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さすがに世界の大文学だけあって、読み応えあるし、心の動きの描写が非常に細かい。何回も書き直しをして(なんと17回も!)完成させただけのことはある。人物では、アンナ・カレーニナよりもリョーヴィンの生き方に共感を覚える。貴族であるが、農民とともに働き、政治には疎く、非常に哲学的思考の持ち主である。 そのリョーヴィンは言う。 <理性が発見したのは生存競争であり、おのれの欲望の満足を妨げるものは、だれでも締め殺してしまえと要求する法則ではないか。これこそ理性の結論なのだ。他人を愛せよという法則を、理性が発見するわけがない。なぜなら、それは不合理なことだから> <そうだ、傲慢だ> <いや、知恵の傲慢ばかりでなくて、知恵の愚鈍ということもあるんだ。しかし、なにより問題なのは、欺瞞だ、ほかならぬ知恵の欺瞞だ。いや、知恵のまやかしだ。> そして、理性を超えた信仰というものを理解するのである。それこそが生きる力である、と。こういう結論に達したのも、神を盲目的に信じ、損得抜きというか、自然に献身的なふるまいのできる妻キチイの影響が大きい、と思う。 ということでリョーヴィンは生きる力を得たのであるが、リョーヴィンの言葉(上の<>内の引用文)は、理性の限界を安易に示しているような気はする。上で言っているのは、「理性の限界」と言うよりは、「賢く社会生活をおくる為の知恵の限界」ぐらいのもんではないだろうか。理性ももうちょっと捨てたもんではない、と思うのであるが。。。逆にリョーヴィンは、いつまでも理性的であったと思う。 「賢く社会生活をおくる為の知恵」のを駆使して生活をする人間を「インサイダー」と呼ぶことにすると、そういうものを超越した理性的人間を「積極的なアウトサイダー」と呼びたい。そして同じく、「賢く社会生活をおくる為の知恵」を駆使できず、社会から排除され、やけっぱちになった人間を「消極的なアウトサイダー」と呼ぼう。 理性だけをたよりに、いたずらに哲学的思考に没頭しても存在の意義はわからない。存在自体の不思議さを楽しめる場合はそれで良いかもしれない。こういう人間は社会生活を賢く生きることを考慮に入れない「積極的なアウトサイダー」であり、呉智英さんに言わせれば「カタワ」ということなのかもしれん。それが楽しめない場合、もしくは、社会としっかり関わりを持ちながら生きていきたいと願う者は、リョーヴィンのように、なんらかの信仰という形でケリをつけるのが良い方法かもしれない。 リョーヴィンは「積極的なアウトサイダー」であったが、「信仰」というものを手に入れ、「インサイダー」でもなく、「アウトサイダー」でもない「ノーサイドの人間」となった。もっともこのリョーヴィンは、解説によればトルストイ自身を著わしたらしいので、トルストイ自身の結論なのであろうか。 「信仰」というものを得て、生きる力を発見できたリョーヴィンと対照的なのが、アンナである。愛に生き、愛に死んだアンナ。激しく恋人を愛したが、激しく愛されなかったと感じたアンナは自らの命を絶つ。そういう意味でアンナも反社会的であり、「アウトサイダー」だ。どちらかと言えば、「積極的なアウトサイダー」かな?旦那のカレーニンがやたら世間体を気にする男であったことで、彼の元を飛び出した気持ちはよくわかる。しかし、一緒に旅に出た恋人のヴロンスキーはけっこう頑張ったと思うが、アンナには許し難かったのか。夫のカレーニン氏も不倫相手のヴロンスキー氏も、どちらも「インサイダー」であった。唯一アンナを本当に理解しえたのが、以前は「積極的なアウトサイダー」であったリョーヴィンだけなのではないだろうか。 …以下ひとり言… 「インサイダー」として、充実した社会生活を送りたいなら、アンナよりもリョーヴィンの妻となったキチイや、ワーレンカがいい。しかし、「アウトサイダー」として生きる覚悟があり、愛に生き、愛の為なら死んでもいいという人はアンナも魅力的だ。 おすすめ度:★★★★★ |
(2001.1.16)