の華やかな彩りに満ちている。
 音楽が鳴り、街角では白い服をきた子どもたちの聖歌隊が、きれいに澄んだ声で賛美歌を歌っていた。
 クリスマスイヴだった。





 旅から帰ってすぐ、土方は近藤や斉藤に、総司は平助に、二人が元通りになった事を告げた。むろん、彼らは喜んでくれた。
 記憶が戻ったと云っても、総司自身、彼の記憶を失っていた時の事も覚えているため、二人の間で時々奇妙な気恥ずかしさが生まれる事もあった。他人行儀に接していた土方の事を思い出すと、何だか不思議な気がするのだ。だが、それでも、恋人として彼に再び愛され、幸せなことは確かだった。
 むろん、伊東の事は胸の奥に棘のように残っている。
 彼自身に告げたように土方を恨むつもりは全くないが、それでも、兄への気持ち、悲しみは、やはり総司の中にあった。
 その事を土方も感じとっているのだろう。伊東の事を思いだして瞳を潤ませる総司を、何も云わないのに、黙って抱きしめてくれた。
 兄のことを忘れようとは思わない。
 恐ろしいテロリストであっても、総司にとってはだい好きな優しい兄だった。その兄をあんな形で失ったのだ。忘れる事などできるはずもなかった。
 だが、それでも。
 優しく愛してくれる土方のためにも、悲しみや苦しみを乗り越えていきたい──そう心から思っていた。





「……あ」
 不意に鳴りだした軽やかな音に、総司は慌てて携帯電話を取り出した。画面の表示を見たとたん、ぱっと顔が輝く。
「土方さん?」
 弾んだ声で電話に出た総司に、男の声が優しく答えた。
『あぁ、総司……今、どこにいるんだ?』
「外だけど。土方さんは?」
『同じく外だ』
「じゃ、もしかして、お仕事終わったの? 今夜、一緒に過ごせるの?」
『あぁ』
「わぁ! 嬉しいっ」
 大喜びする総司に、土方は訊ねた。
『で、最初の質問。今、どこにいるんだ?』
「えーとね、土方さんのマンション近くの……」
『俺の? 何でまた』
「だって……逢えるかな、と思ったんだもの。お仕事帰りにでも」
 総司は頬を染めて答えてから、慌てたように周囲を見回した。
「それでね、本屋さんの前にいるの。あ、スタバの近く」
『わかった。じゃあ、そこにいてくれ。今から行く』
「うん……」
 切れた携帯電話をしまいながら、総司はちょっと目を伏せた。
 昔はこうではなかった。きっと同じように歩いていって、どこかで待ち合わせになっただろう。
 だが、今、土方はいつも総司の元へ自分から来るようになっていた。デートの日などは大抵大学の前で待っているし、マンションへ迎えに来る事もある。
 待っているのが怖いからと、云われた事があった。来ないのではないか、もう二度と逢えないのではないか、そんな事を思ってしまうのだと、自嘲するような笑みをうかべていた。
 その事から、土方の中に残る疵の深さを思わせ、総司は胸がつまる思いだった。この人にどれだけの苦しみをあたえたか、そう考えると、辛くて申し訳なくて涙があふれそうになった。

(ごめんね。もう絶対に離れないから……)

