治療中もアクティブに


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H16〜
初発・治療

7か月間休職、2か月入院、5か月通院治療

・白血球が激減、脱毛、イライラ感、頭痛、首から頭にかけての硬直感、下痢、味が極端に鈍感になるなどR-CHOP化学療法の副作用が顕著でした
・医師の指示は、生ものは食べるな、人ごみは避けよ、無理はするな、激しい運動は控えよなどなど・・・・・
・沢山の注意事項がありましたが、早く確実に治りたい一心で忠実に守っていました。
・マスクを欠かさず、空気清浄器を全開し、外出は控え、ただひたすらおとなしくおとなしく、療養生活を送りました。
・おかげで本やパソコン三昧はできましたけどね。

・抗がん剤1クール後、通院治療に移りました。毎週片道1時間半の道程を自分で運転していました。


再発・治療
H19〜
再発・治療
・リツキサン(1週1クール、計8クール)と放射線治療(20日間、40グレイ)
ひと月あまり療養休暇を取りました。

再発のショックが強すぎてすべてが虚しく、自分はどうなるのだろう、家族は、子供たちの将来はと心配をつのらせるばかり、起きているときはもちろんのこと、寝ているときも意識の底で心配の無限ループが続きました。

・治療してもまた再発するであろう恐怖感、この状況に対して自分では何一つできない無力が精神をむしばみます。


・全てが虚しく無気力になります。一方では何かやっていないと気が狂いそうになります。山登りが好きだったので、低山ハイキングで気を紛わらそうと思い立ちました。また、治療の副作用に対し体がどう持ちこたえられるかということにも興味がありました。
・真夏の猛暑が続きましたが、放射線治療の帰りに標高300mほどの低山に通っていました。
・リツキサン点滴の日は体が熱くけだるくなることがありましたが、欠かさず続けていました。

・少なくともその時だけは生きている、歩けているとの実感があり、少しは気分が楽にはなりました。しかし、意識の中の暗闇の世界は和らぐことはありませんでした。

・白血球等が激減しウィルス感染のリスクも高まっていましたが、風邪ひとつひくことなく、体力の低下はそれほどではありませんでした。


H19
転機

・「WAHAHAの会」との出会い

・がん患者の会「WAHAHAの会」に参加しました。がんと縁のある人々が集い自分の経験を語る場です。がんと向き合う姿勢が自分とは全く違うのです。

・自分の発言の番が回ってきました。私は「自分は、血液のがんだステージWで全身に広がっている。固形がんでないから手術して取り除けるような簡単なものではない。治ることはない、余命5年である・・・・」と自己紹介しました。他人に自分の病気のことを話したとき決まって返ってくる答えは「お気の毒に、さぞかし大変でしょう、、お大事にしてくださいね・・・」です。
・同じような返事が返ってくると思いきや、返ってきたのは、「5年?それがどうしたの?生き方変えてなおしていけばいいんじゃないの?・・・」でした。

よくそんなこと言うよ、私の苦しさを分かっていない、不愉快だし、腹も立ちました。ただ、その一方でがんとの向き合い方が自分とはまるで違うなという驚きもありました。自分は、治療はすべて医者任せ、再発の恐怖におののくばかり、対してここにいる人たちは違う。
・治療は治療として、自ら様々なことに取り組んでいる。実際医者から今あなたが生きているのが信じられないといわれた人、がんそのものを消滅させた人が身の前にいる。

・全てではないかもしれませんが、がんになる生き方、がんにならない生き方もあるはず、そのことを眼前に人々は示している。厄介な病気ではあるが、自分自身がこの病気と相対して上手に付き合っていく手立てはありそうだ。また板の上のコイを卒業して、がんにならない生活実践、がんにならない生き方、考え方が身につくことを目標に自ら行動を始めました。


H24〜
再再発治療
・残念でしたが、H21年、寛解後2年余りで再再発してしまいました。転機となる出来事以降、病気をあるがまま受け入れ、悲観するでもなく、淡々と今のこの状態の中できることをやっていこうという気持ちに変わっていました。再発後4年間様子を見守りました。体中のリンパ腫は、小さくなったり消えたりした部分もありましたが、全体的にはだんだん大きくなっていました。

