東佐生のあゆみ No,1

開発期

平成4年〜5年
大字佐生字大石橋(現6班)の地を滋賀県栗東市にある鰹シ屋が開発し、西和不動産販売鰍ェ販売したのが始まりです。
(能登川ニュータウン)
最初の住人は、6班の佐伯さんと松下さんになります。
当時は、まだ独立した行政区でなく、佐生区に一時預かりと言う形で佐生仮組(11組)として編入されてました。
実は、同時期に「いず建設」という会社が大石橋地区に隣接する広大な土地を開発しており、この開発地域と一緒に新しい行政区を作ることになっていました。しかし、ここに遺跡が出たため工事が中断、結局行政区として独立するまでには時間を要することになりました。
なお、「東佐生」という名前は、このいず建設の社長が最初に使い始めたそうです。

行政区誕生と自治会結成そして悲しい出来事

平成6年
遺跡調査も終了し造成再開と同時に、近江八幡市にあった「シンコウ開発」という業者が「いず建設」から開発を引き継ぎ、現3班から6班の一部の地域を開発しました。ここで「東佐生ニュータウン」という名前が使われ、初めて「東佐生」という名前が公になります。

平成7年
能登川町内にある東陽開発鰍ニいう会社が現1班・2班・7班の地域を造成・分譲し、「杉の下チェリータウン」を形成します。

「能登川ニュータウン」「東佐生ニュータウン」「杉の下チェリータウン」の3つのニュータウンが完成し、いよいよ新行政区誕生への準備がはじまります。
しかし、ここで悲しい出来事が起こります。
開発業者間のトラブルで、佐生区に仮編入されていた「能登川ニュータウン」の住民が新行政区設立への話し合いに入ることができなくなりました。しかも、佐生区の仮編入は、新行政区が設立までという約束であったため、一方的に佐生区からも切り離されることになりました。
「能登川ニュータウン」の8世帯の住民は、暫くの間どの行政区にも属さない立場に置かれてしまいます。
最終的に、自治会設立準備委員会と「能登川ニュータウン」の住民との話し合いにより、自治会結成後に「能登川ニュータウン」を編入する形で解決することになりました。

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