「総司、おまえは俺について来てくれるのか……?」


 躊躇いがちな声だった。
 普段の土方からは想像もできない、不安げな声音。
 だが、それを聞いた総司は、自分でも不思議なほど躊躇わなかった。
 ずっと前から、その答えは出ていたのだ。
 彼と出逢い、愛した瞬間から……。
 ソファから立ち上がった。駆け寄り、男の胸に飛び込んだ。
「……土方さん……!」
 ぎゅっと抱きつき、その胸もとに顔をうずめた。
「あなたを愛してる……愛しています。だから……っ」
「……」
「そんなこと、迷うはずがないの。ぼくは、どこまでも、あなたについてゆく」
「総司……」
 土方が微かに息を呑んだ気配がした。それを感じながら、総司は言葉をつづけた。
「たとえ煉獄でも……あなたがいてくれるなら、ぼくにとって、そこは楽園になるの」
「……」
「土方さん、あなたさえいてくれれば……」
 総司の言葉に、土方は目を伏せた。しばらく黙っていたが、やがて、静かな声で云った。
「俺にとっても、同じだ。おまえさえいれば、他には何も望まない。おまえの言葉どおり、煉獄さえも楽園になるだろう」
「土方さん……」
「総司……愛してる」
 そっと囁き、土方は身をかがめた。唇を重ね、その細い躯を抱きしめる。
 甘い蜂蜜のような口づけに、総司は目を閉じた。まるで翼のように両腕を広げ、優しく抱きしめてくれる彼が、誰よりも愛おしい。
 二人は互いを抱きしめあい、深く唇を重ねた。やがて、それは甘い濃密な時間へと繋がってゆく。
 そっと抱きあげた男の腕の中で、総司は夢見るように目を閉じた。












 夜のビルの屋上だった。
 不夜城都市は、闇に美しく輝いている。
 ここからでも、レッドの東京タワーはよく見えた。だが、向こうにいる天使たちから、こちらは見えないだろう。
「……ま、見えたら困るけどな」
 そう呟いた斉藤は、微かに肩をすくめた。その髪を風が吹き乱してゆく。
 今、斉藤は高層ビルの屋上にいた。むろん、常人には入り得ぬ場所だが、そこで待ち合わせをしている。
 斉藤は無言のまま、傍らの壁に凭れかかった。だが、すぐ、はっと息を呑み、上空を仰いだ。
 突然、ある気配がわき起ったのだ。ばさっと大きな音が鳴る。
 鳶色の瞳に、濡れた漆黒の翼が映った。
 まるで天使のごとく、だが、決してそうではありえない闇色の翼を纏った彼が、ゆっくりと舞い降りてくる。
「……」
 斉藤はそれを認めると、静かに黙礼した。
 わざわざ呼び出したのは、こちらの方なのだ。いくら右腕たる悪魔であっても、礼儀は必要であるはずだった。
 ビルの屋上に降り立った土方は、翼を広げたままふり返った。黒いシャツとジーンズ姿の彼に、その漆黒の翼はよく似合っている。
 禍々しくも美しい、魔王の翼───
「……お久しぶりです」
 そう云った斉藤に、土方は薄く嗤った。
 片手をあげ、わずらわしげに前髪をかきあげながら、斉藤を冷たく一瞥した。
「俺と離れていたのは、そっちの方だろう。人に隠れて、何をやっていた」
「天使との攻防を」
「そんな事はわかっている。で、成果は出たのか」
「……申し訳ありません」
 低い声で謝した斉藤に、土方は目を細めた。
 その答えが、すべてを表わしていた。それに、黛からも相談という形で報告を受けていたのだ。斉藤が単独で行動した挙げ句、多くの悪魔を失ったようだと。
 短く舌打ちした。
「無様に失敗した訳か」
「釈明はしません」
「だろうな。おまえはそういう男じゃねぇ」
 土方はゆっくりと歩を進め、屋上の端ぎりぎりに佇んだ。腕を組み、不夜城都市を傲然と見下ろす。
「どう始末をつけるつもりだ」
「まずは天使に奪われたあの国を、奪回します」
「出来るのか」
「やります」
「なら、やれ」
 低い声で命じ、土方はふり返った。切れの長い目が、まっすぐ射るように斉藤を見据えた。
「だが、二度目の失敗は許さん。その事はわかっているな」
「むろんです。オレも、そこまでプライドがない訳ではありません。万一しくじった場合は……どんな処罰でも受けます」
「煉獄の焔に、未来永劫灼かれても構わんと云うのか」
「構いません」
 きっぱりと答えた斉藤に、土方はふっと黙り込んだ。
 不意に身をひるがえして歩み寄ると、手をのばした。斉藤の肩を痛いほど掴み、問いかけた。
「なぜだ。おまえは煉獄が恐ろしくねぇのか」
「それは……恐れないと云えば、嘘になりますよ」
 斉藤は小さく笑った。
「だが、もしも失敗したなら、それはオレ自身の力量不足のためです。あなたの右側に立つ力がなかったという事。……仕方のない事だと思いますが」
「仕方ない、か」
 呟き、土方は僅かに目を細めた。
 しばらく黙った後、静かな声で云った。
「今夜……総司と逢っていた」
「だと思いました。あなたは総司と逢った後、いつも様子が少し違います」
「そうか。自分ではわからねぇが……だが、今夜、俺はあれに訊ねた」
「何をですか」
「もしも俺が煉獄に堕ちても、おまえはついてくるか? と」
「……」
 静かに、斉藤は鳶色の瞳で土方を見つめた。どこか探るような、鋭い視線だった。
「……それで?」
 短い沈黙の後、問いかけた。
「それで、総司は何と……?」
「即答されたよ。俺と一緒なら構わない。たとえ、そこが煉獄でも、俺が傍にいるのなら、自分にとって楽園になるのだと……」
「それは、また……」
 斉藤は僅かに瞠目した。


