もうすぐ夜明けだった。
 土方は人を呼ぶことで何とかあの部屋から抜け出たが、その時にはもう、屋敷のどころを探しても総司の姿はなかった。里へと出てしまったのか。
「斉藤!」
 大声で呼んだ土方に、斉藤が駆け寄ってきた。さすがに彼も事情を知って顔色を変えている。
 その胸倉を掴み、荒々しく命じた。
「おまえは山の方を探せ! 俺は里の中を探す」
「ですが、土方さん、おれは……」
「全部わかってる、だが、話は後だ! 総司を捜しに行け!」
「……」
 一瞬、斉藤はその鳶色の瞳で土方をまっすぐ見つめた。それを土方も鋭い瞳で見返す。
 やがて、斉藤の体から力が抜けた。
 ふっと息を吐くと、土方の手を払いのけ、そのまま背を向けた。足早に框から玄関へ降り、薄闇の中へと駆けだしてゆく。
 それを見送り、土方はコートの中に忍ばせた刀を握りしめた。きつく唇を噛みしめると、少しずつ明るくなってくる空を見上げた。
(……総司……!)
 彼もまた屋敷を出ると、斉藤とは全く逆の方向へ走り出していった。
 もしかしたら──という予感があったのだ。
 だが、そこへ斉藤を向かわせる訳にはいかなかった。
 自分でなければならなかったのだ。
 三百年前からの深い絆で繋がれた、己自身でなければ───








 総司は泣きながら、歩いていた。
 夜の中を。
 夜明けの中を。
 拭っても、あとからあとから涙があふれ、頬をつたい落ちた。それに、きつく唇を噛みしめた。
(……歳三さん……)
 もう終わりなのだ。
 どんなに愛しても、どんなに一緒にいたいと願っても。
 それでも、彼を道連れにする事だけは出来なかった。
 こんなにも罪深い自分を。
 ずっとずっと、愛してくれたこと。
 それだけを胸に抱き、心から幸せに思いながら逝くべきだから。
 総司は一瞬、固く目を閉じた。
 脳裏を、二人一緒に過ごした日々がかけめぐった。

 三百年前、彼の妻になることをただ願っていた、懐かしい日々。
 生まれ変わった彼と再会し、恋人と──妻として、愛してくれたこの年月。
 二人で料理をつくったこと。
 一緒に出かけた海や、紅葉、桜の並木道。
 その美しさに声をあげた私に、あの人は優しく微笑んでくれた。
 愛して。
 愛されて。
 何よりも、誰よりも。
 まるで、夢のように幸せだった日々……。

「……っ…ぅっ……く……っ」
 堪えても、嗚咽がもれた。
 奥歯を食いしばっても、それでも涙はこぼれてしまう。
 総司は子供のように泣きじゃくりながら、神社の階段をのぼった。
 早くしなければ、彼が追いついてきてしまう。
 あの人の目に、最後の瞬間をふれさせたくなかった。
 そんな事をすれば、土方さんはきっと狂ってしまう。
 だって、あの人は……あんなにも私を愛してくれているのだから。
 深く激しく。
 切ないほど───
 あんなにも愛してくれた人は、いなかった。
 あんなにも愛した人は、いなかった。
「……歳三…さん……」
 もうすぐ夜明けだった。
 山の端が少しずつ少しずつ、明るくなってゆく。空が乳白色と橙色に染まりはじめていた。
 それを見上げ、総司は息を吐いた。
 だが、その息は白くならない。雪の精霊である総司の吐息は冷たく凍えているのだ。それが人でない事を突きつけるようで、今更ながら総司は辛く悲しかった。
 どうして、こんな風にしかあれなかったのだろう──?
 幸せになれるはずだったのに。
 三百年前のあの時。
 どこで何を間違ってしまったのか。
 愛する男を死へ追いやってまで得た命とは、いったい何だったのか……。
「……でも……」
 総司はそっと目を伏せた。
「それでも、私はあの人に再びめぐり逢えた」
 両手を組み合わせ、胸もとできつく握りしめた。唇をその指に押しあて、一瞬だけ目を閉じる。
「愛して……愛された。それだけで、もういいから……幸せだったから……」
 今だから思うのだ。
 たとえ、もう一度やり直せたとしても、やはり同じ道を選んだのではないだろうかと。
 あの人だけを求め、あの人を愛して、たとえ、あの人を傷つけ命をも奪う事になってもそれでも尚、愛さずにはいられなかっただろうと……。
 そう。
 人は、こんなにも強欲で、傲慢なのだ。
 愛する人の幸せを祈るどころか、その命まで奪おうとするなんて。
「……愛してる」
 小さな掠れた囁きが、その唇からもれた。
 何度も。
 何度も。
「……愛してる、愛してる、愛してる……」
 そう、くり返して。
 総司はあふれる涙をぬぐわぬまま、階段をのぼった。
 すべてが。
 静かに終焉を迎えようとしていた。
 生命の終わりとともに。
 それを深く噛みしめながら、総司は、ゆっくりと最後の一段をのぼり終えた。








