その日は朝から雨だった。
 永倉とともに黒谷屋敷へ行っていた土方が帰ってきたころ、雨は本降りになっていた。横殴りのそれに、傘をさしていても二人ともぐっしょり濡れてしまう。閉口しきった土方は永倉とともに屯所の門をくぐった。
 傘を畳み、玄関へ足を踏み入れる。
「お帰りなさい」
 とたん、明るく澄んだ声が土方を迎えた。
 框にきちんと端座した総司だ。歩み寄った土方にむけられた笑顔は、まるで花が零れるようだった。
「……今、帰った」
 その綺麗な笑顔を見下ろし言った土方に、総司は手を差しのべた。
「びしょ濡れですね」
 手ぬぐいを手渡そうとして、結局、自分から拭い始める。土方の髪や濡れた肩口を丁寧に拭った。まるで女房のするような行為なのだが、本人は全く意識していない。
 そんな総司にたまらない程の愛しさを覚え、土方は思わず手をのばした。そっと、手のひらで総司の白い頬を包み込み、そのなめらかな感触を味わう。
 総司はちょっと困ったように彼を見上げ、また小さく笑った。それがまた何ともいじらしい。


(どうして、こいつはこんなに可愛いんだろうな……)


 そう思ったとたん、背後でゴホンと咳払いが響いた。
 ようやく、そこにいるはずの永倉の存在を思い出し、土方は振り返った。
 無意識のうちに、めちゃくちゃ不機嫌な声で言ってしまった。
「……何だ」 









 土方と総司のことは、試衛館の頃からよく知っている。
 昔から二人は傍が呆れるほど仲が良く、まるで本当の兄弟のようだった。
 兄弟のよう……ただそれだけの関係だと、永倉は思っていたのだが。
 玄関に入ったとたん、そこにいた総司に驚いた。手ぬぐいまで用意していた処を見ると、ずっとここで待っていたのか。
 もしかして土産狙いかと思ったが、土方は何も持っていない。総司もそんな事は一言も口にしなかったのだから、ただ純粋に土方を待っていたのだろう。
 一方、土方の行動も永倉から見れば理解不可能だった。少し前なら総司がこんな事をすれば、「土産ねだりか」とか「何か企んでるだろ」とか言っていたはずなのに、何も言わない。ただ黙って世話女房にされるが如く、総司に髪や着物を拭いてもらっている。
 挙句の果てには、土方が総司の頬に手をあてたので慌てた。


(あんた、こんなところで接吻でもする気か?)


 他の隊士にでも見られたらことだ。
 永倉は馬に蹴られるのを覚悟で、大きく咳払いした。
 すると、土方はとんでもなく不機嫌な顔で振り返り、平隊士なら震え上がるような凄みのある声で言った。
「……何だ」
「何だって……あんた……」
 思わず絶句した。


 何だと聞いてやりたいのはこっちだ!……けど、マジですげぇ怒ってるぞ。


 固まっている永倉に気づき、総司が土方の陰からぴょこっと顔を出した。
「永倉さん、お帰りなさい」
「……ただいま」


(ずっといたんだけどな。土方さんと一緒に帰ってきたんだけどな)


「うわ、永倉さんもびしょびしょですね。手ぬぐい使います?」
「い、いいよ。すぐ風呂入るから」
「あ……すみません。ちょっと待ってもらってもいいですか」
「? 何で」
 訊ねた永倉に、総司はにこにこ笑った。
「土方さんに入ってもらおうと思って、私が沸かしたんです。だから、永倉さんは二番湯にしてもらえません?」


(おーい、完璧に世話女房じゃないか。総司はいつ土方さんのとこに嫁にいったんだよ)


「……わかった」
「すみません」
 ぺこっと頭を下げる総司をよそに、土方は框に上がった。総司の細い腕をぐいっと掴み、立ち上がらせる。
「ほら、行くぞ」
「あ、はい」
 素直に返事をし、総司は土方の傍に寄り添った。苦みばしった男前の土方と、綺麗で清楚な総司は誰が見ても似合いだ。
 そう、確かに似合いなのだが……


(……いつのまに、こうなったんだ?)


