総司は深くため息をついた。
 ほんの一瞬の夢だった。
 彼の姿が瞳に映ったとたん、甘い夢を見てしまったのだ。


(もしかして、私の事を気にして、来てくれた──?)


 そんな事あるはずもないのに。
 私と彼は、犬猿の仲なのだ。
 顔をあわせば、いつも冷ややかな応酬ばかりをくり返す副長と一番隊隊長。
 もしも、土方さんが私の事を気にかけるとしたら、手駒の一つとしての他にあり得なかった。あの人は、私の人間性など、欠片も認めていないのだから。
 ましてや、先日、あんな事があったばかりだった。
 褥の中で目覚め、あの人と同衾したのだと誤解した私を、どれほど彼が侮蔑したか。傷つけ、からかい嘲笑し、挙げ句冷ややかに突き放したのだ。
 先日の事で、あの人が私をいったいどう考えているのか、どんな存在として捉えているのか、いやというほど思い知らされたばかりだった。


(……なのに)


 総司はきつく唇を噛みしめた。


 甘い夢を見てしまうなんて。
 期待してしまうなんて。
 どうして思いきる事ができないのだろう。あんなにも酷くされて、冷たくあしらわれて、それでも好いてしまう私は、どこかおかしいのだろうか。
 あんな男──と諦められたなら、忘れる事ができたなら。
 どんなにか楽になるだろうに……。










 もう一度、総司はため息をついた。
 その時だった。
 突然、入り口の方からかけられた声に、驚いた。
「……傷が痛むのか」
 張りのあるなめらかな低い声。
 驚いてふり向くと、いつのまに戻ってきたのか、そこには土方が佇んでいた。戸口に手をかけ、形のよい眉を僅かに顰めている。
 総司はぎゅっと両手を握りしめた。目に映すのも嫌悪するとばかりに顔をそむけ、そっけない口調で云い捨てた。
「まだ、嫌味を云い足りないのですか。もう十分、お聞きしたと思っていたのですが」


 いつもの癖なのか。
 土方の顔を見ると、どうしても素直になる事ができないのだ。
 つい、きつい物言いをしてしまう。
 

 無意識のうちに、爪が食いこむほど両手を握りしめた。
「処分なさるなら、どうぞご勝手に! 副長の好きなようになさればいいでしょう。私の手落ちを確認するため、ここに来られ……」
 不意に、言葉が途切れた。
 総司は近寄ってきた気配に気づき、ふり向いた。とたん、その目が大きく瞠られる。
「な、何を……!?」
「……」
 土方がゆっくり歩み寄ってきたかと思うと、突然、框に腰かけている総司の前で跪いたのだ。袴に泥がつくのも構わず土間に片膝をつき、手をのばしてくる。
「傷を負ったのは、左足か」
 そう云いながら、男の手が細い足をそっと持ち上げた。袴をめくりあげると、傷口が露になる。
 まだ、ざっと泥をぬぐっただけの傷は、それほど深くはなかったが、土方の目には酷く痛々しく見えた。
 思わず顔を顰め、指さきをすっと這わせた。
 とたん、総司が激しく身を捩った。痛かったのかと見上げてみると、なぜか、その顔は真っ赤だった。
「は、離して……っ!」
 耳朶まで桜色に染めあげ、総司は叫んだ。
「離して下さい!」
「動かすな。まだ痛むのだろう」
「あ、あたり前ですっ。でも、そんなの土方さんには何の関係もない……っ」
 ふり払おうとする総司に、土方は落ち着いた声で云った。
「早く手当しよう。とりあえず水で洗って、薬を塗っておいた方がいい」
「そんなの、屯所に帰ってからで……」
「歩けなくなっていいのか。軽い傷だと放っておくと、痛い目にあうぞ」
「……え……」
 総司の動きがとまった。のろのろと捩りかけていた身を戻す。不安げな瞳で彼を見てから、ゆっくりと脚を元へ戻した。
 ようやくおとなしくなった総司に、土方はほっと安堵した。
 隊士に云って水を運ばせると、慣れた手つきで手当をはじめた。彼自身が手当するのかと、隊士たちは驚いていたが、土方にすれば当然の事だった。
 本当は、この肌に他の誰も指一本ふれさせたくないのだ。
 土方は目を伏せ、慎重に手当をつづけた。
「……っ」
 できる限り優しく扱ったつもりだが、水で傷口を洗ってやると、総司の唇から微かな呻きがもれた。
 それに、思わず手がとまってしまう。
「痛むか……?」
 見上げた土方に、総司は微かに首をふった。
「いえ……大丈夫です……」
 明らかに苦痛を堪えている様子に、たまらなくなる。自分が傷を負った方が余程ましだった。


