晴れ渡った空だった。
 青い空にところどころ雲がうかび、その間を鳥が渡ってゆく。心地のよい光景だ。
 それを見上げた歳三は、僅かに目を細めた。
 江戸から戻って、日野にある姉の嫁ぎ先佐藤家に転がり込んだ。姉のお信は「また何かあったのかい?」と聞いてきたが、それに何も答えなかった。答えようがなかったのだ。
 まさか、試衛館で宗次郎を手込めにしたなどと、云えるはずがないだろう。
 お信は当然、沖田家のこともよく知っており、宗次郎のことも幼い頃から知っていた。その姉にそんな事を云えば、卒倒してしまうだろう。
「……何で、あんな事しちまったんだ」
 不意にあの夜の事を思い出した歳三は、低く呻いた。両手で頭を抱え込み、目を閉じる。
 だが、目を閉じれば、とたん、宗次郎の幼くも艶めかしい表情、しなやかな肢体が思い出され、躰の中が熱くなった。
 あんな事をしても尚、まだ欲しいと思っているのだ。飢えた獣のように、宗次郎だけを求めてしまう自分を、どうにかなったのではないかと思う。
「狂っちまってるよな……」
 江戸から戻ってひと月、歳三は、飢えに苦しんでいた。宗次郎への飢えだ。


 欲しくて欲しくて、たまらない。
 あの笑顔を見たくて、細い躰を抱きしめたくて、桜色の唇に口づけたくて。
 気が狂いそうだった。
 宗次郎を己の躰の下に組み敷き、もう一度貪りつくしたい。
 あの夜に味わった快感を得られるのなら、どんな事だってできる。


 愛しているという気持ちが、男の欲情とからみあい、歳三を責めたてた。
 だが、愛しているからこそ、もう二度と宗次郎と逢えぬのだとも、覚悟を決めていた。あんな事をした男を宗次郎が許すはずもない。顔をあわせられるはずもなかった。
 ずっと大事にしてきたのは、あんな事のためだったのか。無理やり行為を強いるなど、決してしたくなかったのに。手込めなど最低の行為だと、わかっていたはずなのに。
 宗次郎はどれほど、彼を憎んでいることだろう。どれほど怖くて恐ろしかったことだろう。
 逢いたいと思う一方で、彼を見た時、宗次郎の目にうかぶだろう、憎しみと恐怖の表情を思うと、躰中が竦む気がした。恐ろしいとさえ思った。
 何を恐れたこともなかった。怯懦な感情だけは持っていないはずだった。
 だが、宗次郎は別だった。宗次郎に冷たくされるだけで、息ができなくなるのだ。世界のすべてが壊れていくような、そんな空恐ろしい感覚に襲われるのだ。
 歳三にとって、宗次郎は宝物だった。大切な可愛い花だった。
 そして、今や、命そのものだったのだ。
 己のすべてを捨てても守りぬき、愛してゆきたいと誓った少年。宗次郎の幸せのためなら、どんな辛いこと、酷いことでも耐えられるはずだった。
 だが、だからこそ、なのだ。
 その宗次郎を傷つけた自分が許せないのだ。宗次郎に憎まれるようになった自分が、たまらないのだ。
「……」
 ふと気が付くと、母屋の方が賑やかだった。お信が支度をしているのだろう。
 昼頃、江戸から近藤が到着するはずだった。出稽古だと聞いている。
 挨拶しない訳にはいかなかった。黙って帰った歳三を、近藤は怒っているに違いないが。
 歳三はため息をつくと、立ち上がった。