 まさか、そこまであの大天使が断言するとは思わなかったのだ。
 結局は、それ程までに、この魔王を愛してしまっているという事なのか。
 そして。
 魔王も、また───


「……俺は、それを聞いて思った」
 土方は独白するように、云った。
 視線を落とし、僅かに苦笑する。
「もしもこの身が魔王だとばれたなら、あれを無理やりでも連れさってやろう、堕落させてやろうと思っていた。なのに……」
「……」
「煉獄に堕ち、裏切りと贖罪ゆえの焔に灼かれるのは、もしかすると……俺自身の方かもしれねぇな」
「──」
 斉藤は大きく目を見開いた。
 以前にも感じた警鐘が、頭の中で激しく鳴るのを感じた。


 そもそも、魔王に愛などありえぬはずなのだ。
 なのに、魔王はその愛を得た。しかも、その相手は、決して許されえぬ宿敵──大天使なのだ。
 もしも、ただの悪魔であったなら、その禁忌ゆえに八つ裂きにされても抗弁できぬ裏切りだった。魔王であるが故に許されている行為と、云ってもよい。
 土方は今、総司を心から愛している。
 あの大天使のためなら、煉獄に堕ちても構わぬとまで思ってしまうほどに。


 斉藤はきつく拳を固めた。


 これが、もしも運命であるとしたら、いったいどこへ向かうのか。二人のいきつく先が、至上の楽園であるのか、もしくは煉獄なのか。
 どちらにせよ、固く繋がれた絆は、決して引き離せぬだろう。
 それが、どれほど昏い闇と裏切りにみちたものであったとしても、土方は総司を手離さない。
 最後の瞬間まで、その腕にかき抱いているに違いない。
 ただ、愛のために。


「……土方さん」
 思わず呼びかけた斉藤に、土方はゆっくりと顔をあげた。だが、すぐに顔をそむけると、固く唇を引き結んだ。
 しばらく黙ったまま視線を落としていたが、やがて、
「……戯れ言だ」
 低い声で云い捨て、背をむけた。
 土方はビルの屋上の端に佇み、遠く見える東京タワーを見つめた。切れの長い目がすうっと細められる。
 その背で、ばさっと音をたてて漆黒の翼が一度だけ羽ばたいた。思わず見惚れてしまうほど、妖しくも美しい光景だ。
「土方さん……」
 もう一度呼びかけた斉藤に、土方はふり返らぬまま、かるく床を蹴った。ビルの端から身を投げるかのように、ふわりと飛びたってゆく。漆黒の翼が、まるで夜そのものであるかのような美しさだった。
 夜空の中、次第に遠ざかる主を見あげ、斉藤は唇を噛みしめた。


 戯れ言だと告げられた以上、言及すべきではないのだろう。
 ほんの戯れ言だと、忘れた方がいいのか。
 だが、とても忘れられそうになかった。
 今、彼は己の真実を吐露したのだ。
 危うい均衡の中で保たれた、現状。
 ますます天使と悪魔の争いは激しくなる一方で、その首たる大天使と魔王が深く愛しあっているのだ。悪魔たちの中にも異議を唱える者がいるが、斉藤にすればそれは当然のことだった。
 誰もが感じている、破滅と裏切りの匂い───


『……煉獄に堕ち、裏切りと贖罪ゆえの焔に灼かれるのは、もしかすると……俺自身の方かもしれねぇな……』


 先程の土方の言葉を思い出し、斉藤は吐き捨てた。
「冗談じゃない」
 そんな事になれば、どれ程の混乱が待受けている事か。いったい、誰が次の魔王になるか、その座をめぐって争いが起きる事は必定だった。
 そもそも百年前、伊東に傷つけられた身を癒すため、土方が眠りについた時にも、不穏な動きはあったのだ。むろん、圧倒的な力を誇る魔王が復活した瞬間、そんなものは一掃されてしまったが。
「……だが、それにしても困ったな」
 斉藤は両腕を組み、思わず嘆息した。