 この世の何一つ──痛みも苦しみも、皆、この愛しい存在からとり除いてやりたい。この手で、あふれるほどの幸せをあたえてやりたい。
 そう……心から願っているのに。


「もう少しで終わりだ」
 心の奥に秘めた想いを押し隠し、土方は静かな声で云った。
「後は薬を塗るだけだからな」
 水で清めた傷口に、いつも持ち歩いている薬を塗り込んだ。その後、取り出した手拭いで丁寧に包みこんでやる。
「これで大丈夫だ。むろん、屯所に戻ってから手当しねぇと駄目だが」
「はい……」
 こくりと頷いた総司は、どこか潤んだような瞳で土方を見つめた。
 長い睫毛がそっと瞬いた。
 花びらのような桜色の唇は、何か云いたげに淡く開かれている。
 傷を負ったゆえなのか、ほっそりした躯はより儚げに見えた。この腕に抱きしめれば、今にも淡雪のようにとけてしまいそうだ。
 薄闇の中、こちらを見つめてくる可憐な表情に、土方は息をつめた。
「──」
 狂おしいほどの愛しさがこみあげた。その華奢な躯を、今すぐ己の腕の中に引き入れ抱きしめたくなる。
 心の奥底から、この若者が欲しい──と思った。
 愛しさと男の欲情が入り混じった、狂おしい想い。
 彼の中、獰猛な獣が激しく暴れた。
「……土方さん」
 じっと彼を見つめたまま、総司は小さな声で云った。
「ありがとうございます」
 それに、土方は思わず目をそらした。衝動をおさえるためか、つい声音が尖り固くなってしまう。
「別に、礼を云われるような事じゃねぇよ。おまえにすれば、余計なお世話だっただろうがな」
「そんな……」
 口ごもった総司にちらりと視線をやってから、土方は立ち上がった。


 これ以上、ここにいるべきではなかった。
 彼の中の理性が、激しく警鐘を鳴らしていた。
 このまま総司を見つめていれば、そのうち、崩れ落ちるように己の想いも愛も執着も何もかも、露呈してしまうだろう。