 そんな事を何度めかに誓うように思いながら、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
 目をあげると、雑踏の向こうから歩道を歩いてくる男の姿が見えた。
 質のよいスーツ、前に総司がプレゼントした柔らかな黒いコートを、すらりとした長身に纏っている。相変わらず、周囲の人々の視線を独占していた。
 だが、土方自身はそれに全く気づいてないようだった。まるで世界中で総司しか存在しないように、その姿を見つけたとたん、ぱっと輝くような笑顔になった。
「総司……!」
 手をあげて、走り寄ってくる。
 たちまち、周囲の人々──主に女性の視線が集中するのを感じながら、総司は頬を紅潮させた。この人がぼくの彼氏なんだと思うと、嬉しくて誇らしくなる。
「ごめん、待たせたか?」
 突っ立ったままの総司に、待たせたから怒っていると思ったのか、土方は心配そうに訊ねた。それに、ううんと首をふって、土方のコートを掴んだ。そのまま引き寄せて、男の胸もとに顔をうずめる。
 微かに甘い香りがして、ワイシャツごしに感じる体温に、あぁ、土方さんなんだな……と、不思議な安堵感を覚えた。
「総司?」
 いきなり抱きつかれ、土方は驚いたようだった。だが、すぐ優しく笑うと、両腕ですっぽりと抱きすくめてくれる。
「どうした。この頃逢えなかったから、淋しかったのか?」
「逢えなかったって……二日前に逢った気がするんですけど」
「淋しくなって当然だろ? 俺は毎日逢いたいんだから……総司はそうじゃないのか?」
「ん……ぼくも、毎日逢いたいです」
 素直に返事した総司に、土方は嬉しそうに笑った。だが、総司の手を握りしめたとたん、ちょっと眉を顰める。
「冷たい手をして……手袋、もってねぇのか」
「もってるけど、忘れちゃったの」
「仕方ないな」
 苦笑し、土方は総司と繋いだままの手を、コートの隠しにいれた。もう片方の手には自分の手袋をさせる。
「……ぶかぶか」
 指さきが余った手袋に、総司はくすくす笑った。手をひらひらさせながら見上げる総司の笑顔は、可愛らしい。
 土方は目を細め、かるく身をかがめた。ちゅっと音をたてて、頬にキスしてやる。
「!」
 びっくりして目を丸くした総司は、すぐさま首筋まで真っ赤になってしまった。慌てて周囲を見回す。
「こ、こんな処で……っ」
「イヴだぜ。カップルならこれぐらいやってるさ」
 平然とそう答え、土方はゆっくりと歩き始めた。総司も慌てて歩き出す。
「ね、これからどうするの?」
「さぁ、どうしようか」
「クリスマスだもの、ケーキぐらい食べたいです」
「そうだよな、俺も飯食ってないし……どこかで買って帰ろうか」
「え、土方さんのマンション?」
 びっくりして訊ねた総司を、土方は不思議そうに見下ろした。それから気づいて、「あぁ」と頷く。
「初めてだものな。あそこへ来るの」
「うん……どんな部屋なの?」
「……普通の部屋さ」
 僅かに眉を顰めながら、土方はどこかぶっきらぼうに答えた。そのまま、さっさと歩き出す。
 急に不機嫌になったように見える土方を不思議に思いながら、総司は彼について歩いた。
 結局、近くのデパ地下にもぐり、デリカを色々と買い込んだ。土方はとんでもなく甘くて、総司が「おいしそう」と云ったものをあれもこれもと買ってしまうので、少し困ってしまう。
「こんなに食べ切れませんよ」
「明日の朝、食べればいいさ」
「それって……あのう、お泊まり決定?」
「え、おまえ、帰るつもりだったのか」
 驚いたように見下ろされ、総司は耳朶まで真っ赤にしながらも、首を横にふった。それに、土方はくすくす笑いながら、人目もはばからず肩を抱いてくれる。
 苺がいっぱいのった小さなホールケーキも買って、二人は地上へ出た。デリカとかケーキとか、日常的なものを買って二人で歩いていると、まるであの頃にそのまま戻ったようだ。
 だが、明らかにあの頃と違うこともあった。
 例えば、土方の住まいだ。官舎にいるとばかり思っていた総司は、土方が転居していた事を聞いて驚いた。だが、転居の理由は聞くまでもないと思った。総司だって、あの部屋に一人残されたら、到底耐えられないだろうと思ったからだ。
「ここ……?」
 総司は驚き、そのマンションを見上げた。
 高層マンションだった。周囲には緑地も配され、中に入れば綺麗に整えられたエントランスがホテルのようだ。
「ほら、こっちだ」