 目の前に、長い石の階段が開けていた。
 高く黒い樹木の間を縫うようにして、社への石段は続いている。
 きっと唇を固く引き結ぶと、土方はその階段を駆け上り始めた。
 何度も昇った石段だった。三百年前も、総司をこの腕に抱いて昇り、そして永遠の愛を誓った。その時の気持ちは今も尚、まったく変らなかった。
 三百年前から、ただ一人。
 初めて逢った瞬間から恋した少女だった。
 大切で可愛くて、無邪気に笑いかけてくれる幼い少女を、心から求め、愛した。
 見たとたん欲しくてたまらなくなって、半ば強引に己の許婚にした。総司もそれを受け入れ、喜んでくれた。
 心から、愛しいと思っていたのだ。
 総司のためなら、何でもできる。総司を守るためなら、己の命だってくれてやる。
 そう思っていたゆえに、三百年前、己の身へ刃を突き立てた。
 だからこそ、今──── 
「……っ……」
 さすがに荒く肩で息をしながら、最後の段を昇りきった。
 とたん、社の前に佇む白い姿が目に入った。
 思わず叫んだ。
「……総…司……!」
 それに、細い肩が僅かに震えた。ゆっくりとふり返り、その潤んだ瞳に土方をみとめると、一瞬だけ目を見開いた。
「……歳三さん……」
 土方は足早に境内を横切りながら、コートの隠しから刀を取り出した。目を瞠る総司の前で荒々しく鞘を払い、それを乱暴に投げ捨てる。
 カランッという音が薄闇の境内に鋭く響いた。
「……」
 歩み寄ると、手をのばし総司の腕を掴んだ。
 抗うのを無理やり引き寄せ、その白い手に刀の柄をしっかりと握らせた。己の手を重ね、決して離させない。
 そして。
 愛しいものの瞳を見つめ、鋭く命じた。
「……俺を殺せ」
 総司の目が大きく見開かれた。
 それから瞳をそらさぬまま、低い声ではっきりと云いきった。
「この刀で俺を殺すんだ。そうすれば、おまえは助かる。輪廻にも戻れる。もともとおまえを生かすために、くれてやった俺の命だ。それが一度でも二度でも同じことだろう。俺はおまえのためなら、この命も人生も全部くれてやる……!」
「歳三…さん……」
 背中に手をまわされ、きつく息もとまるほど抱きしめられた。
 その腕の中、総司は静かに目を伏せた。
 彼の昂ぶった気持ちを宥めるように、そっとその広い背を掌で撫でた。
「あのね……歳三さん」
「何だ」
「ここで……私、思い出したんです」
 総司は柔らかな澄んだ声で、ゆっくりと話した。
「三百年前、あなたを失った時、あなたが刃を己に突きたて死んでいるのを見た瞬間、私が何を思ったか。何をどう感じたか。あの時の絶望と苦しみと悲しみと……そして、この胸が張り裂けんばかりの激しい慟哭を思い出したんです」
「……」
「もう二度と、あんな絶望は味わいたくないって思ったのに。あなたを失って、この私が幸せになれるはずもないのに。私があなたを手にかけるなんて……そんなこと出来るはずもなかったのに……」
「なら、俺の気持ちもわかるだろう!?」
 土方は身を起こすと、乱暴に総司の肩を掴んだ。
 その瞳を深く覗き込み、叫んだ。
「おまえを失って、俺が生きてゆけるはずがねぇ。どれだけ、俺がおまえを愛してると……!」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい」
 総司はゆるく首をふった。
 涙に濡れた瞳で、土方を見上げた。
「この二年間……とても幸せだった。あなたの妻として、たくさんの幸せを貰いました。お料理したり、あなたのために色々と頑張ったり……歳三さん、あなたに愛されて、とてもとても……幸せだった……」
 総司は手をのばすと、土方の頬をそっと掌で包みこんだ。
「愛してくれて……ありがとう」
「総司……っ」
 思わず、土方は総司の細い躯にきつく両腕をまわした。抱きすくめ、そのぬくもりを感触を少しでも深く感じ取ろうとする。

