総司は息を呑んだ。
 涙に濡れた瞳を見開き、唇を震わせる。
 ふり返るのが怖かった。そこにいるのが誰なのか、確かめる勇気がなかったのだ。
 そんな総司の耳もとで、低い声が囁いた。
「……泣くな」
 男の感情をあらわすような、掠れた声音だった。
 胸の前で腕が交差され、より深く抱きすくめられた。耳もとに吐息がふれる。
「そんなに泣くな。たまらなくなっちまう」
「……土方…さ……っ」
 言葉が途切れた。
 安堵のあまりか、嗚咽がこみあげたのだ。子どものように、しゃくりあげ、泣いてしまう。
 それに、土方はより困惑したようだった。総司の躰の向きをかえさせると、膝上に抱きあげた。己の胸もとに小さな頭を押しつけ、すっぽりと柔らかく抱きすくめてくれる。
 背中を男の大きな手のひらが何度も撫でた。
「総司……大丈夫だ、俺はここにいる」
「土方さ…ん……っ」
 両手を彼の背にまわし、ぎゅっとしがみついた。ぴったりと躰を密着させることで、不安を拭おうとしているその姿に、土方は目を伏せた。
「すまない、おまえをまた不安な気持ちにさせちまったな。本当にすまん」
 そっと囁いてから、火照った頬に口づけた。少しずつ総司が落ち着いてくると、唇にも、何度も接吻を落としてくれた。
 優しく宥めてくれる土方に、総司もようやく泣きやんだ。それを確かめ、土方はそっと総司の躰を畳の上に降ろした。そうして立ち上がろうとする。
「――」
 とたん、後ろから縋りつかれ、驚き、ふり返った。見れば、総司が両手で彼の腰あたりに縋りついている。
「行かない…で」
「……総司」
「どこにも……行ってはいや」
 幼い子供のように懇願する総司に、土方は胸を突かれた。
 自分が初めての契りの時の行為のせいなのだ。あの時、置き去りにしたことは悔やんでも悔やみきれなかった。
 微かにため息をつくと、静かな声で云った。
「そこに置いてある膳を入れるだけだ。さっき、夕飯が運ばれてきたんだが、おまえが眠っているからと部屋に入らせなかったからな」
「夕餉……?」
「あぁ。酒を貰おうと行ったら、夕飯の膳の用意が出来たと云われたんだ。で、ここまで仲居が運んできた訳さ」
 そう云うと、土方は一瞬だけ総司の躰を抱きしめてから、部屋を出た。それでも不安そうに見つめる総司のもとへ、すぐ戻ってきてくれる。
 手にした膳を並べると、蓋を開いた。盛られた料理が美しく、とてもおいしそうだ。
 土方は総司を坐らせながら、笑いかけた。
「ここの料理、なかなかいけるんだぜ?」
「馴染みのお店なのですか?」
「あぁ。いつか、おまえを連れてきたいと思っていたんだ」
 優しい笑顔で云われ、総司は頬を赤らめた。ぽっと胸の奥に明かりが灯されたように、あたたかくなる。
 しばらくの間、二人は静かに食事をとった。素朴で優しい感じの煮物や焼き物がおいしく味付けもさっぱりして、総司の好みだった。素直に、おいしいと思う。
 食事が終わると、土方は総司に、今夜は泊まることにしたと云った。手際のいい彼のことだ、外泊届も出してあるのだろうと思いつつ、総司は頷いた。


 彼が傍にいてくれるのなら、他に何も望むことはないのだ。


 不思議な気持ちだった。
 先ほどまで別れようと思っていたはずなのに。そうしなければと心に決めていたのに、彼と抱き合ったことで、その想いが総司の躰に流れ込んだのか、そんな事できるはずがないと理解していた。