 呆気にとられている永倉の前で、二人は仲よさそうに歩み去っていった。









「はあ? 土方さんと総司ィ?」
 畳の上で寝転がり、春画本を読みふけっていた原田は、そのままの姿勢で永倉を見上げた。
 ようやく風呂に入れた永倉は、原田の傍に胡坐をかいて座り、頷いた。
「あぁ、最近、あの二人、様子が変わったと思わないか」
「様子ねぇ。別にわかんねぇけどなぁ」
 肩をすくめ、原田はまた春画本に目を戻した。
「で、新八はどういうふうに変わったと思ってる訳?」
「どうって……まぁ、より親密になったというか。あの二人、もともと仲がよかったけど、それがいよいよ深まったというか……」
「つまり、できちゃったということ?」
「できた? そう、そうだ! そういう感じなんだよ。さっきだって、びっくりしちまって」
「何? 何かあったの?」
 ようやく春画本を置き、原田は興味深そうに聞いてきた。
「土方さんと黒谷から帰ってきたら、総司が玄関で待っているんだ。手ぬぐいまで用意してさ。おまけに土方さんの髪やら着物やら拭いてやって、土方さんのためにお風呂用意してます、永倉さんは二番湯でお願いしますときたもんだ。その世話女房ぶりにもあの旦那平然としてるし、あんまりな状況に思わず咳払いしたら、すっげぇ嫌そうな顔で振り返られて……」
「馬に蹴られたって訳だ」
 げらげら笑いながら、原田は言った。それに永倉は肩をすくめる。
「何とでも言えよ。けどさぁ、いつからなんだろ? これ、ほんと馬に蹴られろだろうが、全然分かわからなかったものな。いったい、いつから……」
「江戸にいた頃からだろ」
 あっさり言ってのけた原田に、永倉は驚いた。
「えぇ!? そ、そうなのか?」
「あぁ、おれ、あの二人が接吻してるとこ何回も見てるぜ。土方さん、こう総司を抱きかかえてさぁ、ものすっげぇ濃厚な接吻してた」
「それ……京に来てからもなのか?」
「一回見たかな。庭先でやってた。木陰に隠れてたから、誰にも見られてねーって思ってただろうけどよぉ」
 原田はにいっと笑った。
「ところがどっこい、この原田様はしっかり見てたって訳さ」
「左之、何回見てるんだよ。それこそ馬に蹴られるぞ」
 げんなりした永倉に、原田はまたげらげらと大声で笑った。










「いろは?」
 きょとんとした表情で、総司は聞き返した。
 隊士たちの雑談の場だった。
 永倉は酒を杯に注ぎながら頷いた。皆、少し酔っっている。総司は酒が苦手なので避けていたが、いつも話には加わるよう努めていた。
 いわば総司は彼らと土方の繋ぎ役なのだ。
 道場の頃から孤独癖のあった土方を追いかけて、連れ戻したり……


(でも、繋ぎ役だろうが何だろうが、私はあの人を好きで追いかけていたんだ。あの人の傍にいたくて……)


 むろん、この場に土方はいない。公務で出ているという話だった。
「いろはって、何ですか?」
 意味がわからず訊ねた総司に、永倉や原田は笑った。
「おまえー、もう二十歳だろ? そんな事も知らないんじゃ、初すぎるって笑われるぜぇ」
「でも……」
 総司はちょっと唇を尖らせた。
「知らないものは仕方ないでしょう」
「『いろは』は、『いろは』だよ。それ以外の意味はないって」
「?」
 意味がちっともわからない。
「いろはって読み書きのいろはじゃないんですか? もっと違うこと?」
「全然、違うね……けど」
 げらげらと原田が笑った。
「おまえ、新八の言うとおりだったら、とっくに全部知ってると思ったんだけどなぁ」
 不思議そうな総司へ、原田は向き直った。慌てて永倉が止めようとしたが、あっさりした口調で説明しまう。
「こいつ、言ってたんだぜ。総司が土方さんの世話女房みたいだって」
「!」
「そりゃまぁ、あれだけいい男の土方さんと、こんな綺麗どころの総司がひっついてんだ。そう思わねぇ方がおかしいけどなぁ」
 にやにやと原田は笑っている。総司は頬が染まるのをおさえきれなかった。耳柔まで真っ赤になってしまう。
「私が……土方さんの女房……?」
「そんな赤くなるなよ。可愛くて噂たてられるぜ。けど、まぁそれが本当なら、おまえさん、今頃『いろは』なんて聞くはずねぇけどな」
「? どういう事?」
「だからぁ」
 原田は遠慮ない口調で云った。
「おまえが土方さんの女房同然なら、『いろは』なんざ土方さんから教えられてるってことさ」
「そんなの全然知りませんよ。教えられてません」
「じゃあ、聞いて見ろよ。土方さんなら、実地でみっちり教え込んでくれるぜぇ」
「実地で……?」
 それでもきょとんとした表情の総司に、原田は笑った。永倉も傍で苦笑している。
「新八、おれ昨日のやっぱ撤回するわ。何しろ、総司はまだ『いろは』も知らない初だものな。あの土方さん相手じゃ、そんなのありえねぇって」