 土方はオートロックを解除すると、さっさと中へ入っていった。それに、総司も慌てて後を追う。
 エレベーターに乗り込んだ土方がかなり上階のボタンを押すのを見ながら、云った。
「なんだか……官舎とは大違いですね。土方さん、普通って云ったのに」
「普通だろ」
「そうかなぁ。都心にあるし、お金がないと住めないと思いますけど」
「このマンション自体が義兄の所有物だからな、余ってる部屋が回ってきたという訳だ」
「余ってる部屋って……けっこう上の方じゃないですか」
「最上階は御免だと云ったら、別の部屋の鍵を渡されたんだ。まぁ、俺の部屋の上は屋根になってるから、けっこう独立性が高くていいけどな」
 相変わらず経済観念がどこかずれてる土方に、ちょっと呆れつつ、総司はエレベーターから降りた。
 静かな廊下を歩き、奥の部屋のドアの前で土方は立ち止まった。鍵をあけ、総司を中に入れてくれる。
 ぱっと明かりが灯されると、官舎とは大違いの広くて綺麗な部屋が広がっていた。玄関をあがり、入ったリビングはとんでもなく広い。天井も高く、大きな窓ガラス越しに広がる都心の夜景に、総司はびっくりした。
「なんか、すごーい! まるで広告に載ってるマンションみたいですね」
「そうかな」
 土方は肩をすくめ、コートやスーツの上着をソファの上に脱ぎ捨てた。それに、総司は慌てて駆け寄って拾い上げる。
「土方さんったら、また! こんな事したら、皺になっちゃいますよ」
「大丈夫だって」
「全然大丈夫じゃないの。ハンガーどこですか?」
「さぁ、どこだったかな」
 いい加減な事を呟きながら洗面所にむかった土方の後ろで、総司はあちこち開けてようやくハンガーを見つけ出した。しばらくすると、洗面所へやってくる。
「うわー、広くて綺麗な洗面所! ほんとホテルみたいですね、ほら、おっきな鏡」
「女じゃねぇんだ、鏡大きくても仕方ないだろ」
「鏡って大事ですよ。……あ、このハンドソープ好き。とってもいい匂いですね」
 にこにこしながら総司は、手を泡だらけにした。子どものように喜んでいる。
 それに土方が手をのばして、もっと泡だらけにしてしまった。二人の手が泡の中でふれあい、じゃれあう。
 さんざん遊んでから綺麗に洗い流し、二人でタオルで拭きあった。手を繋いだままリビングへと戻った。
「ご飯にしましょう」
 総司はリビングへ戻ると、いそいそと袋を開けた。キッチンへそれを運んでゆく。
「ぼく、もうお腹ぺこぺこ」
「そうだな」
 レンジで総菜をあたため、それを皿に盛りつけてゆく。あっという間に、クリスマスディナーの出来上がりだった。デパ地下デリカの組み合わせだが、なかなか豪華でおいしそうだった。
 二人はそれをリビングへ運ぶと、ローテーブルの上にならべた。ケーキやシャンパン、店で貰ったキャンドルに火も灯して、二人きりのクリスマスパーティの始まりだ。
 ソファに腰かけた土方の隣に坐ると、総司はいそいそとシャンパンの栓を抜こうとした。だが、コルクなので、なかなか上手く出来ない。
「貸してみろ」
 そう云って手をのばした土方は、あっさり抜いてしまった。グラスに注ぐと、淡いピンク色の泡がたつ。
 チンと綺麗な音をたててグラスをふれあわせてから、二人はシャンパンを一口飲んでみた。土方には少し甘いが、総司には丁度良いだろう。
「これ、おいしい」
「アルコールは低いが、一応お酒だからな。飲み過ぎるなよ」
「でも、土方さんには甘すぎる?」
「たまにはいいさ」
 二人は食事をしながら、会話をかわした。
「でも、ほんっと何もない部屋ですね。生活感がないというか」
 総司はぐるりと部屋を見回しながら、云った。
 それに、土方も見回してみる。
 確かに、総司の言葉どおり生活感のない部屋だった。冷たいほど整えられた部屋はまるでモデルルームのようだ。
「お掃除とか自分でしてるの?」
「いや、ハウスキーパーに頼んでる。食事もここでした事がないし……だから、余計に生活感がないのかもしれないな」
「帰って寝るだけじゃ、生活感が出るはずありませんよね」
 そう云ってから、総司はふと気づいたように小さく笑った。嬉しそうに、桜色の唇を綻ばせている。
 それに、土方は小首をかしげた。
「何だ」
「うん……ちょっと嬉しくて」
「え?」
「ぼくと一緒にこの部屋に入った時、土方さん、楽しそうだったから。今も楽しそうだけど、ぼくと一緒にいたら、この部屋も生活感があるようになるのかなと思って」
「総司、それは……」
 思わず云いかけ、だが、途中で言葉を呑み込んでしまった。


