年代別 演奏曲 |
色々ありました。(50周年記念誌「OB便り」より) |
昭和28年〜34年 | ◆昭和27年初秋、姫路市社会教育課課長小泉美晴氏よりご依頼され合唱の指導に当たりました。小規模な発会式は旧姫路商工会議所で行われ、関係者とともに私も列席いたしました。その建物は賢明女子学院中等高等学校の校舎近くにあり、現在は白鷺城の外郭の庭園になっております。後に日の本学園高等学校の旧校舎の跡地に建立されました。 合唱団の練習は毎週木曜日の午後7時より行われ、当時の勤務校、県立福崎高等学校より夕方5時半頃帰宅して6時過ぎに出かけることは、私には家庭的に全く苦痛でした.長女が未だ幼く、その泣き叫ぶ声を振り切って外出することは後ろ髪を引かれる思いでした。合唱の指導は如何にしても続けられないと非常に残念に存じ、当時明石市より神戸大学姫路分校(旧姫路高等学校校舎の後に建立)に音楽指導のため来姫されていた神戸大学助教授石田純一氏を推挙して翌年辞退することに決心いたしました。 石田純一先生は東京芸術大学の一年先輩で非常に優秀なお方でした。その後石田先生の門下の有名な坂下功一先生が引継ぎご指導されていることを伺い、姫路市民合唱団の益々のご発展を非常に嬉しく存じました。当時練習場について、「ピアノが設置してある学校」と社会教育課に切望して、当時の姫路市役所に近い姫路市立野里小学校の音楽教室を借りて練習いたしました。冬は寒い教室でストーブの中の石炭が点火するまで、寒さに震えながら合唱団の皆さんと楽しく歌唱したことをなつかしく思い出します。 合唱団員は姫路市内や近郊に居住される音楽愛好家と、男声は神戸大学姫路分校や姫路工業大学グリークラブの部員で、女声は姫路短期大学生と県立福崎高等学校コーラス部の卒業生と記憶しています。 当時、神戸大学姫路分校グリークラブと私が指導していた白百合女声合唱団は、姫路市社会教育課後援により、毎年合同演奏会を開催しておりました。ドイツ語で合唱される男声の響きは格別で素晴らしいものでした。また姫路短期大学非常勤講師であった関係で姫路工業大学ともご縁があったものと存じます.私が貴合唱団を指導いたしましたのは僅か一年間足らずで何のお役にも立っておりませんが、合唱団の皆さんは非常に熱心で優秀な方々の集合でした.姫路交響楽団第二回定期演奏会(昭和28年)のプログラムにより、賛助出演の姫路市民合唱団の120余名による大合唱には、今更に驚異の感動を覚えます。(宮村OB便り抜粋) ◆昭和28年4月、新聞紙上で市民合唱団団員募集を知り結成から参加しました。メンバーは神戸大姫路分校、姫路工業短大などの学生と高校生・社会人など100名余りが集まり、平均年齢21.2才の若い人ばかりだったと記憶しています。高校時代、音楽の先生に声楽の基本である「コールユーブンゲン」と「コンコーネ」を厳しくレッスンしてもらったことはその後の合唱活動に非常に役立ちました。混声合唱をやるかたわら仲間達を集めて男声合唱を楽しんでいたその頃、ゴールデンゲートカルテット(黒人男声)のレコードを聞いて感動し、来日したデ・ポーア合唱団(イギリス男声)のレコードから採符するなど、ますますハーモニーの魅力にはまってしまいました。 入団以来新しい曲に取り組むのが楽しみで、懸命に練習していたことを思い出します。その頃は現在と違い指導者不足の時代であったため、数年後には指導者になってしまいました。職場コーラスが盛んになったのもこの頃で、市の社会教育課を通じての依頼でタキロン、神戸銀行、姫路駅デパートなどへ指導に出向き、月曜から金曜まで空いた夜は無くコーラス漬けの毎日を送っていました。またこの頃播州合唱連盟を結成したのですが現在も活動が続いているのは設立に携わった一人として非常に喜んでいます。(前川OB便り抜粋)
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昭和35年〜44年 |
