H先生に初めて会ったのは、昭和53年だったと思います。
 花隈にある神戸セミナーという予備校の医歯薬進学コースに入校したときです。
 入試で受験した大学を全滅して、医科歯科進学するには、それなりの予備校に通ったほうがよいのではと思い、高校時代から知っている村上雄三学園長(故人)の元に行ったのです。
 この学園長を紹介してくれたのは、池田耕作先生という人で、この先生もこの予備校で教えていました。
 授業料は年間80万円で、受験に失敗したら半額返還してくれるというものです。
 平のサラリーマン一家には大きな金額でしたが、仕方ないので支払いました。
 さすがに、このクラスにはいろいろ変わった人たちがいました。(私も含めて)
 席は決まっていないのですが、目が悪いので一番前に座っていました。
 隣は、当時の兵庫県立西脇病院院長の長男のY君で、お父さんは過労のためその年になくなられてみんなでお葬式にいった記憶があります。
 反対側は、カネボウ記念病院院長の長男でM君。現在は記念病院で薬剤師をしているそうです。
 一番後ろに、姫路工業大学を卒業して10年間コンクリートだらけになって働いたのですが、これではいけないと一念発起して医学部を目指したGさんがいました。
 当時34歳ぐらいで、妻子もちでした。授業が終わると、よく三宮センタービルの最上階の喫茶店でコーヒーを奢ってもらいました。
 この人のお父さんとお兄さんは医師で、明石の土山で後藤医院を開院していたので資金援助をお父さんがしてくれていたそうです。
 無事医科大学に入学されたとき、ご飯もおごっていただきました。
 後ろのほうに、パンチパーマでいかにもいかつい顔をした土建屋の御曹司がいましたが、できるだけ近寄らないようにしていましたが、さすがに当時からすでにチャレンジャーH君、初日から子分?になっていました。
 今はもうないのですが、垂水駅に着く前に電車の窓からよく見ていた、相原病院の院長の息子さんもいました。
 後に大歯で同級生になった、方向感覚がないKさんもいました。華僑の銀行の頭取の娘さんなので、何回かは、牧野までお抱え運転手に連れて行ってもらっていましたが、入学後は道を覚えるまで道先案内人をしました。
 何とか1年が過ぎようとしているとき、予備校の階段を上っていると上記の池田先生とすれ違いました。
 「秀君、進路は決まったか?何なら進路指導しようか?」
 といっていただいたので、急ぐ用事もないのでお願いしたところ、早速相談に乗ってくれました。
 「国公立の医科大学歯科大学に入学しても授業料は安いが、遠方なら、下宿代等必要経費はかなりかかることになるよ。私立大学でも入学金授業料が高く見えても、交通費なら会社員の4割で定期も買えるし、一家揃っていたら食費もそんなにかからないし、育英会の援助も受けられるので、こんな大学もあるけど?」
 といって、日本一入学金が高かった大学を紹介してもらしました。
 兵庫県の医科大学に1次試験は合格しましたが、寄付金2000万円いるといわれ断念。Gさんは5000万円支払ったそうです。
 結局寄付金なしの、日本一入学金が高かった(現在も日本一)大学に通うことになりました。
 1年前の予備校の授業料なんかゴミみたいなものになってしまいました。
 大学の過去の入試問題集で、赤本というのがありますが、池田先生に教えられた大学の赤本を買ったのが12月中旬で入試が2月初めでした。願書を出す一月前から入試対策をしたわけです。
 合格するときはそんなものかもしれませんが、何はともあれ大学生になりました。
 後日卒業して、JRに乗っていると、ばったり池田先生に出会いました。
 顔は覚えていてくれましたが、開口一番「君、どこの大学に行ったの?」と聞かれ、先生の進路指導で、人生の岐路ともいえる大学を決めて、そのときの先生の教え通りに入学、卒業して一直線に走ってきたことを話すと、
 「そおだったかなあ?」
 で、終わってしまいました。何千人もの進路指導しているわけだから、こんな程度かなあと拍子抜けしたことを覚えています。