「……この俺が騙されると、本気で思っていたのか?」
 歳三は低いなめらかな声で囁いた。
 それに、斉藤は息をつめた。背筋がぞくりとする。刃を突きつけられている事は、わかっていた。今動けば、すぐさま殺されてしまうだろう。
 ある意味、歳三が斉藤をすぐ殺さなかった事が不思議な程だった。
「土方、さん……っ」
 呻くように呼んだ斉藤に、歳三が云った。
「総司はこの宿にいるんだな」
「……」
「なら、おまえに用はない。殺られたくなきゃ、さっさと去ねよ」
「断ります」
 懸命に己を励まし、斉藤は云い返した。片手を刀の柄にかけている。このまま斬り合ってもいいとさえ思った。
 それを察したのか、歳三の声音が殺気を帯びた。ぐっと刃が肌に食いこむ。
「殺してやってもいいんだぜ?」
「……」
「昔から、おまえは気にくわねぇ餓鬼だったんだ。総司の周りをうろつきやがって……いつも殺してやりたいと思っていた。だが、そんな事をすりゃあ、総司が悲しむ。仕方ねぇから見逃していたが、まさか俺のものを奪おうとするとはな」
「総司は、あなたのものなんかじゃない!」
 思わず叫んだ斉藤は、歳三の腕を掴んだ。刃をふり払う。
 意外にもあっさり解放した歳三へ、斉藤は向き直った。
 月明かりの中、歳三は静かに佇んでいた。その端正できれいな顔からは、先程までの物騒な言葉など想像もできない。
 だが、実際はそうなのだ。あの形のよい唇が、毒を吐いたのだ。
「総司は、総司だ。誰のものでもない」
「……」
「あなたは総司を縛りつけている。自分のものとして、総司の意志も何もかも奪い去っている。京行きだってそうだ。あなたは、総司をいったいどうするつもりなんだ」
「今までと変わらねぇよ」
 歳三は目を細め、薄く笑った。
「この手の中で大切に守り、汚いもの嫌なものを一切見せず、愛していってやるさ。俺だけの総司としてな」
「総司は、あなたのものじゃない!」
 先程の言葉をくり返した斉藤を、歳三は冷めた目で眺めた。唇の端をつりあげる。
「いや、俺のものさ」
「……っ」
「あれは、俺だけのものだ。他の誰も総司を奪う事は許さねぇ」
 歳三は抜きはなったままだった刀をゆっくりとあげ、斉藤に突きつけた。
 静かに笑いながら、告げる。
「次はないと思え。総司の幸せを願うなら、二度とこんな事をするんじゃねぇぞ」
「……」
「奪われるぐらいなら、総司を殺す。俺は、そういう男だ」
「!」
 斉藤は唇を噛んだ。やはりという思いのまま、歳三を凝視する。
 それに、歳三はうっとりとした微笑みをうかべた。優しげと云ってもよい、笑みだ。
「俺の手で、殺してやるよ。総司は俺のものだ……俺だけのものだからな」
「土方さん……」
 声が震えた。
「あなたは、狂っている」
 それに、答えは返らなかった。
 歳三はもう一度だけ笑むと、そのまま踵を返した。斉藤の存在など忘れ去ったように、ふり返りもせず宿の中へ入ってゆく。
 その後ろ姿を見つめ、斉藤は固く拳を握りしめた……。