最初に書くべきだったでしょう。50年という数字はすごい数字です。随分苦労された時期もあったでしょう。僕がやってた40年前、姫路という地名の前に“文化不毛の地”という枕詞がつくのが通例でした。今現在そんな枕詞はどこかに飛んでいってしまいました。もちろん姫路市民合唱団の力だけではないでしょうが、皆様の実績貢献も多いにある、と僕は思っています。 僕は合唱指揮者としてはもちろん、高校の音楽教師としても、市民合唱団での経験は随分いい勉強になりました。本当にありがとうございました。姫路市民合唱団のこれからのますますのご活躍祈念します。 (坂下 OB便り) |
昭和45年〜51年 | ◆確か71年の春でした。後藤均氏と二人で、恐る恐る’’市民’’の門戸を叩いたのは。その門は’’職場合唱団’’にはない魅力を持つもので、私が合唱を始めて間なしの頃に播州合唱祭で’’市民’’のうたごえを聞き、一緒に歌って見たいなと思った憧れの実現でもありました。 坂下功一先生の指揮の下、読譜力の早いベースメンバにやっとの思いでついて行きながら必死で覚えた『Te Deum』がスタートでした。『花と愛』や『筑後川』は、練習中に面白い曲だなと思える余裕が出始めた頃。その後、楽譜書店「ササヤ」で見つけた曲を内務委員会に提案したりも。『太海にて』を取り上げて貰った折りは本当に嬉しかった記憶が、今蘇って来ました。こんな風にして、坂下先生の指揮の柔らかさが物語る個性と、学生から高齢の方までの幅広い団員とが醸し出す、暖かさ有る合唱を歌わさせて戴いてました。(多田靖OB便り抜粋) |
昭和52年〜63年 |
◆1年半後有元氏もプロ活動のため退団。私は再び指揮者選任の苦労をすることになった。しばらく団員同志で練習していたが、一人去り・二人去りして、残った団員数は数名となった。しかしこの数名は大変素晴らしい団員達であった。この中には今も活躍している松岡氏や江崎夫人(旧姓柏木)がいる。たとえ優秀な団員がいても数名では限界がある。指揮者候補の話の中で江崎夫人や定光さんから、しらさぎ音楽学院でオペラを合唱指導していた花畑氏の名前が挙がった。そこで松岡氏とともに当時退団されていた坪田氏を訪問し相談した。何人かの候補者の中で花畑氏の名前を挙げると、なんと坪田氏の高校同級生。すぐその場で電話交渉。坪田氏の要請で、指揮者を受けて頂いた。この機会に坪田ご夫婦は復団。花畑氏の人柄・指導の人気はすごく、花畑氏を慕って団員は増加に転じた。その1年後、入団してきた鏡谷氏の能力・人柄を見込んで強引に副指揮者を引き受けてもらった。(豊田OB便り抜粋) |
平成元年〜8年 |
◆「自分達は出演できないから、行ってきたら…。」という両親の言葉がきっかけでした(実は私の両親はかって姫路市民合唱団に在籍していました)。すぐに現在運営委員長をされている、坪田さんのところに電話をして、入れていただくことになりました。それから、毎週木曜日の練習に参加し、合唱は私の生活の一部になりました。その時に練習していた曲は、合唱組曲『都会』だったと思います。初めてのステージで全く音がわからず(今でも音はとれませんが…)、口だけパクパクしていたことが思い出されます。それ以来皆さんに仲良くしていただき、交響詩『姫路』の初演に参加できたこと、兵庫県合唱祭、赤穂市民合唱団との合同演奏会などの多くのステージに参加させていただきました。また、毎年8月に行われている『サマージョイントコンサート』も心に残っています。地元の中学生や高校生の皆さんの演奏から元気をいただき、同じステージで一緒に歌わせていただいて、改めて合唱の楽しさを感じさせていただきました。(三浦OB便り抜粋) |
平成9年〜現在 |
◆私が特筆したいことは2000.11に大変名誉な姫路文化賞を頂いたことで、私は残念ながら授賞式には参加出来ませんでしたが、これは素晴らしい出来事でありました。毎年、暑いミッドサマーに市民合唱団の主催する「サマーコンサート」があります。参加する中学生、高校生にとっては、ちょうどコンクールを間近に控えた仕上の時に腕試しする絶好なステージであり、2001.8の中学生・高校生の演奏は本当に素晴らしい出来映えでありました。このような地道な活動は姫路市とその周辺の地域の合唱文化向上(特に高校生・中学生に対する)に大きく貢献していたのだなあ…と感じ、姫路文化賞受賞はこういう活動を継続してきたことへの評価である…と私は納得しています。 |
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