・治療の直接のきっかけは、悪性リンパ腫が右目眼窩内でも大きくなり、眼球が突出、メガネレンズにまつ毛が接触しだしたこと、白目にリンパ腫が膜のように拡張し黄色く覆い尽くしていたこと、視野が二重に見え出し自転車走行にリスクを感じ出したこと、他にも体の3カ所で腫瘍が4p大に拡大したためです。

・リツキサン8クールとベンダムスチン6クール、半年間の治療です。
休職するべきかどうか迷いました。しかし、再発治療の時の経験から、休むことにさほど意味はない、副作用にも十分耐えられる、意味があるとすれば治療に日数や時間がかかり休まざるを得なくなることでしたが、年休でしのげるだろうと判断しました。
・結果、6か月間、月2〜3日休み、仕事を続けながらの治療としました。

登り納めということで、治療開始直前の9月、北アルプス剣岳でクライミングを楽しみ、治療を開始しました。

・治療しながら、抗がん剤治療中に自分はどこまで普通に行動できるだろうかということを試してみたくなりました。登山も、全然だめだということもなかろう。レベルや負荷を下げて少しずつ試してみることにしました。

・ベンダムスチンは、CHOPと比べて副作用は軽いと言われてはいますが、私の場合、結構、血液毒性が強く、血管の痛み(痛みを通り越して上腕の太い血管が詰まり、最終的には消滅してしましました。)、白血球の激減、赤血球の減少など副作用はかなりありました。ちなみに、ベンダムスチンは旧東ドイツの開発した毒ガス兵器由来の化学物質だそうです。

・【治療の初期】
 日帰りのクライミングに何回か通いました。厳しいルートでも治療前と変わらず登ることができ案外行けるではないかと手ごたえを感じました。人ごみは避けていましたが、仕事の支障となるほどの副作用ではありません。

・【治療の中頃】
 冬を迎えます。この年はことのほか寒く雪が多く、体がうずきます。じっとしておられません。岩壁から染み出た水がつららとなり、雪の降る中でのクライミングもクリアしました。行きたい、行けるだろうという気持ちが強まります。治療の真っ最中で、医者からは激しい運動は避けるようにと言われていましたが、自分の体はまだいけると言っていました。

・抗がん剤は4週間サイクルでまずはベンダムスチン、2週間後リツキサン、その後2週間体を休ませてから次のサイクルとなります。4週目、1月の半ばに伯耆大山の八合尾根という雪稜に向かいました。大雪の直後で太ももに達する猛烈なラッセルとなり八合尾根は諦め、隣の行者尾根に切り替え、若いパートナーとともに、リードしながら登攀しました。

【治療の終盤】
・治療中であっても結構いけるじゃないかと結構な自信となりました。2月にもう1本、大山弥山尾根西稜と縦走できました。ダメもとで始めた冬山ですが、やってみれば結構普通の状態と変わらぬことができることを実感しました。

・最後は北アルプス奥穂高岳です。里は春の兆しがいっぱいですが、アルプスはときにマイナス20℃、厳冬の積雪期です。これは行くかどうか本当に迷いました。厳冬の北アルプス、それも抗がん剤治療6か月直後の一番堪えているときでしたから

・その一方で治療の影響下でどこまで行動できるかさらに試してみたい気持ちもあり、誘いに乗ることとしました。猛烈なラッセル、吹雪、寒さ、それに重装備です。アタックは好天に恵まれました。相当しんどく苦しみながらも自身の特別の思いは一応果たして帰還することができました。

【自分が決める】
・病気で、あるいは治療中で、そのことで自らの行動を制約し、病人らしく生活する、それが普通と思っていましたが、そんなことはありません。
・自分の体のことは自分にしか分からない。しかし、他人である医者はもちろんのこと自分ですら自身の体のことを知ることは実は困難です。少しずつ少しずつ手探りで実際に動きながらでしか、自身の体の状態を知ることができないことを痛感しました。

・何もしないで、
医者が言ったからできないとか、病気だからあれもだめだこれもだめだ勝手に線を引いてはいませんか?そう思うことに何か根拠はありますか?これが私の11年間のがんとの付き合いの中で学んだことです。

・治療生活中のこの経験は、自分がこの病気とともにこれからも付き合っていくうえで大きな自信となり、少なくとも気持ちの上では病気に負けない自分に生まれ変わったと思っています。