「……総司」
 ひそやかな囁きが、闇に響いた。
 聞き慣れた低い声。
 微睡んでいた総司は、一瞬にして目が覚めた。慌てて身を起せば、そこに誰かがいる。否、誰であるかなど、わかりきった事だった。
「歳三さん……!」
 総司は思わず布団を跳ねのけ、歳三の腕の中へ飛び込んでいた。彼から逃げようとした事も忘れ、男の逞しい胸もとへ縋りつく。
 だが、それはある意味、賢明な行動だった。
 もしも、この時、総司が逃げようとしていれば、歳三は容赦なく殺していたかもしれないのだ。
 剣呑な光をうかべていた歳三の目が、少年の行動で一瞬にして和らいだ。腕の中に飛び込んできた細い躯を、ぎゅっと抱きしめる。
 その柔らかな髪に頬を擦りよせ、囁いた。
「……随分探した」
「ごめん…なさい……」
 総司は小さな声で、謝った。細い指で、男の着物を握りしめる。
「心配かけて、ごめんなさい。勝手な事をして……」
「どうして、あんな文を寄越した。俺と京へ行くのが、そんなに嫌だったのか」
「違うのです。嫌とか、そんなのじゃなくて」
 どう云っていいのかわからず、総司は思いあぐねた。男の腕の中、じっと俯いてしまう。
 そんな総司の様子に、歳三は僅かに苦笑した。そっとその華奢な躯を膝上に抱きあげると、幼い子どもの頃のように背を大きな掌で撫でさすってやる。
 ほっとしたように見上げた総司に、優しく微笑んだ。
「ゆっくりでいい、ちゃんと考えて話してごらん」
「歳三さん……」
「俺は、おまえの気持ちを知りたいんだ」
 それを受け入れるかどうかはともかく。
 声にならぬ言葉を知らぬまま、総司はしばらく考えた後、小さな声で話し始めた。
「足手まといになると……思ったのです」
「……」
「私はまだ子どもだし、歳三さんに迷惑をかけてばかりだし。だから、私が京へ行くという強い意志がないのなら、歳三さんと行くべきではないと思ったのです。もう大人なのだから、ちゃんと責任をもたなきゃいけないのに、いつまでも、歳三さんに甘えてばかりで」
「恋人なのだから、甘えるのは当然だろう?」
「でも」
 ゆるく、総司は首をふった。
「私は……歳三さんの隣に立ちたいのです。後ろをついて歩くのは、悔しいです」
「俺の隣に、か」
 歳三は僅かに目を細めた。


 正直な話、こんな事を云いだすとは思っていなかったのだ。
 だが、考えてみれば、総司も大人だった。
 いつまでも子ども扱いしている訳にはいかないのだ。


「……立てばいい」
 歳三は、静かに云った。総司の頬を両手で包みこみ、そっと仰向かせる。
 大きな瞳で見上げてくる少年に、囁いた。
「俺の隣に立てばいい。立って、俺を支えてくれ、俺の力となってくれ」
「歳三…さん」
「おまえが必要なんだ、総司。俺は、おまえがいなければ生きてゆけねぇんだよ」
「……っ」
 彼の言葉に、総司の目が大きく見開かれた。
 信じられない事を聞いたように、息を呑んでいる。やがて、ふるりと首をふると、小さく呟いた。
「そんな……信じられない」
「……」
「歳三さんが、私を必要としてくれる…なんて。私がいないと、生きてゆけないなんて……」
「本当の事だ、総司」
 歳三は深く澄んだ黒い瞳で、総司を見つめた。
 まるで──幻惑するように、甘やかな低い声で囁きかける。
「俺はおまえを愛してる……おまえがいない人生なんて、考えられねぇ。俺にはおまえが必要だ、いや、総司……おまえしか望まない」
「歳三さん……」
「だから、頼む。俺と一緒に京へ来てくれ。ずっと俺の傍にいてくれ、総司」
「……ぁ」
 桜色の唇が震えた。
 微かに喘ぎ、そのまま歳三の胸にしがみついてくる。細い肩が震えるのを感じながら、歳三はその小柄な躯を抱きしめた。
 総司が夢中で縋りつく。
「歳三さん……嬉しい。私、本当に嬉しいです」
「総司……」
「ずっと一緒にいます。何があっても、どんな事があっても、歳三さんの傍から離れません」
「本当か?」
 歳三は総司の肩を掴んで身をおこさせ、その愛らしい顔を覗き込んだ。目と目をあわせ、しっかりと問いかける。
「今の言葉、本当だな?」
「えぇ」
 総司はこくりと頷いた。
「あなたと一緒にいます。ずっとずっと、いつまでも」
「総司……」
 歳三はもう一度、少年の躯を抱きしめた。髪に、頬に、首筋に、口づけの雨を降らせる。
 それに、総司はくすぐったそうに笑い、幸せそうに男の胸もとに抱きついた。 
 だが、だからこそ、総司は知らなかったのだ。
 腕の中にいる総司を見つめる男の瞳が、冴え冴えとした光を帯びていた事を。形のよい唇が、狂おしいほどの愉悦の笑みをうかべていたことを。


 ――鎖が一つ重ねられた。


 この胡蝶は、彼だけのものなのだ。
 もはや、引き返す事はできない。何故なら、たった今、胡蝶自身が誓ってしまったのだから。
 総司がいなければ、生きてゆけない。
 それは真実だった。
 だが、その甘い真実と引き替えに、総司はより深く歳三の手の中に取り込まれたのだ。