「よく来たねぇ」
 お信はにこにこしながら、宗次郎に話しかけた。
 それに、宗次郎はぺこりと頭を下げた。
「宜しくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね。宗次郎さん、また腕をあげたんだって? 勇さんから聞いているよ」
「……」
 恥ずかしげに俯く宗次郎に笑いかけてから、近藤に視線を移したお信は小首をかしげた。先ほど茶を出したのだが、それにも手をつけず、近藤は誰かを探すかのように、周囲を見回している。
「勇さん?」
「あ、いえ」
 慌てて居住まいをただし、近藤は頭を下げた。
「この度はお世話になります」
「うちは部屋が沢山あるから、好きなだけ使って下さいな。道場の方も皆、若先生のおいでを待っていたんですよ」
「有り難いことです」
 朴訥とした近藤は、厳つい顔をほころばせた。そうして、ちょっと躊躇ってから問いかけた。
「あの、歳は……?」
「いますよ」
 あっさり答えたお信に、近藤は安堵の息を吐いた。逆に、傍にいる宗次郎はびくりと躰を震わせる。
「なんかねぇ、江戸から帰ってきてひと月、ごろごろしてばかりで困っているんですよ。ちょうどいい、若先生からも云ってやって下さいな」
「は? 何を……」
「縁談ですよ。そろそろ身を固めなさいって、云っているんですけど、全くその気がないみたいでね」
「……」
 沈黙してしまった近藤の傍で、宗次郎はますます俯いてしまった。黙って茶を飲んでいる。
 お信がふり返り、小女に歳三を呼んでくるよう云いつけた。しばらく待つこともなく、特徴のある足音が近づいてくる。
 やがて、歳三が黒っぽい着物を着流した姿で、気怠そうに現れた。
「わかったよ、近藤さんが来ているんだろ? そんな急かさなくても……」
 僅かに乱れた髪を片手でかきあげながら入ってきた歳三は、近藤の傍にある宗次郎の姿を見たとたん、ぴたりと口を閉じた。呆然と目を見開いている。
 それを、宗次郎はおずおずと見上げた。


(……歳三さん……)


 黒曜石のような瞳がこちらを見つめていた。
 束ねた黒髪も、しなやかな指さきも、濡れたような黒い瞳も、何もかもが綺麗だった。
 彼の場合は、ただ姿かたちが整っているだけではない。えもいわれぬ艶があるのだ。仕草や立ち振る舞いに、人を魔力のように惹きつける色香がただよう。
 それが歳三という男を誰よりも美しく見せ、女たちを狂ったように惹きつける理由だった。
 だが、今の宗次郎に、歳三の姿は刺激的すぎた。気怠げに着崩した格好ゆえに、妙にあの夜の情事を思い起こさせてしまったのだ。
「……っ」
 宗次郎は、ぱっと顔を赤くすると、近藤の背に隠れてしまった。
 云うなれば、初夜の翌朝、夫の顔を見るのを恥ずかしがる幼妻のような気持ちだったのだが、それが歳三の眉を顰めさせた。


(俺の顔を見るのが、そんなに嫌か)


 歯ぎしりしたい程の怒りを覚えつつ、歳三は唇を引き結んだ。
 そんな二人の気持ちを全く知らないお信が、歳三をふり返った。
「何、突っ立っているんだい?」
「……」
「中に入りなさいよ」
 促され、歳三はしぶしぶ中へ入った。お信の横に腰をおろせば、宗次郎の真正面になる。相変わらず、宗次郎は近藤の陰にかくれるようにして、俯いてしまっていた。
 それを横目で見やりながら、近藤が云った。
「先日のことだが、歳」
「……」
「何で、先に帰った? おれはおまえに留守を頼んでいったはずだが」
「え?」
 お信が驚いたように声をあげた。
「留守って、試衛館のですか?」
「えぇ。家族で湯治に行く事になりまして」
 近藤は静かに説明した。
「宗次郎一人では心もとなかったので、歳に留守を頼んでいったのです。しかし、帰ってみると、歳は数日前に帰ったとのことで」
「本当なのかい?」
 呆れたように、お信が歳三を見た。歳三は切れの長い目で、近藤の陰に隠れる宗次郎を見つめている。
「いったい何だって……おまえが珍しい。近藤さんの頼みを途中で投げ出すなんて」
「いや、それはいいのです。ですが、何かあったのか聞きたいのです。歳、あれきり連絡も寄越さんし、おれは心配していたのだ」
「歳、何とか云ったら、どうなんだい? 歳」
「……したんだよ」
 訊ねる二人の前で、突然、歳三が低い声で何かを口走った。
 それに、お信も近藤も首をかしげる。
 何を云ったのだと見やる二人に視線をうつし、歳三はやけっぱち気味に叫んだ。
「俺は、この宗次郎を手込めにしたんだよ! だから、試衛館を出たのさ」
「……」
 呆然と彼を見ている近藤とお信の前で、歳三は荒々しく立ち上がった。そのまま大股に部屋を横切ると、出ていってしまう。
 とたん、宗次郎が叫んだ。
「歳三さん! 待って」
 小動物が跳ねるような動きだった。呆気にとられる二人の前で宗次郎は歳三の名を呼ぶと、彼だけを求めて駆け出した。
 だが、それに歳三はふり向きもしなかった。
「お願い、待って……歳三さん!」
 二人の気配がどんどん遠ざかり、遠く何か云い争っている声が聞こえた。やがて、小さな啜り泣きと、それを宥める歳三の声が聞こえ始める。
 それらにじっと耳を澄ましていた近藤は、やれやれと肩をすくめた。
 まだ呆気にとられているお信の方へ向き直ると、小さく笑いかける。
「どうやら、歳に縁談はいらないみたいですよ」
「……」
 目をぱちくりさせてから、お信はようやく得心がいったようだった。ちょっとため息をつくと、苦笑をうかべる。
「そうみたい…ね」
 さて道場に向かいますかと立ち上がった近藤の肩のむこう、一筋の風が静かに過ぎていった。












