妊娠中のこと。


 二月上旬、私は体調を崩していた。身に覚えはあるものの、まさかと思って検査薬を試してみたら、見事ビンゴ。覚悟も予想もしていたものの、やはり驚きは隠せずにしばらくトイレから動けなかった。これから10ヶ月弱の時間を掛けてこのハラの中で命を育むことの実感は湧いてこない。でも単純に嬉しかった。子どもができたというよりもむしろ、気の合う仲間が増えることが喜ばしい。急いで仲間達に報告を済ませた。
 週数を重ねていくうちに、どんどん体調は悪化していく。買い物にも出られないくらいの吐き気とだるさに完全に支配されて、永い一日を過ごす。音には聞いていたものの、かなりキツイ。ドラマのようにトイレに駆け込む暇すらなく、ゴミ箱に吐いた。一体こんな生活がいつまで続くのかと、途方に暮れながらまた床につく。とうとう水すら受け付けなくなったので、病院に駆け込んだ。妊娠悪阻という診断で、即入院。初めての入院になってしまった。六人部屋の真ん中のベッドを宛がわれる。人前で吐けない、枕が代わると眠れない性格の私はここでも、唾を飲み込みながら口を押さえて永い夜を過ごした。入院初日の睡眠時間は4時間程だった。当然最悪の目覚め。真っ暗じゃないと眠れない私はうつらうつらしながら、恐怖の点滴を受けた。点滴中は残量が気になって恐くて眠れない。が、幸い三泊四日の入院で済んだ。些細なことでも漠然とした不安に苛まれる。マタニティブルーというやつに目一杯打ちのめされながら、妊娠前期は本当によく泣いた。
 ある朝、いつのと同じように起きてみると、明らかに具合が良くなっていた。別の体に乗り移ったかのような変貌に驚きを隠せない。物を吐き出す恐怖に怯えずに済むと思うと、それだけで気持ちはもっと軽くなる。食べる物も美味しい。調子に乗って食べていると、健診の時に看護婦さんに注意されて体重の欄に赤丸でチェックされた。恥ずかしかったが、体調がいいことの方が嬉しかった。5月、中山寺に腹帯を貰いに行く。膨らみ始めたばかりのおなかにはまだ早い気がしていたが、私は喜んで巻いていた。その頃初めての胎動を感じた。ハラの中でつるんとしたものが動く。嬉しいことよりも先に恐くなる。実はこの中には宇宙人が入っていて・・・などと、馬鹿げたことをホンキで考えていたりもした。赤ちゃんのイメージが上手く掴めないまま、でも確実に生きている証拠を見せつけられて少し安心する。本当に妊娠していたのかと、初めて改めて思った。やがでどんどん大きくなり、私が産むまでこの中で育てることに、ようやく楽しさを覚えてきた頃でもあった。食べ物や音楽の嗜好が変わってきて、まだ見ぬ赤ちゃんに支配されつつある。友達がビックリする程、パラサイトされていく。
 保健センターで母親教室というのを受講する。張り切って出かけた私は一番乗りだった。間もなく来たのが瑠愛ちゃんのママだった。妊婦らしくないかっこいいお姉さんだなと思った。今もたまに会ったりメール交換したりして仲良くさせてもらっている。ここでたくさんの友達が出来たので、余所者の私は暇を持て余したりせずに済んだ。友達というのは、本当にありがたい。大稀くんのママと愛ちゃんのママと私の三人で一緒に帰って、アドレス交換をした。8月になって夫の出張が始まり、私は実家に帰ったり家に戻ってきたりの生活になった。どんどんハラは大きくなって、だれがどこから見ても妊婦ルックだ。炎天下を散歩していると、その辺のおばあによく声を掛けられた。いきなり年配の女性にモテモテになったので、初めは戸惑ったがみんな親切で見ず知らずの私を労ってくれた。妊婦になって良かったと思った。妊娠して、睡眠にも変化が表れる。滅多矢鱈と眠たくなった。何処へ行くにも欠伸をしながらうつらうつら歩く。夜が早くて朝が遅い。一日の半分以上は寝ていたかもしれない。昼間も散歩のあとはシャワーを浴びて即睡眠という生活だった。その生活を覆したのが、8月末に発売されたDRAGONQUEST7だった。物足りなさを感じつつ、しかし目一杯ハマって、一日8時間はしていただろうか。こまめに大稀くんのママに連絡を取り、つまづいた箇所のアドヴァイスを受ける。師匠と呼び、かなりアツク師事していた。今でも離乳食のことや子育て相談に乗ってもらっている。本当に頼りになるお師匠様である。
