「うん! 伊庭さんがね」
 総司は嬉しそうに云った。
「今度、ぼくのための特製ケーキをつくってくれるんだって」
「……」
「だから、ほら、事前に連絡欲しいって名刺も貰ったんですよ」
 そう云って、総司は名刺を見せようとした。だが、え?と思った時には、それはもう手許にない。
 一瞬の間に、名刺は土方の手にわたってしまっていた。
「土方、さん?」
「連絡する必要ないから、これいらないだろ」
「え? え?」
 呆気にとられる総司の前で、土方はおもむろにライターをとり出した。えぇっ!?と慌てて止めかけたが、時既に遅し。名刺はめらめらめら〜っと燃え上がり、台所にあったホールドトマトの空き缶の中に、ポイッされてしまった。
「なっ、な……」
 絶句している総司に、土方はふり返り、綺麗な顔でにっこり笑いかけた。
 だが、その目は絶対笑ってない……。
「浮気を阻止するのは、彼氏として当然のことさ」
「ケーキ食べるだけじゃないですかっ!」
「だから、その相手が問題なんだよ」
 土方はソファに戻ると腰をおろし、ふうっとため息をついてみせた。
「テレビでもさんざんいちゃついていただろ。あれ見て、俺がいい気分すると思った?」
 ちょっと哀愁をおびた笑みをうかべた土方に、小首をかしげるようにして覗き込まれ、総司はうっと詰まってしまった。


 実際、対談が終った後、磯子に耳打ちされたのだ。
 えらく伊庭さんが気にいったみたいだけど、気をつけないと、本気にされちゃうわよ?
 だいたい、土方さんに悪いでしょ? と。
 それを聞いて、初めて「まずかったかな」と思いはしたのだ。
 ……したのだが、でも、名刺を燃やすことはないでしょ?
 ふつう、そこまでする!?


「します」
 土方はあっさり答えた。平然とした様子で、何事もなかったように珈琲を飲む。
「可愛い恋人のまわりをうろつく輩の名刺なんて、ゴミ箱行になって当然だろ?」
「ゴミ箱どころか、燃やしちゃったじゃない!」
「あぁ、シュレッターにかけた方がよかった?」
「そういう問題じゃなくて! 浮気浮気って、そんなの土方さんに云われる事じゃないんだからっ!」
 思わず叫んでしまった総司に、土方は形のよい眉を顰めた。黒い瞳がきらりと底光りする。
 沈黙の後、低い声でゆっくりと問いかけられた。
「……どういう意味だ」
「だ、だからっ」
 総司は、急に豹変した土方にびくびくしつつも、言葉をつづけた。
「土方さんの方が、浮気すれすれの事してるくせに! それでもって、ぼくのこと無視したくせに!」
「無視?」
「とぼけないでよっ、この間見たんだから」
 そう叫んだ総司に、土方は合点がいったようだった。「あぁ」と頷く。
 形のよい唇に、ふっと笑みをうかべた。
「あの時ことか」
「や、やっぱり気づいていたんだっ」
 あらためてその事を思い知らされ、総司はショックを受けた。もしかして、気づいてなかったのかも……と、甘い期待をちょっぴり抱いていたのだ。
 なのに。
「気づいてて、無視した訳? ひどいっ」
「あの場合、当然だろ」
「当然!? 何それっ……」
 平然と云ってのけた土方に、思わず叫びかけた時だった。
 不意に、土方の携帯電話が軽やかな電子音をたてた。仕事用のものだ。
 それを開いた土方は、一瞬眉を顰めた。
「……悪い」
 一言だけ断り、すぐさま立ち上がった。耳にあてながら、リビングを横切ってゆく。
「あぁ、俺だ。……そうか、やっぱり駄目か」
 廊下へ出てドアを閉める直前、彼の声がちらりと耳に入った。それに、きゅっと唇を噛みしめる。
 きっと、この後仕事へ行く事になるのだろう。今までの経験から、だいたい察する事ができた。
 やっぱり仕事は終っていなかったのだ。一段落ついたと笑っていたが、総司も、土方が多忙の合間をぬうようにして逢いに来てくれた事は、よくわかっていた。
 なのに、せっかく来てくれた彼に、怒るばかりなんて。
「……あーあ、成長ないや」
 総司はクッションを抱え込み、はぁっとため息をついた。だが、すぐに伊庭の名刺を燃やされてしまった事を思いだし、むっとする。
 いくら何でも、あそこまでする事はないだろうと思うのだ。
「でも、いいもん」
 総司はにんまり笑い、いそいそと携帯電話を取り出した。
 電話の方はもう登録済なのだ。これで、事前連絡もとれるし、伊庭が作ってくれる特製ケーキもゲット出来るのだから。
「ふふっ、楽しみ♪」
 嬉しそうに携帯電話を眺める総司は、戸口に佇み、剣呑なまなざしを向けている土方の存在に、ぜーんぜん気づいていないのだった……。












