妙 感 寺 |
雲照山妙感寺の沿革 |
妙感寺(臨済宗妙心寺派)は、延元年間(南北朝時代)授翁宗弼 |
禅師によって創建されたお寺で、禅師は建武中興の元勲萬里小路 |
中納言藤原藤房卿その人です。後世、新田義貞、補正成と共に建 |
武の三忠臣と讃えられた方です。元弘元年九月、後醍醐天皇は北 |
条高時の兵に追われ笠置山を落ちのびる途上、「さして行く笠置 |
の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになり |
ました。これに対し藤房涙を押えて、「いかんせん憑む蔭とて立 |
寄れば、なお袖濡らす松の下露」と詠んで天皇をおいたみ中し上 |
げた事は史上に名高い話であります。 |
藤房卿は公卿時代から大徳寺の大燈国師に就いて参禅し、三十 |
九歳で出家、授翁宗弼と号して諸国を行脚され、後、妙心寺の無 |
相大師(関山慧玄)に就いて修行、大悟され妙心寺の二祖となら |
れました。後光厳院、後回融院歴代の人iより寺領を拝受、妙心 |
寺の磐石の基礎を築かれた禅の高僧であります。妙心寺に住する |
こと二十年、病を得江州三雲の郷、かつて藤房卿時代の知行地で |
あった妙感寺に隠栖されたのであります。 |
”三雲の郷の山ふかく住みなれて“と題して、「世のうさをよそに |
三雲のくもふかく、てる月かげや山居の友」と詠み、丹波、古野 |
の旧詠と共に、草庵の障子に書遺されました.之を三所の倭歌 |
(真筆)と称し、現在当寺の貴重な什宝として秘蔵されています。 |
かくて康暦二年三月二十八日、八十五歳で御遷化、御遺言に依 |
り当山西頭に埋葬されました。現在の開山塔がその御暮であま |
す。禅師生前の草庵を改め、遺歌の意を体して雲照山妙感寺と名 |
付けられ、現在に至っています。 |
禅師の滅後、その高徳を讃えられ、次のような数々の栄挙を賜りました。 |
町指定文化 本造十一面千手観音座像 妙感寺 |
昭和52年10月4日 |
甲西町指定第19号 |
妙感寺(臨済宗妙感寺派)は,南北朝時代の延元年中(1336頃)に授翁宗弼禅師(藤原藤房妙感寺の二祖)によっ |
て創建された。その後、織田信長の兵大に罹り万治年中(1660頃)愚堂国師が再興した。 |
方丈(開山堂)は、寛文元年(1661)3月、後水尾天皇の中宮東福門院の水日御殿の一部を移築したものである。 |
当寺の本尊である本進十一面千手観音坐像は、観音堂に安置されており、像高164.0crn、南北朝時代の作 |
と推定される。尊像は、檜材、寄木造りで肉身部を金泥彩で仕上げている。胸には直接墨書き金箔押して、 |
瓔珞を表現してもいる。 |
平成8・9年度の解体修理によって、体部肩部および胎内から永享7年(1435)、明応年(1495)、万治2年(165 |
9)、正徳4年(1714)0年紀が確認された。 |
観音堂内には、像高62.5crn、南北朝時代の作である木造微妙大師坐像(町指定文化財)も安置されてしいる。 |
なお、授翁宗弼禅師には後西天皇より禅師号、明治天皇より国師号の宣下があり、 |
微炒大師の諡号は昭和2年(1927)3月22日、昭和天皇によるものである。 |
平成13年8月 |
甲西町教育委員会 表示 |
中 宮 後水尾院天皇 東福門院御座之間 |
不老滝 |
像は、鎌倉時代後期の作である。 |
町指定文化財 磨崖地蔵菩薩像 妙感寺区 |
昭和52年18月4目指定 |
磨藤仏と|ま、自然石の崖の面などを磨いてそれに彫刻した仏像などをいう。 |
妙感寺の奥の院に当る裏山の巨岩(御影石)に刻まれた磨崖仏|ま、 |
通称山の地蔵と呼ばれている。 |
この像の高さは173o mで、県下でも最大クラスに属する。ご面相や衣文には |
風格があり、蓮弁もくつきりとしており、おおらかである。面脇には、 |
小さな像が同じ石面に二体浮き彫りになつている。地蔵経にいう掌善、 |
浮き彫りになつている。地蔵経にいう掌善、撃悪の二童子であろうか、 |
この形式を近江形式という。 |
平成6年3月 |
甲西町教育委員会 表示 |
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