「お願い、待って……歳三さん!」
 宗次郎は必死になって、歳三を追いかけた。
 むろん、歳三の方が体格も良いので、足も速い。だが、宗次郎は懸命に駆け、彼が部屋に入る寸前で追いついた。
 その腕に縋りつく。
「話を聞いて、歳三さん。お願い、話がしたいの」
「……俺は話なんてねぇよ」
 顔を背け、冷たく答える歳三に、胸の奥がちくりと痛んだ。だが、せっかく逢えたのだ。この機会を逃がしたくなかった。
「私はあるのです。どうしても、歳三さんと話がしたいの」
「俺を罵りたいのか」
 低い声で、歳三が呟いた。それに、え? と目を見開くと、彼がこちらに向き直った。
 あの時のような熱っぽい瞳が、宗次郎を見下ろした。
「えぇ? 俺を罵りたいのかよ。あぁ、俺はおまえを手込めにした最低の男さ。嫌がるおまえを無理やり犯っちまったんだからな。だが、そんな俺に何の話がある? 俺の顔など、おまえも見たくねぇだろう」
「そんなの……違う! 違うの、歳三さん」
 宗次郎は首をふった。
「私、手込めなんて思っていない。無理やりだなんて」
「だったら、おまえも望んでいたと云うのか。あんな行為を? 男に犯られることを望んでいたって云うのかよ」
 蔑みにみちた口調で云いきった歳三に、宗次郎は、さっと顔を青ざめさせた。
 むろん、望んでいた訳ではない。だが、歳三だから抱かれたのだ。歳三だからこそ、抱いてほしいと願ったのだ。
「私は……歳三さん、だから。歳三さんだったから……っ」
 小さな声で、懸命に訴えた。
「いいと思ったの。そうして欲しいと、思ったのです……」
「……」
 歳三は眉を顰めた。意味がわからなかったのだ。訝しげに、己の腕に縋りついている宗次郎を見下ろす。
「いいって、どういう意味だ。俺だからいいって」
「歳三さんが好きです」
 はっきりと、宗次郎は云った。大きな瞳を潤ませ、桜色の唇を震わせながら告白した。
「歳三さんがだい好きなの。歳三さんだから、口づけも、だ、抱かれることも……みんな、嬉しかったの。して欲しかったの」
「……え、おまえ……」 
 呆然とする歳三の前で、宗次郎はうなじまで真っ赤にして俯いた。それがたまらなく可愛らしい。
「好きです、歳三さんがだい好き……」
「宗次郎……!」
 思わず、歳三はその細い躰を抱きしめていた。背中が撓るほど抱きしめ、髪に頬をこすりつける。
 信じられないほどの歓喜だった。
 まさか、こんな事があるとは思ってもみなかったのだ。
 今、腕の中に従順に抱かれてくれている宗次郎の存在が、夢のようだ。
「!」
 歳三は気が付くと、慌てて宗次郎を部屋の中に入れた。障子を締め切ってから、もう一度、宗次郎の愛らしい顔を覗き込む。目があうと、恥ずかしそうに頬を染める宗次郎がたまらなく可愛かった。
「すげぇ……可愛い」
 思わず、また抱きしめてしまった。抱きしめ、二度と離したくないぐらいだ。
 己の腕の中にある、小さくて体温の高い存在が自分のものなのだと、何度云われても信じられなかった。
「宗次郎、あぁ……宗次郎、愛しているよ」
 歳三は宗次郎に頬ずりをし、首筋や耳朶に口づけながら、囁きかけた。愛しくて愛しくて、たまらない。
 それに、宗次郎がびくりと震えた。彼の逞しい胸もとに縋りつきながら、おずおずと訊ねてくる。
「本当……に?」
「あぁ、嘘をつくはずねぇだろう」
「本当に、歳三さん、私のこと……好き? 愛してる?」
「愛しているさ。誰よりも、おまえだけを愛してる。俺の命を捨ててもいいぐらいだ」
 きっぱりと云いきった歳三の言葉に、たちまち宗次郎の瞳が潤んだ。嬉しくて涙がこみあげたのだ。
 泣きながら、男の胸もとに抱きついた。
「駄目だと思われたんだって、思ってた……」
「駄目?」
「うん、だって……あの翌朝、歳三さん、いないから。痛がってばかりの私に、呆れたんだって……駄目なんだって……」
「……宗次郎」
 歳三の目に、悔恨の色がうかんだ。思わず、腕の中の小柄な躰をぎゅっと抱きすくめる。
「すまねぇ。そんなふうに思わせていたなんて。俺はおまえを傷つけてばかりだったんだな、本当にすまない」
「ううん、いいの……歳三さん、いいのです。歳三さんが私を好いてくれて、こうして傍にいてくれたら、それだけで」
 そっと笑ってみせる宗次郎がいじらしかった。たまらなく愛しかった。
 歳三は身をかがめると、そんな宗次郎の耳もとに唇を寄せた。
 そして。
「愛してるよ」
 と、もう一度囁きかけると、薔薇色にそまった頬にそっと優しく口づけたのだった。