 その十日後だった。
 総司はうきうきしながら歩いていた。
 例の特製ケーキなのだ。
 連絡をとった総司に、伊庭はもう試作は済ませたから、都合のいい日を教えてくれたらその日につくっておくと云ってくれたのだ。そのため、総司はあれこれ都合をつけ、仕事後、伊庭の店へ行く事にした。
 もう夜だ。
 賑やかな通りとはいえ、帽子をかぶり伊達メガネをかけた総司は、どこにでもいる男の子のようで誰も気づかない。もちろん、その顔を覗き込めば、びっくりするぐらい可愛いのだが、なるべく俯きがちに歩いていた。
 店に行くと、伊庭は外に佇んでいた。売り切れ御免のこの店は閉店も早く、シャッターはもう降りている。
「こんにちは」
 頭を下げた総司に、伊庭は「やぁ」と手をあげた。
「わざわざ来てもらって、悪かったね」
「こちらこそ、すみません。お手数をおかけして」
「全然。久しぶりに、すげぇ楽しかったよ」
 伊庭は総司を近くの公園に誘ってくれた。綺麗な噴水があるその公園はきちんと手入れされ、居心地がよい。ライトアップされた花壇も綺麗で、石畳の広場を、仕事帰りの人々もたくさん行きかっていた。
 並んでいるベンチの一つに腰かけ、伊庭は小さな箱をさし出してくれた。
 悪戯っぽく笑う。
「はい、総司くんスペシャルケーキ」
「わぁ! 開けていいですか?」
「もちろん」
 総司はわくわくしながら、箱を開けた。中には小さなホールケーキが入っていた。スポンジと生クリームの上に、苺ゼリーがしきつめられ、フルーツがふんだんに使われている。何よりも、天使の砂糖菓子がとても可愛らしく、思わず目を瞠った。
「わぁ、おいしそう……! 可愛い!」
「気にいってくれたかい?」
「はい! とっても」
 総司は甘酸っぱい苺と濃厚な生クリームの香りに、今すぐ食べたいという顔になったが、いくら何でも公園で食べる訳にはいかない。後のお楽しみと我慢して、そっと箱を閉じた。
「ありがとうございます、本当に」
「喜んでくれたなら、嬉しいよ」
「あ、あのっ、おいくらで」
 そう訊ねた総司に、伊庭はちょっと苦笑いをうかべた。
「そんなものいらないって。おれが作りたいなぁと思ってした事なんだからさ」
「でも、それじゃ、申し訳ないです」
 総司は大きな瞳で、伊庭を見上げた。
「こんなにしてもらって……ぼくの気が済みません」
「んー、じゃあさ」
 伊庭が小首をかしげ、総司の顔を覗き込んだ。悪戯っぽく笑う。
「どうしてもって云うのなら、代わりに一つだけ頼もうかな」
「はい、何でも云って下さい」
「キスしてもいいかい?」
 伊庭の言葉に、総司は「へ?」と目を丸くした。
 一瞬、何を云われたか、わからなかったのだ。伊庭に対して、全然そういう意識をしていなかっただけに、何の事やらわからない。
 だが、その言葉の意味が頭にようやく届くと、思わず「えぇーっ!?」と仰け反ってしまった。わたわた両手をふり回す。
「キキキ、キスって……ぼく、男の子ですよ!」
「わかってるって」
「なのに、何で! どうして」
「そりゃ、可愛いからに決まってるさ」
 当然のように云われ、総司はぶんぶん首をふった。
 可愛いなんて!
 だから、キスするなんて。
 そんなの……おかしいから。
「おかしい? どうして?」
「だ、だって……っ」
「つきあってる人がいるから?」
 悪戯っぽい声音で聞かれ、一瞬、呼吸がとまった。思わず見返した総司に、伊庭は苦笑した。
「やっぱり、いるんだなぁ。そうかなと思っていたけど」
「ご、ごめんなさい」
「謝る事じゃないって。運命の出会いだと思っていたから、ちょっとがっかりはしたけどね」
 片目を瞑ってみせてから、伊庭は視線を公園の噴水の方へ向けた。しばらく黙ってから、云う。
「その人の事、好き?」
「はい」
「だい好きなんだ」
「はい……とても」
「羨ましいね、彼が」
「え」
 その言葉に驚いて顔をあげると、伊庭はベンチから立ち上がっていた。噴水の方へ視線を投げつつ、小さく笑ってみせる。
 それを追った総司は、とたん、あっと声をあげた。思わず立ち上がってしまう。
「……!」
 噴水の前に、若い男が一人佇んでいた。
 モデルばりの引き締まった長身、端正な顔だちに、誰もがふり返ってゆく。
 ネイビーのヘンリーシャツに、ブラックジーンズというカジュアルな恰好から、仕事帰りではない事がわかった。いつもは整えられている黒髪が、柔らかく乱れている様が、どこか色っぽい。
 切れの長い目がこちらを見つめた瞬間、どきりと心臓が跳ね上がった。かぁっと頬が上気する。
「……土方、さん……」
 その名を呟いた総司に、伊庭はちらりと視線をむけた。だが、すぐに微笑むと、さり気なくその手をとった。
 え?と思った時には、手の甲に軽くキスをおとされている。まるで、姫君にするように恭しく。
 思わず叫んだ。
「い、伊庭さんっ」
