近藤の恐れが現実のものとなったのは、その数日後だった。
 出稽古から帰ってくるなり、近藤は歳三を部屋に呼んだ。
 宗次郎と時を過ごしていたらしい彼は、いきなり近藤に呼びつけられ不機嫌そうだったが、それでも居候の身だ。仕方なくやって来た。
 入ってきた歳三を見上げ、近藤は云った。
「……あの侍、半身不随になったらしいぞ」
「あの侍?」
 訝しげに訊ねながら、歳三は近藤の前に腰を下ろした。
「いったい、何の事だよ」
「とぼけるな! わかっているだろうが」
 近藤は思わず語気を強めた。
「この間、宗次郎を襲った侍だ。あの時の侍が、半殺しのめにあわされ、挙げ句、死ぬまで寝床から離れられぬ体になったらしい」
「へぇ、それは気の毒に」
「……歳」
 押し殺した声でその名を呼んだ近藤に、歳三は視線をあげた。
 きれいに整った顔だちだ。形のよい眉も、切れの長い目も。黒曜石のような瞳に、男にしては長い睫毛。
 そのくせ、女性的な印象は何処にも見あたらない。
 すらりとした長身は逞しく鍛えられ、引き締まった顔だちは精悍そのものだった。
 宗次郎が憧れ、恋するのも、当然のことだろう。
 だが、今。
 その宗次郎が見せられた事もない、この男の一面を、近藤はまざまざと目の当たりにしていた。
「……」
 息をつめ、睨みすえる。
 その友人の前で、歳三はゆっくりと嗤ってみせた。


 ……きれいな笑みだ。
 誰もが見惚れてしまうほど、艶やかで美しい。
 だが、実際、彼をよく知っている者──近藤のような者からすれば、信じられぬほど禍々しい微笑みだった。
 いつもの優しい雰囲気など、どこにもない。
 黒い瞳は残酷で冷ややかな光を湛え、この男の奥に潜む狂気が閃いた。
 息を呑んだ近藤に、形のよい唇の端が僅かにあがる。
 ぞっとするほど昏い笑みをうかべてみせた。


 その唇が、友人の名を呼んだ。
「近藤さん」
 低い、なめらかな声だった。
 この男は、声までも綺麗なのだ。
 己の狂気を隠すためか、それとも、誰かを惹きつけ虜にするためか。
「あんた、この事を宗次郎に話すのか」
「……いや」
 首をふった近藤に、歳三は微かに喉を鳴らした。満足げな嗤い声だ。
 それに、思わずかっとなった。
「歳! おまえ、自分がやっている事がわかっているのか」
「……」
「これが最初ではないだろう。おれが知っているだけでも、何度目か数えきれぬぐらいだ」
「あの侍で、六人目だよ。だが、当然のことだろう?」
 歳三は口角をあげた。
「俺の可愛い大切な宗次郎を、傷つけやがったんだ。当然の報いだと思うぜ」
「目には目をか。だが、いくら何でもやり過ぎだろう。おまえのやり方は、明らかに度を超している。半ば狂った者もいるという話ではないか」
 苛立った口調の近藤に対し、歳三はかるく肩をすくめただけだった。何の罪悪感も覚えていない証に、冷たい笑みを口許にうかべている。
「それに、歳、おまえは宗次郎に友さえもつくらせない。悉く邪魔した挙げ句、宗次郎を孤立させ、己しか近づけないよう仕向けているのだ。そんな事を、宗次郎が望んでいると思うのか。宗次郎を不幸にするだけだと、わからないのか」
「あぁ、わからねぇな」
 歳三はそう答えると、片頬を微かに歪めてみせた。
「わからねぇよ。宗次郎がそれを望んでいるかどうかなんて、知った事じゃねぇ。俺自身が望んでいるんだ。いっそ、あいつの綺麗な瞳に、俺しか映らねぇようにしたいぐらいだからな」
「歳、おまえ……っ」
「それにさ、宗次郎が不幸になるはずねぇだろ?」
 くっくっと喉を鳴らし、歳三は嗤った。
「あいつには、この俺が幸せをちゃんとあたえてやるさ。不幸になんざするものか。俺がいつでも真綿みたいにくるみこんで、甘やかして、可愛がって、とろけちまいそうなぐらい幸せにしてやる」
 うっとりとした笑みをうかべ、呟いた。
「宗次郎には、俺だけがいればいいんだよ」
「──」
 近藤は、まるで見た事もない男を見るような目で、歳三を眺めた。実際、長年の友がまったくの別物に見えたのだ。
 喉奥から絞り出すような声で、その名を呼ぶ。
「……歳」
「何だ」
 そう訊ねてから、歳三は答えが返らないのを見てとると、かるく肩をすくめ立ち上がった。敏捷な身動きで部屋を横切り、出てゆこうとする。
 だが、障子に手をかけた処で、ふと気づいたようにふり返った。
 そのきれいに整った顔に浮かんでいるのは、悪戯っぽい少年のような笑顔。
「あのさ、近藤さん」
「……何だ」
「一つだけ忠告。あんた、俺のこと宗次郎にばらすなよ」
「……」
 無言で見返した近藤に、歳三は一転して、ぞっとほど冷たい笑みをうかべた。黒い瞳が獰猛な獣じみた色を湛え、ぎらりと光る。
 その形のよい唇が、ゆっくりと告げた。
「いくらあんたでも、その時は……容赦しねぇからな」
「……」
 きつく唇を引き結んだ近藤を前に、歳三は薄く嗤った。
 それきり、すっと身をひるがえし、部屋を出てゆく。まるで何事もなかったように、その足取りは普段通りだ。
 恐らく、彼の可愛い宝物である宗次郎のもとへ向うのだろう。
「……」
 歳三を見送った近藤は、やがて、深く嘆息した。
 脅され、怒りを覚えた訳ではない。
 それよりも、むしろ……。