 ゆっくりと踵を返し、戸口にむかって歩き出した。
 だが、不意に背後であがった「あっ」という小さな声に、土方の足がとまった。反射的に、ふり返ってしまう。
 とたん、大きく目を見開いた。
「……何をしているんだ!」
 思わず怒鳴った彼に、総司は「え?」という顔になった。
 それまで框に坐っていた総司は、傍の柱に縋るようにして立ち上がりかけていたのだ。先程の声は、おそらく痛みゆえだったのだろう。
「な、何って……帰ろうと思ったんですけど」
「一人で歩けるはずがねぇだろうが。おとなしく坐ってろ」
「坐っていたら、ずっと帰れませんよ」
 そう云い返してきた総司に、土方はため息をついた。歩み寄りながら、云ってやる。
「さっき駕籠を呼んでおいた。それに乗って帰れ」
「そんな贅沢な」
「なら、おまえは俺におぶっていけと云うのか? 屯所まで?」
 どこか意地悪く切り返した土方に、総司の目が見開かれ、そのなめらかな頬がかぁっと紅潮した。慌てて後ろにすさる。
「け、結構です! そんな恥ずかしいこと……っ」
「だったら、おとなしく駕籠に乗れ」
 そう云ってから、土方は少し耳をすますような表情になった。僅かに苦笑する。
「ちょうど来たようだな。駕籠まででも、おぶっていってやるぞ」
「いりませんってば!」
「なら、肩をかしてやる」
 そう云ってから、土方はちょっと躊躇った。
 一瞬だけ黙ってから、すっと片手をさしのべた。
「おまえが……嫌でなければ」
 総司は驚いたように、彼を見上げた。
 深く澄んだ黒い瞳がじっと見下ろしている。その中に秘められた感情は、到底読み取れなかった。
「……」
 総司は僅かに目を伏せると、躊躇いがちに手をのばした。それに安堵したような表情になった土方が、柔らかく握りしめてくれる。
 頬が熱いほど火照った。


 嫌なんて、そんな事あるはずもなかった。
 思ってもいなかった、だが、突然あたえられた彼からの優しさ。それが心の中を柔らかく満たしてくれた。
 泣きたくなるぐらい嬉しかった……。


「ゆっくりとだ……気をつけて」
 土方は総司をそっと立ち上がらせてくれた。
 その細い腰に腕をまわし、傷を負った左足になるたけ負担がかからないよう支えてくれる。
 彼の優しさ、気遣いが、夢のようだと思った。


(……土方さん……)


 ほんの短い距離。
 家から道までの、駕籠までの距離。
 だが、その間だけでも。
 躯を寄せあって、彼の鼓動をぬくもりを感じて。
 本当に、幸せだった。
 ずっとずっと、このまま続けばいい──とさえ願った。


 だが、そんな事叶えられるはずがないのだ。
 夢というものは、いつかは必ず醒めてしまうのだから───


「……あっ」
 用意された駕籠の少し前で、総司はよろめいてしまった。
 土方が総司をより強く抱き寄せ、その手をつかんだ。指と指がきつく絡みあう。
「!」
 とたん、かぁっと頬が火照った。
 耳朶まで真っ赤になっているに違いなかった。
 感じやすい指さきに、彼のしなやかな指が絡められ、まるで、そこだけ熱をもったようだった。
「……っ」
 思わず縋るように絡めた指さきを、土方はそっと握り返してくれた。おずおずと見あげれば、どこか熱っぽい男の瞳が見下ろしていた。
 それに、どきりとした。


(……土方…さん……)


 その瞳の色の意味を知りたくて、見つめ返した。
 不安と戸惑い。
 だが、そのとたん、土方は視線をそらした。
 あっと思った時には手を離され、柔らかく駕籠へと乗せられている。
「……あ」
 小さく声をあげた時、駕籠の垂れが下ろされた。命じる彼の声が聞こえ、ふわりと躯が持ち上がった。
 もう、彼の瞳を確かめることはできない。


 ……でも。
 あの表情は。
 絡められた指さきは。
 いったい、何を意味していたの……?


 揺れる駕籠の中、総司は長い睫毛を瞬かせた。その唇から、そっと微かな吐息がもれる。


 本当は……意味などいらなかった。
 ふれあって。
 感じて。
 見つめあって。
 それだけで、まるで夢のような一時だった。
 幸せで幸せで、このまま息絶えてしまいたいとさえ願った。


 狂おしいほど愛しい、ただ一人の男。


 ゆっくりと、総司は手をあげた。
 そして。
 うっとりした表情で瞼を閉じると、己の指さきにそっと──口づけたのだった。





       彼の熱に。
       恋に。
       愛に。


       ……絡められた指さきに。

















[あとがき]
 ほんの少しだけ、二人の間が近づいたかもしれません。でも、まだすれ違いは続くのですが(笑)。