 彼は決して自分を離さないだろうし、自分も彼から離れられない。
 二人が別れられるはずがないのだ。


 土方は総司の肩を抱き、窓際に腰をおろした。柔らかく両腕で包みこむように、抱いてくれる。
 その逞しい胸もとに凭れかかりながら、総司は目を閉じた。髪を撫でてくれる男の手が心地よい。
「……こうしていると、不思議だな」
 土方がぽつりと呟いた。
「何も思いわずらうこともない、悩むこともないという気持ちになる」
「……」
「俺は、おまえから引き離されると、躰の一部がもぎとられたような気持ちになるんだ。……いや、心が欠けちまったような感じかな」
「私は……土方さんの心の欠片?」
 小首をかしげるようにして問いかけた総司を、土方は切れの長い目で見下ろした。
「怒ったのか?」
「まさか」
 総司は小さく微笑んだ。
「怒るどころか、嬉しいです。私は、土方さんの心の欠片になりたい」
「総司……」
 驚いた表情の土方に、総司は両手をのばした。そっと男の頬にふれる。
 潤んだ瞳で、彼を見つめた。
「……好き」
 気がつけば、告げていた。それに、土方の目が見開かれる。
 総司は透きとおるような笑みをうかべた。
「あなたが好き……この世の誰よりも好きなの」
「……」
「あなたの迷惑になるとわかっているけど、でも、それでも……好きなのです。土方さん、あなたしか、好きになれない」
 途中から、声が掠れた。
 泣いていることに気づいたのは、その後だ。
 涙が瞳にあふれ、頬をぽろぽろとこぼれ落ちた。
 先ほどのような痛みと辛さの涙ではなかった。不思議とあたたかな、心が熱くなるしあわせな涙だった。


 ずっとずっと告げたかったのだ。
 恋人と思われていなかったと知った、あの日から。
 彼に伝えたかったこの想い……。


 だが、土方は何も答えなかった。
 無言のまま、ただ総司を見つめている。
「……」
 そんな男の態度に、目を伏せた。俯き、涙を手の甲で拭う。
 答えが欲しいわけではなかった。初めから結果はわかっているのだ。
 だからこそ、自分は決意することになったのだから。
「ごめん…なさい」
 総司は小さく笑ってみせた。立ち上がりかけながら、言葉をつづける。
「突然、迷惑ですよね。こんな気持ち……本当に、我儘ばかり云って、ごめんなさ――」
 言葉が途切れた。
 突然、痛いほど抱きしめられたのだ。背中がしなり、息さえできなくなる。
 総司は一瞬、目を見開いた。だが、すぐに、そっと微笑む。
 幸せだった。男のぬくもりを感じることができて、幸せで幸せでたまらなかった。
「土方さん……」
 ゆっくりと男の背に手をまわし、ぎゅっとしがみつく。


 別れることはできない。
 それでも、この人の迷惑にはなりたくない。
 優しい彼は答えてくれるだろう。
 これからも傍にいる、恋人としていつづけるよと。
 だが、それは彼を傷つけることなのだ。これ以上、自分に縛りつづけることなど出来ないのだから。