(歳、宗次郎……)


 頭を垂れた近藤は、何かに祈るように固く瞼を閉ざした。












「あ、歳三さん」
 彼が戻ってきてくれた事に気づくと、宗次郎はぱっと嬉しそうな笑顔になった。
 本当に、歳三のことが好きで好きでたまらないのだ。
 まるで拾われた仔猫のように懐いてくる宗次郎を、歳三は優しく受けとめた。
 胡座をかいた膝上に抱きあげてやりながら、悪戯っぽい瞳で訊ねる。
「どうした、淋しかったのか」
「さ、淋しくなんか」
「本当に? 俺がいなくて淋しかったんだろ?」
 男の言葉に、宗次郎は耳朶まで真っ赤になってしまった。少しだけ躊躇っていたが、やがて、男の胸もとに顔をうずめたまま、こくりと小さく頷く。
 とても素直な少年のだ。
 そんな処も愛らしく、歳三は思わずその細い躯を両腕で抱きしめてしまった。お陽さまの匂いがする柔らかな髪に顔をうずめ、甘い声で囁く。
「宗次郎は可愛いな」
「可愛い?」
 とたん、宗次郎が顔をあげた。真剣な顔で、訊ねてくる。
「本当に可愛いと思ってくれますか?」
「あたり前だろ」
「じゃあ……じゃあね、歳三さんは私のこと好き?」
 今更な事を聞いてくる宗次郎に、歳三は小さく笑った。だが、今更だなどとは口にせず、ただ優しい声で答えてやる。
「あぁ、好きだよ。この世で一番好きだ」
 宗次郎の頬が熱く火照った。嬉しそうに笑うと、男の胸もとに頬を押しつけてくる。
 だい好きという言葉のかわりか、広い背に手をまわし、ぎゅっとしがみついた。
 それを抱きとめてやりながら、歳三は目を伏せた。


(俺の可愛い宗次郎……)


 宗次郎のためなら、どんな事でもできた。
 宗次郎を傷つけた者を、許すことができなかった。指一本ふれるだけでも、許せないのだ。なのに、あいつらは何をしたか。俺の大切な可愛い宗次郎にあんな酷い事をしておきながら、それでも江戸の町を平然と歩いているなど、許せるはずもない。
 宗次郎は愛らしい。
 それは、昔からの事だった。歳三が初めて逢った頃から、宗次郎は誰もがふり返るほど愛らしい子供だったのだ。
 当然、それほど綺麗で愛らしい子供が狙われぬはずはなく、幾度も、宗次郎は浚われたり襲われそうになったりしてきた。その度に、姉であるお光とともに歳三も探しまわり、宗次郎を助け出したのだ。
 宗次郎は怯え、泣きながら彼にしがみついてきた。その愛しいぬくもりを感じながら、歳三は躯中の血が逆流しそうな程の怒りを覚えた。
 まさに、憎悪だった。
 宗次郎をこんな目にあわせた相手への憎悪と殺意に、気が狂いそうになったのだ。
 守りたかった。
 誰よりも可愛いその存在を、この腕の中だけで幸せにしてやりたかった……。







