医科、歯科関わらずインフォームドコンセント(説明責任、治療の内容説明、なかなかうまい日本語訳がないようですが。)の重要性が叫ばれています。
説明するに当たって専門用語をなるだけ避けて、模型,写真を用いてなるだけ理解しやすいようにするのですが、時間がかかることは仕方ないことのようです。
なかなか理解してもらわない場合もあります。
歯科治療は怖い痛いつらいといった先入観から始めないといけないことがあって、子供さんに理解せよということ事態無理があるかも。
保護者に説明すればよいといいますが、患者は子ども自身なので、一種の逃げ口上になっています。
わからないこと、わかりにくいことを説明してもらうのに何か手がかり、きっかけになるようなものがあればいいのですが
20年ほど前、NHKの市民大学講座で、「祈りの造形」というテーマで、住職兼仏師の西村公朝氏が、一回45分の講義を12回にわたって放送していました。
その内容は仏教の教えを、仏像を通してわかりやすく伝えるというものです
興味深く楽しく視聴していました。
ためになる沢山のお話の中のひとつに、「如の世界観」がありました。
本質を違えないように噛み砕いて説明してくれるわけです。
自分なりの解釈になりますが、
人は山を見て山といっていますが、海抜何メートルとかで判断の基準にしていますが、海水線の下もあるわけですね。
地球の中心から見てみると山はほぼ誤差のようなものと見られないこともありません。
宇宙から見たら、チョモランマでも綿くずのようなものかもしれません。
人間の理解しやすい物差しで考えているわけです。
人は名前を付けると安心するのか、理解したように思ってしまう習性があります。
一部分を切り取って名前を付けるのはいいのですが、名前が一人歩きしてしまうわけです。
山に見えても、人がそういっているだけで、「山の如きものだ」という訳です。人間という基準をはずして考えると山のような物といったほうが良いかもしれません。この自然界は[如』の集まりですね。
この如の集まりを[真如」といい、この集まりの現象、つまり宇宙を一個の固まりであり、一仏としたのが毘盧舎那如来です。
宇宙の大きな固まりつまり如の固まりから生まれてきたから、[如来」です。
ところがばらばらに散ってしまったり、死んだり壊れたりすると、『地、水、火、風』の4元素の戻ってしまう、つまり如に帰ってしまう。
「如去」です。
それで、いわゆる山は山如来と表現しておきます。犬も、犬如来。林さんも、林如来。心臓も心臓如来。歯も歯如来。
野菜も米も土という仏から生まれた米如来という仏様です。
私が食べると、この食物は菩薩になるわけです。体の中で栄養にならないといけないのですが、米菩薩は米明王となっ
てエネルギーを発揮しているわけです。そうして生かされているわけですね。
形は歯如来ですがそれだけでは何の意味もありませんね。
歯如来が上下でかみ合わされたら、法力を発揮して物を噛み砕いてくれる菩薩に変化してくれて、消化吸収に役立つよ
うになるには、歯明王になって活躍してくれているわけです
でも、歯だけではありません。顎如来も、筋肉如来も、脳如来も、神経如来も大事です。すべてに仏性が宿っているとも考えられるわけです。
虫歯になって詰め物をするとします。
金属の詰め物を作るとすると、まず、地蔵菩薩の化身とも言うべき金属如来が必要です。
でもこれだけではどうすることもできません。技工士如来、歯科助手如来、はもちろん、火如来水如来にいたるまで、ありとあらゆる如来様が協力して、ある時は菩薩、ある時は、明王、ある時は天部となって、法力を発揮しているわけです。
一つかけても成り立たないし、いくら心臓如来が一番だといっても、肝臓如来がだめになったら死んでしまいます。
患者さん如来が来てくれない事には生きていけませんし、患者さん如来は歯を治しに来ているのですが、実際は歯科医院を成り立たしてくれる菩薩様の化身な訳です。
技工師如来が一生懸命詰め物を作ってくれないといけません。
金属如来もレジン如来も熱や、光で菩薩となって詰め物菩薩や入れ歯菩薩になって口の中に入って行きます。
そして食事のときに明王となって、交合力を発揮します。
時には虫歯菌の侵入を防ぐ詰め物天部になってくれているわけです。
歯科医師自身、歯科医師如来から、歯科医菩薩になって精一杯の診療をして、病気に対して歯科医明王となって立ち 向かわなければいけないのですが、ローンや学費の心配もしないといけないし、手でやる仕事は時間的制限があって、
一日の仕事量としては上限が決まっているので楽で効率の良い処置がうれしいと思ってしまいます。
煩悩の塊になってしまっている状態から抜け出られません
厚生労働省如来様助けて・・・・・・。