 もう夜明けは間近だった。
 山の端は白くなり、乳白色の光がゆっくりと辺りに満ち始める。鳥の囀りが響き、樹木が葉が花が目覚める気配がした。
 夜明けだった。
 三百年目の──定められた夜明けなのだ。

「……総司、いやだ!」
 それらを感じ取り、土方は激しく喘いだ。
 柔らかな髪に頬に、頬をすりよせた。
「おまえを失うなんていやだ。そんなこと耐えられるものか……っ」
「土方さん……」
「総司……俺を殺せ! まだ間に合うんだ、この刃で俺の心臓を一突きしろ……!」
 そう叫びざま、土方は総司の手を強く引き寄せた。
 二人の手には刀が握られている。
 必死に抗おうとする総司の手を掴み、土方はその刃の切っ先を己の胸に押しあてさせた。
「だめ…できない! あなたを殺すなんてできない……っ!」
「頼むから、俺を殺してくれ! おまえを失うくらいなら、俺は死んだ方がましなんだ!」
「私だって、あなたを失うくらいなら、自分が消えた方がいいんです! 愛するあなたを犠牲になんて……っ」
 息が、二人の唇から激しくもれた。
 ぽろぽろ涙を零しながら、懸命に総司は手を引いた。だが、もう刃の切っ先は彼のコートを裂いている。
 男の肉の感触を感じ、総司は恐怖に喘いだ。
 涙に濡れた目を見開き、総司は男を見上げた。土方はそれを驚くほど静かな瞳で見つめ返してくる。
 だが、男の願いを受け入れる訳にはいかなかった。そんなこと出来るはずがないのだ。
「最後まで……ごめんね」
 小さな声が、囁きが、薄闇の中に響いた。
「身勝手ばかりで……あなたのいうこと、聞いてあげられなくて……」
「総司……!?」
「土方さん……あなたをずっと愛してる……」
「! 総司……総司……ッ!」
 ゆっくりと。
 腕の中の存在が脆く儚くなってゆく気配がした。
 必死になって土方はその華奢な愛しい恋人の躯を抱きしめたが、少しずつ感じとれなくなってゆく。
 その男の腕の中、総司は微笑んだ。
 まるで、花のように。
 そして。


   「……愛し…て…る……」


 小さな囁きが彼の耳もとを掠めた瞬間、眩しいほどの白い光がその場を包み込んだ。
 樹木が風に揺れ、空が暁に燃えた。
「……総司……?」
 土方は呆然と、己の腕の中を見下ろした。
 だが、もうそこに恋人の姿はなかった。 
 ただ一つだけ。
 彼の手のひらに残された、小さな雪のかけら。
 やがて。
 それさえも、柔らかくとけ消えて────