 翌日の事だった。
 総司は中庭で土方を見つけた。
 稽古を終えた後らしく、井戸端で、もろ肌脱いだ状態で汗を拭っている。男の逞しい体が総司には眩しかった。
 ちょっと躊躇ったが、総司は手拭いを手に駆け寄った。
「はい」とさしだす。驚いたようにふり返った土方はあぁと頷いた。
 近くには原田や永倉もいる。
 それを見て総司は昨日の事を思い出した。
「……土方さん」
 呼びかけた総司に、土方は何だと云いたげに目を向けた。道場で何か苛立つことでもあったのか、視線が鋭い。
 冷ややかな一瞥をむけられ少し怯んだ。
「すみません……何でもありません」
「何だ、云えよ」
 ぶっきらぼうに土方は促した。
「……あのね」
 総司はちょっと躊躇った。だが、ずっと気になっていたことなので、思い切って訊ねた。
「『いろは』って何?」
 そのとたん、傍でブーッ!という音がした。原田と永倉が飲みかけていた水を思いっきり吹き出したのだ。
 訊ねられた土方はかるく目を見開いたが、まだ動じなかった。
「土方さん、知ってる? 『いろは』の意味」
 無邪気に訊ねる総司を、土方は黙ったまま見下ろした。かなり困惑しているのだが、傍から見れば冷たいほどの無表情だ。
「原田さんや永倉さんに聞いたけど、教えてくれないんです」
「……」
 ちらりと一瞥され、原田たちは首をすくめた。
「ねぇ、土方さんは知ってる?」
「……あぁ」
 仕方なく土方は答えた。低い声で小さく呟く。
「ったく……こんな所で聞くなよ」
「え? 何?」
「……いや、何でもねぇ。それより総司、仕事終わったのか?」
「終わりました」
 拗ねた表情で答えてから、総司は立ち去ろうとしている土方に追いすがった。その腕に手をのばし、掴む。
「知ってるのなら、教えて下さい。ねぇ、教えて」
「何で俺に聞くんだ。他の奴に聞けばいいだろ」
「だって」
 総司は大きな瞳で彼を見上げた。可愛らしく小首をかしげてみせる。
「だって、原田さんが云うんです。土方さんに聞けって。土方さんなら実地で教えてくれるだろうって」
「……実地って、おまえ……」
 思わず絶句した。とうとう片手で顔をおおってしまう。


 もういい加減にしてくれと言いたい気分だった。全然わかっていない無邪気な恋人に、目眩さえしてくる。


 深くため息をつき、気持ちを整えた。
 そうしてから、顔をあげると、原田や永倉は難を恐れたのか、とっくの昔に逃げ去ってしまっている。
 舌打ちし、土方は総司へ向き直った。周囲に誰の目もないのを確かめてから、身をかがめ耳もとに唇を寄せた。
「……たっぷり教えてやる」
「土方…さん……?」
「『い』はとりあえず終わってるからな、今度は『ろ』と『は』を実地で教えてやるよ。おまえの躰が蕩けてしまうくらい、可愛がってやる……」
「!」
 ようやく総司も意味がわかった。
 瞬間、かぁっと頬から首筋が紅潮する。思わず後ずさろうとした総司の両手首がぐいっと掴まれた。そのまま男の胸もとへ強引に抱き寄せられてしまう。
「逃げるなよ、誘ったのはおまえの方だろうが。ん?」
「だ、だって……こんな……」
「男をその気にさせといて、だっても何もねぇよ。いいか、今夜、祇園の安曇っていう茶屋で待っているからな。必ず来るんだぞ」
「え、屯所の部屋でじゃないの?」
「屯所じゃ、おまえ声だせないだろうが」
 総司はいやいやと首をふり、土方の胸に顔をうずめた。耳たぶまで真っ赤になっている様が何とも可愛らしい。
 そんな総司に土方は満足げに微笑んだ。そして、両腕でその可愛らしい恋人の体をそっと抱きすくめた。


(さっきは締め上げてやろうと思ったが、こうなったんなら、逆に礼言わねぇとな……)


 などと、都合のいいことを考えながら。

 

 今夜は恋人たちの夜。

 ようやく訪れようとしている蜜夜に、二人はそれぞれ熱く想いをはせるのでありました……。














[あとがき]
 これはサイト開設した日に書いてます。日記やめといて、何でお話書いてるのでしょうか。土方さん、出番少ないけど、左之と新八のかけあいが書いてて楽しかったです。「いろは」は某少女小説から。古いなぁ。年くってんのがばればれですね。やっと二人は初夜です。でも、まだ「告白」も書いてないのに。そう、くちづけ2との間にもう一つ話が入るんです。とことん、おいしいものは最後までタイプですみません。精進して書かせていただきます。


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