 恋人同士に戻れてから、幾度も喉元まで出かかった言葉だった。
 また一緒に暮らしてくれないか──と。
 だが、そう簡単に云える事ではなかったのだ。ここは前の官舎ではないし、一年離れていた間に、総司には総司の生活も出来上がっている事だろう。それを壊すような事だけはしたくなかった。何よりも、総司の意志を尊重したかった。
 だからこそ、彼から云い出せる事ではなかったのだ。


 食事を終えると、ケーキを食べる前に土方はテーブルの上を手早く片付けた。その間に、総司は部屋の探索へ出かけてしまう。
 何もないぞと云ったが、好奇心旺盛な総司には楽しくてたまらないのだろう。
 そんな可愛らしい総司を見ながら、土方は心の中があたたかくなるのを覚えた。
 云われたとおりなのだ。同じ部屋なのに、総司がいるだけでこんなにも違って見える。空気も──色さえも、違うように感じた。
 今まで、この部屋は色を帯びず、昏い闇の中に沈んでいたのだ。それを総司が押し開け、明るい光を招き入れてくれたように思えた。
「……総司?」
 片付けを終えた土方は、どこへ行ったか戻ってこない総司の名を呼んだ。返事もかえってこない事に不審を覚え、眉を顰める。
「総司? どこにいるんだ……?」
 何度か呼びかけながら、土方はあちこちの部屋をあけてみた。すると、彼が書斎に使っている部屋に、その姿はあった。
 ほっとした土方は、だが、こちらに向けられた細い背が震えている事に気づき、息を呑んだ。肩をつかみ、ふり返らせる。
「どうしたんだ……まさか、泣いているのか?」
「……っ」
 総司は黙ったまま身を倒すようにして、土方の胸もとに顔をうずめてきた。彼の着ているワイシャツがじんわり濡れる。
 戸惑いつつも、その華奢な躯を両腕の中におさめた土方は、そっと訊ねた。
「いったい何があったんだ……総司」
「……土方…さん……っ」
 ふるりと首をふった総司は、僅かに身をおこした。それから、手の中にあるものをさし出してくる。
 それに、土方の目が見開かれた。
「……これは」
「そう……あのブレスレット。それに、アルバム……あの頃の写真がたくさん載った……」
「……」
「土方さん、持っててくれたんだ。捨てずに、ずっと……」
「……捨てられる訳がないだろう」
 土方はそっとブレスレットを受け取りながら、答えた。
「おまえの事を思いきろうとして……でも結局出来なくて、これも手放す事が出来なかった。このブレスレットも、アルバムも……時々一人で眺めていたんだ。おまえの事を想いながらな……」
 そう云ってから、土方は僅かに目を伏せた。その端正な顔に、自嘲するような笑みがうかべられる。
「いつまでも未練がましい……なんて弱い男なんだと自分でも情けなくなったが、どうしようもなかった……」
「そんな……!」
 総司は激しく首をふり、叫んだ。
「弱いなんて……そんな風に云わないで」
「総司……」
「ぼくは……ぼくは、嬉しいの! あなたがこれを持っててくれて……ずっと、ぼくの事を愛してくれて。でも……っ」
 言葉が途切れた。
 涙があふれ、つづけられなくなったのだ。
 総司は涙に濡れた瞳で土方を見上げると、その腕の中に飛び込んだ。彼の背に両手をまわし、ぎゅっとしがみつく。