    「……総…司───ッ!」



 一人残された男の絶叫と慟哭が、雪深い山奥に響いた……。










 愛される──という事は、幸せなのか。
 それは今でもわからない。わかりたくもない。
 ただ、今ここに一人、残された現実は確かな真実なのだ。
 誰よりも愛した。
 心から愛し求めたあの恋人は、永遠に失われてしまった。
 この冷たく広い世界に、俺をただ一人残して。
 もう生まれ変ってさえ逢えない。
 そう──神が定めたのだから。

 なんて残酷な運命なのか。
 それ程の、罪だったというのか!
 三百年前のあの日、愛しい者の命とひきかえにこの身に刃を突き立てた。
 その願いが、いつか総司自身に仇なす事になるなど、想像もつかずに……。

 ただ、愛しかっただけなのに。
 誰よりも何よりも、己の命よりも愛しくて愛しくて。
 この身すべてを捧げても構わぬほど、心から深く愛した。
 だが、その彼の愛が総司から輪廻さえ奪ってしまったのだ。
 三百年間も孤独を味あわせ、雪の精霊としての苦悶をあたえ、挙げ句、粉雪のように儚く逝かせてしまった。

 ならば、やはり、愛されるという事は、幸せではなかったのか。
 あんなにも愛さなければよかったのか。
 だが、もしそうであったとしても、そうわかっていたとしても、結局、俺は総司を愛しただろう。
 愛さずにはいられなかったに違いない。
 己のすべてで。

 もしも今ひとたび、この腕に総司を抱けたなら。
 愛は花になり──刃にもなるのだと。
 そう思い知らされていながら、それでも、俺は総司を心から愛しただろう。
 人は……そう。


 愛なしでは、決して生きてゆけぬのだから───……








 もう随分と長い間、土方はそこに佇んでいた。
 あの雪の神社の前だ。
 総司が逝ってしまった場所だけを見つめ、じっと佇んでいる。
「……ご当主」
 背後から、静かな声がかけられた。
 心配した山崎が迎えにやって来たのだろう。最近、土方が一人外出すると、すぐ探しにやって来る。
 その気遣いが、今の土方にはあたたかく感じられた。
 だが、それでもふり返らぬまま、答えた。
「大丈夫だ……俺は死んだりしねぇよ」
 ふと視線をおとし、ほろ苦い笑みをうかべた。
「……もっとも、総司があの世にいると云うのなら、喜んで後追い心中してやるけどな」
「ご当主」
「あいつはもう何処にもいないんだ。永遠に、俺の手から失われちまったのさ」
 そう低く呟くと、土方は僅かにふり返った。深く澄んだ黒い瞳を山崎にむける。
「あと少しだけ一人にしてくれねぇか」
「ですが……」
「下の車で待っていて欲しいんだ。頼む」
「……畏まりました」
 仕方なく、山崎は頷いた。だが、それでも、不安げな目を当主の背に向けながら、歩み去った。ゆっくりと階段を下りてゆく。
 それを背で感じながら、土方は固く瞼を閉ざした。



 あれから、三月の時が流れていた。
 花雪の里には再び春が訪れていたが、何も変らなかった。
 相変わらず冬も粉雪しか降らず、春にはどこからともなく桜の花びらが降り舞った。
 ただ一つ違っていたこと。
 それは、桜の花びらの色だった。
 あの粉雪を思わせる、純白ではなかった。本当の桜色だったのだ。
 それが何を意味しているのか、土方自身にもわからない。
 だが、美しい光景である事に変わりはなかった。
 まるで──夢幻のような光景だった。