「また店に来てくれる事、楽しみにしてるよ」
 顔を真っ赤にして慌てる総司に構わず、伊庭はにこやかにそう云った。かるく手をあげ、歩み去ってゆく。
 それを呆然と見送っていると、土方がゆっくりと歩み寄ってきた。何だか怖くて、まっすぐ見上げることができない。
 俯いてしまった総司に、しばらくの間、土方も無言だった。黙ったまま、見下ろしている。
 総司はいたたまれず、ぎゅっと両手を握りしめた。
 伊庭と会った事は、別に怒られることではないと思う。そこまで、土方も煩く云うような恋人ではないのだ。だが、彼の前で手の甲にキスされたのは、やばいだろう。
「え、えーと……あのっ」
 もじもじしながら云いかけた総司に、土方は手をのばした。ぽんぽんっと頭を軽く叩かれる。
 え?と顔をあげると、土方は苦笑していた。
「ほんと、俺のお姫さまは困ったものだね」
「は?」
「ちょっと目を離すと、これだ。ケーキにつられてふらふらと……そんなにケーキが食べたかった?」
「……うん」
 おずおずと頷いた総司に、土方は、はぁっとため息をついた。夜空を仰ぎながら、呟く。
「食欲には勝てないって事か」
「な、何それっ」
 総司は顔を真っ赤にした。何だか、自分が食べる事しか考えてないように云われた気がしたのだ。
「ぼく、そんなに食い意地はってないもん」
「けどさ、ケーキにつられておびき出されたのは、本当だろう?」
「おびき出されたって、うさぎか何かみたいに」
「うさぎだよ。可愛い可愛い白うさぎ姫」
 くすくす笑いながら云った土方は、だが、すぐに真顔になると、総司の唇にそっと指を押しあてた。
「二度と、罠に嵌るなよ」
「罠?」
「ケーキの罠。逆におまえがおいしく頂かれちゃったら、どうするの」
「えー、そんな事、ある訳ないですよ。ぼく、男の子だもの」
 目を丸くしてから、ころころ笑いだした総司に、土方は呆れたように眺めた。肩をすくめる。
「俺、おまえのこと何度も頂いているけど?」
「……そ、それは」
「自覚なさすぎ。とにかく、今後も浮気阻止しないとね」
「……」
 浮気という言葉を聞いたとたん、総司がむっとしたように押し黙った。大きな瞳で、土方をじいっと見つめている。
 それに、土方は気がついたらしく、「あぁ」と頷いた。ベンチに腰かけながら、にっこり綺麗な顔で笑いかける。
「もちろん、俺も浮気なんかしないよ」
「……だって、この間」
「女の子と腕組んだだけ。あれが浮気なら、手へのキスなんてもっての他じゃない?」
「で、でもっ」
 総司はベビーピンクの唇を尖らせた。
「あの時、ぼくのこと無視までしたもの。しかも、あの場合当然ってどういう事? そんなの……」
「だから、当然だろ」
 土方は前髪を片手で煩わしげにかきあげつつ、答えた。僅かに目を細める。
「あんな他に大勢人がいる真っ昼間に、人気歌手のおまえに声をかけられるはずがないだろうが。とんでもない騒ぎになってしまうよ」
「……あ」
「だから、当然って云ったのさ」
「それ…は、わかるけど、……でも」
 総司はきゅっと両手を握りしめた。
「ぼくのこと……無視した理由はわかったけど、でも、女の子と腕を組む理由には、ならないもん」
「まぁ、そうだな」
「だったら、ぼくの事だって云う理由……」
「じゃあ、こうしようか」
 土方は優雅に足を組み、にこやかな笑顔で総司を下から覗き込んだ。黒い瞳がきらりと光る。
「今後、女の子と腕組んだりしないから、総司もあの伊庭って男に逢いに行かない。それでどう?」
「そ、そんなのずるいっ」
 総司は思わず叫んでしまった。
 どう考えても、自分の方が不利な取引なのだ。
「ぼく、絶対にやだもの。伊庭さんっていい人だし、お友達になりたいなぁって思うし」
「……」
「だから、そんなの嫌です。お断りです」
 きっぱり云いきった総司に、土方はしばらくの間、黙っていた。
 だが、やがてベンチの背に腕を投げかけて凭れかかると、軽い口調で云ってのけた。
「じゃあ、俺、浮気しちゃおうかな」
「……え?」
 驚いて見やると、口調とは裏腹に、土方は鋭いまなざしで総司を見つめていた。心なしか、切れの長い眦がつりあがり、口許も固く引き結ばれている。
 どきりとした総司に、土方は淡々と言葉をつづけた。
「あの男に逢いに行くってことは、つまり、浮気するって事だ。総司がするなら、俺がしても非難される事ないだろ?」
「えっ、え……」
「契約不成立。ま、お互いさまってことで」
 土方はかるく肩をすくめた。
「幾らでも相手がいるし? これからは、俺も好きにさせてもらうよ」
 あっさりそう云いきった土方に、総司は大きく目を見開いた。その前で土方は立ち上がり、「じゃあな」と先程の伊庭のように片手をあげた。さっさと歩み去ってゆく。
「……」
 あまりに突然の展開に呆然としていた総司は、そこでようやく我に返った。