 そのドラクエも佳境に差し掛かり、来週が予定日という時だった。夫が帰ってきていて、夜中まで二人してドラクエをしていた。明日ラストボスを倒しに行こうか〜なんて話していた明け方、急に目が覚める。眠って2時間も経っていなかった。いきなり破水する。慌てて夫を起こし、病院に連絡をしてもらう。タオルを挟んだまま、恐くて動けない私に看護婦さんは電話に出るように言う。コードレスのなかった我が家では私が這っていく他なかった。どんどん水が流れ出る。すぐ来るよう指示されて、怖い反面、いよいよかと不謹慎にもわくわくしていた。もうすぐこのハラの子に逢えると思うと顔が締まらない。タクシーしか走っていないような、夜明け前の街を車で移動する。診察をしてもらうと、破水しているからということで即入院だった。悪阻以来の病棟。もうすぐ新生児室にこの人が並ぶということを想像して、陣痛室にて待機。勿論隣はあの分娩室だ。微妙に起こっていた陣痛も知らない人の断末魔の絶叫を聞いて遠のいてしまう。浮かれていた私には大きなパンチだった。これから私もそれをやるのである。また間の悪いことに、その日は3人も分娩があったのだ。しっかり二人分の誕生の声を聞き届けて、まだ来ない陣痛を待って病室に移動する。隣は私が産声を拝聴したひとりで、色々話をしてくれた。様子を見に来てくれていた母親や夫がが帰ると、流石に不安になる。夜になって、満を持した陣痛がやってきた。いててててとハラを抱えてモーションが止まる程度のもの。実はその頃大稀くんがこの世に誕生していた頃であった。また陣痛室に移動する。夜が更けていくにつれ、陣痛は私の想像の常に約25割増の痛さを伴って腰に刃を向ける。気を失うように10分弱寝て、合間に陣痛にコテンパンにされて、という繰り返しで朝になった。間隔は7分まで縮まったものの、まだまだ出産という時期ではないらしい。私は途方に暮れた。出産を勘違いしていた。「いきむのが出産」だと思っていたのだが「陣痛に耐える」のがそれそのものであったのだ。そんな私を余所に、破水して30時間が経過しているので、促進剤を受けることにした。分娩室で同意書にサインする。ちまちまと点滴を受ける毎に痛みが腰からハラに移動していく。全身から汗を噴き出して、容赦なく陣痛に叩き伏せられる。理不尽な痛みだとずっと思っていた。「子ども」を「産む」のに、何故痛みが必要なんだろう?時間とお産が進むに従って、人が増えていく。その日は産気づいているのが私ひとりだけだった為に、手の開いているスタッフが総動員だったようだ。そこここにいる白衣達を見て流石に面食らったが、それも一瞬でそれどころでは到底ない。呼吸法なんてなきに等しい。痛みの波が来る度、「来た来た来た〜〜〜!」と降霊師ばりに叫んで、助産婦さんは、まるで自分が生むかのように隣で呼吸法を繰り返してくれる。高田さんという若い助産婦さんには本当にお世話になって、足を向けて寝られないありがたいお人である。母親同様無条件の愛を捧げさせていただいている。2度お手紙をいただいた。結婚されて宮崎に行ってしまうそうで、職場を辞める前の日にたまたまふらっと遊びに行ってその話を聞かせてもらった。王子がちょうど6ヶ月になる日だったので、不思議な縁を感じた。看護婦さんを辞めないで、これからも人々の出産を手助けしてもらいたいと思っている。そのありがたい高田さんの呼吸法を余所に叫んで叫んで、遂には酸素マスクを掛けられ、ほうほうの体で終わった出産だった。促進剤から4時間経っていた。へその緒が巻いていたらしいが、あれだけ元気に私のハラを蹴っていたのだから何の心配もないのだろう。小さな小さな子どもを胸の上に乗せてもらう。やっと、やっとやっと逢えた。感激で胸が一杯になり、お礼の言葉も興奮して何を言っているか判らない。あとで高田さんに私の出産の大声度を聞いてみたが、静かなもんですよ〜と言ってくださった。真実の程は知る由もないが、ありがたいお言葉として、今も私の胸に息づいている。安産についても、私は考え違いをしていた。「安産=あんまり痛くない出産」だと思っていた。だとしたら、安産なんてこの世に有り得ないのではあるまいか。妊娠中には憧れていた「無痛分娩」も、今となっては人類がつけた余計な知恵だと思って、私の中では憎むほど虐げているもののひとつになった。痛みがなかったら王子をかわいいと感じる気持ちに揺るぎはないとは言えないが、痛みがある為に感じる愛しさは測りきれないと思う。痛めたハラに価値があり、また私はそれを誇りに思いたい。王子がもっと大きくなって私の手に負えなくなってきたら、泣きながら「あれだけハラを痛めたのに・・・」と訴える予定。覚悟召されよ。
 あれから8ヶ月も経ったなんて、本当に信じられない思いだ。ここ最近の5年間の中で、もっとも早く過ぎ去ってしまった8ヶ月かもしれない。この調子で子どもを2歳ずつ離して3〜4人産むと、私の20代は出産の為のものになる。あっという間にランドセルを背負っているのだか、ランドセルに背負われているのだか判らない王子に成長するだろう。
 りぅりぅ王子はその小さな両手に余る程の元気さで、今日もその好奇心を探求している。その話はまた、別のところで。

2001年6月3日 記

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