 あの数日後、斉藤とも話をした。
 斉藤は静かな声で、だが、怯むことなく告げたのだ。
「……おれは総司を愛してました」
「……」
「正直な話、いつかあなたから奪えたらとさえ、思っていました。三百年前も今も。だけど……駄目だった」
 斉藤は苦笑し、淡い水色の空へと視線をあげた。
「総司のあなたへの愛は、そんなおれの思惑など簡単に退けてしまった。到底叶わなかった」
「……」
「己のすべてで……総司はあなたを愛していたのです。三百年前からずっと、あなただけを見つめ、愛して、そうして生きてきた……」
「……斉藤」
 低い声で、土方は従弟であり友人であり、そして恋仇でもある男の名を呼んだ。
「愛されることが幸せだと……おまえはそう思うか」
「土方さん……」
「総司は俺を愛してくれた。だが、だからこそ、俺は一人残されてしまったんだ。総司は俺を殺せず、一人儚く逝ってしまった……どんなに泣いても叫んでも、あいつは最後の瞬間まで、俺を愛することをやめようとしなかった」
「……」
「愛されることは……本当に幸せなのだろうか……」
「……おれにはわかりません」
 斉藤は静かに首をふり、目を伏せた。
「愛されることが幸せなのか、不幸なのか。それは、おれにも……あなたにもわからない事です。でも、これだけは云えます」
「……」
「総司は、あなたに愛されて幸せだったと。この二年間、あなたに深く愛され、総司はとても幸せだった。あの幸せそうな笑顔だけは、今も忘れられません……」
 斉藤の言葉に、土方は一瞬、目を見開いた。
 その黒い瞳でただじっと見つめ返している。やがて、微かな笑みがうかべられた。
「……そうだな」
 掠れた声だった。
「少なくとも、あいつは愛されることで……幸せだった。俺の腕の中、いつも幸せそうに笑ってくれていた……」
「土方さん……」
「ありがとう、斉藤。大切なことを……大切な記憶を、俺に思い出させてくれて」
 そう云って、土方は目を伏せたのだ。
 それ以来、二人の間で総司の名が口にのぼる事はなかった。周囲も皆、総司の事は決して口に出さない。
 まるで、何事もなかったようだった。
 こうして、少しずつ時は記憶を痛みを風化させてゆくのだ。
 彼──ただ一人を残して。



 土方はきつく両手を握りしめた。
 ともすれば、あふれそうになる涙をこらえた。
 忘れることなど、できなかった。この痛みが消えるぐらいなら、いっそ死んだ方がいいとさえ思っていた。
 総司を救えなかった、助ける事ができなかった己を悔いながら、ずっといつまでも自分は生きてゆくのだから……。
 だが、それでも。
 罪深い自分にも、思うことは許されるのだろうか──?
 こんな男に愛されて、幸せだったと。
 せめて。
 総司が、俺に愛されて幸せだったと──そう、思ってくれていたのなら。
 それだけでいい。
 それだけで、俺は幸せだ。

「……総司……」

 愛しい名を、そっと呼んだ。
 そして。
 土方は、静かに目を閉じたのだった……。

















 ────小さな村の旅館だった。
 清々しい朝、鳥の囀りが山々に響き渡っていた。近くを流れる清流に、桜の花びらが舞い落ち、まるで絵のように美しい。
 そんな朝の光景の中、一人の客が、旅館の女将に挨拶をしていた。
「とてもよくして貰って……ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。又のおいでをお待ちしております」
 愛想よく笑いかけた女将に、男も秀麗な顔に微笑みをうかべた。
 穏やかな雰囲気をもつ男だ。整った顔だちだが冷ややかではなく、むしろ、鳶色の瞳が優しげな印象をあたえた。
 彼は有名なプロのカメラマンだった。独特の艶をもつ美しい風景写真を撮ることで、定評がある。
「じゃあ、また」
 頷き、出ていこうとした客に、女将は思わず声をかけた。
「あの……伊東先生」
「え?」
 ふり返った男に、女将は云った。
「やっぱり、あの娘さん連れて行かれるのですか? 警察に届けられた方が……」
「……」
 伊東は黙ったまま、微かに目を伏せた。
 女将が云ってるのは、先日、この旅館近くの桜の樹木の下で、伊東が見つけた少女の事だった。
 桜色の着物を身に纏った少女はどこか浮世離れした感があり、そして、また誰もが息を呑むほど美しく儚げだった。
 だが、その少女は己の名以外何一つ覚えていなかったのだ。まったくの記憶喪失だった……。