 歳三は腕の中の総司の髪に、そっと頬を寄せた。あまりの愛しさに息さえできない。


 甘い匂いがする少年が、狂おしいほど愛しい。
 否、もう狂っているのかもしれない。この少年を愛した時から、彼は地獄のような狂気へと身を投げたのだ。
 だが、それを悔いてはいなかった。自ら望んだ事なのだ。
 この裏切れば殺めるほどの執着も、髪の一筋まで己のものにしたいと願う独占欲も、何もかも。
 狂おしいほど、愛してる。


 黙って抱きしめる歳三の腕の中、総司はおとなしく目を閉じていた。
 男の胸の鼓動を聞いているのだろう。安堵した表情で、その身をまかせている様はいとけない。
 総司を腕に抱いたまま、ゆっくりと歳三は褥に身を横たえた。長い睫毛を瞬かせ、見上げてくる総司に微笑みかける。
「おやすみ……」
「……おやすみなさい」
 小さな声で答えた総司の額に、口づけを落とした。それに、なめらかな頬が少しだけ紅潮する。
 やがて、ゆるく抱きしめる男の腕の中、総司は眠りに落ちていった。甘い寝息と、腕の中のぬくもり。
 この世の何よりも大切なもの。
 それを感じながら、歳三は静かに闇を見つめつづけていた。













 翌々日、彼らは京へ出立した。
 総司も旅装束に身をかため、歳三の隣を歩いている。
 江戸を出たあたりですぐ、総司が話しかけてきた。
「あのね、歳三さん」
「何だ」
「出かける前に聞いたんだけど、斉藤さんのこと」
「……」
 歳三は切れの長い目で、総司を鋭く一瞥した。だが、それに気づかぬまま、総司は明るく澄んだ声でつづけた。
「斉藤さんも、京へ来るんですって」
「……」
「遅れるけど、必ず行くからって云ってくれましたよ」
「そうか」
 頷いた歳三に、総司はふと心配そうな顔になった。愛らしく小首をかしげ、歳三の顔を覗きこむ。
「怒って…ないですよね? 斉藤さんのこと、もう怒ってない?」
「あぁ、大丈夫だ」
「本当に?」
「俺がおまえに嘘を云うはずがねぇだろう」
 男の答えに、総司は、ぱっと嬉しそうな笑顔になった。なめらかな頬をそめ、可愛らしく笑う。
「よかった。じゃあ、斉藤さんが来るの、歳三さんも喜んでくれますよね」
「あぁ」
「楽しみですね」
「あぁ、楽しみだな」
 歳三はそう答え、薄く嗤った。形のよい唇が、冷ややかな笑みをうかべる。


 斉藤の京行はある程度予測できた事だった。
 あのまま引き下がるはずもなかったのだ。
 だが、それはそれで面白いと、歳三は思った。
 総司を奪おうとする者に、容赦はしない。それを思い知らせてやるのも、面白かった。
 獰猛な獣が、小さな動物をいたぶり殺してゆくように、斉藤も邪魔になれば殺してしまえばいいのだ。


「あ、歳三さん! 蝶!」
 そんな歳三の昏い思惑など知らぬ由もない総司は、彼の隣で無邪気な声をあげた。
 見れば、蝶がふわふわと空を飛んでゆく処だった。美しい光景だ。
 それを黙って眺めている歳三に、総司が微笑みかけてくる。
「ほら、大きくて綺麗な蝶ですよね」
「そうだな」
 歳三は優しく微笑み、そっと総司の髪を撫でた。
「だが、おまえの方がずっと綺麗だよ」
「歳三さん……」
 たちまち、総司の頬が紅潮し、恥ずかしそうに長い睫毛が伏せられる。
 その可愛らしい様を見つめ、歳三は身をかがめた。
 耳もとに唇を寄せ、甘く低い声で囁きかける。
「綺麗だよ……俺の総司」
「……」
 総司は潤んだ瞳で、歳三を見上げた。
 そして、彼の腕に手をかけると、花のように微笑ったのだった。





 誰よりも、いつまでも。
 美しく愛らしい。
 甘い罠にかかった……俺の胡蝶。

















 ラストまでお読み下さり、ありがとうございました。一応、最終話です。
 気にいって下さった方は、ぜひ、ぱちぱちしてやって下さいませね♪