 浮気って、何?
 好きにさせてもらうって……え?
 土方さんがぼく以外の人を好きになるってこと?
 そんなの、そんな……


「……や、やだぁ────ッ!!」
 気がつくと、叫んでいた。
 売れっ子歌手の肺活量いっぱいの、もの凄い大声で。
 それに、公園中の人間がふり返っていたが、そんな事全然目に入らなかった。入ったのは、それでもふり返らない男の背中だけ。
「絶対絶対、やだ! そんなのいやっ!」
 そう叫ぶなり、総司は凄い勢いで走り出した。もう、土方は公園を出てしまっている。公園の裏側は人気のないビル街だ。
 路地裏を歩いてゆく男を追いかけ、総司は懸命に走った。泣きじゃくりながら、走った。
 そして。
「土方さん!」
 突き倒さんばかりの勢いで、土方の背中に飛びつく。男の躯に手を回し、ぎゅうぅっとしがみついた。
 必死になって叫んだ。
「いや、絶対にいや。浮気なんてしないでっ」
「……」
「お願い、そんなの。絶対にいやだから!」
「……」
 黙ってされるがままになっていた土方は、やがて、総司の手を掴んだ。そっと離させてから、ふり返り、その瞳を覗き込む。もう涙でうるうるになっている、きれいな瞳を。
「……浮気されるの、いや?」
 優しい声でそう聞かれ、総司はこくこくと頷いた。涙で潤んだ瞳で、土方を見つめる。
 それに、土方が言葉を重ねた。
「じゃあ、俺が総司の浮気、許せないってことも理解できるよね」
「う、うん……」
「なら、約束だ。伊庭って男と逢わないって……約束できる?」
「約束…する……っ」
 総司は半ば泣きじゃくりながら、土方のシャツを掴んでしがみついた。細い指さきが震え、それを認めた土方が目を細める。
「だから、ぼく以外の人、好きになっちゃ……いやだ」
「総司」
「絶対に……やだ」
 涙でぼやけた視界の中、土方が微笑んだ。そっと引き寄せられ、髪を撫でられる。
 耳もとで、甘やかな声が囁いた。
「……いい子だ」
「土方…さん……っ」
「浮気なんかしないよ。俺は、総司だけを愛してる」
「ぼくも…ぼくも、愛しています……っ」
 土方は両腕で、総司の躯を優しく抱きしめてくれた。額に頬に、唇に、キスを落とされる。
 仲直りの甘い甘いキス。


 だい好きだから。
 この人以外の誰かと一緒にいる自分なんて、もう想像もできないから。
 ずっとずっと、いつまでも。


 ようやく自分の居場所に戻ってきた気がして、総司は安堵の吐息をもらした。
 男の逞しい胸もとに頬を寄せると、目を閉じる。
 そんな総司を抱きしめながら、土方は満足げに口角をあげたのだった。








 結局の処。
 策士オオカミさんの罠に、見事嵌ってしまったのだと。
 天然うさぎ姫が気づくのは、いつ?
















 

[あとがき]
 約束しても、きっと、総司は伊庭さんのケーキ屋さんに行くんだろうなぁ。伊庭さんに逢うためじゃないから、いいよね〜♪とか何とか。土方さんとの攻防は、まだまだ続くのでございます。
 「いちごミルク」のお話、もっと読みたいなぁと思って下さった方は、ちょこっとメッセージや投票の方から、よろしくお願いしますね。更新の励みになります♪
 ラストまでお読み下さり、ありがとうございました。