「警察に届けてどうなるのです」
 柔らかな口調で、伊東は答えた。
「この近隣に問い合わせはしてみたが、誰も行方不明になった者はいないし、心あたりもない。となれば、届け出る意味がないでしょう。医者にはちゃんと診せているのですし」
「でも、あの子を連れての旅など……伊東先生のご負担になるのではございませんか」
「そうでもありませんよ」   
 伊東は微かに笑った。
「いい加減、私も一人旅に飽きてきた処です。やはり、一人旅は淋しいものですからね」
 そう云ってから、伊東は踵を返した。荷物を肩に担ぎ、旅館を歩み出てゆく。
 旅館を出ると、まっすぐ近くの桜樹木へとむかった。その下で少女は倒れていたのだが、今、そこに彼女は佇んでいた。
 じっと空を見上げ、ひらひらと舞い散る桜の花びらを見つめている。
 近づいてくる足音に気づくと、少女はすぐふり返った。伊東の姿をみとめると、安堵したように微笑んだ。
「……伊東先生」
「待たせてしまいましたね」
 伊東は少女の傍に歩み寄ると、静かな声で訊ねた。
「何を見ていたのですか……?」
「桜の花びらです」
 少女は甘く澄んだ声で答えた。
「ひらひら舞い散るさまが青空に映えて、とても綺麗で……」
「桜が好きですか」
「わかりません。でも、こうして見ていると、何だか懐かしい気持ちになるのです。とても、優しくあたたかな……」
「それは、きみの中にある記憶ゆえかもしれませんね」
 伊東はそう云うと、そっと少女の細い肩を抱いた。寄りそい、二人一緒に大きな桜樹木を見上げた。
「きみが桜が好きなら……ちょうどいいかもしれない。次に訪れる里は、とても美しい場所だそうですよ」
「え……?」
「花雪の里というのです」
 そう云った伊東に、少女は微かに目を瞬かせた。
「……花雪の、里……?」
「えぇ。そこは、不思議な事に、春になると何処からともなく桜の花びらが降り舞ってくるそうです。まるで、粉雪のごとくね」
「綺麗……」
「そうですね。とても綺麗だと思いますよ。きっと、きみも気にいる事でしょう」
 伊東は優しい声で云うと、少女の髪を撫でてやった。
 それから、傍らに置いていた荷物を担ぎあげ、静かに促した。
「そろそろ行きますか」
「はい」
 こくりと頷いた少女は、もう一度だけと桜樹木を見上げた。
 ひらひら降り舞う花びらを。
 何故か、懐かしい想いを感じさせる光景を。
「……」
 そっと、桜色の唇が囁いた。
 それは誰かの名であったように思えたが、少女自身にもわからぬ事だった。

「……総司」

 呼びかけられ、少女はふり返った。数歩行った処で待ってくれている伊東に気づくと、微かに頷いた。
 かつての雪の精霊は、今、少女となって。
 神の慈悲なのか、試練なのか。
 それは、誰にもわからぬ事だったが。
「今……行きます」
 澄んだ声で答え、そっと微笑んだ。
 こぼれる花のように。


 ──そして。
 歩き出していったのだった。
 己の行く手に。
 何が。
 誰が。
 待つとも知らず。







             桜の花びらが

             美しく降り舞う

             花雪の里へ───……
























[あとがき]
 「花雪綺譚」完結です。このお話のラスト、四パターンも考え、どれにしようか迷った挙げ句、上記のような結果になりました。伊東先生を登場させたのは、私の趣味なので、見逃してやって下さいませ(笑)。
 この後、土方さんは記憶を失った総司を再会するのですが、その傍には伊東先生がいる訳です。三百年ごしの恋が今度こそ成就するかどうかは、皆様のご想像におまかせしたいと思います。
 ラストまでお読み下さり、本当にありがとうございました。 


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