 晴れわたった空だった。
 青空が広がり、とても心地よい。
 神社の石段に腰かけていた男は、ふと気が付いたように云った。
「今だから、聞くがな」
「え?」
「あの時、何で斉藤の後ろに隠れたんだ」
「……」
 意味がわからないという顔で、若者は男を見返した。
 京だった。
 江戸から試衛館の面々と共に京へのぼり、新選組を結成して一年近くの時が経とうとしている。
 当然ながら、歳三と宗次郎――もう総司と名乗っていたが、二人は今も恋人同士であり、こうして時折散策にも出ている。
「……何のこと?」
 不思議そうに、総司が訊ねた。
 それに、土方が手にした葉を弄びながら、答える。
「あの時だよ。俺が試衛館でお前と留守番していた時、斉藤が訪ねてきただろう」
「……そんな事もありましたね」
「ありましたね、じゃねぇよ。とにかく、あの時、おまえ、俺を見たとたん、斉藤の後ろに隠れただろう」
「あ、はい。隠れた覚えありますよ」
「何で隠れたんだよ。おまえ、あの時、もう俺が好きだったんだろ? だったら、隠れる必要ないじゃねぇか」
「……土方さん」
 総司は、相変わらずふっくらした桜色の唇を尖らせ、上目づかいに男を見た。
「昨夜のこと、まだ怒っているの?」
「……別に」
「あれは、斉藤さんとたまたま一緒になっただけって云ったでしょ。ちゃんとわかってくれたと思っていたのに」
「たまたまで、一緒に泊まりまでするのかよ。あいつはおまえに気があるんだぞ」
「そうかなぁ。でも、何もありませんでしたよ」
「当たり前だ!」
「だったら、心配する事ないじゃない。私が好きなのは、昔も今も、土方さんだけなんだから」
 可愛い笑顔で告げてくる総司に、土方はため息をついた。
 相変わらず、ふりまわされているなと思う。
 好きと云われるだけで、何でも許してしまいたくなるのは、昔からの習慣なのか。
 何となく疲れた気分でいると、総司が彼の傍に身を寄せてきた。ぎゅっと男の胸もとに抱きつく。
「大好き、歳三さん」
「総司」
「じゃなくて、今は宗次郎。あの時もだい好きだったから、隠れたんです。あなたと逢うのが恥ずかしくて、好きって気持ちが不安でたまらなかった。歳三さんが本当に大好きだったんです」
「なら、今はどうなんだ」
 土方は総司を抱きよせつつ訊ねた。
「今は、俺のことが好きなのか」
「あたり前でしょう。さっきも云ったじゃありませんか。だい好き……愛しています」
「総司……」
 その細い躰を抱きすくめ、土方は髪に顔をうずめた。そっと髪に、額に、口づける。
「俺も愛してるよ。ずっと昔から、おまえだけを愛してきた。嫉妬もしたし、独占したくもなった。一度は諦めようかと思ったが、俺は……おまえを思い切ることが出来なかった」
「土方さん……」
「愛してる。おまえだけを愛してるよ」
「私も…です。私も、あなただけを愛してる……」
 二人は見つめあい、そっと唇を重ねた。互いの躰を抱きしめ、深く口づけてゆく。
 いつまでも共にあることを、願いながら。
 愛することを、誓いながら。
 仲睦まじいつがいの鳥のように寄り添う二人を、柔らかな色合いの空が見下ろしていた。風がゆっくりと舞ってゆく。
 晴れわたった、優しい昼下がりのことだった。



















これにて「はじめての恋」は完結です。ラストまでおつきあい下さり、ありがとうございました♪

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