 総司は目を伏せると、静かに躰を起こした。するりと土方の腕の中から逃れる。
「……総司?」
 訝しげに呼びかける土方に、総司はふり返らなかった。部屋を横ぎると、置かれてある脇差しを手にとり、鞘から抜き放つ。
 その行為に、土方は驚き、立ち上がった。足を踏み出し、刀を奪おうとする。
 総司が叫んだ。
「来ないで!」
「総司ッ」
 この世の誰よりも愛しい男を、見つめた。首筋に刃を押しあてる。
「こうするしかないのです。あなたと別れるには、こうするしか……っ」
「どういう意味だ」
 土方は眉を顰めた。
「さっき、おまえは俺のことを好きだと云っただろう? なのに、どうして別れなんだ。死のうとするんだ」
「だって……」
 総司は掠れた声で答えた。
「私は……これ以上、あなたを縛りつけたくない」
「云っている意味がわからねぇよ。俺はおまえに縛られてなど……」
「縛りつけているじゃない!」
 思わず叫んだ。感情が高ぶったあまり、涙がぽろぽろとこぼれた。
「淋しいと云って縋った私を、あなたは恋人にしてくれた。好きでもないのに、抱いてくれた。それのどこが、縛り付けていないと云うの?」
「総司……」
「これ以上、そんな酷いこと……あなたにさせられない。土方さん、あなたが好きだから、誰よりも大切だから……っ」
 言葉が途切れた。
 そのまま泣きじゃくる総司を、しばらくの間、土方は黙ったまま見つめていた。やがて、はぁっとため息をつくと、髪を片手でかきあげる。
「そうか……完全にすれ違っていた訳だな」
 自嘲するような声音に、総司は細い眉を顰めた。意味がわからなかったのだ。
 それに、土方はくすっと笑ってみせた。
「とにかく、その刀を下ろせよ。ちゃんと話してやるからさ」
「土方さん」
「物騒なものを仕舞えって……まぁ、新選組副長が云うことじゃねぇけどな」
「……」
 総司はきつく唇を噛み、のろのろと手を下した。それに土方は歩み寄ると、脇差しを素早く取り上げた。鞘に落とし込む。
 鋭い瞳で、まっすぐ総司を見据えた。
「二度と、こんな真似はするな」
「……」
「おまえは俺を好きだと云った。なら、おまえは俺のものだ。勝手に死ぬことなど絶対に許さない」
「土方さん……」
 目を見開く総司に、土方は手をのばした。項を掴んで引き寄せ、口づける。
 そうして息も切れるほど口づけてから、耳もとに唇を寄せ、囁いた。
「……好きだ」
 甘く掠れた声だった。
「おまえのことが好きだ……ずっと愛してきた。おまえが宗次郎と呼ばれていた頃から、ずっとだ」
 そう告げてから、身を起こした。瞳を覗き込む。
「聞こえたか?」
「……聞こえ…ましたけど」
 震える声で、答えた。だが、すぐにゆるく首をふると、男の胸に手をついて離れようとする。
「総司」
 引き寄せる土方に小さく抗いながら、云った。
「だって、そんなの……全部、違うのでしょう? 私とあなたの想いは違う」
「どういう意味だ」
「だから、想いが違うのです。あなたは、あの時、云った。私は弟だと。だから、私の我儘につきあって……」
「あぁ」
 土方は苦笑した。
「確かに弟だ。おまえは……俺の念弟だ」
「――」
 総司の目が見開かれた。呆然と、男を見上げている。
 その細い躰を愛しげに抱きすくめながら、土方は優しい声で囁いた。
「おまえを誰よりも愛しているよ。恋人として、念弟として、愛してる。他の誰にも奪われたくない……いや、奪われるぐらいなら、おまえをこの手で殺めてやる」
「土方…さん」
 小さく身じろいだ総司に、土方は苦笑した。顔をのぞきこみ、訊ねる。
「怖いか? だが、これが俺だ。おまえだけを狂ったように愛している、愚かな男なのさ」
「……っ」
 総司はつま先だちになると、両腕で男の首をかき抱いた。縋りつき、目を閉じる。


 確かに、昔、思い描いていたような関係ではなかった。
 優しく甘いだけの恋ではない。
 昏い闇を秘めた愛だった。
 だが、それでもよかった。
 奪われるぐらいなら殺めると告げてくれた男のすべてが、愛おしかった。
 愛しくて愛しくて、たまらなかった。


「……愛しています」
 涙まじりの声で、囁いた。
 それに、土方が黙って抱きしめてくれる。背中が撓るほど抱きしめられた。
 まるで長い間、引き離されていた恋人たちのような激しい抱擁だった。
 片時も離したくない、離れたくないのだと、互いに伝えるような……


(土方さん、あなただけを、いつまでも……)