 彼にしても、わかっているのだ。
 あの二人を訣別させる事など、到底無理だった。
 土方は総司を深く愛し、総司も彼を愛している。
 世界中で、あの二人は、互いだけを必要とし、強く激しく求めあっているのだ。
 まるで、遠い昔から定められた運命のように。


「運命、か……」
 斉藤は呟き、もう一度、天を仰いだ。
 夜空に、もう主はない。だが、その気配は色濃く残っていた。
 彼の存在──それ自体が、闇であり、夜であるのだから。
 否、だからこそ、総司は土方を愛したのだろう。
 土方もまた、美しい暁のような存在だからこそ、総司を愛した。
 闇が光をもとめ、光が闇をもとめて。
 そう、これは運命なのだ。
 決して、誰も絶つことのできぬ定め。


 闇は光がなければ存在しない。
 だが、その逆もまた然りであるのだから……。












「……ん……」
 不意に、ひやりとしたものを感じ、総司はうすく目を開いた。
 が、すぐに、ベッドに滑り込んできたのが彼だと知ると、夢心地に微笑んだ。
「土方…さん……?」
「すまない、起こしたか」
「ん……大丈夫……」
 ゆるく首をふってから、総司は抱き寄せてくれる土方の胸もとに身を擦りよせた。
 ひんやりした感触が、頬にふれる。
「どこ…に、行っていたの? とても冷たい……」
「少し夜景を見ていた」
「夜景を……? 綺麗だった……?」
「あぁ、とても綺麗だったよ」
「そう……よかった」
 総司はそっと微笑み、より深く彼の胸もとに身を寄せた。ゆるくまわされた男の逞しい両腕、頬を寄せれば確かに聞こえる鼓動が、とても心地よい。
 それを感じながら、総司は再び眠りに落ちていった。土方が見守るうちに、やすらかな寝息をたて始める。
 その愛らしい天使の寝顔を、見つめた。なめらかな頬に長い睫毛が翳りをおとし、微かに開かれた桜色の唇が、本当に宗教画に描かれる天使そのものだ。
 その心の清らかさ、素直さがあらわれるような、愛らしい寝顔だった。
 土方は総司の髪を撫でた。眠りを妨げぬよう気をつけながら優しく撫で、キスをおとす。
「……愛してる」
 そっと──囁いた。


 遠い昔、総司の亡骸を腕にしたあの日、すべてを捨てたつもりだった。
 感情も何もかも失ったと思っていたのだ。まだ、己の中に、こんな感情が残っていたなど思いもしなかった。
 だが、それでも、今……ここにある愛は、真実だ。
 独占欲や征服欲だけではない。
 確かに、この大天使を愛している。
 深く、激しく。
 ともに煉獄へ堕ちてもかまわぬと、思ってしまう程に───


 不意に、土方は目を細めた。
 何を思い出したのか、その黒い瞳が別の感情を帯びる。
 やがて、形のよい唇の端がゆっくりとつりあがり、愉悦と邪悪にみちた嗤いがうかべられた。
「……斉藤も気を回しすぎだな」


 俺の言葉に随分、動揺したようだった。
 確かに、斉藤は右腕だ。長いつきあいでもある。だが、あいつは俺を、深い底まで理解はしていないのだ。当然のことだが。
 煉獄へなど、誰が一人で堕ちるものか。
 この魔王たる俺が、そんな事をすると本気で思っているのか。


 土方は総司の柔らかな髪に顔をうずめたまま、低く嗤った。


 そう……。
 いつか、俺が煉獄に堕ちる時──それは、この世の終わりだ。
 我と我が身を滅ぼし、今ここにある世界すべてを完膚なきまでに破滅させてやる。
 あぁ、総司。
 崩壊する世界に、どんなにか、おまえは嘆き悲しむだろう。
 この俺が魔王である事を知れば尚、世界を破滅へと導いた俺を罵り、心から憎むに違いない。
 あの澄んだ瞳が、俺への愛と憎しみだけで占められる。
 それを思うと、ぞくぞくする程の快楽を覚える。総司、おまえを抱くのと同じぐらい、最高の快楽を……。





 髪を指で梳いてやり、その白い額にキスをあたえた。
 ぐっすりと眠った総司は、長い睫毛も震わせない。ただ、甘い吐息をもらしただけだった。
 麗しくも愛らしい大天使。
 明けそめる暁のように、美しく清らかな。
「……総司、愛してる」
 耳朶を噛むように、そっと囁きかけた。総司が微かに、また吐息をもらす。甘えるように男の背にゆるく手をまわした。
 それに微笑み、頬にキスをおとした。守るように、両腕で優しく少年の細い躯を抱きすくめる。
 愛しいぬくもりを、肌を、匂いを──すべてを感じた。
 遠い時を越え、慟哭と絶望の果て、再びこの腕に取り戻す事ができた恋人のすべてを。
 それらを切ないほど感じながら、土方は静かに囁いたのだった。
「愛してる……おまえだけを」





 闇を光を、時を超えて。
 永遠に、愛しつづける。



 ……世界の終わりまでも。