新潮文庫の「真相はこれだ」祝康成 著 を読んで、丸山ワクチンと和田心臓移植の事件は、ドラマ「白い巨塔」のモデルになっているのかと思うような箇所もあり、「事実は小説より奇なり」とはよく言ったものです。
3億円事件の犯人も作者は真犯人を確信している。なるほどと思ってしまうが、どうだろう。
数十年たっての新証言、新事実が、当時はタブーで話せなかったこともホトボリが冷めてポツリポツリ出てきたわけです。
人生を変える事件に翻弄される人びと。
あの事件がなければ平和な日々が送れたのにということもありますね。
逆境を跳ね返せることができればよいでしょうけど、大抵は大きな流れに飲み込まれてしまいます。
1985年4月に歯科医師国家試験を受け発表が6月。そのころには就職を決めて発表を待って本格的に歯科診療に打ち込んでいきました。
ところが、8月12日http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htmの日航機墜落事件があった翌朝、いつもと同じように能天気に出勤したところ、院長が蒼白な顔で、事件について話し始めました。
というのも、もしかしたらその飛行機に院長が乗っていたかもしれなかったというのです。
実際、兵庫県歯科医師会の当時の会長以下トップスリーが乗っていて残念ながら故人になってしまわれてしまいました。
歯科医師会もその対応に大騒ぎしていたわけです
突然会長以下実力者3人が同時にいなくなったわけですから。
当時の会長に認められていて、次次期の会長のポストを約束されていた院長にとって青天の霹靂というわけです。
東京に歯科医師会の会合があって、前日まで院長も同行する事になっていたのが、歯科医師会のある役員の先生に「君が行く必要があるのか?」といわれ、気分を害してしまい売り言葉に買い言葉ではありませんが、「それではいきません。」と即決して行かなかった訳です。
その一言がなかったらおそらく東京からの帰り日本航空・東京-大阪123便に乗っていただろうと思われます。
生存者はいましたが、奇跡ともいえる条件が重なって生き延びただけで、結局当時の会長は遺体が発見できずじまいで、焼け残った金属床義歯の一部で死亡確認したぐらいなので乗っていたなら助からなかっただろうと考えられます。
さて、それからが大変でした。当然新たに兵庫県歯科医師会会長を選出しなくてはいけません。
現在の政府で小泉首相以下、官房長長官、などトップが突然いなくなっても代えは自民党にいくらでもいます。
学術団体である歯科医師会も政治色が強い部分があります。
やはり、派閥のようなものが自然と出来上がってきています。
しかし、派閥といっても所詮歯科医師の集まり、限られた人脈でやり繰りしているわけで、政党のように一枚岩ではないのでトップ3人がいなくなるとガタガタになってしまいます。
そんな中、突然会長選挙が行われることになってしまい、当時の会長の路線を維持するのには会長以下右腕となる先生も含めていなくなってはどうしようもありません。
見識者から選挙運動は一切せずに静観しているのが一番だとアドバイスがあったのです。
ところが、院長はもしかしたら自分ももしかしたらこの世にいなかったかもしれないという気持ちもあって、「弔い合戦の気持ちで選挙運動に参加する。」といって、宝塚の先生を応援することになって、選挙活動が始まりました。選挙運動といっても、厳密に選挙管理ができるわけではありません。
選挙管理委員会はありますが、いくらでも抜け道はあります。
寝たきりの先生でさえ引きずり出して選挙に行ってもらうこともあったと聞きます。
院長は、票読みも行って、選挙事務所も開設して、生田神社から神主さんを呼んでお払いもしてもらって、票固め、票の切り崩し、地方の歯科医師会での選挙講演に東奔西走していました。
新人勤務医として何一つ仕事はなくて、先輩の先生と2人で代診にいそしんでいました。
先輩の先生と話していましたが、その先生は「選挙は勝たなくては意味がない、負けるかもしれない選挙に手を出すのはとくさくではない。」と語っていましたが、院長は神様とおんなじで勤務医が意見を言おうものなら大変なことになります。
結局選挙には大敗して、院長は歯科医師会の重要ポストをすべて退き歯科医師会の仕事から締め出されました。
私個人としてはそれからが大変でした。院長本人はやりたいことを精一杯やって面白かったと話していましたが、本心は悔しい思いでいっぱいだったと思われます。
誰から聞いたのか、「私は人の言うことを聞かない性格だ」という情報を大学の誰かから仕入れてきていて、所属クラブ、親の教育方針、親兄弟の人格まで否定されるほどの非難を浴びたこともありました。
右も左も分からない新米歯科医師なので、ミスも多く自分自身に自信がなく当時1日に30数人の患者数をこなさなくてはいけなくて、治療に気が行くとカルテが疎かになったりして散々な状態でした。
私自身一所懸命精一杯頑張って、一切手を抜かず診療に勤めてつもりですが、どこの誰かわかりませんが、利害関係がない第3者の意見で私自身の人格まで否定されるほどの叱責を受けるとさすがに参ってしまいました。
当時、歯科医師会では飛ぶ鳥を落とす勢いの状態だったのが、十年、二十年目指し続けた歯科医師会会長という目標を失ったので仕方ないとは思いますが。
当時、代診としては4年か5年勤めるのが普通でしたが、結局3年弱で退職しました。
院長にはいろいろと便宜は図っていただき、結婚式の仲人になって頂き、垂水区歯科医師会入会も障害なく入れるように当時の理事の先生や、宮井会長、藤井専務に直接挨拶に生かせてもらうように段取りしていただき、藤井先生には「君を入会させるのに、待ってもらっている先生同時に3人入会してもらわないといけなくなった。」とぼやかれました。
ドタバタと開業した加減で、至らぬところ、不備な点いろいろと問題がありましたが、色んなことを悩み苦労した関係で少しは現在の診療に役立っている事もあります。それでよかったのかもしれないなあと思っています。
10年間余分に時間がかかりましたが、院長は平成15年から兵庫県歯科医師会会長に就任しています。