「ごめん…なさい! あなたを一人にして、本当にごめんなさい……!」
「……総司」
「あなたがこれをどんな思いで見ていたかと思うと、たまらなくて。どんなに苦しくて淋しくて、辛かったか……それを思ったら……っ」
 たまらず、再び総司は泣きだした。激しく泣きじゃくりながら、土方の胸もとに身を擦りよせる。
 それに、土方は切なげに眉を顰めた。
「総司、泣かないでくれ……もう終わった事なんだよ」
 土方は身をかがめると、総司の愛らしい顔を覗き込んだ。そっとなめらかな頬を掌で包みこみ、柔らかなキスを落とす。
「全部、過去のことだ。終わった事なんだ、総司」
「土方…さん……」
「今は、おまえがここにいてくれる。一人ぼっちの時は終わった。これからはおまえが俺の傍にいてくれる……これからの人生を、ずっと一緒に歩んでいってくれる。そうだろう? 総司」
 男の言葉に、総司はこくりと頷いた。
「ずっと一緒にいます……土方さん、あなたといつまでも」
 そう答えてくれた総司に、土方は微笑んだ。両腕で包みこむように抱きすくめながら、囁きかける。
「なら……俺は幸せだ。総司、おまえさえいてくれれば、他には何も望まない。俺はおまえと生きてゆける事……それだけが願いなのだから」
「土方…さん……」
「だから、もう泣かないでくれ……総司。こんなにも幸せなのに、泣く必要はないだろう? 俺は、おまえの笑顔が何よりも好きだから」
 髪を撫でながら、言葉をつづけた。
「おまえの幸せを……笑顔を、守りたかった。いつもそう心から願っていた。一緒にいる時も……離れていた時も、ずっと」
「土方さん……」
 柔らかな笑顔で云った土方を、総司は潤んだ瞳で見上げた。こくんと小さく頷く。
 そっと、涙をぬぐってやった。
「ほら……泣きやんで」
 土方は総司の唇に甘いキスをおとした。
 そして、優しい声で囁いた。
「笑顔を見せて」


 花のように。
 きれいな笑顔を。
 俺の腕の中で。


 それに、総司は愛しい彼を見上げた。
 瞳はまだ涙に濡れている。
 でも、この人の願いを叶えたいから。
 本当に今、幸せなのだと、彼に教えてあげたいから。
 だから。
「……土方さん」
 総司は微笑ったのだった。



 世界中の誰よりも
 愛しい恋人の腕の中で
 きれいな花のように───















 つめたい冬の夜
 見あげた星空に願うのは
 いとしいきみの幸せ

 でも

 もしも許されるのなら
 そっと願ってみたいんだ

 愛するきみと生きてゆく
 ささやかな幸せを……



















[あとがき]
 これで「星空に願うのは」は終わりです。予告どおり、きっちりハッピーエンドなので、今度こそ皆様、やれやれと思われた事かと(笑)。
 一年前とは違う、幸せなクリスマスイヴをどうしても二人に過ごして欲しかったので、話が長くなってしまいました。でも、やっぱり甘い二人を書くのは楽しいです。
 これから、また続くだろうバカップルの番外編、早く読みたいな♪ と思って下さった方は、ちょこっとメッセージからGoGoしてやって下さいね。
 ラストまでおつきあい下さり、本当にありがとうございました♪