「なぁ、宗次郎」
 そっと呼びかけた歳三に、宗次郎は「え?」と顔をあげた。
 それに、優しく白い額に口づけをおとしてやりながら、囁きかける。
「おまえ……もう一人でどこかへ行くなよ」
 歳三の言葉に、宗次郎は目を瞬いた、かるく小首をかしげる。
「一人では、だめ?」
「あぁ」
 頷いた歳三を前に、宗次郎は何かを躊躇っているようだった。細い指さきが、おずおずと彼の着物を握りしめる。
 見下ろせば、大きな瞳が懇願するように見つめていた。
 それに、優しく問いかけてやる。
「どうした。何かあるのか」
「うん……」
「云ってみろよ。何でも聞いてやるから」


 おまえの願いなら、どんな事でも。
 人の命だって、奪ってきてやる。
 欲しいと望むのなら、何でも……おまえの思うがままだよ。


「あのね」
 宗次郎は一生懸命な口調で、云った。
「一人じゃ駄目だったら……歳三さんがついて来てくれる?」
「あぁ、勿論」
「それは……いつも?」
「え?」
「歳三さんも、どこかへ行ったりしない? ずっとずっと、私の傍にいてくれる? 私を……見ていてくれる?」
「……」
 宗次郎の言葉に、歳三は黙り込んだ。
 黒い瞳で少年を見つめたまま、じっと押し黙っている。
 きれいに整った顔には何の表情もなく、少し冷たい程だった。宗次郎が怒ったの?と怯えかけたとたん、ふっと歳三が視線を落とした。
 それは、一瞬の事だった。
 形のよい唇にうかべられる。
 昏い愉悦を湛えた、狂おしい笑み───


(……え?)


 だが、それは本当に一瞬の事だった。
 宗次郎が瞬きをした時にはもう、歳三はいつもの優しい笑顔をうかべていた。
 柔らかな声で答えながら、宗次郎の髪を撫でてくれる。
「あぁ、いいよ」
「……」
「おまえの云うとおり、ずっと傍にいてやる。いつまでも見ているよ」
「……」
 その言葉を告げてくれた歳三を、宗次郎は見つめた。
 嬉しいはずの言葉なのに、何故か、どうしてだか、躯の奥の方が冷たくなる。どこか遠くで警鐘が鳴っている気がした。


 いけない、駄目だよ。
 引き返すなら、今の内なんだと。
 でも。


「……うん」
 小さく頷いた宗次郎は、歳三の胸もとに顔をうずめた。
 ぎゅっと細い両腕で抱きつきながら、云った。
「歳三さん……好き」
 小さな告白と願いごと。
「約束してね。ずっと、私を見ていてね」
「あぁ、約束するよ」
 優しく頷いてくれた歳三に、宗次郎はくり返した。
 まるで、自分自身に云い聞かせるように。
「歳三さん好き」
「宗次郎」
「好きです、あなただが好き」
「あぁ、俺も好きだ。おまえだけを愛してる……」


 甘い甘い囁き。
 そっと髪を、背を撫でてくれる手。
 時折あたえられる、優しい口づけ。
 だい好きな人。
 この世で一番、だい好きな愛しい人。


(歳三さん……)


 彼さえいればいい、と思った。
 もう他には何も望まなくていい。
 この世で一人だけ。
 彼さえ傍にいてくれれば、自分は幸せなのだから。






 宗次郎は、歳三の腕の中、そっと躯を丸めた。
 まるで、己の心を守るように。
 何からかは、わからなかったけれど。
 だが、それでも。
 優しく抱きしめてくれる歳三のぬくもりを、存在を、何ものにも代え難く感じながら、宗次郎は静かに目を閉じたのだった。