 ようやく辿りつくことができた男の腕の中、総司は瞼を閉じたのだった。












 数日後のことだった。
 伊庭が西本願寺の屯所を訪ねてきたと聞き、総司は驚いた。慌てて玄関口に行ってみると、確かに伊庭だった。
「よう、元気かい」
 いつものように明るい声で手をあげる伊庭に、総司は頭を下げた。中へ入るかと訊ねると、悪戯っぽい瞳で覗き込まれた。
「土方さんは留守かい?」
「えぇ」
「じゃあ、遠慮なく」
 自室に通すと、伊庭は「へぇ」と感心しながら見回した。お茶を運んできてくれた小姓に礼を云い、総司は伊庭の前に茶を置いた。
「何ですか?」
「いや、どれだけ殺伐としているかと思っていたけど、意外と普通でさ」
「そんな……いつも殺伐としている訳じゃありませんよ」
「ふうん」
 伊庭は茶をすすり、「うん、旨いね」と頷いた。それから、じっと総司を見つめてくる。
 しばらくの沈黙の後、問いかけた。
「土方さんとは、上手くいったのかい?」
「え」
 驚いて顔をあげた総司は、気づいた。伊庭はすべてわかっているのだ。
 とたん、あの日のことが思い起こされた。どうして、土方が突然、現れたのか。本当に、あんな偶然がありえるのだろうか。
「伊庭さん……」
 目を見開いた総司に、伊庭は笑ってみせた。
「あの日、土方さんがあの近くの店で接待だということ、聞いていてね。で、ちょうど出てくる頃を見計らったって訳さ」
「そんな……だって、伊庭さんには何の得にもならないじゃないですか」
 思わず云いつのった総司に、伊庭は肩をすくめた。
「何が得か損か、それは人それぞれさ。おれにはおれなりの、物差しってのがあるからね」
「物差し……」
 以前、近藤に云われたことを思いだした総司の前で、伊庭は言葉をつづけた。
「人それぞれの物差しがあるってことさ。おれもしかり、おまえもしかり、土方さんもしかりだ」
「……」
「総司」
 伊庭は総司を見つめた。
「これだけは覚えておきな。自分の物差しだけで測っていたら、何もわからなくなっちまうぜ」
「何もわからなくなる……」
「あぁ。おまえは実際そうなっていただろ? これからは、自分の物差しだけでなく、土方さんの物差しでも考えるこった。そうすりゃ、上手くやっていけるさ」
 湯呑みを茶卓に戻すと、伊庭は立ち上がった。
 もう帰るのかと引き留めかける総司に、にやりと笑う。
「長居していて、あの御仁が帰ってきたら堪らねぇからね」
「そんな」
「じゃあ、元気でな」
 あの日のように、ひらりと手をふり、伊庭は部屋を出ていった。
 足早に歩み去っていく後ろ姿を見送り、総司は静かに頭を下げた。
 土方が帰ってきたのは、その一刻後のことだった。だが、どこで聞いたのか、伊庭の訪れを知っていた。
 不機嫌そうに眉を顰め、問いかけてくる。
「いったい、何しに来たんだ。あいつは」
「私に逢いに来て下さったんです」
 素直に答える総司を、土方は呆れたように眺めた。
 この愛らしい若者は無邪気で優しいくせに、男の心を惑わせるのが、信じられないほど上手いのだ。それをまた無意識でやっているのだから、始末におけない。
「総司、おまえは」
 云いかけ、不思議そうに自分を見上げてくる総司に、ため息をついた。もういいと手をふり、部屋へ入る。
 それについてきた総司は、問いかけた。
「何です、教えて下さいよ」
「いい」
「気になります。云って下さい」
 何度もせがむ総司に、土方も根負けした。仕方なく、あまり口にしたくない言葉を告げる。
「おまえは……伊庭と逢いたいのか」
「え?」
 びっくりしたように目を見開く総司を、土方は見つめた。その手をとり、引き寄せる。
「答えろ。おまえは今でも、伊庭と逢いたいと思うのか」
「逢いたいって……伊庭さんと?」
「あぁ。おまえ、以前、云っただろう? 淋しいと。胸の内を明かせる相手がいなくて、淋しいのだと。だから、伊庭と逢うのだとも云っていた。だから……」
「今は淋しくなんかありません」
 きっぱりと、総司は否定した。
 綺麗に澄んだ瞳が、土方をまっすぐ見つめた。ぎゅっと手を握りしめる。
「だって、あなたがいるもの」
「……」
 見下ろす土方の胸もとに、総司はゆっくりと身を寄せた。肩のくぼみに小さな頭を凭せかけ、言葉をつづける。
「私には、あなたがいます。だから、もう……淋しくない」
「総司……」
「ずっと傍にいてね。いつまでも、私を離さないで」
 そう願う総司を、土方は包みこむように抱きすくめた。髪に、頬に、口づけを落としてやる。
 低い声が囁いた。
「傍にいるよ。もう二度と、おまえに淋しい思いはさせない」
「土方さん……」
「好きだ、おまえだけを愛してる……」
 優しい抱擁と言葉に、総司はこくりと頷いた。細い指さきが男の着物を縋るように握りしめる。


 きっと、これからも色々な事がある。
 哀しいこと、辛いこと、たくさんあるに違いない。
 でも、私はあなたが好きだから。
 何があっても、どんな事があっても。
 ずっとずっと好き。
 土方さん、あなたのことを──



 恋人の腕がその身体を優しく抱きしめた。男のぬくもりと、深い愛がつたわってくる。
 それを心から感じながら、総司は小さく微笑んだのだった。
















ラストまでお読み下さり、ありがとうございました。
ちょっと切ない感じのハッピーエンドでしたが、少しでも皆様が二人の恋にはらはらしたりドキドキしてくだされば、とっても嬉しいです♪
ラストまでおつきあい下さり、ありがとうございました♪